きぼう屋

生きているから生きている

青年会主催ペンテコステ礼拝

2009年05月31日 | 日本バプテスト京都教会のお知らせ
本日はペンテコステ
イースターとクリスマスとペンテコステのみっつが
教会のもっともおおきな出来事ですが

ペンテコステ
というのは

キリストが
世界の只中で
交わりというキリストの身体として
受肉したという

交わり発生記念日
というわけでありまして

だから
教会誕生記念日
として覚えるわけです




当教会は
本日の礼拝のすべてを青年会が担ってくれます

説教
子ども説教
司会
奏楽
手話通訳
献金当番
受付当番
OHP当番

さらに
讃美歌と聖書交読の箇所選定


ほんとにすべてを担います

これこそペンテコステ
キリストの身体誕生にふさわしいかたちだと思います

(といいましても
 青年会主催礼拝は第五週でして
 たまたまペンテコステと重なったのですが
 でもまあ順序はどうでもいいのです)

というわけで

わたしは
気持ちがいつもよりゆっくりしている感じです


さあみなさま
いまからでも遅くありません

青年会主催ペンテコステ礼拝は
朝10時半からです

ぜひどうぞ

君は愛されて!生まれた

2009年05月27日 | 教会のこと
日本バプテスト連盟の
ホームレス支援特別委員会というのがありまして
その責任を担っておりますが

今週前半はこの委員会が福岡でありました

わたし
あらゆる会議のなかで
一番好きなのがこの委員会です


たぶんですが
それぞれ支援活動
いやいや
人とのかかわりの現場を持っておりまして
その時点で何も語られなくとも通じるものがあるというのがあると思います

さらに
その現場はおのずとさまざまな常に新しい論と言葉を僕らに提供してくれるので
それらが会議で行き交う出来事は
身体全体をリフレッシュさせるものともなります
(会議だけでなく、礼拝説教や発題もあるのでなおさらです)


さらには
ここぞというときONになるけれども
なんとなくOFF状態で時間を過ごすこともできる
という委員会なのがうれしく
さらに
そうだからこそと思いますが
他のどの会議よりも
事柄が深く思惟され
いろいろと決まっていきます
しかも
他の会議よりも実は合理的で短時間でいろいろ見事に整っていきます


さらにさらに面白いのは
会議の合間合間に大きいテーマとしてはつながるけれどもその時に話していることとはずれる事柄がおしゃべりされます

このおしゃべりが
結局は決めるべきことに大きな影響を持ったりします

それはグローバル社会の正体を語り合うものから
歌の歌詞にいちゃもんをつけるというものまであります

たとえばこんな話しがでました

♪君は愛されるために生まれた
という有名な曲を
とくに若者が好んで歌いますが
しかし
なんかおかしくないか
ということになって

そうだ
2番が必要だ
♪君は愛する!ために生まれた
という続きを欠かすとやばい

なんてことになりまして
しかししかし
さらに

それでもなんか変だ
ということで

そうだ

♪愛されるため
というような目的にならないはずだ

そうではなく

♪君は愛されて!生まれた

なのだ!!
生まれたということはもはやすでに愛されているということなのだ!

となりまして

一同納得!!


わたしたちは愛されるために生きていきません

すでに愛されて生きて
(その愛に気づくことが大事!)

ゆえに愛して生きるわけです


愛されることを目的とする場合は
極めて人間論であり
愛されることが既成事実と認識する場合こそが
信仰論なのであります


さてさて

ホームレス支援特別委員会の次のテーマは

「貧しき者は幸いか?」

になりました

貧困社会にますますなっていくなかで
聖書は何を語るのか
キリストはどこでなにをするのか
キリストは何をわれわれに命じるのか

じっくり考えていきます


楽しかったあ


24日(日)は特別礼拝

2009年05月24日 | 日本バプテスト京都教会のお知らせ
(24日朝まではこの記事がトップです
 新しい記事はひとつ下)


教会創立57周年特別礼拝 

5月24日(日)
朝10時30分~12時

お話:寺園 喜基(てらぞのよしき)先生
   (西南学院院長、神学者、城西キリスト教会協力牧師)

    

寺園喜基先生は、福岡にある、保育園、幼稚園から
大学までを持つ学校法人西南学院の院長をされています。
そして、ふだん西南学院系列のそれらの場で、
子どもから親御さんまでに深いことをわかりやすく
お話されている先生です。
また当教会の大谷牧師のお師匠さんでもあります。

