きぼう屋

生きているから生きている

ほっ

2009年12月30日 | 「生きる」こと
今日(もう昨日)はとてもホッとしました

深い困窮にある方が
それこそ復活への第一歩を歩み始めることができたからです

育ちが複雑で
ずっと貧しくて
会うことのできる家族がいなくて
孤独のまま

生きることの意味を見出せない人たちは

実はものすごくたくさんおられます!!

今日はひとりの若者が
その状況から
仲間とともに歩むことを
静かに決意されました


わたしはこの10年間
徹底的にそういう方々とかかわりつづける道を選んでおります

出会ったらかかわるしかないわけですし


しかし残念ながら
そういう出会いを通して
そういう方々が教会に来たとしても
長続きしないケースが
ウチの教会でもたぶん9割ほど

彼らのセンサーは
教会も
他の多くの共同体同様に
受け入れてくれない
ということを察知できてしまうのです

彼らのような境遇で育った人たちに
通用しないことはありまして
しかも通用しないものが
実は本当にキリストにとって必要ないものだったりするので
彼らのセンサーはひとつの指標にもなってくれます

素直に反省しつつ
教会は
またあらゆる宗教共同体は
復活させていただくのであります

せめて教会だけは
だれもが家族になれる場になりたいですし
本来そうなるようになっているわけです




そういう意味で共同体全体として家族として迎えるということが具体的に起こらない場合は
その責任を引き受けて
せめて牧師家族は
徹底的にかかわらねばキリストが承知しないと思っています

だから
できるかぎりかかわります

かかわりきれない罪人性をかかえながら
しかしキリストを通してゆるされていることを信じ
繰り返しチャレンジしつつ

でもそんなかんじで牧師をしておりますと
そういう人にかかわってばかりいるのではなく
教会メンバーにかかわれ
という指摘を受けたこともありますが

申し訳ないことに
教会共同体が
キリストに従う者として
彼らにかかわることを当然の喜びとするに至って
その指摘を聞くことができるわけでして
こういうことにおいてはものすごく恐い人間になる私は
強烈にその言葉を打ち返しているというこの10年であります

そうとうにこわいみたいですねえ

すみません


しかしありがたいことに当教会の事情は変化もしてきております

そういう彼らと共に生きることが
聖書に書かれていることそのものであり
そのためにこそキリストがおられるということを
身体で知るという出来事がどんどん起こされております

繰り返しますが
そのあたりのことにかんしては
わたしはみんなが怖さを覚えるほどまでに
厳しい態度になるもんですから

もしかしたら
半分おどされて
しかし
半分は本当に信仰で

かかわることにチャレンジしてくれているのだろうなあ

感謝しつつ思っております

でも
たとえおどしからはじまったとしても
結果的に
かなり幸せでしょ!!

しかもそれにより
困窮から解放されるでしょ!!

ゆるしと救いを味わうでしょ!!

だから
今日決意した若者は
いずれ教会で生きることができるのではないかと
祈りつつ期待しております



そんなかかわりを朝から昼にかけてしていたら

地方連合の用事で兵庫まで出かける時間がきてしまいまして
なんとも残念ではありましたが
(一日ずっと一緒に彼と行動をともにしたかったのですが)
しかし
うれしくて体も軽く兵庫へと出かけることができました

祈りつつ

賛美

2009年12月28日 | 教会のこと
クリスマス疲れでしょうか
風邪をひかれた方がたくさん出まして
本日は訪問デー

たくさん祈ります

またクリスマスのご奉仕を改めて感謝

さて遡ってまいりますと
24日のキャンドルサービスですが
こちらも年々参加者が増えて感謝するばかりです

忘れもしない10年前
赴任してはじめてのキャンドルサービス

参加者18名

キャンドルサービスは
みんなが友人を誘って
いつも以上にたくさんの人で礼拝できると
経験から思い込んでいたわたしは

ショックでその晩に妻と泣いておりました

教会の人は半分
半分は通りがかりの人

しかしその後不思議と毎年5名くらいずつ増えて
10年で400%アップ

ずっとぼくら家族を強烈に支えてくれているFさんが
キャンドルサービスのプログラムを手作りで作ろう
と言ってくださったのは何年前だったでしょうか

参加者が30名くらいと予想していた時でしたから
7年前くらいでしょうか

それくらいの数でいいのだから
なにしろ心をこめよう!
ということで
いっしょに一枚一枚丁寧にプログラムをつくりました

それから毎年手作りのプログラムをつくっています

もちろん今年も!

