きぼう屋

生きているから生きている

しあわせです

2011年02月28日 | 教会のこと
昨日当教会は一年で最も重要な総会を終えました
感謝感謝でございます

まずは
現在会員の半数以上が出席しており
委任状がなくとも総会が成立するという状況に
心から喜んでおります

当教会員の主体的参加はけっしてただ事ではございません

また総会資料も58年の歴史で最も量が多いものとなっておりまして
教会の活動を丁寧に主の前に差し出していることなのだろうと認識しています

そして
実は2年後の総会でひとつの成熟したかたちとなることが
昨日の総会で中長期計画が決定したことにおいて
ほぼ予想できております

楽しみです

今回の総会でいろんな方より新たに出された主なテーマ(決まったこと)を箇条書きにメモしておきます

1) 礼拝共同体を生きることによる癒しを経験する群れとなること
2) 外向きの教会となり世界全体の最も重たい十字架の担う人に歩みを合わせる群れとなること
3) 「沖縄」を覚える群れとなること
4) 牧師の説教に個人的に応答することにチャレンジしてみること
5) 礼拝にむけて心身を整える聖霊を信じること
6) 祈祷会はとりなしの祈りがほぼすべてであるが、教会共同体のビジョンを共に祈ること
7) 教会共同体の歴史証言という「証し」をする群れとなること
8) 教会学校は書記活動をさらに徹底すること
9) 教会学校子どもクラスと小学生クラスは親とのコミュニケーションを増やすこと
10) 2015年までに会員100名、礼拝出席100名となることを予想し教会形成をすること
11) 2015年に増改築すること
12) 会計システムを教会活動がよくわかるものとすること
13) 平和委員会を設立すること
14) なにしろ伝道をすること
15) なにしろ他者にかかわり他者の責任を共に担うこと


これからも教会のみんなと歩めて
しあわせです

預言者もどき

2011年02月22日 | 「生きる」こと
キリスト者と教会は預言者にならねなばりません

預言者もどきは逆に世界を悪くしてしまうことも知らねばならないと思います

預言とはただ将来を高い確率で予測する
だけではありません。
それなら予言でしょうし
もっというと
それは科学のお役目です。

知識と経験を普遍化し精度を高めることにより
将来は結構いいかんじで予測できます

しかし
預言は科学ではないわけですし
人間の知識と経験でもありません

預言は神から与えられる将来を知り伝えることです


預言者もどきの特徴をここでいくつかあげてみたいと思います

1) 自分の思いに自信を持っている
2) 自分が正しく相手が間違っていると決め付けている
3) 相手と対話することなく相手を判断する
4) 裏でいろいろする

そしてとても困ることに
預言者もどきがあらわれて元気なときは
その預言もどきによって共同体が元気になるということです

オウムをはじめいろいろな宗教の事例や
あるいは国家の事例でみんなが良く知っていることです

ただ
いずれも
カルト的です

でもその元気な共同体も

そもそももどきですので
対話性と継承性がありませんから

元気がなくなると消えます


対話しているつもりでも
自分の思いを一方的に伝えて相手の思いを深く聞くことがなく
継承しているつもりでも
自分の思いを残しているだけで対話から生まれたものは残されていないので継承されることもなく

あとは消えていきます


そして
預言者もどきは

「このままいくと最悪になる」
と預言します

となると

その預言者もどきによる預言が証明されるためには
最悪になる必要があります
すると
その預言者もどきは
最悪の結果になって証明されたら
「ほーれ見たことか」
と自慢できることとなります

