きぼう屋

生きているから生きている

5・3憲法集会実行委員会は今夕

2008年04月17日 | 守ろう憲法と平和きょうとネットのお知らせ
本日(4月17日) 19:00~
日本バプテスト京都教会にて

5 ・ 3 憲 法 集 会 実 行 委 員 会


開催されます

生憎の雨ですが
開催前最後の実行委員会となりますので
なにとぞよろしくご出席のほどお願いいたします。

実行委員長 大谷心基

どっこいしょ

2008年04月16日 | 「生きる」こと
若菜さんのおなかは
どんどん大きくなっていきます

あるくのも
どっこいしょ
ってな感じになってきました

あと2ヶ月ほどで出てきてくれる予定です

5人目ってどんな感じなのか
ってなことを
5人の子どもを与えられている先輩たちに
いろいろ聞いてみたりしながら

子どもたちが大きくなるほどに
少年少女となったときはそりゃあ
とても大変なことになる!
ことを
今から覚悟をもって引き受ける準備をはじめているわけですが

とある先輩が
こんなことを言ってくれて
なるほど!
と思いました

「5人目は孫だね」

もはや子どもを通り越して
孫と生きている感触を受ける!
というのは
4人目とのかかわりからも
たびたび思います

昨晩
4男はおもちゃを思いっきり投げておりました
だから
注意せねばなりません

注意します

その注意にリキが入りません

長男や次男が同じことをしたとき
自然に
とてもこわい顔になって
注意を超えて
怒っていたことを思い出します

しかし
4男が同じことをしても
注意している最中に

もっとこわい顔で言わないとあかんなあ・・・
なんて考えていたりします

まあ
でも
これでいいでしょう

4男のことは
長男や次男がうまいこと注意してくれていますし・・・

だから
5番目が顔を出したときには

そりゃあ
孫になるなあ


楽しみなわけです



若菜さんは
動きはじめは

どっこいしょ

ってな具合になってきまして

「無理はあかんよ」
とつい言うものの

聞き入れてもらうことはなく

聞き入れられる状況ではなく
かかわることとやることのあふれる日常で
無理するしかないわけですが

だから
そんなん言われた若菜さんは
その言葉と日常とのギャップを味わいつつ

「うん」

と言うしかないわけでもありますが・・・

だからといって
「無理はあかんよ」
という言葉が
非現実的で無意味
ということではなくて

「無理はあかんよ」
「うん」

というコミュニケーションにおいて
互いにギャップを日々痛感しつつ

その痛感の繰り返しが
いざここ
というときに

無理を回避できるということにも
なるなあ

と思うこの頃です

でも
無理はあかんのです


仕方がないのでご説明

2008年04月15日 | 平和のこと
日本バプテスト連盟は
2002年に
平和に関する信仰的宣言を採択しました

とても深い宣言です

しかし多少の批判も受けています
それには応えたいなあ
と思いつつ
しかし
中身を丁寧に批判するものではなく
軍備を否定すると
左翼

されてしまうというような雰囲気に染まったところの批判や
バプテスト連盟という交わりにおける
自身の抱える不満を
なんかぶつけているという
無意識のすり替えによる批判がほとんどで
面白い対話ができないでいます
これはまことに残念!!

しかし
「共に」「和解」というテーマが
含まれてはいるけど弱いのではないか
という批判はとても豊かで面白く
そのあたりはじっくり考えている途中ですし
いくつか応答することもできているところです

さて

そんな中で
あの
2chにおいて
平和宣言をした日本バプテスト連盟というものを
批判および非難したい人たちが意見を交わしております
(このかん読むのに疲れました
 が
 心配してこういうスレッドがあることを
 教えてくれた友人たちのために
 がんばって読みました)

やはり
軍備の否定への反対と
バプ連なり教会なりの交わりに対する
ストレスやコンプレックス
によるところの意見というところで
類型化されるかなあと思います

まあしかし
とても熱く意見を言っている人もいて
(ただあわれむしかないような誹謗意見は
 いまのところ無視するしかありませんが)

議論の質はこの際どうでもいいでしょう
熱く意見交換をしているというのは好きです

しかし
本当は彼らが面と向かって意見を言えるようになるための
各教会における牧会は重要なことだなあ
と思います

匿名で意見を言うことは
キリストに従う者にとって
あり得るのかなあ・・・



その2chのスレッドが盛り上がっている原因のひとつは
どうもわたしのかつての発言が
インターネット上に載っていて
そこに載るたった少しの文章から
想像を膨らませて
非難したり誹謗したりしているというところにあるようなので
それが
私自身に対する誹謗のみならず
なぜか
連盟で平和を求める人たち全体への誹謗にもなっているので
それはそれは申し訳ないので

