きぼう屋

生きているから生きている

眼が大変

2008年02月29日 | 「生きる」こと
眼がたいへんなことになっております

といっても

花粉症ということではなく
たしかに
これも大変なんですが

実は
わたし
1月に

レーシックという
視力回復手術を受けました

だから
今は裸眼でもよく見えるようになりました

その後
今に至るまで
眼を守るため
とりわけ花粉から守るため

だてめがねをかけているので
ほとんど気づかれておりませんが

花粉がひどくないときは
めがねなしでもうまいこといくようになってきました


実は
中学生のころから
眼のうしろあたりの頭痛がよく起こるので
めがねで疲れているのだろうと思ったのと

なにしろ手術費用が安くなってきておりまして
めがねも結局
レンズに細かい傷がつき
毎年一回はレンズを換えないとならないのですが
その
3年分で手術費がまかなえるので
思い切ってしたわけです

また
妹の連れ合いが以前に手術をしていて
快適だとも聞いていたので
抵抗なく手術をすることができました


しかし
その手術を終えて
眼科医と面談をしているときに

ある眼の病気の疑いがあることが
わかりました

それは

先天性眼瞼下垂
というものです

わたし
生まれつき
左右の眼の大きさが違うのですが

実はそれは
小さいほうの左目を開ける
まぶたの筋肉が
生まれつき伸びているという
病気のようだという疑いです


わたし
確かに
まゆげを懸命に上に持ち上げるかたちで
おでこにしわをつくりつつ
眼を開けておりますが
ほんとうは
そんなことしなくても
まぶたの筋肉で眼は開くということで
まあ当然なんですが


そうやって懸命に眼を開けている
ということもまた
疲れと頭痛の原因でもあるみたいで・・・

37年生きてきて
はじめてそんなことを聞きまして・・・
驚いています


そのレーシック手術をした眼科は
レーシック専門で
眼瞼下垂の手術はしないのですが
しかし眼科医は眼科医で
やっぱり気になったらしくて
教えてくれました


保険もきくし
近くの眼科で見てもらったら
というアドバイスを受けていたので

本日
さきほど
レーシック手術後
眼も安定してきたし
なんとか時間が空いたので

とある眼科に行きました
しかし
残念
そこでの眼科医は
あんまりこの病気に詳しくないらしくて
なんかいろいろ言ってくれたのですが
最後は
専門でないので専門の先生の来るいついつの予約を入れましょうか
ということで・・・

もうがっかりです

なんのために
診察前のアンケートをとっているのか
まったくわかりませんでした

専門の先生がいないなら
その時点で教えてくれたいいのに・・・


しっかり診察料をとられてしまいました

なんか頭にきて
若菜さんに言ったら

若菜さん
別の病院に電話して
この病気の専門の先生がいついるかを確認して

するとそっちのほうが
しょっちゅう専門の先生がいることがわかり

もうこっちにいきな

と言うので
そっちに行こうと思います

というわけで

どうも
今年は
眼の手術が続きそうです


生まれてはじめて

両眼が同じように開き
しかも無理なく開くという

経験ができそうです

しかし
あるべきはずの顔に戻る
ということではあっても

生まれてこのかた
両眼が同じような大きさになったことは
実際はないので

なんか
整形するみたいで
罪悪感もあります


ストレスが大幅に減りそうなので

早めにやっちゃいたいなあ
とも思いました

しかし顔が変わるってのは
いいのかなあ
病気だったとはいっても・・・

変な気分だなあ・・・


若菜さんは

あんたは眼瞼下垂
あたしは胃下垂

と笑っておりますが・・・

うれしくかなしく

2008年02月29日 | 「生きる」こと
昨晩はHおねえさんと一緒に
ごはんを食べました

Hおねえさんが
当教会に転入したい
と言ってくれたので
それに向けた面談をして

そして
よるごはんも一緒にたべました
とても楽しかったです

Hおねえさんも
実は四人兄弟で
我が家のさわがしさや散らかり具合から
ストレスを感じることがないようでして・・・

Hおねえさんのお母さんは
N教会で週報などを点字にしているとのこと
Hおねえさんがお母さんに
京都教会には手話通訳があるよ
って話したら
手話をちゃんと覚えなさい
と言ってもらったとのこと

これだけでも
なんかすごい

ぜひぜひ
手話を覚えてほしいです


花粉症のわたしたちのために
とっても肌に優しい
ティッシュが
かわいい風呂敷を結んで整えられた入れ物に入っているという
すてきなプレゼントをくださって・・・

感謝感謝です

でも
もったいなくて
今朝も使うことができませんでした・・・



Hおねえさんの転入の信仰告白は
3月16日にすることになりました


3月はうれしいことだらけ

2週目は婚約式
3週目は転入式
4週目はイースター
5週目はまたまた婚約式

祈って祈ってまたまた祈りたいと願います




Hおねえさんが来るということで
昨夕に
なんと
空くんと共くんは
自主的に
階段の掃除をしたり
食卓の下の掃除をしたり・・・

これにはちょっとおどろきました
そして感動!!