5月24日はどなたもこぞって
日本バプテスト京都教会へおでかけください。
お待ちしております。

詳しくは

日本バプテスト京都教会ホームページにて


マスク

2009年05月20日 | 教会のこと
昨日本日と

今度の日曜日の礼拝参加者用マスクを求めて
これでもかというくらい薬局をまわりましたが

ありませんでした

マスク・・・

ネットでも早くて6月頭の入荷です

というわけで
あきらめざるを得ません

可能な方は
マスクをご持参いただきたく存じます

よろしくお願いいたします

共飯

2009年05月20日 | 「生きる」こと
日曜日の夜に
家族みんなでガストに食べに行きました

うちがどこかに食べに行こうとなると
ガストか王将かかっぱ寿司くらいになってしまうのですが

しかしけっこうおいしいのと
利用させてもらっている店のスタッフがなかなか気持ちいいみなさまなので
(きっと店長さんが気持ちいい人なのだと思います)
年に3回くらいお邪魔しています


注文して
食べて
ドリンクバーに何回も通って
我が家のちっちゃいチームがちらかしたのをすこし掃除して
帰ろうとしたら

声を掛けられました

ホームレス支援のボランティアに参加してくれている若者たちでした

しかも
隣の席でした

先日逝去されたHさんの相談によーく乗ってくれた素敵なお姉さんもいました


それまでぜんぜん気づかず
申し訳ないかぎりですが

あちらは
子沢山家族ゆえにすぐに気づいたということです


だったら!!!

これからは
ぜひとも築いた瞬間にお声掛けくださいませませ


やっぱりぼくら夫婦は
とりわけ若菜さんは
東京下町者なので
こちら(京都)のような対応よりも
がんがん声かけてもらうほうがうれしいのでして
しかも
気が付かなかった時間をずっと悔やむことになるので

こういう場合はぜひともすぐにお声かけを!!


とくに若い方々は
声をかけてくれれば
食事代の節約になります

わたし
一緒に飯を食う
ということにいのちをかけている人間なので
若い人と飯を食うためには
家計がどんなに赤字になろうとも
惜しむものはなにもないのでございます


でも
帰りがけに声を掛けてもらって
すごくうれしかったです


また会いましょう

ではでは

豚インフル☆背骨

2009年05月18日 | 「生きる」こと
豚インフルエンザの影響で
明日から金曜日まで予定されていた研修会が中止になりました

というわけで
今週はそれなりに時間ができたので
本日は
昼は牧会面談のためでかけましたが
その後はもうお休みしてしまいます


胃袋の後ろ辺りの背骨が
ひねりを加えて大きく曲がってしまっているのが
ずっと気になっていたので

だから無理やりまっすぐ立っていて
背骨があちこちゆがんで
腰から肩までこって
疲れが出やすい
という感じなのですが

さきほどすぐ近くの整骨院に診てもらいました

今週は毎日通って
できるだけまっすぐにしてもらおうと思います




それでどうにかなるような具合でもないような気がしています

気長にいきましょう





マニュアル☆京都のことばその弐☆証☆準備

2009年05月18日 | 教会のこと
昨日の礼拝説教は
豚インフルエンザ感染に対する教会共同体としての対策
から始めました

鳥インフルエンザ発生時に
教会としての対策マニュアルを用意しているので
それに準拠するという

結局は政府と同じことを話したわけです



来週は
教会でマスクを配ることになるかもしれません
そうなったらみんなでマスクをして礼拝しましょう

ってなわけですが

わたしは実は大のマニュアル嫌いでして
教会運営におけるマニュアルというものをあえて作っていませんし
そういう質問があっても
めいめいの状況において丁寧に目的を見極めてなすべき行為を選ぶ
としか言いません

しかし

人が生きるか死ぬかということが絡んでくる時に
(今回のインフルエンザの毒性の強弱という問題は抜きにして)
そこでできるだけ助かるための行為の精度をあげるためのマニュアルは
必要だと思います

なぜか??