なんだか変です



さて
聖書が語る預言は

十字架にかかる
というものです

キリストが十字架で死ぬというものです
そしてさらにキリストが復活するというものです

これは最悪の預言ではありません
これは人間的なものが十字架で死に
神によるものが起こされる
という預言です

そしてこの預言における決まったかたちは

預言する者が十字架を背負うということです

つまり
自分の罪ゆえに今があるから
将来はそうならないために十字架の出来事に命をかける
というものです

だから
自分の罪告白に集中します
相手の罪をつくことは時間がもったいなくてしません

さらに
丁寧に相手と対話をします
対話をして互いの罪を分かち合い互いに罪告白し
ゆえに主により和解に与ります

しかもその和解へのスパンは
永遠であります

生きているあいだに結果がでるためにするのではなく
永遠の神の国で共に歩むためにしています

キリスト者と教会は預言者であるかぎり
まずすべては祝されます

預言者もどきになったとき
すべては悪となります


このあたり
人は相当に意識している必要があると思います

すぐにもどきになってしまうのが人ですから

そして
このあたりが
神の国創造参与においては
ほんとに大事だと思います

議論の目的

2011年02月20日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

*****************

「議論の目的」

私たちは次週に定期総会を持ちます。
ぜひ配布された総会資料を読み、
そこから膨らむ夢や希望を存分に楽しみましょう。

夢や希望はどこからやってくるのでしょう?
それはキリストからです。

つまり私たち教会の交わりがキリストと共にキリストのために生きるとき、
それが夢と希望にあふれて生きることになります。

だから私たちが教会活動について考えるときは、
常に「キリストのため」であるかどうか、という基準から考えることになります。
キリストによる赦し、救い、癒しが
当教会を通して地域に、世界に
スムーズに働くような活動になっているか、が基準です。

そしてそれは同時に「他者のため」となります。
キリストが十字架をすべて引き受けてくださることにより
赦され、救われ、癒されたことを信じるわたしたちは、
キリストと共に、
他者の十字架を引き受ける旅に出ます。
その旅が人生です。
だから教会活動が「他者のため」のものとなっているか、も同時に基準となります。

しかし私がいくつかの教会の総会、また連盟の総会で経験してきたことは、
必ずしも「キリストのため」「他者のため」の議論をしてはいないということです。
そこでは「私のため」の議論が無意識にも多いことです。
わたしもこの事実にようやく昨今気づいて反省しているところです。

私たちは無意識にも
あらゆる行動、現象が「わたしのため」になることを基準にするようです。

一般社会では
「わたしのため」という視点から政治、教育、福祉などについて考え意見を持ち、
「わたしのため」に労働運動をします。

しかしキリスト教会は異なります。
教会は「わたしのため」基準に幸せを発見しません。
教会は「キリストのため」「他者のため」基準に夢と希望を発見し幸せを得ます。

私は次週の総会で活発な議論ができたら幸いと思います。
しかしそれはお互いに教会活動が「わたしのため」になっているかどうかではなく、
「キリストのため」「他者のため」になっているかどうかで議論ができればと思います。
すると総会がきっと礼拝の本質をもつものとなります。
祈りつつ。


ワクワク

2011年02月19日 | 教会のこと
ウチの教会はまたもうひとつ交わりの質が深まることが
実はすでにわかっております

今年度は
若い世代が急激に増えて
その若者同士のコミュニケーションにおいて
いろいろなチャレンジをいただく年となりましたが

喜んだり悲しんだりしながら
しかし逃げずに対話をなし
今や
チーム・キリストが拡がるかたちで
ひとつの体として
歩み始めております

だから来年度は
予想もしていなかったような
(予想するにも到達不可能な)
優れて豊かな出来事が
起きるのだろうと思います

だからワクワクしています

他者の十字架に責任を持つ者

2011年02月18日 | 教会のこと
キリストが十字架においてすべてを引き受けてくださったことから
すべてが始まることを信じるキリスト者は
他者の十字架に対して責任を負うことこそが
この世での人間であるゆえの使命であり、生きがいであり、いのちであることを
知らされるわけでありまして
主は
そのことのみを
信仰の事柄として知らしめるのでありまして
無論このことから派生するたくさんの恵みはありますが
このこと抜きの恵みはないわけでありまして

キリスト者は
他者の十字架に対して責任を負うことに
いのちをかけることの幸い
われを忘れて夢中になることの喜び

知るのでありますなあ

さらに
近代や近代以後という時代のかたちが通用しなくなってきた今
資本主義も共産主義も民主主義も社会主義も
人間にとって
のみならず
すべての生命にとって
(そもそも他の生命には通用したことがなかったのですが
 それどころか他の生命は破壊され続けたわけですが)
通用しなくなった今

キリスト者とキリスト教会は
率先して通用するかたちを示す必要がありますし
そのかたちこそ
キリストのかたちであるわけです

つまり
とっくにボンヘッファーさんが提議してくれておりますし
それに触発されてバルトさんも考えているかたちであります

そしてそのかたちは
他者の十字架(罪含む)に対して責任を負う者
というものです

そのかたちは
キリストというアイデンティティ
(キリスト同一性とでもいいましょうか)
というものです

そしてその反対のかたちが
(すこしずれているというものではなく
 本当に反対だと思います)
「私」というアイデンティティであり
(自己同一性ですな)
所属する場所やグループというアイデンティティであり
国家というアイデンティティでありましょう