しかししかし
年度末

この間
次々と
新年度から転勤等で京都を離れる
という報告も受け

昨日も
一件
そういう報告を
受けまして

まさか

ことでしたし

当教会の運営面でも
精神面でも
支柱である仲間であるし

受話器を持ちながら
腰が抜けてしまいました

悲しく寂しく痛い話であります

うれしいのと
かなしいのが
入り混じる
年度末ですが

祈るしかないので
祈って祈って祈ります

神さん
みんなを
ほんとに
よろしく

おいしい

2008年02月28日 | 「生きる」こと
なんとか
花粉症ながらも
家族みんな
元気でやっております

我が家の食卓の端には
ビタミンCの顆粒が置かれています

疲れたときとか
風邪っぽいときに飲みます

でも
子どもたちは
味が嫌みたいで
飲みません

でしたが

この間

どんどんビタミンCが減っていきます

子どもたちが
主体的に飲んでいます

しかも

おいしい

とも言います


たぶん
花粉症で体調が優れないことを
子どもなりの感覚で察知して
子どもなりの本能で回復しようと
しているのだろうなあ
と思いました

それで
ビタミンCの味が
そういう時は
おいしくなるのだろうなあ

つまり
身体が回復するために求めているものは
おいしい
と身体が反応するのだろうと
思いました

これは
喉がカラカラのときに
水がやたらとおいしいのと
おんなじかもしれません

すると
たとえば牛乳がきらいな人は
牛乳を身体が求めていないのかもしれません

肉がおいしいときは
身体がたんぱく質を求めているときでしょうし
野菜がおいしいときは
ビタミン類を求めているときなのだろうなあ
とも思いました

子どもが肉好きで
高齢者が野菜好き
というケースが多いのも
うなずけるところです


つまり

食べたいものを食べる
というのは
理にかなっているのかもしれません

だって
わたし

胃の調子が悪いときは
胃散がとてもおいしいですし・・・




同志社高校から帰ってきました

子どもたちはお話を聞かないけど勘弁してください

伝えられておりましたが

いえいえ
しっかり聞いてくれていました

感謝感謝



本日は午後から夜まで
面談が続くので
今のうちに
洗濯をして
さらに
花粉症のお薬をもらいにいって
さらに
来週の主の日の
聖書箇所を読んで
瞑想するというところまでは
なんとかしたいなあと思います

花粉症で苦労している
同志たち
祈りあって
慰めあって
なんとか
生き抜きましょうね



生きるために

2008年02月26日 | 平和のこと
このブログで呼びかけるのを
忘れていましたが

本日は
5.3憲法集会in京都の実行委員会
でした

今年の集会タイトルが決まりました

「生きるために いま 憲法 5・3憲法集会in京都」

今年は

戦争と貧困は実はセットで
戦争とその準備はどんどんできるという
グローバリゼーションと呼ばれる世界のシステムを
日本でもそのまま取り入れるということで
だからもちろん軍備をさらに増やしていますが
そういう段階で
もう
すでに
日本でも
貧困で
生きるのが困難な人が増え
さらに
それで死んでしまう人も増えている
という
ことがよくわかるかたちで起こっているものだから

戦争で死ぬのも
貧困で死ぬのも
どっちも
非人間的で
絶対にだめ!!!

ということで

「生きるために」

という集会タイトルになりました


昨年は憲法60周年ということで
それを記念して
あの京都会館で開催しまして
超満員でしたが

今年は
円山野外音楽堂で開催します
だから
京都会館よりもたくさん入れますし
昨年以上にくるだろうと
思いますが

ぜひぜひ一緒に
平和をつくりましょう

講師は

立命館平和ミュージアムの館長で
メディアでも活躍し
著書もとても売れている
ひっぱりだこの
油ののった安斎さんと

東京で
ホームレス支援をしつつ
貧困問題に取り組み
そのネットワークを立ち上げた
若くて油はじける湯浅さんの

二本立て

つまり
9条

25条
ってなわけでもあります


そうそう
開会は午後3時です

日差しがすこし弱まってからはじめます
なにしろ
円山は日差しをもろにあびるので・・・

そして5時から
ピースウォーク

名称はまだ決まっていませんが
昨年は憲法ウォークと名づけました


そして
さらに
今回の集会の中で

「憲法九条京都の会」の
発足が
なんらかのかたちで報告される予定です

これまで
各方面から要望のあった
京都全体で連帯できる場を
つくります

ぜひみんなで
つくり育てましょう



わたしは今年も実行委員長ですが
かつて
実行委員長でありつつ
事務局長的な役割をしたときとは異なり
(あのころは大変でした・・・)

この数年は
事務局長がすべてを担ってくださり
わたしは宣伝と挨拶専門となっておりますが

事務局長のはたらきはとても大変です

今年も
各方面から信頼の厚い
小笠原弁護士が担ってくださることになりましたが

これは
みんなで支えねばなりません

mustという言葉が大嫌いなわたしですが
これは
支え「ねばならない」
ことであります

ちなみに
次回の実行委員会は
3月18日(火)午後7時から
日本バプテスト京都教会で開催されます


以前にも書きましたが

9条は
理想ではなく
現実です
超越的現実です

世界は
人間の思考範囲を超越して
はじめて成り立つから
現実とは
超越であって当然なわけです


改憲案の9条は
現実と思い込んでいるところの
人間の思考範囲内だけで
すべてが語れるという
幻想によって成り立つものです

現憲法9条は
とても大事です

そういう意味では
キリスト者としては
あまりに見事に
神の平和を
具体化するなら
現9条がそのひとつのモデルとなるだろうという
そういうものでもあります

最近
でも
思います

もしわたしが
聖書と出会っていなかったら
キリストを信じるにいたらなかったら
改憲案を信じただろうなあって

よかった・・・

聖書と
出会っていて・・・



明日は
あさいちで
同志社高校の礼拝メッセージ

その件の
とんでもない出来事は

こちら


花粉どころじゃあ!?ごめんなさい!!

2008年02月26日 | 「生きる」こと
わたし
明日、明後日と
同志社高校でお話をするので
その準備を整えてきました

話の内容はできているので
あとは
高校のある山のほうへ行くから
花粉対策をちゃんとせねば

考えていたのですが

花粉どころではないですよ
しでかしてしまいました

わたしの手帳には
明日、明後日の欄に
「同志社高校で話」
と書いてあるのですが

実は
本日、明日
ということでございまして

本日の高校の
本来わたしが話しをするはずだった礼拝もおわった
朝の10時少し前に

宗教主任からお電話を頂きまして

とてもやさしく
なぜか主任があやまりつつ
「本日・・・」


すみません
すみません

わたし
同志社高校から2週前に丁寧な手紙も頂戴し
そこにも日程が書かれていますから

それを確認しましたら
たしかに
本日、明日
でありまして・・・

まだ日程がちゃんと定まっていない時期に
宗教主任がわざわざうちの教会までたずねてくださり
そのときに
まだ「だいたい」
というところで
明日、明後日という日程を確保したという
その段階で