3年前からは青年たちが引き受けてくれています

今年はまずクリスマス礼拝と祝会があった20日の夜に
デザインをわいわいと語り合い
だんだんと見えてきまして

白と緑と赤と黄色のフェルトでキャンドルをつくることになりました

そして早速
型をつくってそれぞれのフェルトを切っていきまして
いわゆる部品ができた時点でその日は終了

そして前日23日の祈祷会後に
黒の画用紙にフェルト部品を貼っていき
すこぶるかわいい表紙が完成

そして当日の夕方に中身をくっつけて
プログラムの完成

よってたかってわいわいやるという作業プロセスを経た時点で
キャンドルサービスは祝されることが決定!!

さらに
当日キャンドルサービスの準備奉仕をしてくれた方のために
夕食をHおばあちゃんが作ってくれた時点で
キャンドルサービスは始まっていないにもかかわらずすべてがうまくいったことが決定!!

そして礼拝がはじまりまして
当然祝されるわけでございました

プログラム数が足りなくてすみません


なにしろ賛美を音量と美しさ(全身全霊から賛美されている美しさ)がえらいことになってきました

そして礼拝終了後
教会の玄関前で
今年も即席の聖歌隊賛美

これがこれが

これがこれが

強烈に美しい!!!

聖歌隊ってのは
他の合唱団と違って

練習して美しさを獲得するのではなくて
ともに礼拝し主の晩餐に与り
互いにとりなしの祈りを重ね
キリストにおいて結びついているという信仰をいただき
キリスト家族となるときに

美しくなるんですねえ!!





今年もそのまま教会に宿泊する若者たちがいてくれまして

一緒にクリスマスパーティー

そこに仕事を終えて駆けつけてくれた仲間もいてくれまして
彼女が到着して
もう一度キャンドルに火をつけて
賛美して

乾杯!!

そのキャンドルのやさしい光のままで
シャンパンとワインを楽しみました

すぐ近くの酒屋の息子さんが
ワインに凝っていまして
いつも安くておいしいものを教えてくれるので

はずれることなくいつもおいしいワインをいただいております


ということで
次回はクリスマス家庭集会のことを書けたらなあと思います

家事

2009年12月27日 | 教会のこと
あまりに濃くて分厚い日々が続いた
といいましょうか
体中を満たしてこぼれ出ているような出来事が連続した
といいましょうか

つまり
ここにそれらを書くことができる
ということが本当は不可能なほどに
あまりに祝された時を過ごしております

主なる神に感謝


不可能であることを承知で
すこし遡りつつ書いてみたいと思います

まず本日
礼拝の準備と会堂清掃がありました
青年会担当の日

ウチの教会は毎月第四週の土曜日を各会で担当します
そして今月は青年会
でもクリスマスの忙しさの中で
わたしはそんなことをすっかり忘れておりました

しっかり4名も来てくれました

すごいねえ

わたしの中ではっきりとしていることが実はあります
それは
教会共同体という二千年の歴史の中で
信仰がどこではぐくまれてきたかというと
それは
会堂清掃であるということです

みんなが集まる場所を掃除するという行為には
究極といっても過言ではないところの
人間を健全にする本質が詰まっています

信仰はもちろん礼拝で養われます
しかし
その礼拝を常に選び取るためには
それ以外の教会共同体へのかかわりが決定的に必要です

そのかかわりはかっこいい奉仕もあるかもしれません

しかし
本質がつまっているのは
いわゆる家事です

食事に清掃に洗濯です

だれかがしないとならないけれど
しないでいいならしないでも特に文句は言われない
という
これらにこそ本質が詰まっています

そしてこれらを引き受ける人は
人のしたがらないことを進んでするわけで
それも喜びつつ感謝しつつできるすごい人もいるわけで

こういう人の信仰が
実は継承されていきます

本物だから!

