入学式雑感は3回目
第一子と第二子のときのはこれ
とくに第一子のときは
はじめてということもあり
とっても熱いですねえ
そして今年は第三子がめでたく小学校入学
というわけで
その雑感を
まずは昨年の反省をいかして
早めに入学式会場に行きました
それは、家族席に座るためです
昨年の第二子のときは
ぎりぎりで行ったら
席が埋まってしまっていて座れませんでしたので
今年は気合を入れて席を確保しました
なぜそこまでして席を確保するかというと
国歌斉唱のときに
ちゃんと着席するためです
立ち見だとそれができないので
それではキリストに生かされている者として
キリストさんに申し訳ないので
席を確保して
着席できるようにしました
で
着席したのは
わたしたち夫婦だけだったでしょうか
でも
みんな見事に歌わないですねえ
わたしは
ほかの類似した現象も含めつつ
こういうあたりに今の社会の無意識を見ているところです
その無意識が
ここ
というときには働くわけですが
わたしは
だから
つまりそういうふうに予想しているわけです
で
今年は校長先生が変わりまして
おはなしを楽しみにしていたのですが
まったく過去二回とまったく同じおはなしでした
なるほど
校長先生の入学式のおはなしは決まった原稿があったわけです
その内容の貧しさは過去の雑感をどうぞ
なんというか
たとえば
フランスの学校で
14歳の子どもが必須の哲学を一年間学んだら
あまりに非論理的ではずかしくて言えないというような
そういう内容であります
論外なわけです
PTA会長の挨拶も
またもやまったく同じで
やっぱり
その14歳の子どもがはずかしくて聞けなくなるほどの内容でして・・・
こちらも論外なわけです
言い方をかえると
言葉が貧しすぎるし
言葉が大切にされていません
日本社会の一番の問題点は
ここにあるのだなあ
と思います
言葉というものが大切にされないから
関係が大切にされず
契約や交換というものもきっとピンときていないから
実は経済もわかることがないという
そういう貧しさにあるのだなあと思います
当然
贈与や奉仕という事柄が根付くわけもなく・・・
ということは
その逆の
独占と搾取をしやすい体質でもあるなあ
と
あらためて確認しました
面白かったところは
同じ内容だけど
校長は前任よりも勢いがなく
(これは語っている言葉にそんなに納得していないと見ました)
PTA会長は前任より勢いがあった
(こちらは論外な論を信じきっているようにも見えました)
というところでしょうか
いずれにしろ
もう少し
人間らしい音と間とリズムといったものも
意識したらいいのに
と思ってしまったわけです
でもまあ
しかし
第一子のときにみたいに
変に心配しているわけでもなく
まあ
こんなもんなわけです
トップがこういう人になるというのは構造的な問題で
さらにこういう言葉が生まれるのも構造的な問題で
わたしはたまたまキリスト教会や
東京でも福岡でも
キリスト者の学者たちに当たり前に学ぶことがゆるされ
また多くの牧師たちに育てられているので
そういう構造的なところから
ある程度は解放されているのかもしれませんが
そういうのにいまだ出会っていない人は
そういうわけにはいかず
その構造内でしたたかに生きるか
洗脳されきって生きるしかないわけで
(たぶん洗脳されるのも半ばわかりつつ
しかしそのことを意識にはのぼらせずに
生きるために洗脳される決断を
皮膚感覚でしてしまうのだろうと思います)
結構大変なことだろうと想像します
で
その論外の論ですが
それは
目の前で起こっていないことを
まるで起こっているかのように嘘をつくという論です
子どもからのリアクションがないのに
すばらしいリアクションがあったかのようにしてみたり
逆に変なリアクションがあるのに
それはなかったことにしてみたり
きちんとしていないのに
きちんとなっていることにしてみたり
だから
先生たちも
入学式全体が
(写真撮影から各教室での説明までをも含めて)
ぜんぶきちんとなっているという
幻想の中で行動しているから
すごく
変な様子で
(表情も行動も不自然なんです)
わたしなんかは
もっとのんびりと自分を表現しながら
丁寧にひとつひとつ言葉を発し行動すればいいのに
と思ってしまうわけです
保護者用の椅子が足りないとなると
みんなが同じスピードで走り
椅子を出し始めるとか
いろいろと指示をするにも
眼が半分しか開いていなくて
半分は脳みそに入っているマニュアルを覗いている感じで
だから
場の空気をつかんでいなくて
写真撮影では
子どもたちが足を閉じることに
びっくりするくらいしつこくこだわり
教室では
子どもたちに不思議な笑顔をふるまう一方で
落ち着かないアシスタントスタッフがせかせか動き・・・
もう全部
コメディのようでした
いや
これがコメディなんだと思います
そういう演技を
みんなが知らず知らずのうちにするしかないのだと思います
まあ
人間なんてのは
演技なしで生きられることなんかなくて
わたしはわたしで
必要な場では
本質的でない部分における
牧師という格好をを演じるわけですし
そもそも
オオタニシンキ
を演じている部分もないはずはないのですが・・・
でも
あまりにも演技の部分で占められる割合が高く
(というか全部演技に見えましたが)
これも
言葉が未熟なゆえだろうとも思います
そうそう
ビデオやカメラを構える家族の姿も
コメディでありましたよ
もしかしたら
コントの領域に入っていた部分もあったと思います
それを真顔で本気で生きているから
わたしは
笑うのをこらえるのに必死でしたが
本当は
笑うようなことではなく
もっと真剣に受け止めるべきことかもしれません
でも
しかし
笑っておこうと思います
ユーモアっていうのは
人間のもっとも高尚な
もっとも脳みそを高度に活用する
事柄でありますし・・・
というわけで
全国的に注目されている実験公立校の
論外の論が奨励されているというところは
笑う以外にないのだろうなあと思います
しつこいけど
言葉が未熟ということは
関係性が共同体が未熟ということで
契約や交換
奉仕や贈与
福祉や経済も未熟ということで
もちろん
教育も未熟で・・・
ということは
そういう世界にいるわたしも
どんなにがんばっても未熟で・・・
でも
教会で生きてて
よかったあ・・・
そうそう
その後の
午後の看護学校の入学式は
校長先生のはなしも
理事長のはなしも
深かったです
校長のはなしの
看護学は人間学です!
っていう出だしはしびれました
理事長の
キリスト教精神がいかに看護の中核をしめるか
というはなしもしびれました
説教は
校長や理事長が関係性、隣人性を語っているのとは対照的に
自己実現性という枠で語っていたので
ちょっと印象が薄かったですが
しかし味わい深いものでした
小学校の入学式のとき
体育館の屋根に雨がぶつかる音が響き
教会で行われている炊き出しが心配で心配でしかたなく
終わったらタクシーで急いで帰りましたが
本日は春休みということもあって
高校生ボランティアもたくさん来てくれていたし
大学生も来てくれたし
なんとか対応できていて
ほっとしつつ
感謝するばかりでした
神奈川の大秦野教会のメンバーが
旅行中に教会に寄ってくれて
炊き出しを終えたみんなと一緒にコーヒーを飲むこともできて
これまたうれしいかぎりでした
とまあ
そんなこんなの一日でしたが
なかなかたのしいものでありました
ではまた明日