人は
生きる死ぬというときには
自分を守るので精一杯で
他人を助けることはできないから

そこはマニュアルで
共同体全体で助かる
というものを確認し

個人の生命維持
という本能を超えるべきだと思っているわけです


教会は(も)今回のようなケースや
またたとえば大地震発生時などに
有効なマニュアルを
社会的責任と神と生命への責任として
用意せねばならないと考えています


さて話はまったくかわりますが
説教にて
ひとつまえのこのブログの記事で書いたような
京都のことば
について話しました

びっくりするほどの共鳴を得ました

しかし
よくよく考えるならば
当教会は歴史的に根っからの京都人は少なく
ほかの地域から京都に住むようになった人が多いわけで

たとえばもう半世紀京都で生活している人でも
いやそういう人だからこそかもしれないけれども
共感したのだろうと思います


しかしひとつ

しまったあ

と思っているのは

京都人ではない人が多いところでこういう話がでると

京都のことばが否定的に受け止められる可能性が高い
ということです


だからここにちょっと書いておきます

京都のことばは都市社会における地球全体でもっとも最先端の洗練されたことば
だということです
(ことばと表現する中には共同体の身体性まで含みます)

そして
世界全体が都市化する中で
実はどんどん京都のことばに他のことばが近づいている
と考えています


わたしが十代のころ
これからは欧米のように個人主義があたりまえとなり
自分の意見をハッキリといって
イエス・ノーをはっきりさせて
互いに違いは違いとして受け入れつつ
生きることが重要だ

と言われてきました

そしてそれが最先端の生き方だと

でもそれは間違いです

そういう生き方をもってきた欧米文化は

実は田舎の欧米文化だと思います

都市部で生まれ育った欧米人は本音と建前をもっていたりします


つまり個人主義は
最終的に自分の意見は言わず
できるだけ少ないことばで
お互いに建前で生きることができる
ということばを作り出すわけです


都市社会となり歴史を重ねると
それは京都のことばに近づくのだろうと思います

欧米であっても
都市社会とそうでない社会があるわけです



じゃあ東京の下町は?
というと
これは都市社会になることに抵抗するゆえの
おせっかいなことばの存続なのだと思います


というわけで

これから
ますます孤独、孤立が問題とされるなかで

その解決の最先端には京都のことばがあることが無意識にの知られるでしょうし
選び取られるだろうと思います


しかし

その最先端の京都よりも
さらに最先端のことを

主イエスは述べている

という説教をしたわけでございます


京都の否定ではなくて
神以外のことばを
神のことばが超える
という話なわけです


これはもう少し一緒に考えていきましょう


さて昨日は

2週前に証ができなかったSくんが
感動的な証をしてくれました
あの2週間前の出来事のおかげで
昨日の証が教会における風となりました

彼の証が終わった後に自然に起こったおおきな拍手は
風がさせたのだろうと思いました


本日の午前は
わたし
休んでいます

ずっとストレッチをしております


すこしづつ体がほぐれてきました
今週一週間も
仲間のために祈り
聖書と向き合い
歩みたく願います


それにこんどの日曜日は
特別礼拝!!

講師の寺園先生と
新たにこられる仲間のために
祈って祈って祈ります



京都のことば

2009年05月16日 | 「生きる」こと
京都と東京
あるいは
京都と大阪
では言葉がまったく違います

それはアクセントがどうというのではなくて
同じ音声が持つ単語の概念が異なります

それは辞書的な意味の異なりというのではなく
表現しようのない時空の拡がりとして異なります

だから
たとえば東京者のわたしは
10年たっても京都の方々と言葉を通じ合わせることができません

本当に何を言われているのかわからないわけです
しかし
京都の方々からするならば
さらに説明を加えるのは相手を侮辱することにもなり
決してやってはいけないことでもあります

今日の昼に
教会の掃除を終えたみんなでごはんを食べたあと
約2時間にわたって
京都のことばと東京や大阪などのことばの差異を
とりわけ
京都で生まれ育ち生きてきて
京都のことばが染み付いている方から
いろんな具体的状況で発せられる京都のことばを
それこそ翻訳してもらう仕方で
勉強させていただきました

わたしの経験上
東京と大阪
東京と福岡
などの言葉に差異はほとんどありません

しっかり通じます

でも
京都はほんとうに異なります

それがようやくすこしわかってきたところです
でもそれが私の身に付くことが生涯ありえないほどに
京都のことばは複雑で深くて特殊です


辞書的な意味はまずありません
ひとつの発声がされたら
そこからまったく別の事柄が瞬時に
町の状況の中で想起されて
その想起されたものがその発声された本当の意味となります