マルタを経験せずにマリアにはなりません
マルタを経験するからマリアにもなるのです

だから信仰は

家事→食事の交わり→礼拝→かっこいい奉仕

という順序を実は持っています

聖書からわたしはこれを学んでいます


さてさて

というわけで
本日は教会のあらゆるカーテンの洗濯までできました
母子室がピカピカになりました

そして
Hおばあさんの心のこもった肉じゃがと
Tおじさんのコロッケの差し入れを
みんなで食べました

うまい!!


さらに
青年ふたりと若菜さんで聖書を読み祈る時間まで起こされまして

主の働きに感謝するばかりなのでありました


というわけで
まったくクリスマス行事まで遡れませんでしたが
というか本日(昨日)のことのみですが
すこしずつ書いていこうと思います

明日(本日)の礼拝も楽しみ!!

では
おやすみなさい!

「新」

2009年12月22日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

****************

「新」

みなさま、クリスマスおめでとうございます。
共にこの日を祝うことがゆるされ幸いです。
現代日本でクリスマスを教会で祝うことはひとつの主の奇跡です。

さて今年も、
清水寺の森貫主による筆で、
「今年の漢字」が発表されました。

「新」でした。

新政権発足、新型インフルエンザ、新記録誕生などを背景としているようです。

しかし「新」はキリスト教会にとってこそ大切な事柄です。
キリスト者は主の日ごとに復活の新しい命を得ます。
本日も!です。
しかも本日は主イエスの誕生という「新」のなかの「新」を得ます。
さらにOさんとTさんのバプテスマという「新」に出会います。
私たちにとって「新」は決定的な救いです。

さて、新しくなると以前のものはどうなるのでしょう。
古いから全部捨てられるのでしょうか。

新政権が発足して面白いことが起こっています。
それは、旧政権と同じ体質を持ち、同じ過ちをすることです。
またさらに面白いことに、
旧政権に対してよりもそれらが厳しく明らかにされていきます。

新しくなることは、古いものが消え去るということではありません。
新しくなるゆえに、
古い体質を今なお持ち合わせ、
それが繰り返し現われ、
それをかつて以上に背負う
という必要が起こるということです。

しかし古い時分とは異なり、
新しさゆえに、
背負うことが赦されつつできる主の業を得ます。

つまり、
「新」とは、かつての罪がかつて以上に明確にされていくということです。
「新」とは、罪を明確にし、それを赦すキリスト・イエスのことです。
「新」とは、我々の罪を十字架で背負い苦しみ嘆き死を迎えるキリスト・イエスを通して赦された、私たち一人ひとりという存在です。
「新」とは赦された者として他者とつながり愛し分かち合う家族となることです。

「新」とはすべてが軽くなりただスッキリすることではありません。
「新」とは、命と世界と歴史の体重をそのまま背負う決断です。
それもキリストが共に背負うゆえに背負うことができる奇跡です。

というわけで、
今年のクリスマスも「新」を共に頂いてまいりましょう。


クリスマスの希望

2009年12月13日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言

*********************

「クリスマスの希望」

本日午後はいよいよ子どもクリスマス。
年々参加者が増えている行事。
今年も丁寧に参加者をお迎えいたしましょう。

神さまは、集まられる子どもと親にクリスマスの希望を伝えます。
子どもも親も希望を必要としています。

親子はかかわることから逃げることが許されない決定的な人間関係です。
だからこそいつも困窮だらけです。
子どもの成長、教育のこと、愛し方、接し方など、
なにをどこまですべきか、すべきでないか、
かかわるほどにわからなくなります。

だからクリスマスの希望が必要です。
クリスマスは平和を起こします。
それは権力と貧困からの解放として起こされます(以上ルカ書「マリアの賛歌」)。
権力とは神以外の力です。
この時代、この社会では、
実は自分自身の力が権力として神に対峙します。
自分の理想、感覚、感情、方法など、
子育てに限らず、人とかかわり人を愛することにおいて、
私たちは自分のそれらが通用しない不安の中で深い困窮を味わいます。

