きぼう屋

生きているから生きている

一足飛び

2009年02月28日 | ホームレス支援のこと
今週前半は山谷のふるさとの会からいろいろと学んだ
彼らの取り組みには圧倒される
大前提にホームレスを強いられている人たちが生きるためならなんでもやる!
という愛を感じる

その
なんでも!
というところに思想の入る余地はなかった

そこを思想で語ろうとするときには
そのあいだに多くの命が消えるという歴史を担っているからこそのことだと思った

なんでもやるということは
同時に
誰でも助ける
ということだった
だから
当事者と出会った分だけの多様性を持っている

そして多様であるということは
組織での統括は無理で
ひとりひとりの支援者のかかわりとつながりとしての交わりが
組織に代わるものとしてあらわれている

むろん運動なので
失敗のないために
ときに上からの命令もあろうが
しかし基本的には出会いからすべてがはじまることに圧倒された

さらにそれは地域づくりとなっていた

地域は出会いから起こされるから
このような活動の方向は地域をつくるのだ


さてさてしかし
このふるさとの会の迫力はいったいなんなのだろう

わたしは
有志が手弁当で支援をはじめたけれども
10年は暖簾に腕押しだった!!

というところにヒントがあると思った

かかわってもかかわっても
結果がよくわからない
だから
もうやめたくなるけれども
でもなんとかやり続ける

そういう中で

彼らはなにしろ地域にお金をまわす
というところで
しがみつける体制を整えた

これはかかわるための思想ではない
これは
かかわるために一足飛びにしがみつく信仰だ


そしてわたしは
一足飛びでキリストの十字架のあがないと身代わりを信仰し
なんとかやり続けられることを選んでいる


この一足飛びには
実に大きな秘密がある


ぐちぐち言っている暇はない

出会ったらかかわり続ける!!
そしてその動機は
一足飛びの

すなわち信仰なのだ


そしてキリスト信仰は
お金がまわらなくなっても
力を発揮する


そして
信仰を持つからこその
出会いとかかわりが

かならず地域をつくる

しつこくかかわってくれる神

2009年02月22日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

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「熱情の神・・・しつこくかかわってくれる神さま」

先週と今週で「十戒」を分かち合いますが、
先週は前半部に記される熱情の神を学びました。
かつての聖書では「ねたみ深い神」と訳され、
私はしつこく関係を求める神と受け止めますが、
このなんとも生々しい神さまが、
実に私たちを救ってくれます。

ではその部分を少し見てみましょう。

神さまは言います。
「わしの前に他の神を置くな」。
私たちは「了解」と応えます。

しかし神さまはさらに言います。
「でもあんたは他の神に頼ってなくても、わしを勝手にイメージして偽のわしをつくるではないか。そんな偽もんに頼るな」。
私たちはやはり「了解」と応えます。

すると神さまはさらに、
「ならば偽のわしをつくったら、わしはその罪をあんたの共同体みんなに問うぞ!そういう雰囲気はみんなの罪だ!」と言い、
さらにさらに「でもわしを愛するなら、あんたの共同体を永遠に救う」と言います。
だから私たちは半ば喜び半ば恐れつつ「了解」と応えます。

でも神さまはしつこくもさらに
「しかしあんたは自分に都合のいいこと、ありがたいことのときだけ、勝手に神さまのおかげだって言うではないか。
そういう風に勝手に神を用いる者は必ず罰する」
と、とても恐ろしい警告を最後にします。
 
神さまはこういうなんとも生きているお方です。
コンピュータのように冷静に(冷たく?)答えをはじき出す方ではありません。
だからキリスト教は原理になることは不可能です。
抽象思考として脳みそで扱われることもキリスト教は拒否します。
ただただキリスト教は生きている神さまを探し求めます。

といいつつ、
キリスト教会は神を原理とし、思考としてきました。

そのゆえにわたしたちは、生きている神さまを無視し、
結局は無意識にも地上の権力や金などの
原理として分かりやすく思考しやすい他の力たち(他の神たち)を頼り、
さらには自分の都合で(思考しやすいように)勝手に神を解釈し、
さらにその神を都合のいいときだけ持ち出すということを、
歴史上繰り返してきました。