発声されたものと本当の意味の間を説明することは
あってはならないことです

それはこういうことにつながっていきます
つまり
本当の意味を正面から言うのは当然あってはならないということです

それは
町のみんなの関係性が壊れないためのことばです
それは
お互いにもっとも気をつかわないでよくて
エネルギーを消費しないでいいという
洗練されたことばです

京都はじつに昔から
超都市であり
都市における個人主義と他者との距離というのが
それは同時に都市特有の外敵からの防御というものが

身体に染み付きことばとなり
それが洗練されているという
そういうところです

だからもっともすくない発音で
できるだけたくさんのことをお互いに通じ合わせ
さらには
そこで明確な然否を言うことは絶対にせず
お互いの逃げ道を明確につくっておきます

こういう京都のことばは世界的に稀な究極の知恵のひとつだと思います

互いに絶対に干渉しません
表向きは知らん振りです
でも実は町ぐるみでよーく互いに知っています
それは正面から互いの消息を知るというものではなく
陰でいない人のことをいろいろというというかたちで
よーく知っています
陰で言う時は本当に陰口で
悪口が多いのですが

でもすごいのは
そこに悪意はない!!
ということです

そういう陰口があるということもひっくるめて
それでも知ってもらって
いざというときはかまってもらえる

という安心感が
京都のことばをつくり
京都の共同体をつくっているようです

東京や大阪だったら
陰でいろいろ言われること
はっきり言わないこと
干渉しないこと

逆に安心感を奪うことになるわけですが

京都のことばが染み付く世界では
逆のことが起こっているようです


京都のことばは
10のことを伝えるのに2くらいしか話しません
それで互いに10を知ります
もちろんわたしは2しか知ることができず
いや
2ということは実はまったく知ることができていない
ということを繰り返しますが
京都のことばで生きる術を持つ方々は
2をもって10を知ります

ある意味すごい脳みその働きだと思います


逆に東京では
しかもその下町では

10のことを伝えるために
おせっかいにも20くらいは話すというのが通常です
それもはっきりと然否を語りつつ

京都では感覚としてはすり足で通りを歩くのに対して
東京は土足で人の家にもあがる勢いで歩きます


またはっきりわかるのは

東京の通りはおしゃべりやあいさつでにぎやかなのですが
京都の通りはおそろしいほど静かです

東京者からみると
京都の方々はみんな引きこもりに見えますし
たぶん東京で近所に京都の普通の暮らしをしている方がおられたら
みんなで心配してしまうと思います

でも京都では
引きこもっているけれども互いに知るという術を持っています
それは東京の感覚で言うと覗きなのですが
でも京都ではその覗かれていると東京の者が思う他者の行為が安心の源となるようです


ここが大事なのですが
東京には
引きこもっている人を知る術がありません

だから東京のみならず
全国的に
個人主義の行き過ぎと引きこもり
関係性の喪失が問題になるわけですが

京都はその問題になっている程度の
個人主義と引きこもりと関係性の疎遠が
当然のことになっていると思います
しかしそれにより
生命と地域が脅かされることが
東京のように起こることはありません

ここがすごい知恵だと思います



すると
京都の
それも昔からの京都である地に立つキリスト教会は

共同体をどう考えるべきか

という問いがでてきます


関係性が崩壊し
共同体を形成しようとするなかで

京都の知恵のような
集まらない
言葉を交わさない
干渉しない
でも安心
という共同体をつくるのか


言葉をしつこく交わし
おせっかいを焼きあい
干渉しあい
一緒にごはんたべて
一緒に礼拝し祈り
一緒に経済的にも協力する
という共同体をつくるのか



わたしはいくら京都が
世界的にまれな知恵をもっているとはいえ

それももはや使用している脳みその部位が異なるくらい
東京や大阪
いや
世界の多くの地域とは異なることばを持っているとはいえ

でも数百年の知恵であるからして
それを

数千年レベルで共同体を考えているキリスト教会が採用することはできないだろう

と思っています


京都とは異なるけれども
その京都の地さえもさらに成熟するために

十字架をべったりと共有し
復活を共にいただくという共同体を
語り続け目指し続けねばならないだろうし

そういう中で
京都の知恵でも
東京の知恵でも
どうにもならない人たちの
ホームとなるべきなのだろうと思っています


しかし
京都のことばってのは
そこで生まれ育った人にとっては
活き活きできるためのすごい知恵だと思います

でも他の地域で生まれ育った人にはこれ以上ないストレスとなることばでもあります
しかしそこでひとつ冷静になると
実は悪意がないゆえに本当はストレスにしないでいいことを発見できます