ここでこまるのが
このブログでもたびたび書かせていただいておりますが

キリスト教神学のすべての分野において
キリストというアイデンティティ(キリスト同一性)ではなく
近代生まれの心理学から派生したアイデンティティ(自己同一性)を機軸にしている場合は多い
ということだと思います

しかもほぼ無意識にそこが前提にされていたりします

ボンヘッファーがいまだに正しく読まれるケースが少ない原因もそこにあると思います
(わたしがただしく読むことが出来ているかは別にして)

平和に関する信仰的宣言も
いわゆる近代生まれのアイデンティティ(自己同一性)が無意識に前提されているところで
解釈がおかしくなっていっています

先週のNHKの無縁社会のテレビにおける
オクダ牧師の提案した「自己有用感」は
実は近代生まれのアイデンティティ(自己同一性)を前提にしたとしても
できるだけキリスト同一性に近くなっていくという
よく考えられたものであるけれども
しかしテレビ内の議論では
やはり近代生まれの自己同一性を前提とするなかで
自己有用感に関する議論が消化不良のままとなってしまっていました

しかし
もはや世界は
新しいかたちなしには
本当に多くの人が死んでしまいます

日本という
影響が出るには時間がかかる地域に住むわたしたちは
かなり鈍感になってしまう条件の中にいますが
もう手遅れの部分もあるほどに
新しいかたちをキリスト者、キリスト教会が提示せねばならない時期がきています

キリスト同一性という新しいかたち
つまり
他者の十字架に対して責任をもつ者
になることが大事です

そしてそれはバプテストがこれまでに(今でも?)よく語る
自立
は生まないと思います

キリスト立であり
他者立であり
十字架立です

聖書的に言うならば
キリストの体立です。

さてさて
そこでキリスト者、キリスト教会が今という時代にすることは
まず
自己同一性を機軸としている信仰感、神学を
無視することだと思います

じゃあ自己同一性が機軸となっているのはどんなものなのか
ということですが
手っ取り早くわかるのは
方法論でしかないものや
原理しかないものは自己同一性を獲得したいゆえのものなので
丸ごと無視していいと思います

まず教会は
礼拝、祈祷会
執事会、各委員会
壮年会、女性会、青年会、少年少女会
などなどの各活動が
他者の十字架に対して責任を担うキリストの体となっているか否かを
丁寧に省みる必要があります

活動するからには
具体的他者と具体的時間と空間に
責任を持ちますし
そのために議論します

しかし
責任を持つことをしないなら
それは解散してみることが大事です

というのも
新しいかたちにすぐに移行せねば
本当に生きることの出来ない仲間をどんどん無視することになります

そして
他者の十字架に責任を持つことを


というわけです

というわけで

日本バプテスト京都教会は

愛に生きる者を募集しております
互いの十字架をキリストを中心に共に担う生き方を選びたい方を募集しております

死ぬまで一緒に生きてまいりましょう



というわけで
今晩は
ホームレス支援炊き出しです

無縁社会ですなあ

2011年02月15日 | 「生きる」こと
先週土曜日夜のNHKテレビで
無縁社会を考えるシリーズの討論番組が放映されまして
オクダ牧師もパネラーの一人として参加されていました

そして番組の構成から推測するに
NHKさんは
オクダ牧師の提案する「自己有用感」が
無縁社会とさせない鍵と考えていると思いました

「自己有用感」の効用はわかりやすくていいです
深い事柄が分かりやすい論になってはじめて社会も人も変わることができる
と昨今思っているところです

自己有用感の効用は次のようなものです

人は
助けて!と言える他者が必要であり
同時に
助けて!と言ってくれる他者が必要である

ということです

助けてもらうことが欠かせないのは言うまでもありませんが
助けるべき他者がいるということも
人が自己有用感を満たされてこそ存在を確認することからして
欠かせないということです

ここではこれまでの人間の存在確認の前提がひっくり返っています

これまでの日本社会の制度設計は
このテレビの討論によると
会社か家族という縁を前提にしているということですが
それはつまり
人間は単純にどこかに所属することで存在確認をする
ということを前提にしている
ということだろうなあと思います