しかもあのスレッドの中で
わたしにたいする誹謗と
たたかってくれている人もいてくれて
(ほんとうにすみません!ありがとう!)・・・

また
とりわけ教会に新しくこられる方
教会を探している方にとって
こういうのが判断材料になってしまう世の中でもあって・・・
だから
ちゃんと本当のことを知っておいてもらわないと・・・
2chで情報を集める人は
当教会を知ろうとするなら
このブログも見るだろうから・・・

だから
ここで説明しておこうと思います

(本当は放っておきたいのですが
 2chなんてものは・・・
 しかしそういう時代なんですなあ
 困っている仲間たちのために
 書きます)
 

取り上げられているところのわたしの発言は
こういうものですが

(3000文字ほど話した中の
 たったこれだけなのですが)

2004年の自衛隊イラク派遣直前に行ったもので
(派遣直後だったかも・・・)

自衛隊派遣をできるようにした様々な法律と
そのもとにある日米安保条約というものは
本当に「平和」なのか
いや「平和」ではなく
「安全」を語っているに過ぎないのではないか
といったところを

ボンヘッファーの1934年の講演から引用しながら
(エーリッヒ・フロムの言葉も確か引用しました)
「平和」と「安全」の違いを述べ
「安全」とは軍備であり戦争であって
「平和」の逆である
ということを語りました

だから
日米安保と有事法制は「安全」のためではあっても
「平和」のためにはならず
「戦争」のためのものなのだ
と語ったわけです

そこで
問題の
「共産党は本物の平和を語っている」
というのは
その前に
日米安保条約に共産党が反対し続けているということは
すくなくとも「平和」と「安全」を取り違えてなく
そういう意味で「本物の平和」を語っている
と述べたわけでありまして
(それもリップサービスで)
別に
わたしがキリストの平和を放棄して
共産党の平和を本物と言っている
という2chによる
(たぶんこれをもとに非難している人は
 若干名のようですが
 もしかしたら一名かもしれません)
非難は
的がはずれているわけです

いやいや
それどころか
わたし
相当にどうどうと
聖書の話をあの場でして参りました
だって牧師なので・・・

さて
しかしなぜわたしが共産党の大会で発言をしたかというと
わたしは守ろう憲法と平和きょうとネットの代表でもありまして
そのネットでは憲法記念日に
京都新聞に意見広告を出してきた時期があり
その年も出したのですが
その資金が集まりきっていないという事情がありました

そんな折
共産党大会でネットの代表として話してくれないか
という依頼がありまして

わたしは
そこで意見広告のためのカンパを集めることを条件に
発言することにしたわけです
おかげで
資金面がなんとかなり助かりました
それがなかったらたぶん断っていただろうと思います


しかし
たくさん話をしたなかで
あのいまだにネットに残っている部分だけが切り取られて
赤旗で取り上げられたことについては
わたしは実は
載った直後に抗議しております

話した本人としては
話の中心部分でないところが取り上げられるのは
面白くないわけです

ちょっと
共産党運動に利用されるかたちで
発言の一部が切り取られたということは
言えるだろうと思います

そういう意味ではいまだに残念です

でも京都では
共産党さんが社会的に弱い立場にいる人を
よくよく助けていることは
生活していてよくわかることで
(だから全国的に共産党が力を失っているけど
 京都ではまだ力をもっているのだと思います
 これは地域市民の皮膚感覚だと思います
 その意味では尊敬はもちろんしております)


やっぱりあのような切り取られ方をした記事が残っているのは
わたし自身
いい気分もしないし
バプテスト連盟がそれで非難されるのもつまらんので
今一度
削除依頼のメールはしておきました
聞き入れられるかはわかりません

また
守ろう憲法と平和きょうとネットは
平和というテーマで話したり対談したりということは
公式非公式に
各政党で行っておりまして

別に共産党だけでなくて
たとえば
あの野中さんとも対談していますし
(まだ野中さんが現役のときに!)
それは京都新聞にも取り上げられています

またどの政党の支持者でも
出会って話すことができれば
みんな情熱あふれた
他者のために生きるなかなかの人たちで
わたしはかなり好きです

自民党を支持している人でも
共産党を支持している人でも

出会って話し込むと
2chに見られるような
変な対立には
経験上
ならないということもできます

要は

出会うか否か

名前を名乗って目をあわせて話すか
匿名でいがみあうか

世界のために他者のために
政治や宗教などにしっかりかかわることができるか
それともはすに構えてかかわったり
投票すらしないということを選ぶか

そういうところが
大きな問題点ではないかと思います


ってなわけで

2chで「牧師もどき」とまで言われております
わたしでありますが

残念!!