わたしは手帳に書き込み
でも「(仮)」
とは書き込んでなく

もうずっと
明日、明後日と思い込んでいて
ご丁寧な手紙で
本日、明日
となっていても

思い込みってのはおそろしいもので、
それをちゃんと読んでいるのに
明日、明後日だと見えてしまっておりました


この場も借りて
深く深くお詫び申し上げます

学校長
宗教主任
教職員のみなさま
生徒のみなさま
関係しているすべてのみなさま

本当に申し訳ありませんでした




同志社高校はとても寛容でして
「なら、明日、明後日ということで調整しますので、よろしく」
ということで

ちょっと
いつもの倍は気合を入れて
明日、明後日の同志社高校礼拝にのぞみたいと思います



宗教主任に
「本日の礼拝はどうなってしまいましたか」
とおそろおそろたずねましたら

「みんなで静かに祈る時間が持てました。同志社はハプニングに強いので全く大丈夫です」

逆にまたまたフォローしていただき
さらに
なぜか主任がたくさん謝っておられて・・・

ほんとうにすみません・・・


こういう大きなミスは
実は
2回目でございます

前回のミスも
手帳に間違えて書き込んだことによるミスでした
しかも
本当は
もう取り返しがつくはずのないミスでした

それは
神学部を卒業し
専攻科に進むための
願書の締め切りの日を
わたしは一週間まちがえて手帳に書き込み
一週間おそい同じ曜日の日だと思い込んでいました
確か木曜日

それでもって
わたし
願書を提出していないどころか
願書を書いてもなく
必要な推薦書なども集めてなく

なんとも気楽にアルバイト先に行っていまして・・・


そのアルバイト先に
神学部の事務をしているとてもすてきな女性がおられるのですが
その方から電話がきまして
(きっとあちこちに連絡して私の居場所を見つけてくれたのだと思います)

「大谷さん!願書が出ていませんが!どうしたのですか!進学するのではなかったのですか!」
ということで

あわててアルバイト先から帰宅したものの
もうどう考えても締め切りに間に合うはずはなく


この時点で
本当は
アウト
なわけですが

私以上に
神学部長だった青野先生が
各方面に頭を下げてくださり

例外中の例外ということで
願書を受け取っていただいたということがありました

後にも先にも
わたしだけだ!

相当に怒られましたが
しかし
相当に愛されました

なのに
その愛にもかかわらず
本日
とんでもない
すっぽかし
をしてしまいました

だめな人間であります
わたし


みなさま
ほんとうにすみません
こんなわたしですが

とってもみなさんの
お手数をかけ
気を煩わせてしますような人間ですが

今後とも
お付き合いいただけますならば
大変うれしく
たすかり
しあわせになります

いつも
すみません
すみません


同志社高校のみなさま
すみません

アレルギー×花粉=無理しない

2008年02月26日 | 「生きる」こと
花粉と格闘中

家族みんな鼻水たらしているから
ティッシュの減りが
はやいはやい

空くんはぎりぎりで生活しています
昨晩もおなかが痛いということで
早めに寝ました

そもそも
アレルギーを持つ人は
そうでない人の
倍どころでなく
何倍もしんどい生活を
日々しているわけだと
最近思っています

でもそれが日常だし
しんどさは自身でしか覚えないので
その差に気がつかないわけだけど

たとえば
普段アレルギーのない人が
花粉の時期は
花粉症でしんどいというときに

でも
その症状が
アレルギーの人が
楽なときと同じくらい
ということは
よくあるわけで・・・

しんどさの感覚は面白いです

しかし
確かに

仕事にしろ
勉強にしろ
家事にしろ

つまりあらゆる運動において

アレルギーを持つ人は
身体の重さ、しんどさを
そこからくるストレスを

そうでない人の
倍どころでないほどに
背負っているのだろう
と思っています



アレルギーを持つ人にとって
花粉の時期は
とても恐ろしいのです

空くん
無理しないでいいので
できるだけストレスなく
生きましょう
とりわけ
この時期は

こういうしんどい時期に
空くんの場合は
たとえば勉強をせねばならないので
無理してすると

勉強することがストレス

身体が記憶してしまう可能性があり
そうなると
将来にかけて
とても損なので

というか
勉強するほどに
勉強を拒絶するという
矛盾が起こりそうなので

ストレスが過剰にかかるような
アレルギー反応が出ているときは

勉強は二の次にしないとなあ
とも思っているところです



話は変わり

教会の定期総会が終わりまして・・・
大変うれしい思いをしています

別に自分の思うようにいろいろ決まったから
うれしいのではなくて

みんなが
主体的参加者として
決してお客様でなく
総会に集っていた
ということがうれしかったです

赴任当時からの教会のひとつのテーマは

観客席からフィールドへ

ということでした

不思議と
観客が基本
という教会でした



気がつくと
プレーヤーが基本

となっているではありませんか


11人です

別にサッカーではありませんが
わたしの経験から考えていることは
教会であれ
市民の運動であれ
地域共同体であれ

11人の
いつも動いているプレーヤーがいると
そこに不思議と
新たなる参加者が加わるようになる!!