そして討論では
会社や家族という所属が保障されなくなった今
個人として何度もチャレンジできるシステムにするか
国家に所属するか
ということを考えよう
(ちょっとテレビの討論の先を語ってしまってるかも)
ということだと思いますが

オクダ牧師は
所属感ではなく
隣の人に必要とされる感が大事であり
それも
ビジネスで必要とされるのではなく
隣の人の存在そのものを助ける上で必要とされる感が大事

というところに前提を置き換えたのだろうと思います


なんだかレヴィナス的ですねえ

テレビではオクダ牧師はちゃんと
といいますか
ほとんど語ることができていなかったですが
(ストレスがたまったでしょうねえ)

オクダ牧師の言いたいことを私流の言葉でいうならば

アイデンティティという前提をひっくり返す必要あり!
ということだと思っています


現在の日本社会の制度設計は
アイデンティティを前提としていると思っています

そして
アイデンティティを確保する場が
会社や家族であった時代が長かったわけですが
それがくずれるのはもう20年前にわかっていたので
そのあたりから
地域社会でアイデンティティを確保しよう
とか
国家でアイデンティティを確保しよう
という声がたくさん出てきたのだと思います

さらにそうなると
アイデンティティを個人に固着させる声も強くなるわけでして

国家だと右
個人だと左

というかたちで議論がされているような気がします


でもこのアイデンティティという前提がもはや変
というところからはじめる必要を覚えます


アイデンティティは
いうなれば
存在が守られているということを統合的に知る感覚だと思います

つまり人は
実質的なところ
自分の存在、生命が守られる
というところを前提にするということを
アイデンティティという言葉で表現しているのだろうと思います。

でも聖書には

主のために命を捨てる
あるいは
友のために命を捨てる
という事柄はでてきても

自分の存在をまず第一に守る
という事柄はでてこなかったりします

キリスト教会の現代の(歴史上ずっとかも)間違いは

神さまを
存在を守る方と理解していることだと思います

でも聖書は
神さまは
存在を愛する方と書きます


実は聖書の語る信仰とは
神に愛され隣人を愛する
ということでして
自分の存在が守られる
ではなかったりします

愛することは逆に存在を削りとることだったりもしますし・・・

偶像礼拝の禁止というのは
単に像を拝むことの禁止ではなく

愛してくれる神がいるゆえに他者を愛せる
ということを信じないで
自分を守ってくれる神というかたちで信じることの禁止

を言うのだと思います

という感じで表現すると
レヴィナス的なことばからボンヘッファー的なことばへとなっていくんだと思いますなあ

ボンヘッファーこそオクダ牧師の専門でもありまして・・・



つまり

これまでの日本社会は
自分を守ってくれる共同体に所属することをもって
それを縁とし
それを前提に制度設計をしてきましたが

これからは

愛し愛されるという行為によりひろがる共同体を前提にしよう
ということを
オクダ牧師は「自己有用感」という教会外に伝わる言葉で言いたかったのではないでしょうか



わたしは
端的に

なにしろ愛するのじゃ!
と呼びかけ続けたいと思います

この社会に
孤立しつつある人に
LOVE注入!

いいではないですか!

と思っています


まあ
社会はますます大きく変化するでしょうねえ

そして教会は預言者として先立って歩まねばなりませんし
当教会はすでにそうしているわけですが・・・

つまりは
愛なんですなあ



キリストの教会

2011年02月13日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

***************

「キリストの教会」

私は当教会がキリストの教会として祝されることを祈っています。
それは人間の教会を選ばないという決断でもあります。

キリストの教会にはあらゆる人が参加できます。
とくに困窮者、貧困者、被差別者が安心して参加できます。
さらには家族の一員ともなります。

逆に人間の教会は、
それぞれの時代地域における雰囲気や価値の中で、
認められた人は参加しやすいけれども、
そうでない人にとっては極めて高い敷居をもつものとなります。

当教会は多くの議論と祈りと信仰のたたかいを経て、
ホームレス生活者が参加できる教会となりました。
すると、
おのずと心を病む方や障がいを担う方、外国籍の方も参加する教会となりました。