また貧困は生命維持に全神経を集中せざるをえない状況に人を追い込み、他者との関係を壊します。

そんな中で「神にできないことはない(ルカ書)」とクリスマスが起こされます。
それは、「主イエスが共にいます(マタイ書)」という仕方で起こされます。
つまり赤ん坊の主イエスゆえに、私たちが主イエスとかかわることから逃げることが許されない状況を与えられつつ、
しかし
逆に、
だからこそ!
主イエスが必ず共にいてくれることによって、
私たちが赦され解放され、
自分の力ではなく主イエスの力を頂き、
主により愛しかかわる凄みを驚きつつ喜び、
ゆえに他者とのかかわりは貧困を補いあうほどまでに具体的にひろがり、
ますます主イエスの愛がひろがるというクリスマスの希望を知ることとなります。

そして当教会では
次週の礼拝で2名の仲間が信仰告白とバプテスマを予定しています。
主の愛によるひろがりの究極の出来事です。
この希望をたくさん頂きつつ、
祈って祈ってクリスマス礼拝を迎えたいと願います。

希望は満ちています!!


今年もクリスマスはやってくる

2009年12月12日 | 教会のこと
もう明日は新しい週ですが
いまさらながら
今週の巻頭言

*********************

「今年もクリスマスはやってくる」

アドベント第二週です。
今年もクリスマスはやってきます。

主イエスの誕生という希望が消える年は絶対に!ありません。

先週はルワンダの地で和解の福音に立ち続ける佐々木和之さんをお招きできました。
私はまず彼の人格から多くを学びます。
(ご本人はそんなこと言われるのはイヤだと思いますが)。
他者に向かって変な緊張をすることなく、飾ることなくかかわること。
しかも困窮から逃げずにかかわり続けること。
閉じこもることなく、責任転嫁することもなく、文句や悪口も言わず、常にすべてを引き受け、真正面から取り組んでいること。

私は彼がたまたまそういう優れた人格者である、とは考えていません。
他者とかかわる中で、神の赦しに出会い、キリストに従い、祈って祈って祈るからこそ、人格が深まっていると考えます。

彼は講演の中で語ってくれましたが、
神の赦しに生きることは、
他者を愛しゆるすことを決意したというスタートであり、
ゴールではないというところに大きな秘密があります。

赦しをゴールと捉えることは破壊的赦しであることも彼は語りました。

スタートとゴールの違いは何か。

赦しをゴールと認識すると、
その時点での自分の正当性を信じ、
他者を非難するようになるという破壊的赦しとなり、
逆にスタートと認識するならば、
端的に愛することと赦すことの十字架の前に立つゆえに、
常にキリストの正当性を知るに至るということでありましょう。

そしてクリスマスは主イエスの誕生というスタートを祝います。
だから大事です。

さて次週は早速「子どもクリスマス」。
感謝なことに無料で市民新聞が宣伝してくださり、
すでに問い合わせが多数きております。
また今年はご近所の仲間を集めてクリスマス家庭集会をするメンバーも起こされ、感謝に耐えません。
以前にもここに記しましたが、
家庭集会を企画されたら私はいつでも飛んでいきます。
牧師をぜひ活用してください。

本日より冬らしくなってきました。
暗く寒い社会の中で、
愛と希望の光である主イエスでポカポカしたい人は本当にたくさんいます。

祈りつつ、
今年もクリスマスをみんなで味わいましょう。


******************

明日の子どもクリスマスのために
青年たちが現在準備をしてくれています

本当にありがとう!!

だからわたしは安心して週報作成にとりかかります。

イエスさまっていいねえ。

ぽかぽか

2009年12月10日 | 「生きる」こと
本日は教会全館ワックスがけ
業者さんにお願いしております

というわけで
わたしは教会から離れられず
しかし教会にも入れず
ということで
牧師館にこもっています

バザーを終え
12月のおおきな炊き出しを終え
床が疲れてきたところで
クリスマスに向けて
回復してもらう
ということですが

2ヶ月前に予約したときは
この日のワックスがけが終わるまで(午後2時くらい)は
ゆっくり休める
と楽しみにしておりましたが
実際にこの日になると
したいことがたくさんあって
早く教会に入りたいし
行きたいところもあったりして
なかなかうまくいかないもんです

しかし
この際しっかりとじこもって
のんびりさせてもらって

午後の来客と
バプテスマクラスを
万全の状態で迎えたいと思います



amazonより注文していた雑誌

Meets Regional別冊の
KYOTO STREET BOOK

が届きました

そのど真ん中
56ページと57ページの見開きの大きな写真に

鴨川のかめ石を渡るわが教会家族が写っております

写真の中でせりふを言わされている人の
水着以外の人が

わが家族です

偶然ですが
ほんとにいい写真です!!