おおげさでなく、
人の歴史はこれのみと言っても過言ではありません。

でも、そういう神さまを無視している私たちの目の前に、
このしつこい熱情の神さまは
なんと!現れるわけです。

こちらが神さまを探し求めるのを忘れていても、
神さまが私たちの目の前に現れるのです。

そして神さまは、私たちの目を見て、肩を持ち、揺さぶり、
「私が神なんですが!」「私があなたを救うのですが!」
と言います。
さらにきっと
「脳みその中でイメージした神から解放されて、目を覚まして私を見てくださいな!」
と言ってくれていると思います。

そうやって神さまはしつこくしつこく私たちの目の前に現れるのです。

むろん、わたしたちの視覚や触覚という限界を超えて信仰において現れるのであって、
私たちの感覚になじむ仕方で現れるという胡散臭さ(カルト臭さ)はありません。

と言いましても
人間の認識できる範囲で真理を確定したいという時代なので、
つまりカルト臭さに真理性を感じてしまう感覚の時代なので、
こういう聖書の語る真理が届きやすいのか否かは
実はわたしもよくわからないのですが

しかし、なにはともあれ
本日も熱情の神は現れるのです!!

アーメン!


個人主義?

2009年02月20日 | 「生きる」こと
WBCのメンバーが宮崎でキャンプをしておりますが
イチローさんのカリスマがすごいですねえ。

そのイチローさんが
キャンプの練習時間が長い!と申したようでして
大リーグでは
全体練習は短くて
あとは個人でやるとのことで
そのやり方を適用したようです。

そして他のメンバーもイチローさんの意見に興味を示しているようでして・・・

でもわたしは
これはただの個人主義であって
日本の野球界という個人主義とはほど遠い雰囲気の中に生きてきた人が
このもう決して新しくはない個人主義の雰囲気に
興味を覚える
というが起こっているのかなあと思いました

これは野球界の流行なわけです。

そして
わたしはこんなこと考えてしまいます。

信仰生活は
みんなでする礼拝はさっさと短く済まして
あとは個人でそれぞれ
祈ったり瞑想したり聖書読んだり勉強したりしたらいい

という
キリスト教会で流行していた雰囲気があるなあ

ということです。

これは
時期はそれぞれ別としても
世界的に流行した個人主義による雰囲気です。

西ヨーロッパで
アメリカ大陸で
そして日本でも

これは流行しました

そして
その結果

キリスト教会は
ぼろぼろになりました

今の日本がちょうどそういう状態だと思います。


でも
聖書を読むかぎり
信仰生活は
すべての生活を共有するくらいの勢いで
それこそいい意味でべったりと
長い時間一緒に過ごすところにポイントがあるのだと思います。

たとえ意味がないと思われようとも
意味もなく共に同じ空間で時を過ごすことをどれだけしたか
ということが

家族の人間関係をはじめ
信仰共同体にしろ地域共同体にしろ
野球チームにしろ

筋力の強さがどれだけか
ということに直結するのだと思います。


今、教会が元気な地域は
意味を明確に言えなくとも
なにしろ集まり
祈り
しゃべり
食べ
礼拝する
という

べったり共に貼りつき生きる教会がつくられているところではないでしょうか。

あるいは
教会がぼろぼろになって困ったので
カリスマによる支配や
原理による支配や
マーケット理論による運営で
盛り上がっている地域もありますが

それはどうでもいいことであって

わたしたちが注目せねばならないのは

べったり共に貼りつき生きる共同体
なのだと思います。


しつこくも共に生きるからこそ
キリストの十字架なしに共に生きることができないことをも知るわけでして・・・

そこではじめて
「個人」を知るわけでして・・・
(個人主義はなくてもいいけど「個人」は当然大事!!)