でも
11人ってたいした数で
0からはじめるなら
10年はかかることだと思っています

でも10年ねばって本気で続けると
その後は
フィールドで
自由な動きがでてきて
流れがでてくるようになるなあ

と思っているところです

赴任当時の
形骸化した選挙と
ちゃんちゃん総会から

12月から選挙管理委員を中心に
丁寧に準備された選挙と
丁寧に準備された総会資料と
期待を持つ参加者による総会

になりました

そして今後は
さらに
それが深められるに違いない
と感謝しております


といったところで
おしまい。。。

神の国

2008年02月25日 | 「生きる」こと
こんな
すっきりと
整理する必要って
ほんとはないのだろうけど

自分のために

またまた
やっちゃいます

世の国が左側で
       神の国が右側で


ということで
書きます


世の国        神の国

******************

制度なる国家     身体なる共同体
資本と軍備      愛とゆるし
貨幣         食卓
未来         いま
理想         ここ
目的         関係


ってなところかなあ


不思議なのは
一般では
左側が現実と呼ばれ
右側が理想と呼ばれるんですよねえ

なんでだろう

逆だよなあ

左が理想で
右が現実

というか

左はただ現実と思い込んでいるところの幻想で
右はまさに現実

と思うけどなあ・・・

だから
改憲案は幻想で
現九条は現実
なんですよね

あと
左側は実はすべて手段で
右側は実はすべて中身です


別にぼくが言うわけでなく

カントも
バルトも

現実ということを
このように言いますわなあ


昨今
バルトとマルクスは
同じ読み方をすべきと
思うようになりました

それは
彼らの論理を抽出するのではなく
ふたりとも
徹底的に
世界の幻想的現実を批判しており・・・
だから
その批判されている状況を見出す
という
読み方

しかできないだろうし
すべきでないなあと


また


カントとボンヘッファーが
これまた
同じような感じで読めるなあ
と思っているところです

それは

ふたりとも
超越という現実を
括弧に入れねばならない場合が多いとしても
必ずどの場面でも語りきっていく・・・
だから
語りきっていくために
その
括弧の的確な使用時を
身に染み込ませる・・・

という
読み方

に鍵がありそうだなあ
と思っているところです


なんとなく
書くつもりでないことも
勢いで書いてしまいましたが

本日は
私自身の整理用の記事と
なりました

というところで
また明日

国家 金 自己 目的

2008年02月24日 | 「生きる」こと
日本バプテスト連盟発行の雑誌
「聖書教育」

2月に
国家
あるいは国家とのかかわり

神の国を信じ生きる者として
もう一度考える
ことをテーマとしていました

そこで

国家というところから
こんなことを考えました


神を信じる者は
神の国を信じて歩みます

それは国境を越えて
あらゆる生命が
キリストによって和解され
つなげられ
しあわせに
共に生きる
ということを
信じます

それは
希望として
体験するものでもあります

でも
だからといって
国家を否定して生きるのかというと

そういうわけではありません

もし
国家がなかったら
今以上に
想像を絶するほどに
多くの生命が
破壊されるだろう
と思います

それほどに人間は
弱く
醜く
汚い
罪人でしかない存在だと思います

だから
人間の知恵の
いまのところの限界であるところの
結論として
国家を選択しているところなのだろう
と思います

しかし
大切なのは
国家という枠組みでなく
生命が破壊されず
和解し
みんなしあわせになる
ということです

そのための国家でしかありません

でも
なぜか人は
国家という枠組みが
大きく強くなると
安心します

国家が大きく強いから
自分が守られる
と思います

これは
お金について考えると
わかるかもしれません

わたしたちはお金がないと
生きていけません
ちょうど
国家がないと生きていけないのと
同じようなところです

でも
お金そのものがわたしたちを生かすのではなく

お金はただ
わたしたちが生きるために必要なものを
交換するための紙切れにすぎないことでしょう

でも
なぜか人は
お金がたくさんたまると
安心します

お金がたくさんあるから
自分が守られる
と思います

でも
お金がたくさんあっても

米も野菜も肉も
衣類も家も
なんにもなかったら

お金はまったく意味をなしません

国家という枠組みがあっても
そこに
生命がなかったら
なんの意味もありません

大事なのは

お金でなく
生命に必要なものであり

国家でなく
生命です


これを時間でいうと

目標とか目的とかヴィジョンとかいう
いわば未来のことばかりを

語るということで
人が安心するのと似ています

目的
なんていわれると
変に納得します

でも
それは
いま、ここにおける
いとちいさき生命の
いとちいさき出来事
があって
はじめて
未来にむけた
目的、目標があるわけで

いま、ここ
という
実は受けるのがとてもしんどいところの
ありとあらゆる困窮
それも
一部に押しやられ
一部の人が味わうことになっている困窮

無視して
目的、目標が語られるというのは

実は

中身のない
国家

交換物のない
貨幣

と同じでありましょう

つまり

国家というものにこだわり
それを愛すべきという人は

お金にこだわり
それが大好きな人で

さらに目的にこだわり
いま、ここの困窮を無視できる人で

その
国家、お金、目的は

実は
自分を守り気分よくし
実は
アイデンティティという
すっきり感
かっちり感

感じやすいというものなわけで・・・

ということは

つまり

自分が気持ちいいことにこだわり
自分が大好きで

つまり

ナルシズム=自己愛
という
病であり

それがそのまま
お金愛となり

さらにそのまま
愛国心になり

また即
未来志向

になるわけでありましょう



そうなると

他者と
面と向かって
かかわるという
いま、ここ

どっかりと
自分に乗っかってくる
という

まさに
超越の現実
神の出来事
神の国

を受けることが
むずかしくなるのだと思います

というわけで

わたしたちは
みんなが
しあわせに
生きる知恵として

国家
お金
目的

を利用しますが

それは単なる利用物でしかなく

わたしたちがこだわるべきは
その中身であり
交換物である

いま、ここの
十字架

つまりキリストのおられる現場

つまり
いとちいさき生命の困窮

それを共に担う
倫理

であると確信します


目的は実は手段なんです

この矛盾が事実でありましょう


とまあ

国家というところから
簡潔に
こんなところを
考えております


国家好きは
自分好きで
お金好きで
目的好き

というのは
すごくいろんなところにあてはまると思いますので

いろいろと
あてはめて
なるほーどなあ


自省も含めて
納得するのは
大切なことだろうと思います


というわけで

京都教会のみなさま
本日の総会
お疲れさまでした

変な言い方ですが
質の高い総会だったなあと
感謝しております

では
おやすみなさい

お疲れが出ませんように

真正面

2008年02月23日 | 教会のこと
いよいよ明日は
教会の定期総会

おっと
しかし
午後の総会より
午前の礼拝は
なにしろ大事!!