昨今こういう議論の立て方があります。
「心の病の方が教会に来るようになったからそのための勉強をしよう」。

しかし私は逆だと思っています。
心の病の方が、またあらゆる状況の方が、
つまり誰でも参加できるところの
キリストの教会について勉強したいと願っています。

それは端的にキリストの十字架の下に集まり、
そこで重荷をキリストに渡し、
さらにキリストと共にみんなで互いに十字架を背負うことを
具体的な作業においてなすことでありましょう。

キリストの教会は
十字架を知り、十字架を分かちあう教会です。
そして神はそのためにキリストの十字架の出来事を繰り返し起こされます。

人間の教会は、
十字架という苦しみや悲しみは覆い、
自分自身の力で克服できたこととし、
社会で認められる立派な人間でありつづけることができることで
神様が働いたと結論づける教会です。
そこでは神様ではなく、自分の自律力が信仰されています。

さて、
私は当教会に
さらにあらゆる人が参加できることを祈ります。
現在最も差別されている
依存症を担う方や
セクシャルマイノリティの方の居場所となる教会です。

さらに高齢者が、
かつてのように奉仕ができなくとも、認知症を担っても、
それまでと同じように礼拝に参加できる教会です。

鍵はキリストの教会!です。

*****************


当教会では40年以上前からAAのミーティングが開始され
今はそれに加えてNA、ナラノンのミーティングが行われています

先週横浜の寿町に行ったとき
日本で一番初めに35年前にAAのミーティングがカトリック神父により開始された
という歴史が語られましたので

そこから考えるならば
当教会のミーティングはそれより10年弱早く始まっており
日本で一番初めかはわからなくとも
相当に早くから開始されていることがわかります

そしてわたしは
今後は教会として
依存症を担う仲間とさらに出会いたいと願っております
そのヒントを寿町でいただけたことを主と寿町に献身する方々に感謝するばかりです

さらに
現在最も差別されている
ホームレスとセクシャルマイノリティの仲間たちが
安心してくることが出来るという場に
キリスト教会はならねばなりません

神の命令です

そしてホームレスの仲間と出会い十年以上経ち
その歴史の中で多くの経験と感覚を得た当教会は
次にセクシャルマイノリティの仲間に開かれることを求められています

このことは来年度の総会までに丁寧に研究し
議案にしたいと願っています

さらに
私が12年前に赴任してすぐに気づいたのは

当教会では
以前のように奉仕ができなくなったり
認知症など、なんらかの病を担うことになった高齢者が
礼拝に参加されなくなる傾向が強いということです

そのような状況にある高齢者が参加できなくなるところの
共同体の心理面
さらには信仰告白の中身など
この12年間ずっと考え続け
そのための政策も提案してきましたが

今も
同じ現象と度々出会い反省するばかりです

しかし昨今10年の間に当教会の交わりに加わられた高齢者には
そういうことはないところを見るならば

実は教会の体質は変化したけれども
そのことに気づかずに
以前の体質を想定し判断されている方もおられる
ということかも知れません

このあたりの身体性は
相当に多くの交わりの時間を必要とするため
全く私のかかわりが足りないということでもありましょう

なにしろ
端的に反省します

主よ
導いてください

アァメン

まさに祈祷会

2011年02月12日 | 教会のこと
横浜フィールドワークを終えて
ご協力いただいたたくさんの方々にお礼のお手紙を書きたいのですが
まだ書くことが出来ておりません

申し訳ありません

次週早々に書かせていただきたく願っております

2010クリスマスカード&2011年賀状は
間もなく発送できそうです

こちらもすみません


まったく話が変わりますが
当教会の木曜日の夜に開催されている
「木曜夜の集い」
がなにしろステキなのです

(集会名もいいねえ
 わたし
 日本語でそのまま
 という名称が好きです
 新たに発足したバンド名も
 「教会バンド」でありまして
 最高にかっこいいです)


集った者で青年の仲間の名前を出し合って
みんなでひとりひとりの状況を分かち合って
そしてみんなのことを祈ります

今週は39名を覚えてお祈りしました

(現在は
 参加者が青年や若い既婚者なので
 教会の若者を覚えることとなっておりますが
 いずれは
 もっといろんな世代が集まることになったら
 もっとすごいなあと
 夢見たりしています)