個人という枠に逃げるなら
十字架がいらなくなって
栄光ばっかりを求めるようになります。



日本の教会も
個人主義という流行に乗り
元気だった教会が
これからどんどん元気がなくなるでしょうし

そうすると
カリスマか原理かマーケット理論に走ることに
世界の流れ的になると思うのですが

どっこい
ここは
べったり共同体を見直すことって
とても大事だと思います。


というわけで
イチローのもたらす流行が
しばし野球界でもたはやされるだろうなあ
と思いつつ

しかし野球こそ
強いチームになるために
わりかしすぐに
べったりと一緒に練習するというスタイルの重要性に
気が付きそうな気がします。


ではでは。

訓練

2009年02月15日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

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「訓練」

「訓練」と聞くと、なんだか厳しくて敬遠したくもなりますが、
しかし、あらゆる生命は「訓練」なくして生きることはできません。
生命は生きるために「訓練」します。

赤ん坊は立つ訓練、歩く訓練、食べる訓練を。
子どもは話す訓練、書く訓練、読む訓練を。
生徒たちは考える訓練、交わる訓練、ひとりでこなす訓練を。
二十歳を超えれば、他者と共に生きる訓練、奉仕する訓練、働く訓練を。
親になれば、育てる訓練、見守る訓練、身代わりになる訓練を。
高齢者になれば、包み込む訓練、伝える訓練、死を受ける訓練を。

そしてキリスト教会は、
そのひとつひとつの訓練をキリストに基づいて行います。
(とりわけヘブライ書が訓練について多く言及しています)。

その場合の訓練は、
キリストが生きるゆえに、教会家族、および世界全体が生き、
さらに自分自身が生きるためのものであり、
決して、自分ひとりが、あるいは自分の身近な交わりのみが生きるというための訓練にはなりません。
(むしろ後者の訓練は排除されます)。

そして次週に開催される総会は、
現在人間が持ちうる訓練における最大のものだと思います。
そこでは、
みんなで静まってキリストに聞き、
自分の感情や感覚、利益から解放され、
キリストが生き、
ゆえに教会が生かされ、
さらに自分自身が生かされるための
目的、方策、企画、会計などが、
議論され、共有されます。

だから総会は嬉しく情熱あふれるものです。

ゆえに私たちは総会に向けて祈り、豊かに参加できる準備を整えます。

決して総会に対して第三者的なかかわりを持つことは選びませんし、
ゆえにたんぱくで冷たい総会となることを拒否します。

しかし同時に総会はキリストの思いと私たち各々の思いが交錯し、こんがらがり、
何から解放され何にこだわるべきかがわからなくなる最たる場面です。
そこでは互いに何が善で何が悪であるかをわからないまま、
しかし互いに善を主張していると思い込みつつぶつかるという、
これまた最大の緊張も発生します。

だからこそ、総会は最大の訓練の場です。
キリスト信仰の訓練の場です。

総会でキリストから聞く!
ぜひ共に担いたいと願います。

自由

2009年02月08日 | 教会のこと
今週の巻頭言です。

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「自由」

それに気が付いてから現代に至るまで
世界は「自由」を大切にしています。
でもその「自由」は一様ではなく、
変化もするし、力ある者に利用されもします。

ならば本当に大切にすべき「自由」とは何でしょうか。

聖書が語るのはキリストへの「自由」です。
世界がキリスト以外の力で動き、キリストが無視されるときに、
しかしキリストを信じる私たちは、
キリストの力と業とを選び取る(=信仰告白)「自由」を死守します。

それは
とりわけ一部の個人や共同体が財や権利を独占したり奪ったり、そのために殺したりすることが、
どこかで正当化される動きではなく、

「殺すな」「隣人を愛せ」「敵を赦せ」で動くことを選び取る「自由」です。

そしてバプテストはそこにこだわりました。
国家が戦争と搾取を繰り返し、個々人を支配する動きに反対し、
国家から「自由」になり、
キリストを選ぶことを実践するのがバプテストです。

そして今の日本ならば、
悪しき経済グローバリズムの動きに反対する「自由」であり、
このグローバリゼーションに賛成する企業や政治や教育など、
たとえそこと深い結びつきがあろうと、
いや、結びつきがあるからこそ、
そのしがらみの中で、
その動きではなくキリストの働きを選び取る「自由」を、
バプテストは聖書から信仰としていただくのです。

