きぼう屋

生きているから生きている

復活の主

2012年04月10日 | 教会のこと
今週の週報巻頭エッセイです。

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「復活の主」

キリストの復活を覚えるイースターを共に祝うことがゆるされ感謝です。
私は「復活」を信じます。
「復活」は回復ではなく、まさに復活です。
キリストは死より復活されました。死に勝利しました。
そこでは、死のみならず、死に向かう方向を持つ諸力にも勝利しました。

しかし勝利した今、なにゆえに死および死に向かう方向を持つ諸力が存在するのでしょう?
私たちは素朴に疑問を持つとも思います。
私たちは、何かに勝つというとき、
相手が負ける、さらにはトーナメント戦の感覚でいうならば、相手が消えると考えることができます。
けれども、聖書が勝利を語るとき、
それは勝利した相手をすべて引き受けることができたということであり、
また相手を愛することができたということであるに違いありません。

死に勝利し復活したキリスト。
彼は、死を無きものとしたのではなく、
死を豊かに受容する中で、死を越える新しい存在となられた、と考えることはできないでしょうか。
同時に死に向かう諸力に関しても、
十戒で言うならば、殺し、姦淫、盗み、偽証、むさぼりなどに関しても、
まるでそれらがなかったかのように、全てリセットされて、新しく復活の世界が広がるというのではなく、
それらが間違いなくある現実の中で、その罪を隠すことなく、引き受けることができる世界が、
復活の新しい世界ではないでしょうか。

67年前までの戦争を忘れるのではなく、その罪責と苦痛を引き受け、覚え、具体的に重く感じ取り、
その苦痛を味わう中で、復活の新しい命を生きる、
あるいは、復活の命に生きるゆえに、
その命に与っていなければ苦しくて忘れることしか出来ない事柄であっても、
その苦痛を引き受けることができる、ということが勝利ではないでしょうか。

個々それぞれの人生も、
罪や失敗をすっきり忘れることで次の歩みをはじめるのではなく、
キリストの復活により私たちにも復活の命が与えれたゆえに、
罪や失敗を引き受けつつ、
しかしその十字架は軽いと主に宣言されつつ、
歩むことが出来るのではないでしょうか。

復活の命に与ることがなければ、
私たちは自らの罪や失敗、弱さを隠したり忘れることしか出来ず、
ゆえにそれこそ復活の命、歩み、世界を失い、全て失うことにもなるかもしれません。

キリストは復活されました。
だからペテロもザアカイも放蕩息子も姦淫の女性も金持ちの青年も、
それまでの罪深い人生をしっかり悔い、忘れず、
それを越えて、新しく復活したはずなのであります。

キリストが復活されたから、
失敗してもやり直しができます。
罪は赦されます。
救われます。
明日があります。
希望に満ちています。
光が導きます。

復活の主キリストを信じてまいりたいと願います。

今度の日曜日はイースター

2012年04月05日 | 教会のこと
今度の日曜日、4月8日はイースターです。

日本バプテスト京都教会でも、イースターをみんなで祝います。


午前10:30から、礼拝があります。

聖歌隊賛美、信仰告白とバプテスマ式、成人祝福式など、もりだくさんの礼拝です。


午後12:30から、愛餐会です。みんなで立食パーティです。

子どもたちはチョコレート・ハンティングがあります。


午後2:00から、教会バンドイースターコンサートがあります。


いずれも入場無料。
どなたもぜひともご遠慮なくどうぞ。

心よりお待ちしております。