さっきから20分くらい眺めておりましたが

涙が出てきてしまいます

ぽかぽかする写真なんです
家族ってあったかいなあ


先ほど編集社にお電話させていただきまして
写真を手に入れる方法があるか
尋ねてしまいました

担当者がこられたら電話をくださるとのことです


記念にほしいなあ
もし譲っていただけたら
額に入れて飾ります


十字架

2009年12月10日 | 「生きる」こと
今朝の朝日新聞の社会面を見てびっくり
関西でプロテスタント教会が50件以上襲撃にあっているとのこと

あわてて関西地方連合の教会と伝道所にファックスと電話

そうしたらバプテストでも一件襲撃にあっておりました

知らなかった・・・
とても申し訳ないことです

いまさらですが覚えてお祈りします

またこれからも襲撃があるかもしれませんが
そこで死者やけが人が出ないことを切に祈ります


しかし
襲撃をしてしまった方は
恐らくキリストの同胞であるのではないかなあと考えてしまいます

プロテスタント教会のみでカトリック教会に被害はないこと
神学校という
その教派の教会のわりかし熱心なメンバーでないと知らない場所が襲撃されていること
など

決して第三者による愉快犯
とか
他宗教の信者による小さな宗教テロ
ではないような気がします


教会は交わりが濃いので
こじれたときの反動も大きいケースがあります

そして昨今のように精神的に病と呼ばれるほどにダメージを受けると
必要以上の行動となってしまうこともあるだろうと思います

十字架のキリストを信じ
襲撃してしまった兄弟姉妹をも覚えて
祈りたいと思います

この事件は
教会は被害者であるけれども
しかし
共に加害を背負う者にもされるのだろうと思いました

主イエスよ
来たりませ

説教

2009年12月09日 | 教会のこと
今週の礼拝説教は
講解説教をしました。

普段は
講解説教的なものを用意し
そこから京都教会による福音書という物語を築くところまでして
説教となるのですが

そこまで行きませんでした

しかし
えらい評判がよくて戸惑っています

また午後の執事会で
礼拝に仕事でこられず朝の講解説教を聞かれていない方が
まったくそのことを知らない時点で
講解説教がいい
といわれたりもして

ますます戸惑っています

どう戸惑っているのかというと

ならばこれから講解説教にすれば
作業も楽になるし
評判がいいし
そうしたほうがいいのかなあ

ということではなくて

生々しいキリストの働きが物語られるということに
耳や体が慣れるということは本当にむずかしいことなのだ
と改めて知らされたから

戸惑っています

だから

もっと真剣に
キリストの働きを生生しく物語りつつ宣言する説教を
プロとしてつくらねばならないと
気を引き締めつつ
しかしウキウキするのでした

説教って
むずかしいねえ

子どもと教会

2009年12月08日 | 教会のこと
次週13日(日)の午後2時からは子どもクリスマス
ぜひご家族皆さんでどうぞ。
今年は市民新聞が無料で宣伝してくれたので
問い合わせが予想以上にあるという
うれしい出来事と出会っています

さて

その準備のために青年たちがこれまでの子どもクリスマスのプログラム用紙を見ていました
その中に
下記のような文章が載っていました

たぶんわたしが書いたのだと思うのですが・・・
でもわたしの用いる言葉とはちょっと違う気もしつつ・・・
やっぱ違うかなあ・・・
(はっきり覚えてないのですよねえ
 最近脳みそがなんだかうまいこと働いてくれない気がしております
 でもイエスさまが働いているから問題ないのですが・・・)