むしろ
京都の方が東京や大阪で覚えるストレスのほうが強烈だとも思います


だから
京都の方は
ものすごい確率で
自分の生まれ育った学区内に
最後は戻ってきます

また100%近くが
それを希望しているとも思います



京都のことばは
名づけるならば

積極的ひきこもりによる関係性という知恵のことば

なのかなあと思いました


それにしても

東京と京都では
本当にすべてが正反対です

安心できる場面
気に障る場面
むかつく場面など

正反対です


じゃあわたしは京都でどうするかというと

東京者でわからないのでごめんなさい

といい続けるしかありません


そしてただただ
悪意がないというところではつながり
共に生きることを続けるわけです



京都で10年生活したことで
ある意味
わたし
頭がよくなったと思います

なにかしらの外国語をひとつ身に付けたとき以上に
思考範囲は広がったと思います


それに
生まれ育ちが違っていろいろあっても
京都はいい町なんですよねえ



うーんおもしろい


維持

2009年05月15日 | 「生きる」こと
先週の土曜日

私の大好きなキッチンハリーナに集う人たちでつくる
ハリーナ九条の会で講演をさせていただきましたが
そこで
大先輩の牧師にお会いしまして
大変うれしかったわけですが

その牧師から本日メールをいただきました

細くなっているけど大丈夫か

というメールでした

ご心配いただき感謝です


昨年秋から
かなり忙しくて

どんどん痩せてしまっています

半年で体重が5キロ
体脂肪が5%

減りました

しかし

痩せると体力が持ちません
しんどいなあ
と思った時に体重計に乗ると痩せています

だから
最近は
まるで高校生のように食べるようにしています

するとなんとか体重を維持できます
またしんどさも軽減されます


先日の出張の際も

夕飯を食べ
飲みにいってさらに食べ
その帰りにコンビニで食べ

同僚にびっくりされてしまいましたが

しかし食べないと持ちません


どうやったら
体重が落ちない程度の生活で済むのでしょうか

ちょっと真剣に考えねばと思っております


でも健康面は問題ありません


しかし
よろしければ
わたしのためにもお祈りくださいませ

本日はこれで寝るようにします


みなさんも無理はいけません
ほんとに


キリスト運動

2009年05月11日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

*******************

「キリスト運動」

政治の腐敗が叫ばれて久しいわけですが
政治の運動とはなんでしょうか。
おそらくひとつには、政党運動があると思います。
自分の理念を語る政党が政権をとるための運動です。
そして現在の政治の腐敗は、おそらく政治運動のほとんどがこの政党運動になっていることによると思います。
ならば純粋な政治運動とはなんでしょうか。
それは、自らの目指す社会実現のために手段を丁寧に、そして決断的に選ぶという運動だと思います。

さて、ならば政教分離とは何を意味するのでしょうか。
まず政党運動と宗教運動を分離せねばならないということがありましょう。
そして同時に、自分たちの目指す社会の実現のために手段を見つけていくという方法とも、
宗教運動は分離せねばならない、ということではないでしょうか。

そしてキリスト教会は聖書から学ぶならば政治運動をしません。
イエスは政治運動をしていません。
イエスは目的に対する手段を行うのではなく、ただただ端的に愛しかかわることをしたのです。
また特に私たちバプテストは政教分離を語り、政治運動を拒否します。
繰り返しますが、政治とは、自分たちの目標のため手段をうまく選ぶことです。
それが強行的なのは昨今好まれず、誰とも付き合いながら、しかし自分の目標をしたたかに獲得するという政治が流行しています。
でも教会は本来そういう運動をしません。
教会はただキリストの十字架により赦された者として、愛と和解に生きることを繰り返します。
端的にいうなら、キリスト教会の運動は、他者に具体的にかかわる愛そのものです。

私はこの間、平和憲法を守る運動、戦争に反対する運動をしてきました。
しかし教会で何度となく「よくわからないんだよなあ」とこぼしてしまっているように、
これらの運動の中で、端的に他者にかかわる運動があまりに少ないことにずっと悩んでいます。
平和という、生命および生命と生命との関係の事柄なのに、
やることは極めて政治的になっていきます。

また一方で、
今の日本社会では平和運動をする者に「左翼」というレッテルを貼る行動がついてきますし、
逆にナショナリズムの高揚を語ると「右翼」というレッテルが貼られますが、
そういう行動はなによりも政治的であり、他者とかかわることが失われています。

そしてキリスト教世界でも、
他者とかかわるというキリスト運動を共にしたいと思っても、
悲しいかな、
それを政治的に受け入れたり拒否したりすることが起こります。

そして昨今わたしは思うようになりました。
人間の運動の限界は政治であると。
つまり最終的には自分の目的、特に生命維持という目的のためにうまいこと生きるのが人間のできる限界だと。

ならば自分の目的や生命維持を抜きにして、
ただただ他者にかかわることを繰り返すキリスト運動は、
なにゆえに起こるのでしょうか?