しかし
総会も
バプテストにとっては
とても大事

総会ってのは
対話の現場のことを言うのだと思います

もちろん
民主主義制度をとるあらゆる組織すべてに
普遍的に通用するわけではありませんが

こと教会の総会は
対話の現場でしかないのだろうと思います

教会の総会は
さらに
民主主義を超えたものとして
起こされることも信じたいと思います



対話は

顔を見合い
目を合わせて
言葉を交わすものです

そして
さらに

対話は

交わされる言葉以上に
それを超えたところの
互いの存在全体が行き交うという
人格と人格の交流と言ってもいいところの
超越的現実を味わう
ということにおいて

本来的なものとなるだろう
と思います

残念だけれども
同じ時空にいないところで
言葉だけを交わすというのは
どんなにがんばっても
どんなにそれを
一般的には「対話」と呼ぶことが可能だとしても
究極的には
ゲームの域を超えることはできないのだなあ
と思っています

だから

このようにブログで何かを書いても
実は
それもまたゲームでしかないわけです

つまり

これを読むみなさんは
それぞれ
いいように
あるいは
わるいように
それこそ好きなように
このブログの記事の内容を受け取ることができますが

でも
まず
わたしが抱いている内容と
同じものとして受け取られることは
あり得ないと言ってもいいのだろうと思います

それくらい
わたしたちひとりひとりは
あまりにユニークで
ばらばらで
一致しないわけで

もちろん
一致してはならないのだと思います

所詮
文字化された言葉はそんなもんで
たとえどんなに崇高な思想家が書いた文字であっても
そんなもんだろうと思います

もっというと
聖書も
そこに書かれている文字を追って
そこから論理なり
あるいはキリスト教会とキリスト者の歴史において
最も多いところの
さまざなま原理なり

取り出すことは
まず
聖書を書いた人たちの
あるいは神の
伝えたい内容を知ることには
どうがんばっても
なりえないのだろうと
思わねばならないはずです

聖書の言葉が
文字からいのちへとかわるのは
キリストによるしかないと
キリスト者は信じることができます

ということは

今、ここにおける
キリストとの交わり
その人格的な生々しい交流を信じて

はじめて
聖書も
ただの紙切れを超えて
いのちの書になるのでしょう

というわけで

だから
たとえば今の時代なら
パソコンを通じて
教会のMLなどで
総会くらいできるかも知れません

しかし

顔を合わせ
互いの顔をみるからこその
相手の重みを受ける事柄
つまり
互いの栄光、尊厳を知る事柄


教会の総会においては
信仰に生きる者の総会においては

いやいや
遠慮なく
ひろげてしまいますが

人間の対話においては

やはり不可欠でありましょう


そして
その感覚を
あえて取り出すなら
こういうことかなあと思います

その感覚は

他者と真向かいつつ
総会の場で発言するというときに覚える

あの他者の前での
豊かな緊張

なのではないでしょうか

そして
これが大事!!!


だって
誰でも

陰では
あるいは匿名では
いろいろ言えるけど

顔を近づけて
目を合わせて
となると
急に
言えなくなるだろうし

さらにはそこで
言うべきことと
そうでないこと

わかるのだと思います

つまり
陰で言っていたことは
実は自分の中で
自分の感情の問題として
不必要に大きくなっているということ


気が付くわけだと思うのです

同じ時空にいないと
この不必要な
いわば妄想的なものが
人と人との間を支配する場合が多いわけですが
これから
いかに解放されるか
というのは
情報革命後の世界の
重要なテーマだと思っています

この妄想的なものは
相手への恐怖や嫌悪というのもありますが
だいたいが
自分の知っている
そして頼っている

だなあと思います


教会の総会は

ここからが
決定的に大事なことですが

お互いの教会家族の顔のみならず
キリストの顔をも
そこで
真正面から見つつ
発言できるという

幸いにあずかります

だから
キリストによって
実は
自分の論から
解放される

という

いわば
超えたところで
コトが起こるのが

教会の総会であると
わたしは信じます

さてさて
ではでは

神からのギフトである
この教会の総会を
ぜひご一緒に味わいましょう

アーメン
アーメン


*****************



本日掘り起こした
週報巻頭言は
こちら


{A×(A-1)}÷2

2008年02月23日 | 教会のこと
第14弾
(定期総会前に
 週報巻頭言で
 今年度を
 振り返るぞ企画)


世界祈祷週間を覚える礼拝の
11月25日の
巻頭言

明日が総会なので
これが最後ということで・・・


**********************


「世界祈祷週間は愛なのだ」

11月13日に
ホスピスの病床にてバプテスマを受けられたTさんが、
18日の夜に天に召されました。
主なる神の、ご家族への慰めを切に祈ります。

Tさんと教会とは
この世では短い出会いでありましたが、
しかし、
今後終末に至るまでの、
死者としてのTさんとの交わりが、
教会にはある!
ということが、
本当のところでもありましょう。
だから
Tさんとの交わりは始まったばかりです。

彼は
短い間にたくさんのことを
私に語ってくださいました。

その中で
「出会い」について
熱く深く語ってくださいました。

そこで私が思いつくことが出来たのは、
キリストが語る「栄光」の数についてです。

バプテストの先輩は世界で真っ先に、
人々がひとつの「栄光」に縛られていることに反発したところの
ひとつのグループと言って過言ではありません。

その「栄光」は王様であったり、
国を支配するえらい人であったりしました。

教会ではきっと牧師や執事が
「栄光」の対象だったことと思います。

しかし、本来、
生命の数だけ、
それぞれの生命が神から受けた「栄光」がある!
とバプテストの先輩たちは語り続け、

その理念は
今や
個人主義、民主主義として
世界のスタンダードにもなってもいます。
(論と実践が一致しないのは
 ここでもやはり大きな問題ですが・・・)