でもいい文章なので
ここに紹介させていただきます。

******************


きょうかいがっこうは
神さまがつくってくれたみんなが
みんなのことをだいすきになって
ちきゅうのぜんぶのいのちを大切にできるようになるためのがっこうです
「せいしょ」をよんだり
うたをうたったり
ゲームをしたりしてまなびます
ぜひきてください
まってます



ご家族の皆様へ

教会にも学校があります。
点数が評価の基準になる学校ではありません。
いのちの重さを確かめるための学校です。
一緒に夢をふくらませるための学校です。
いのちと世界の土台を教える学校です。
その土台のことを教会は、愛、希望、信仰、と呼びます。
愛と希望と信仰にあふれることを平和と呼びます。
愛と希望と信仰の出どころは主イエス・キリストであることを信じつつ。

当教会の教会学校は
子どもクラス
小学生クラス
ユースクラス
成人クラス
がありますので、すべての世代が参加できます。

この「教会学校」にぜひご家族みんなでご参加ください。


支えられて支えて・・・つまりいろいろ

2009年12月07日 | 「生きる」こと
みなさんおはようございます

本日は
「寒い冬を一緒に乗り切ろう!焼肉大会!」
です

ホームレス生活をしている仲間たちとまずは思いっきり楽しみたいと思います
できれば
健康面ではもちろん
精神面をも含めてこの炊き出しで効果がでるなら幸いです

昨晩はお肉屋さんの女将さんが70キロの肉を持ってきてくれました
今年も格安
さらに炊き出しをしていることへの感謝をあらわしてくださり励ましもくださいまして
これを社会というのだ
と感激しました

支えられております
感謝

また新しいボランティアも起こされており感謝
ウチのボランティアは最初から
はじめてボランティア運動をする
という方々が純粋な気持ちで集まってくれていて
それが今の家庭的な交わりを創造しているのだなあと
これまた感激しております

さて昨晩
教会のTさんよりうれしい電話をいただきました
おめでとうございます!!
すぐにでも会いに行きたい気分になりました
これまた感激です

ホームレス支援を教会で行おうとしたとき
一筋縄ではいかなかったのですが
そのときTさんに相談させてもらいましたら
Tさんは
「この場所にいて支援をしなかったら教会じゃないよね」
という短いことばを丁寧に発してくださいまして・・・
あのときの情景は今でもぜんぶ思い出せますが
何度も思い返しては励まされております
感謝感謝

さらに
わたしが京都に来て3年目くらいの
あらゆる面でしんどい時期のことを
今でもよく覚えてくださっていて
今でも慰めてくださり
教会の交わりの凄みをTさんをとおして再確認したのでした

そういえばたまたまですが
先週Aさんも
あのころにしんどい仲間がたくさんおられて
わたしが走り回っていたことを
感慨深い表情で回顧してくださり
ふたりで
あのときは大変だったねえ
よーく祈ったねえ

涙がでてきてしまったのでした

支えられております
感謝感謝

でね

Meetsという雑誌の
真ん中あたりに
鴨川のかめ石を写し出す
全面写真がありまして
なんとそのかめ石をわたっているのが
ウチの教会の仲間たちではありませんか

たまたま立ち読みしていた教会のHちゃんが発見
撮影された時は8月16日
送り火の日の夕方

その日ぼくらは地域に教会案内とバザー献品のお願いチラシの配布をしました
その後みんなで送り火をみながらバーベキューをしました
その間
ウチのれんくんから青年までの世代が
乳楽屋のソフトクリームを食べに行って
そこから教会に帰ってくる時に
かめ石をみんなで飛んだのでした

その瞬間の写真が
なんと
あんなにでかく載っているではありませんか

これまた感激
すごくいい記念になります

あの写真のデータがほしいなあ



昨晩は青年会のプチ礼拝も行われました
実際は1時間ほどのぜんぜんプチではない礼拝なのですが
朝の礼拝にこられなかったふたりを中心に7人で礼拝

ここでは自由に礼拝ができるバプテストっていいなあと再確認

また説教への応答の内容が濃い!!
わたしの青年時代を思い起こすとその幼稚さにはずかしい!!

キリストの体として生きるとこういう風に成長できるんだ
とこれまた感激

さーて
炊き出しの準備をはじめるとしますか!!!!