それは、まさに人間の限界を超えたキリストゆえの運動であり、
その十字架の愛と赦しと和解を信じ頂く中でこそ起こる運動なのだと思います。

となると、
政教分離は、他者にかかわる運動を選び取るという原則を語るのではないでしょうか。
キリストを信じる私たちは、
キリストにより政治運動から解放され、
キリスト運動そのものを、
つまり端的に他者にかかわる運動を頂きたく願います。

このふたつの運動の分離は、
世界と生命の救いにとって相当に大切なことだと思います。


********************

という巻頭言を書きましたが
これは
マザーテレサの運動って
キリスト運動だなあ
と思いながら書いたのでした





昨晩今朝

2009年05月08日 | 教会のこと
昨晩は久しぶりに(2年ぶり)にバプテスマクラスを開くことができました
やっぱり楽しいしなにより幸せです

主イエス・キリストに従う決意というのは
決意された人のすべてを
存在から言葉から関係においてまで
一気に深めます

そしてわたしはバプテスマクラスで毎度その深い事柄にあずかっております

このクラスのカリキュラムはこんな感じです。


**********************

バプテスマクラス(全10回)カリキュラム


第一回 イエス・キリストの誕生と生涯

第二回 イエス・キリストの十字架

第三回 罪人の赦しと罪のさばき

第四回 イエス・キリストの復活、および終末

第五回 神、および創造

第六回 聖霊、および関係性、教会の起こり

第七回 教会共同体(キリストの体)の精神と倫理
・・・共に生きる、平和・和解、とりなしの祈りと奉仕

第八回 礼拝と日常生活
・・・主の日と平日、主の所有と私たちの与りもの

第九回 バプテストの歴史と精神
・・・教会と国家、神の力と神以外の諸力

第十回 当教会の歴史と現在、そしてテーマ
・ ・・歴史における教会の各テーマおよびグランドプランと運営組織

信仰告白作成

**********************


バプテスマクラスはとても大切です
比較できることではありませんが(わたしの勝手な思いですが)
結婚カウンセリングより大切だと思いますし
告別式(葬儀)よりも大切かもしれません。

告別式や結婚式で牧師の中身がとても問われますが
それ以上に問われると思います

だから
わたしも極めて真剣です

わたしのクラスは授業風でして
問いをポンポンと出しながら進めていくのですが
そしてその質問はけっこうむずかしい問いでもあるのですが
いやいや今回バプテスマを決意されたWさんは
見事に応えてくれまして
わたしが勉強になりました



今朝は
召されたHさんを送ります
仲間が集まってくれて
とてもあたたかい時を持つことができました

大好きだったタバコをおさめ
花を献げます

火葬場でも
スタッフがゆっくりと丁寧にかかわってくださり
よくある淡々とした感じがありませんでした
これには感謝です

いつも思うのですが
いわゆる葬儀屋さんのスタッフで
火葬場の最後の場面に立ち会う人たちは
きっとそういう場面の積み重ねがそうさせるのでしょうけれども
マニュアルを超えた親切さといいましょうか
丁寧さといいましょうか
人間らしさといいましょうか
そういうものを表現してくれます