しかし神さまは、
生命の数の「栄光」では少なすぎる!
と言うのではないかと思っています。

つまり聖書では
愛や和解という、
生命と生命の「間」を
最も大切にするからです。

すると、
個の生命と個の生命の「間」は、
計算式では、
 {A×(A-1)}÷2
となり、

10人いたら10の栄光がある
という個人主義から出てくる数を超えて、

なんと
45の「栄光」がある
ことが分かります。

10人いたら45の愛があるわけです。

で、愛とは神です。

だから実は、
その45の栄光は、
唯一の神の「栄光」ともなるわけです。

さて、
今週は世界祈祷週間です。
まさに、
「間」の事柄である
愛や和解という神の出来事を、
地球レベルで
みんなで祈り、考え、分かち合うときです。
つまり
 {65億人×(65億-1)}÷2
という数の愛を祈るときです。

ぜひとも一緒に祈りましょう。

ただ
地球レベルの愛の数についての計算は
各自電卓にてお願いします。


みんな家族なんです ほんとに

2008年02月22日 | 「生きる」こと
こんなに
わたしども家族が
みなさまに覚えてもらって
具体的に
支えていただいておりますことを

この場で
今日も
深く深く
感謝するしかありません

本当にありがとうございます


京都に来て9年

気が付いたら
びっくりするほどたくさんの人と出会い
つながりつづけることがゆるされ

おどろいています
まさに
アメージング・グレースです

教会の仲間と
出会うことができて
さらに
教会の仲間の
何倍もの
地域の方々とも
出会うことができているのは
奇跡!!と
思うしかありません



我が家の息子たちの間では
あやとりがブームです
四段梯子は
5秒でつくってしまいます

それは
アムネスティのHさんが
保育園で覚えたあやとりをしている息子たちを見て
次にお会いできたときに
なんと
あやとりの本を息子たちにプレゼントしてくれて・・・

そして
それをじっくり見ながら
息子たちはいろんな形を覚えています

わたしがその本の説明を見ても
どの指でどの紐の部分をとったらいいのか
頭がこんがらがるのですが
息子たちは
あっという間に理解して
つくってしまいます

いったい脳みそのどの部分が動いているのでしょう

Hさん

本当にありがとう



また

本日
宅配便が届きまして
それは
柑橘セットでした

いろんな果物が入っていまして・・・

きょうとネットなど
いのちと平和と愛にこだわる活動を
ずっと支えてくださっているMさんからの
なんともうれしいプレゼントです

なんか
身体の芯から蘇るような感覚を覚えます

Mさん
本当にありがとう


また
何のお返しもできませんが

でも

くすぐったいことを
まったく照れずに言いたいのですが

みなさんのことが大好きで
毎日覚えて祈っております


わたしは
京都教会の牧師として招聘されましたが

京都教会では
総会においても
わたしが
教会のみならず
それを越えて京都という地域全体に奉仕する者として
活動するということを
確認しております

だから
わたしの一番大事な仕事は

とりなしの祈りをすることだと認識しておりまして

みなさんの代わりに
みなさんの平和を神に祈るわけです

それは教会の仲間はもちろん
地域の仲間のためにも
勝手ながら祈ります

すると
毎日
何時間もかかるという事態になってきました

だから
昨今は
祈祷ノートの名前を見て
でも名前を音としてあらわさず
瞬時にその方の顔を思い出して
心に力を込めて
すべてをキリストにゆだねつつ
アーメンと
祈るというような

いいのかわるいのか
しかし
時間的制約が在る中で
そんな祈りをさせていただいています

それでも
毎日1時間強はかかるのですが

もう
いったい何名のとりなしの祈りをしているのか
もうわかりません

数える気にならない数になってきました・・・

これは
あまりに奇跡です

これを
本当に神の業
というのだろうと
思いますし

神という言葉を使用しないなら

これが
平和
というのだろうと
思っております

つまり

みなさんが

こんな家族めを
覚えてくださっているからこそ

わたしは
世界に献身できます


今後とも
ぜひぜひよろしくお願いいたします

(といっても
 プレゼントをよろしくということでなはくて
 覚えていてほしいという意味での
 よろしく
であります
 本当に・・・)


プレゼント

2008年02月22日 | 教会のこと
本日のふたつめ

第13弾
(定期総会前に
 週報巻頭言でも
 今年度を振り返ってしまおう企画の)



バプテスト福祉デーであった
11月11日の
巻頭言です


*******************


「福祉デーとクリスマス」


本日は福祉デーです。
バプテスト連盟に加盟する教会は、
仲間たちが担う福祉活動を覚え、
主に祝されることを祈ります。

京都には特別養護老人ホームであるバプテスト・ホームがあります。
また同じ場所には、北白川保育園があり、
また医療と福祉を兼ねる老人保健施設があります。
当教会のH兄、M兄は
それらの責任を担っています。
ぜひ覚えて祈りましょう。

また本日礼拝にて証しをしてくださるI姉は、
北白川保育園の園長を
長らく担ってこられました。
証しを通してキリストの業を共有したく願います。

また当教会が取り組むホームレス支援も
ひとつの福祉です。
熱い祈りと奉仕に支えられていることに感謝するばかりです。

そしてこれら福祉は、
愛によって支えられるところの、
困窮を抱える他者のための
具体的政策であると表現できましょう。

つまり
愛するゆえに
具体的に他者のために動くこと、
と簡潔に言っても
そうそう間違っていないだろうと思います。

先週の執事会で
クリスマスについて多少の意見交換をしました。

そこで私は執事のみなさんに
「交換プレゼントは今でも意味があるか」
と問いました。

すると
ある執事が
とても深い意見を言ってくださいました。
「一年に一度、他者のためにプレゼントを選ぶという行為は重要ではないか」。

とても感動しました。
そして友人であるO牧師の
「トンゼレプ」というタイトルの説教を思い出しました。

これは
プレゼント
を逆さに読んだものです。

それはこういう趣旨でした。
「プレゼントとは、
それを頂いた人にとって
プレゼントだけど、
与えた人にとっては
トンゼレプだ。
つまり
他者に与えた分、
自分は削られたのだ。
しかし
愛するゆえに
自らを
他者のために削ること