涙が出ますよ

それも
集いを終えて家に帰ってふとんに入ったら
涙が出てくるし
朝起きても
また涙が出てくるし

具体的に覚えあうというのは
生命そのものとなることを確認できます

これぞキリストによる新しいいのち

当教会に集う青年は
みんな重たい課題を担っています

それが
互いのとりなしの祈りによって
わかるかたちで解決していきます

精神面の健康のこと
体のこと
仕事のこと
住む場所のこと
勉強のこと
人間関係のこと
将来のこと
貧困のこと
などなど

今週は
一年にわたりみんなで祈っていたら
先が開けた青年がおりますし
現在の教会からちょっと距離があるところから京都市内に住居を構えられそうな青年も出てまいりました

論文のためにとても深い決断が求められた青年も
このみんなの祈りにより
キリストの出来事として決断できたと思います


近く国家試験がある青年がいますし
少し先に国家試験がある青年もいます

職を求めている青年もいますし
新年度からがらりと環境が変わる青年もいます

祈りあう仲間という
キリストの体こそが

すべてを包み込み平安を与え
生きる場所と道を備えます

アァメン!


十字架の主を選ぶ

2011年02月11日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

**************************

「十字架の主を選ぶ」

先週は日本バプテスト連盟の理事会がありました。
事前にファイルいっぱいの資料が届きましてとても驚きました。
でも資料が膨大なのは、理事会は、全国の教会・伝道所に資するためにきめ細かい作業をしているゆえのことです。

理事会では、教会の現状を丁寧に祈り覚える中で、きめ細かい議論をし、政策を決定しました。

またその際、理事会は確固たる姿勢を貫きました。
それは、
切らない、つながり続ける、信頼する、愛する、という姿勢です。

交渉ごとで、
罪人である私たちは、
一部どうしても不信から議論をはじめてしまいましたが、
最終的には、
理事会はキリストの十字架のもとで信頼するところから、結論とそれにいたる信仰の筋道を整えました。
主の導きであると信じ感謝するばかりです。

また私は恥ずかしながら理事を担うことに消極的な面もありましたが、
今回参加して、
十字架の下に立つ姿勢に触れ、
責任を担う喜びを発見しました。
こちらも主に感謝するばかりです。

連盟は全国324の教会・伝道所が協力伝道のために主体的に加盟してつくられています。
でも教会から連盟への協力伝道献金が、
改善しつつもまだ少ないことがテーマのひとつとなりました。

私はこの現象と、教会への十一献金の意識が連動していると感じました。
つまり、十一献金という神さまとの約束が守られている教会は、連盟への献金も標準比率に達しますが、
どうも十一献金の約束が丁寧に分かち合われていない教会は、
連盟との約束も反故にできていることがデータから読み取れると思いました。

また献金だけではなく、
隣の教会など、連盟諸教会を覚え祈り、交わりを持つことと、
各個教会において個人が他者を覚え祈ることも連動していると思います。

さらに言うならば、
信仰理解が
「自分のために神様から益をいただく」から
「世界全体の困窮のための十字架の神様の下に集まり共に生きる」へと変わってはじめて、
一気に、
他者との交わり、教会への責任的参加、十一献金、連盟諸教会への祈り、連盟への協力伝道献金と奉仕
などのすべてが起こされるのではないでしょうか。

京都教会の私たちも、
「わたしのため」から「十字架に集まる困窮のため」の主を
共に選び取って信じたいと願います。

**********

プロテスタント教会の生みの親
ルターさんが言いたかったことは
十字架の主に従う
ということだなあと思います

原点回帰


寿町フィールドワーク

2011年02月10日 | 教会のこと
今週は
日本バプテスト連盟ホームレス支援特別委員会主催の
横浜寿町フィールドワークでした

とてもいい学びでした

寿町の雰囲気はこれまで味わったことのないものでした
あれはなんだろう??
とっても感覚的というか直観的な認識なので
なんとも表現のしようがないのですが
わたしとしては
教会としてホームレス支援をする際の肌に感じるものとして
今回の寿町から得た感覚を大切にしたいと思わされております

また
なか伝道所の宣教理念と具体的取り組みにも感動しました
伝道所の壁に貼ってある
主の祈りの意訳を見るだけでも
なか伝道所と出会った甲斐があるというものです

さらには当教会もよく讃美する子ども讃美
「キリストの平和」
の歌詞も壁に貼られていました

さらには
「キリストに従う」
ということをあらわす手話の絵も
貼られていました

これだなあ
と思わされました

わが京都教会は
そういう意味では

まだまだダブルスタンダードです

十字架の主に従う教会を目指しそうなりつつあるのと同時に
まだまだ自己利益、自己実現のための主をあがめる教会という面も消えていません

でも
なか伝道所はずばり十字架の主一本でありまして
目頭が熱くなりました

京都教会もさらに
丁寧に歴史を積み上げていきたいと思わされました

渡辺英俊先生の基調講演はすばらしかった!