整理なんかできないありとあらゆるものが詰まった現場の大切さを
あらためて覚えました

Hさん
とてもいい顔です

この世での生を終えても
みんな仲間です

わたしはこれからずっと
ゴールデンウィークのたびに
Hさんを想起できます

平安あれ



2009年05月07日 | ホームレス支援のこと
Hさんが亡くなられた

壮絶な人生を送られた方だ
家族を味わった経験がないという事柄が
彼の人生のすべてにべったり貼り付いている人生だった

映画「誰も知らない」を観終えたとき
しばらく映画館のイスから立つことができなかった
しかし
まさにそういう人生を歩んできたHさんと出会う

誰も信用しない!
と彼の皮膚全体が語っていた

その皮膚の表面には
特殊なバリアーがあった

でもだんだんと
バリアーが壊れていくのがわかった

それはホームレス生活で生きるためのしたたかさからのものだったと思う

しかしそればかりでない出来事が起こる
ウチに次男が与えられたとき
彼は会いに来てくれた
見たことのない笑顔を見せてくれた
彼の皮膚のやわらかさを覚えた

そしてどんどんやさしくなった

でも

独りを好んだ
いや
それしか知らなかった

でも

人が好きだった
どう接していいかわからなくても


重い病気だということは素人にもわかった

それこそみんなでよってたかって病院にいくことを勧めた

それが一年も続く
彼はうなずいてくれなかった


しかしある日支援者のNさんと市役所前で出くわす
Nさんは黄色い顔を見て
思わず泣き出した

Hさんはあとから何度も言ってくれた

俺のために泣いてくれる人がいた


彼はNさんのことばのとおりに
病院に行く
即入院


そして
今朝3時過ぎに亡くなった


Nさんが昨晩からずっと一緒にいて
そして看取られた

Nさんは連休中東京におられた
そしてその戻られてすぐにHさんに寄り添ってくれた
Hさんは
きっとNさんを待っていた


HさんはNさんという家族を
確かに得ていた


今朝Hさんに会った
とてもやさしい顔だった
ベッドに飛び散る血痕が嘘のように・・・


Hさんは
幸せに死を迎えたと思う

Nさんばかりでなく
まさに人の全領域で助けてくれる病院スタッフとも出会うことができた
スタッフの献身的なかかわりには
驚きをもって心から感謝するしかない



祈りつつ

子育て応援?

2009年05月06日 | 教会のこと
昨晩から祈りに祈りました
明日天気になりますように

昨晩の天気予報では一日中雨

でも
朝起きたら
雨は降っていませんでした
さらに
太陽まで顔を出しました

連休最終日の本日昼は
お母さん有志で
教会のお庭でオープンサンドを楽しもう
という企画があって
ウチの子たちも楽しみにしておりました


天気予報が外れたもんだから
うれしくてたまりません

ただ昼過ぎにすこし雨が落ちてきたので
昼食は部屋の中でしたが
でも
子どもたちは庭で思いっきり遊ぶことができました

大人10人
子ども14人


歴史ある京都教会といえども
開拓伝道とまったく変わらず
いや
開拓伝道は0からの出発だけれども
マイナスからの出発だったということは
教会全体で確認していることでもあるから
赴任11年目にして
開拓伝道が本格的に始まったという感じを受けています


これだけの方々が集まって
さらに
帰省中などでくることの出来なかった
子育て中の家族が4家族あるわけだから

なんだか楽しくなってくるわけです

感謝感謝


しかし子どもは
なんでこんなに仲良しになるのでしょう
すごいスキルだと思います

大人はいつごろからこのスキルを忘れてしまうのでしょう

反省反省



楽しい楽しい企画も終わり
家に着いたのが6時すぎ

興奮の冷めない3歳の憐くんが
ソファの肘掛の上にから後ろ向きに転倒して
食卓のイスの角に後頭部をぶつけて出血

わたしは洗面所にいてその場面を見ていなかったのですが
憐くんの大きな泣き声を聞いて飛んでいったら
血がポタポタポタ

若菜さんが憐くんの頭を押さえ
わたしはきれいなタオルを取りにいき

そして若菜さんと空君が憐くんを府立医大まで連れて行き
祈祷会のある私と
共くんと添くんと言ちゃんはお留守番

そして共くんと添くんとわたしで手をつないで輪になって
言ちゃんは真ん中にちょこんと座って

憐くんが治りますように
憐くんががんばれますように
憐くんが死にませんように

と真剣に祈りました

共くんは涙を流しながらお祈りしました
添くんは淡々としたもんで「祈祷会でこのこと言ったら」ってな感じでした

わたしも頭を打った状況を見ていなかったので
とても心配でした

祈祷会の途中
憐くんと空くんと若菜さんが帰ってきました

おおきな絆創膏を頭にふたつ貼った憐くんが
とっても元気でした

傷は小さかったとのこと
他も問題なしとのこと

憐くんは
これまでで一番おおきな絆創膏やで
と自慢していました


わたしも幼いころ
うれしいことがある日に調子に乗りすぎて怪我をしたことが何度もあります

それくらい本日の企画がうれしかったということで
なによりです

憐くんが怪我したあとの空くんの行動は
さすがでありました

五年生ってこんなに大人なんだなあ
と思いました


また
子育て応援企画を
やりたいなあと思いました


ではでは

2009年05月05日 | ホームレス支援のこと
昨日の
ホームレス支援機構・京都寄り添いネットの
荒神口炊き出しは

同窓会となりました

連休ということもあり
自立された仲間たちが
顔を見せに来てくれました

ボランティア参加の仲間もいます

ウチの5人いる子どもの何番目が生まれたころか?