プレゼントであり、
キリストはそれをなさる」。

私は
この説教を聴いたときの感動を
先週の執事会で味わいました。

福祉。
それは、
クリスマスプレゼントの精神と行為。

そして何よりも
キリストがプレゼントするという
大前提の
上にあるもの。

今年は
トンゼレプを各々大切に覚えつつ、
福祉活動を祈りたいと願います。


兄弟姉妹

2008年02月22日 | 教会のこと
第12弾
(教会の定期総会を迎えるにあたって
 週報巻頭言からも
 今年度を振り返る企画の)



10月21日の
巻頭言です


****************

「兄弟姉妹という教会員制度」

先週の礼拝で、
Jさんが当教会へ転入され、
京都教会員となられました。

転入するにあたり
Jさんよりステキな証しを頂き
感謝に耐えません。

キリストを信じることは、
キリストを長子とする教会家族の一員として、
主体的に教会生活に参加するということである!
ということが
あまりにも当然のように語られました。

私たち京都教会にとっては、
主体的に、具体的に、積極的に参加することは、
現在チャレンジ中であることなので、
こんなにあっけらかんと
それが当たり前のこととして語られるのは
驚きであり、またある意味新鮮であり・・・

しかし
教会家族としての歩み、責任という事柄が、
このように新しい風として吹いたことは
神の業と言っていいかもしれません。

さて、
教会では互いに「兄弟姉妹」と認識し、
また表現します。

日本のバプテスト教会の場合は、
アメリカの教会が
「ブラザー」「シスター」と呼ぶところから
学んだと思いますが、

しかしこれは
とても深いところの
キリストによる関係を表す表現であることを
忘れるべきではありません。

そして、実は世界のあらゆる言語において
この深いキリストによってつながっている出来事
=信仰
=赦しと和解と信頼によりつながっている関係
でもって
日常的に互いに呼び合うことが
大切にされています。

たとえばスペイン語では
「エルマーノ」と呼び合いますが、
これは
互いに一つの釜で飯を食べるべき仲間!
という語源を持っています。
まさに
主の晩餐式という象徴的な食事から
キリストによるつながりにあることを
日々互いに言い表すわけです。

またフランス語では、
「モンヴィユー」と呼び合います。
これは直訳すると
「とても古い仲間」という意味です。
たとえそれが会って間もない人でも、
「モンヴィユー」と呼びかけるそうです。
その背景には、
キリストの赦しと和解が宣言された二千年前から、
実はキリストによりつながっており、
今日共に歩むのは当然なのだ!
という宣言があります。

Jさんに
心から
「エルマーノ」「モンヴィユー」「兄弟」
と呼びかけたく願うのと同時に、

私たち京都教会は、
今さらに、
互いにそう呼びかけつつ、
歩みたいと願うばかりです。

これが信仰の確信であることは
間違いないと思います。




9条の会・京都

2008年02月21日 | 守ろう憲法と平和きょうとネットのお知らせ
今晩の7時~
当教会の集会室にて

「憲法9条の会・京都」発足にむけての会議


開催されます。

これまで準備会を重ね

下記のようなところを見出しています。

ぜひどうぞ。


************************



これまで、憲法署名京都実行委員会の全体会において、その組織的発展の方向を検討して まいりました。そして、京都における憲法運動の更なる発展をめざして、以下の第二次案の 内容の新しい運動の展開と組織の結成をめざすことになりました。この第二次案をたたき台 にして皆さんのご意見と討議に基づいて更に深め、最終案を作成していきたいと存じます。


◇運動の目標・一致点
 憲法改正国民投票法が成立した新たな情勢を踏まえ、憲法9条の改「正」案を発議させ  ない国民的世論をつくることをめざし、仮に発議されても国民過半数の9条支持によって  これを阻止することを運動の目標にします。
 この運動の目標で一致できる全ての個人、団体、グループと連携、協力していきます。

◇活動の具体的課題
①市民との対話を推し進める活動に取り組みます
 対話を推し進めることが大事であり、そのためのツールとして、例えばこれまでのような憲法署名やアピールを活用したり、様々なグッズ等を工夫します。
地域の人たちや年齢の若い層の人たちの意見等も取り入れていきます。

②9条の明文改悪を許さない憲法署名を集める活動に取り組みます
 国民過半数の9条支持をはかる一つの指標として、また、これまでの憲法署名過半数獲得運動の延長、発展として、憲法署名を集めます。
 継続的かつ象徴的な運動としての毎月9日の街頭署名活動を継続し、広げていきます。
 憲法署名活動の経験を交流し、教訓化しながら、取り組みを広げていきます。

③憲法9条を選び直すための学習を進める活動に取り組みます
 これまで政府が憲法教育を意図的に怠ってきたことを批判し、あらためて私たち自身が憲法9条の価値を自らのものにしていくことが大切であり、学びの場を提供し続けます。
 憲法学習会の講師のできる人たちをふやして講師派遣ができるようにします。

④節目となる5月3日、11月3日の各憲法集会を担っていきます
 憲法記念日などの節目には、規模の大きな、幅の広い憲法集会を企画し、遂行します。
 憲法集会を実行する具体的な組織としては、いつでも、誰でも、平等の立場で参加できる形式を工夫します。

⑤運動の経験を交流しあい、新しい取り組みを展望できる機会を提供します
 これまで取り組まれてきた「守ろう!憲法9条○/○交流会」のような運動の交流会を定期的に開催します。
 京都全体の交流会や地域ごとの交流会等、参加しやすく、今後の活動の参考になるとともに元気のでる交流会をめざします。

⑥連携、協力することでより多くの人たちの目に見えるような活動に取り組みます
 例えば、9の日一斉宣伝行動や九条通一斉宣伝行動、憲法キャラバン、統一ポスター、統一ステッカー、統一チラシ、憲法グッズ等に取り組みます。