とてもラディカルな神学を語ることもできる方ですから
神学議論のための講演となってしまう可能性もあるのですが

しかし
自らの寿町との出会いとかかわり、具体的施策を語り
最後に
そこから見えてきた彼の神学をできるだけわかりやすく語ってくださったので

神学原理に耳を奪われるのではなく
具体的に困窮にある他者にかかわる動機付けとして彼の神学を知るというかたちとなったので
逆にみんながその神学に納得することとなりました

わたしは最近思います

たとえば
神学の世界では
聖書学と教義学と歴史学で
聖書理解や信仰理解が異なり
その異なる部分でもって議論をするということがいまだに続いておりますが

なんだかつまらないのであります

わたしと渡辺先生の神学は当然相当に異なる部分があります
そもそもみんな異なります

しかし

それぞれの神学(信仰)から生まれる倫理が何か?
が大事なのであって

それぞれの神学(信仰)から
他者に出会い続け命がけでかかわりつづける
という行為が生まれるならば

そこにいたる神学(信仰)はすべてよろしいと思っています

だって
聖書でも
マタイとルカとヨハネとパウロは
みんな違うわけですし

でも

起こされている倫理は同じなわけでして・・・


逆に
困窮にある他者に命がけでかかわる
ということが具体的に起こされていないところの神学(信仰)、教会、キリスト者、
さらには牧師、神学者

神学(信仰)がどこかおかしい
ということだろうと思います

困窮にある他者に命がけでかかわる
ということがもはや起こされているならば
それが起こっている神学がそれぞれであったとしても
互いに批判する必要はなく
互いに嬉しく分かち合うということで十分だと思いますし
それ以上することは
結局極めて人間の思考を楽しませるだけなのだろうと思います


というわけで
今回の渡辺先生の講演は完璧でした

さらに
二日目の三森先生の組んでくださったプログラムも完璧でした

多くの参加者が涙した三日間

主と
寿町で活動されているみなさまと
参加者に
心から感謝

生きる場所

2011年02月05日 | 教会のこと
あと一日ですが
今週の週報巻頭言です。

********************

「生きる場所」

本日の礼拝にてYさんの信仰告白とバプテスマが予定されています。
Yさんは生きる場所として教会家族と出会い、教会家族の源である十字架の主と出会いました。

恐らく今日においても、
まだどちらかというと、
生きる道を探すというのが流行していると思います。
しかし、私は道を進むというのはふたつ目の行程であると思います。
実はその前に、生きる場所があることが大前提として求められているはずです。

ところが、人は長いこと生きる場所が明確でないままに生きる道を求めていました。
逆に、生きる場所は道の先にあるとも考えていたと思います。
すると生きる場所は大前提ではなく最終目標とされているかもしれません。
だから、最終目標という場所ですから、そこはは極端な理想郷でもあったことと思います。

さらに人は、
そんな理想郷にたどり着いていないし、
理想郷の具体を明確に思考できていないにもかかわらず、
理想郷にこだわり、理想郷を確定しようとします。

その結果、その理想郷がその個人あるいは数人のイメージと雰囲気と精神でしかない場合が多くなります。
しかも、それに固執するばかりに、イメージなどが合わない場合、あるいは逆に壊されそうな場合、
そのような他者とはかかわらないばかりか、逃げることをしてきたのが人ではないでしょうか。

さらに、そのイメージを神の国、天国、という風に理屈付けしてしまうと、
かたくなになった自分自身から自由になることができなくなるという病を担うことにもなります。

しかし!!
聖書を通して主は、
端的に同じ時間と場所に端的に共にいる他者との交わりという生きる場所をこそ!!
神の国といいます。
神の国は人の理想卿ではありません。
互いの困窮が主の十字架を通して分かち合われるという交わりです。

それは自己実現でなく、十字架を担うことです。
自己肯定ではなく、十字架による悔い改めです。
将来の成功を求めるのではなく、今を端的に生きることです。

そしてそれこそ私たちが選び取る生きる場所です。