十字架に生かされる

2009年12月03日 | 教会のこと
佐々木和之さんが泊まってくれたこの三日間は
僕のこれからの職務と生活に
じわじわと影響してくると思います

音声になったものと沈黙のままのものが
いろいろと交わされ
それのいずれもが足腰にねばりのあるものだったという感触がしっかり残っています

それがこれから少しずつ
見えてくるだろうと思います

彼と私がなんとなく響きあうひとつは
育った境遇に似たものがあることだなあと思いました

身に染み付いているもので言葉にしなくても伝わるというもの


牧師の家系で
しかも
有名な牧師の家系で
それは
賞賛もされしかし相当に非難もされた牧師の家系で

そういうものを背負いつつ生きるという大変さと自由さの中で生き様を選択する・・・


とりわけ今回は他ではなかなか語ることができない
そういう家系だからこその
深い心理面への影響まで含めた分かち合いは
十字架を今一度生々しい出来事として掘り起こす作業でしたが
わたしにはとても有益でした

でも彼は私と違いあれほどまでの働きを担っています

聖書から頂く信仰、精神性、倫理など
また歴史の見方、思想の見方などまで
さらに深く掘り起こしてさらに幾重にもかぶせてという
決してひとつの結論にとどまらないという
とっても近いものがあるのに

私は彼のような働きを担う勇気が出てきません


どこがちがったんだろう・・・

ひとつ気づいたのは

彼は交わりに生き続けているけど
わたしは個人主義を奨励され信仰していた時期があったということ・・・

私は15から25くらいまで個人主義者だったということが
自分の担うことができる働きの幅を実は狭くしているということは丁寧に見ていきつつ
そこをさらに突破していくことを祈らねばならないと思いました

過ぎ去った過去は変えられない!
とは私は考えていません

過去はキリストにより変えられます
過去にさかのぼり
そこでキリストと出会っていた
という事実を今経験し
それによる歴史が誕生します

わたしはもっと真剣に
15から25くらいの時期の歴史におけるキリストの働きを祈り求め
時空を超えるキリストに期待したいと思います


そのあたりのことがよくわかったのは
彼は彼の心に住んでいる人がとてもたくさんいるということ
話をする中でそういう人たちへの思いと愛が語られるということ
を目の当たりにしたことからです

私の心に誰も住んでいないということではないけれども
あれだけのハードスケジュールの中で
ひとりひとりを想起することができるというのは
私から見たら驚異でした

でもその出来事と出会って
はっきりとわたしの次のすべきことが見えました


かつてわたしは
心に住むひとたちを想起することで
自分自身の心身が持たないという経験をしました

私は心に他者が住むという事実と
しかしそれが私に与える十字架とのはざ間で
限界を知って
ゆえに神に赦しを願う

と考えていたし実際に歩んできました

それはまったくそのとおりなんですが

しかし
他者を想起して他者に迫られることが心身をつぶすほどの十字架であるということは
個人主義者だったからこその感触であり
交わりに生きる決断をしている今ならば
もしかしたら異なるのかもしれないと思いました

つまり
交わりに生きるとき
他者を想起するという十字架が同時にキリストの十字架であり
キリストの十字架であるゆえに
実は私の心身をつぶすのではなくて心身を生かす
ということをすこしばかりつかめそうな気がしているわけです

生かすとは言っても
十字架を背負うという困窮度が変わるわけではなく
ますます増えるわけですが
そして
佐々木さんの背負う深い困窮を
時に背筋の筋肉を緩めたら涙がでるという状況で
受け取ったわけですが

(今回、感情移入をなにしろ避けるという行為の重要性を分かち合いました
 他者との共鳴に感情移入は欠かせないのですが
 感情移入を避けねばならないときがあり、
 避けるゆえになおかかわることができるということがあるのです)