⑦憲法をめぐる情勢や運動に関わる有益な情報を収集し、発信しつづけます
 HPを充実させます。
 ニュースを発行します。

◇新しい組織のイメージ
①憲法9条を支持し、その改悪を許さないという運動の目標で一致することのできる様々な個人、団体、グループが参加する、広範な人たちのネットワーク組織です。これまでと同様に東京の「九条の会」とも連携、協力していきます。可能な限り、他府県の組織とも連携、協力していきます。

②個人、団体、グループ間のゆるやかな連携、協力関係を保ちながら、運動の目標に向    けた共同の取り組みを提案し、実行し、お互いに支え合う組織です。

③次の原則に基づいて運営していきます。
 )個人、団体、グループの自主性を尊重します。
 )参加する個人、団体、グループはお互いに誹謗中傷をしません。
 )非暴力を徹底します。
 )合意事項を守ります。
 )参加する個人、団体、グループの関係は対等平等です。

◇新しい組織の規約
①名称
  憲法9条京都の会

②会員
  本会の会員は、本会結成の呼びかけに賛同し、会員になることを承認する個人、団体、グループです。

③全体会
 全体会は、全ての会員によって構成され、本会の組織、運動及び財政の基本事項を討議し、決定するとともに会員相互の運動を交流しあう機会とします。
 全体会は年に1回開催することとし、必要に応じて随時開催します。

④世話人会
 世話人会は、全体会で選出された世話人によって構成され、本会の目的及び全体会の決定に基づいて、本会の基本方針を決定します。
 世話人会は、世話人の中から複数名の代表世話人を選出します。
 世話人会は、その下に事務局を置きます。

⑤本会の代表
 代表世話人が本会を代表します。

⑥事務局
 事務局は、世話人会が選出する事務局員によって構成され、本会の基本方針に基づいて日常的な事務を担います。
 世話人と事務局員は兼任することができます。
 事務局は、事務局員の中から事務局長1名、事務局次長複数名を選出することができます。
 事務局は、日常的な事務の遂行のために、専従を置くことができます。

⑦連絡先
 本会の連絡先は、京都市○○区○○○○○とします。

⑧財政
 本会の財政は、賛同金と事業収入とカンパでまかないます。
 参考 賛同金年間一口1000円(個人・団体・グループともに)
 賛同金と事業収入とカンパで年間1000万円の予算
 事務経費人件費400万円 宣伝広報活動費600万円

□新しい組織の発足のために
①準備会
 憲法9条京都の会が発足するまでは、同会の準備会が準備を進めます。

②呼びかけ文
 憲法9条京都の会準備会で、結成の呼びかけ文を作成します。

③呼びかけ人
 2007年5月3日憲法施行60周年のつどいの呼びかけ人36氏にもう少し広範な人たちを加えて呼びかけ人になっていただき、憲法9条京都の会の結成を呼びかけてもらいます。
 呼びかけ人には、憲法9条京都の会の結成呼びかけ人として公表することを了承していただきます。
 また、できるだけ会員にもなっていただきます。

④発足の時期
 2008年3月頃


************************


本日掘り起こした
京都教会の
週報巻頭言は


教会が教会を発見

2008年02月21日 | 教会のこと
第11弾
(教会の定期総会に向けて
 週報巻頭言でも
 今年度を振り返る企画の)


当教会で全国ろう者修養会が開催されたときの
10月14日の
週報巻頭言です


*********************

「教会が教会を発見する」

一昨日、昨日と、
当教会を会場に第40回全国ろう者修養会が開催されました。

私はこの大会による交わりは教会だと思います。
キリストの身体として年に一度集められ、
またそれぞれの生活場所へ派遣され、
互いに祈りあいます。

そこでは先に召された仲間や
健康状態がおもわしくないため顔を見ることが出来ない仲間を覚えます。

いや、覚えざるを得ないのだろうと思います。
キリストの身体として
共に祈り歩んだ具体的なひとつひとつの出来事があるから
忘れようがないのだと思います。

それぞれの教会というキリストの身体があり、
またいろんな全国大会などのキリストの身体があります。

でも
逆に
すべての教会は
共に祈り歩み覚えあい
互いに忘れるはずがない!
かと問われると
悔い改めつつ
そうではないことを告白せねばなりません。

というのは
キリストの身体としてひとつ!
という思い以上に、
私の身体を統合して気分を良くしたい
(=アイデンティティを確認したい)
という
人間の自然な思いの強いケースが、
多いだろうからです。

「私」から「キリスト」へと
それも「身体」という生々しい部分で
移行することは
容易いことではないようです。

しかし、
実はそれが解放であり救いであり
キリストが
わたしたちに働きかけていることです。

現代の神学をリードするモルトマンという神学者が
こんなことを言います。

「私たちが理解してきた宣教とは、
永遠の救いを保証する教会の拡大、
自分の回心の体験の伝達であり、
それによるキリスト教帝国や西欧的価値共同体の市民が成立しているが、
そのような者であることが
聖霊による新しいいのちであることなのだろうか。
(省略)
聖霊の宣教はそれ以上のものだ。
百年前にブルームハルトが言ったように
『宗教から神の国へ、個人的な私についての関心から全体の希望』
への道を見出さねばならない」。

それぞれの教会や大会の目的は何であるか!

確認できる言葉だと思います。

それは勢力の拡大や個々人の内面というテーマではないようです。
ブルームハルトやモルトマンはそういうことを「宗教」と語ってますが
こういう「宗教」的なことより、
神の国として全体の希望を覚え宣言し続ける事が
本来の目的であったわけです。

キリストと出会うゆえに
この世界で出会うことが赦される隣人たちと祈りあい覚えあう!

これが聖霊による新しいいのちであり、
このいのちで満たされる現場として
教会は存在することが赦され
またそれを使命としていることでしょう。
そして
そこでこそ
教会は教会とされるに違いありません。

私たちは教会です!


**********************


このあたりの巻頭言は
総会を迎えるにあたっての
とても大事な理念になると
思いますなあ

教会という交わりが
前提となるところで
話し合いが起こらないと

逆に言うと
個々人の気分で
話し合いが起こってしまうと

キリストが
本当に
無視されることになるから・・・

いやいや
殺されることに・・・