というところで
いろんな出来事を思い起こしつつ
それらを歴史的に整理できるという

面白いことになっておりました

みんなウチの子たちを抱いてくれたんだよねえ


昨日の仲間のなかには
超大きな病を抱えている人もおります

彼らがウチの子たちとの思い出を話してくれるときの目が
あまりに美しくて
わたし
涙をこらえられませんでした


本日
やはり超大きな病と闘う仲間のお見舞いに行きました
休みなので
家族みんなで行きました

彼は
ホームレス生活の最初のころ
一生懸命強がっていてチンピラを演じていました

しかし
ウチの生まれたての次男(もう小3)を抱いてから
表情が一変し
その後は澄んだ目をたびたび見せてくれるようになりました

そしてどんどん優しいおっちゃんになりました


本日も想像を絶する痛みの中で
ひとつの動きひとつの発声に強烈な精神と筋肉のエネルギーを必要とする状況で

しかし
ウチの子たちと会ったら
急に目がぱっちり開いて
澄んだ目でにっこり見つめてくれて
さらにクビをちょこっとかしげてくれて・・・

この一連の動作の正確な時間と
表情の微妙なところまで
ぼくは生涯再現できることを確信できるほど

彼は人間のある意味超越した美しさを
醸し出してくれました

心どころの騒ぎではなく
脳も神経も筋肉も
ぜんぶが震えるのがわかりました


主イエスの伴いを
祈ることのみが
わたしのできることでした


主の伴いたまえ
アァメン
アァメン
アァメン




殺してはならない

2009年05月04日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

******************

「殺してはならない」

本日は憲法記念日です。
私たちは、特に戦争放棄を謳う憲法9条をこの日に覚えます。
しかもそれは信仰者として覚えます。
十戒が語る「殺してはならない」という戒めが、
抽象的ではなく、
国の憲法として具体的に起こされているからこそ覚えます。
これは世界的に見て、歴史的に見て、極めて奇跡です。

「殺してはならない」は、同時に生命、人格、交わりが守られることです。

「自分のことは自分でする」という標語を誰もが聞いたことがあるし、これを大切にもします。
現実問題、これ抜きに生きられません。

でもこの標語は本当に本来の人間性を語るでしょうか。
つまり聖書に書かれているでしょうか?
主イエスがそう生きたでしょうか。
主の弟子はどうでしょう?
旧約聖書に描かれる人々はどうでしょう?
実は「自分のことを自分で」という生き様は出てこないのです。

逆に「自分のことは他人で 他人のことは自分で」という事柄は山ほどあります。
主イエスも弟子たちもそのように生きています。

ということは、「自分のことは自分で」は、この数十年に流行している標語であることが分かります。
また「自分のことは他人が 他人のことは自分が」を依存関係として排除するのも数十年の流行で、
本来の人間性や真理は含まれていないと思います。

さて、そこでもし、「自分のことは他人が」を実感できない場合は、
最も大切な事柄が見えないときかもしれません。
それは信仰です。

つまり
「自分のことは主イエスがすべて引き受けてくれている」、
「自分のことは主イエスが愛してくれている」、
さらに
「自分の罪による死までも引き受けておられる」
という事柄の前に驚き沈黙し、
その実感が与えられるということを忘れてしまっているときだと思います。

そして忘れているときは不安が襲います。
不安に襲われると、
他人を信用できなくなり、
「自分のことは自分でする」ことに躍起になりすぎるばかりに、
それが変形して
「自分のことの領域は徹底防御する」というかたちで閉じこもるようになるのが
私たちの経験からわかるところの
私たちのどうしようもない性質だと思います。

しかし主イエスは私たちひとりひとりを、あなたを、今も引き受けているから、
堂々と安心しましょう。

そして憲法9条は、
「他者の命を自分が守る」という法律であり、
逆に「自分の命は誰が守ってくれるの?」ということにはなんと答えてくれません。
だからこそとても不思議だけれども
実に信仰的です。

自分の命はキリストが守ります。
私たちはここに賭けます。

これが世ではなく聖書の言う
「殺してはならない」ということです。

アァメン