しかし
それでも
それでこそ
つぶれるのではなく生かされる!
のです

となると
今回佐々木さんが京都に来られたのは
ただのスケジュールではなく
聖霊の導きだったと信じるしかなくてうれしいです

彼が火曜日の講演で言っていましたが
彼は昨年私に京都に行きたいけど手伝ってくれないかと連絡するものの私に断られたとのことでして・・・

それを聞いて思い出しました
確かにいろいろと忙しくて断っておりました

となると
だからこそ
昨年ではなく今年じっくりと一緒に過ごせたのは
聖霊の導きと言ってもいいわけだ
と思うわけです


キリスト者の奉仕というのは

やっぱり

他者と共に
交わりとして
生きる

ということであり

そのための奉仕なのだと思いました

どれだけ心に他者が住むか
それは心にキリストが住むからこそ
聖霊がその心に他者を導いてくれる
ということ


佐々木さんはますますたくさんの他者と出会い
しかも
ルワンダの歴史の十字架を共に背負うという仕方で出会うわけですが

彼ならほんとにそれができるし
彼だからこそ主が託しているし

だからこそ
私も彼をこれからも覚えて祈り支えたいし

私もこの地で同じ仕方で出会いつつける決意をしたいと思いました

感謝


和解の福音

2009年12月02日 | 「生きる」こと
わたしは今週もうしわけなくもラクしてます。

国際ミッションボランティアとしてルワンダで和解のプログラムを実施されている
佐々木和之さんが
京都に来てくれていて
ウチの教会に泊まってくれているからです

だから

他の仕事を入れておりません
(本来なら本日まで連盟事務所出張だったのだけれど・・・)

佐々木さんが礼拝メッセージや講演をされる場所にご案内し
それぞれの場所で佐々木さんと同じように接客していただき
さらに佐々木さんのメッセージを存分に伺う

ということになっているからです

佐々木さんは大変です

昨日3本
本日3本
明日4本

こなさねばなりません

だから佐々木さんのためにお祈りください



休憩中です

本日は午前に同志社の高校と大学でそれぞれ一本ずつ
高校生の反応は昨日も本日も面白かった
とくに本日がそうだったのですが
最初ざわざわしていたのに
いつのまにか
佐々木さんのメッセージに吸い込まれるように
高校生の呼吸が佐々木さんの呼吸に呼応するようになり
目の大きさが倍になり
さらに瞬きもしない
という感じになってきまして

佐々木さんのメッセージはほんとにそうなるしかないというものなのです


また
ただ佐々木さんについていっただけの
こんなわたしのことをを覚えてくれている高校生たちがいて
なんだか素直にうれしかったです

しかも

心基さーん
って呼んでくれますもんねえ

半年に一度
8分の話をするだけなのに
そういう人間をほうっておかない彼(女)らの人間性に
将来がほんと楽しみ!!

みんなが大事なものを失わずに幸せにあたたかく生きられるよう
これからも語るべきことばを祈りつつ求めて練っていきます!

大学は
クラークチャペルという
とっても美しい礼拝堂での礼拝

ルワンダで起こった生生しい話が
高校以上に語られる

わたしは何度も聞いている話だけれど
からだがふるえる

チャペルの後
学生とお茶をを飲みながらおしゃべり
おいしいケーキも頂いてしまいました。
ロールケーキの真ん中になんとプリン
感謝

さらに
先月わたしがメッセージをさせていただいた時に
手作りケーキをごちそうしてくださった学生もおられて
あらためてありがとう

前の晩に3時間かけて作ったって言ってましたっけ
こういうのは一生忘れないうれしい思い出になります

その後バザールカフェにて昼食

高校の木村校長が
ぜひバザールカフェへ
ということで
それもそうだ!
と昼食をとりました

すると
わざわざバザールカフェに木村校長から電話があって
お茶を出してあげて
ということでして

木村校長のお人柄に今回も感激しました
最高に尊敬しております
といいますか
単純に大好きな方です

またバザールカフェの働きを担ってくれている月下さんにはじめてお会いし
やっぱり予想どおりにステキな若者でこれまたうれしかったです

また不思議といろんな方にお会いできてこれまたうれしかったあ

さてさて

この佐々木和之さん

今晩7時からは
当教会でお話をしてくれます

他のときのお話よりも
リラックスしてお話してくれることになります

だってウチの教会の企画なので・・・

でも
内容が
和解の福音のど真ん中だから
リラックスしている分
ウルウルになってしまうかもしれません


というわけで

今晩はぜひぜひお越しくださいませ