そして2月11日を、
世間は「建国記念日」としてですが、
国家の力を選ばない私たちは「信教の自由の日」として覚えます。

さて、
しかしいま「自由」はキリスト以外の諸力からキリストへの「自由」でなく、
自分自身の財や力や考え、感覚や感情への「自由」が多く語られます。

だから逆に神の言やキリストの物語に反対し、
自分の思いで神やキリストを利用する「自由」が増えていますし、
そのゆえに、「隣人を無視し」「敵を赦さない」という「自由」、
すなわち自分がそれなりにいい暮らししているから、他者は関係ない!という「自由」
がたくさん転がっています。

しかし!
私たち京都教会の信仰共同体は、「自由」をはき違えません!
これは神と地域世界に
高らかに宣言すべき!と思います。

共にキリストへの「自由」を選び取りたく願います。


過越の祭

2009年02月01日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

この間は巻頭言のみですみません。
昨年末から
このような世の状況においていくら時間があっても足りず・・・

年末年始にあれだけ暴飲暴食したのに
体重3キロ
体脂肪2%
減ってしまっております。

これは悪いことではないのですが
そろそろ体力的にぎりぎりですので
なんとかせねばと思いつつも

でもやるっきゃないのです・・・

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「過越の祭」

先週の教会学校では、
過越の祭の根拠である出エジプト記の物語を各クラスで学びましたが、
みなさんはどんな気持ちを抱きましたでしょうか。
私はそこでなんとも苦い思いをするわけですが、同じ思いの方が多かったのでは?と想像します。

つまり、この祭で繰り返し物語られる出来事は、
私たちにとって
喜びを持っていただくことがむずかしいに違いないのです。

この物語は、
主なる神が
夜中にエジプト人の家に侵入し初子をどんどん殺し、
さらに金銀食料を持ち出してイスラエルの人々に与える
というものでした。
ここでは主が殺人者であり、侵略戦争者です。
だから苦い思いが起こって当然です。
この物語をどう受けたらいいのか?と悩み迷います。

さらにガザで大量の血が流れている現在、
この過越の祭の物語を受けることが危険でもあることをも、
私たちはよく知ります。
つまり、
戦争をするとき、
それを正義の戦争、聖なる戦争、あるいは自衛の戦争という名で、主の計らいを物語ることが、
過越の祭の物語から生まれる危険性を、
私たち信仰者は肝に銘じねばなりません。

ではこの物語は何なのでしょう。

エジプト内で大勢となったイスラエル人は
迫害に耐えられず、
夜中にエジプト人を一斉に襲った!
とは読めないでしょうか。
エジプトの政策において
イスラエル人の人数調整のために赤ん坊が殺されたように、
エジプトの初子を殺した!
ということが起こったと読めないでしょうか。
またそうなると、
イスラエルの男たちが誤ってイスラエルの家を襲わないよう、イスラエルの家の柱には血を塗ったこともよくわかります。

この物語は、イスラエルの起こした戦争の物語です。
しかし、その戦争の主語を「主」とするところから、
現代の文法感覚でいくと、
イスラエルが戦争を肯定し、今でも正義の戦争を神の名で行う!と読めるのですが、

わたしは実は全く逆だと考えています。

つまりイスラエルの人々はその戦争を肯定することはできなかったのです。
だから、主語を「イスラエル」とはできず、「主」としたのです。
この変換は、主をイスラエルの戦争の理由にしたのではなく、
「主」を語ることで、自らの罪がさばかれることを忘れないためのものです。
つまり「主」を主語にすることは、主語を自分にする以上に、自分に責任がかかることなのです。

過越の祭は主を畏れることを忘れないためのものであり、
主を戦争の理由にするものではありません。

この物語は受け方次第で180度変わってしまいます。
が、聖書はそういう物語だらけです。

だから聖書は、祈りつつ信仰で読まされることが大切です。

今週も私たちは、聖書の物語を丁寧に祈りの中で頂きつつ歩みます。