わたしは
どんな政治家に対しても
聖書を語るというところの
「牧師」という職務を
選び取っているところの者なわけです

ってな具合で

心配してくださっているみなさま
よろしゅうございますでしょうか

ご心配をおかけして申し訳ありませんでした

しかし

心配するほどのことでもなくて
本当は気にする必要のないことであり
ぼくらが気にせねばならないのは
キリストの愛によりつながるということのみである
といったことを
最後に述べさせてもらいつつ

おしまい。。。

といいつつ
追伸

その2chで
連盟総会に行こうみたいな書き込みがあって
それこそ大事なので
ぜひそうしていただきたいと願っております
総会などの場で顔をあわせて議論すればよいわけです

逆に匿名書き込み者のみなさまには
匿名は
聖書的か
信仰的か
ってなところも議論してもらいたいなあ

この議論を匿名でする
という矛盾もあるかもしれませんが・・・


そんなこんなで新年度もはじまってます

2008年04月14日 | 教会のこと
新年度
仕事をされている人は
とても忙しいときです

でもそういうときは
キリストが大好きな人たちは
むしろ教会に行きたくなるわけで

表情に疲れを見せつつも
昨日も多くの仲間が教会に集まりました

祈ります
キリストが共にいます
キリストは本当に癒し主です

忙しいときなので
礼拝の遅刻が多かったけれども
本当は
牧師として叱らねばならないけれども

わたしも献身前はそういう生活を送っていて
よーくよーく分かってしまうから
礼拝に参加できたということが
すでに聖霊の導きであると
信じております

でも
礼拝の最初から一緒に参加できるためにも
しっかりたくさん祈ります


忙しいときなので
礼拝だけでも体力的に大変だと思いますが
午後は
教会学校のリーダーたちはその役目をこなし
その後の全体懇談会でいろいろと共有し
さらに夏の「平和の旅・広島」実行委員会が行われ
全部終了したのは午後4時を過ぎていまして

頭が下がるばかりであります

しかし
全体懇談会では
今年度みんなでしていきたいことが
嬉しく確認されました

トイレに手すりをつけること
(どんなにお金がかかっても
みんなで献金するから
すべてのトイレにつけよう!
 というもので嬉しいかぎり)

庭を整備すること
(固めてしまう手もあるけど
 でも土の庭のままでいこう
 ということを、
「土」の意味から導き出すという
 感激の展開でした)

愛唱讃美歌と聖書箇所のアンケートを実施すること
(召されたときのために
ということでした
I牧師の召天を受けて
みんないろいろと問われているようです)

みんながなんらかの委員を担おうということ
(おかげでどの委員会も楽しく活動できそうです)

手話言語を用いる方と子どものために
交読文と教会の約束と主の祈りは
さらにゆっくり読もうということ
(今でもたとえば主の祈りは
 他の教会に行くと早すぎてついていけないくらい
 京都教会はゆっくりですが
 全員で祈ることが出来る速度をめざし
 さらにゆっくりにするということが確認されました)

教会の約束のOHPシートを
もっと見やすいものにするということ

教会の約束の中身をもう一度吟味しようということ
(今のものは1952年に教会で作ったものです
 連盟のものとは違います)

60周年に向けた取り組みを再スタートさせようということ


まあ盛りだくさんでしたが
教会のみんなが
このようにいろいろと考えてくれていることが
なにしろ大事で
さらにそれぞれを担う人がでてくるというのも
すごいはなしで

なんとも主とみんなに感謝するしかありません

ただ

わたしのかわりに
墨をすって
筆をもってくれる人は
現れませんでした
残念!!

もう覚悟を決めて
わたしが書きます

平和の旅・広島に関しても
平和に関する事前学習・事後学習のこと
現地での学習のこと
にプラスして
広島のおいしいものを食べるという企画まで
整えることができました

変に忙しすぎる世の中ですが

(教会が忙しすぎる
 というテーマも連盟各教会でよく聞かれますが
 わたしは
 教会は別に忙しくはなっていなくて
 むしろかつてよりどんどん暇になって
 というか
 活動と交わりがうすくなっていると思っています
 忙しくなったのは
 仕事や学校や家庭などの社会のほうで
 この現象は実は相当深刻な人間を退廃させる現象であるとも思います
 教会は
 教会メンバーが
週に2回ほどなんらかのかたちでかかわる
 というくらいが
 ちょうどいいだろうなあと考えていますが
 いまのところ
 週に1.5回くらいの活動量をやっているところです)

忙しさによって
生命と世界にとって最も大切なものを見失わないように
互いに覚えあい祈りあいたいと願います

なにしろ

創造と十字架と復活と再臨の主が
共にいます!!

歴史の掘り出し

2008年04月13日 | 「生きる」こと
歴史を掘り出す作業は
ありとあらゆる資料を
因果で結びつけるかたちで
それは同時に
目的とそのための行動というかたちで
くっつけて

こういうものだった

という
とりあえずの過去を
提示してみるということなのでしょう



そういう方法が
歴史を掘り出すことには
ならないなあ

と思うこのごろです

イラクの状況が隠され
パレスティナの状況が隠され
チベットの状況が隠され

こういう地球の状況を見ると

約65年まえの日本が
どれだけのことを隠しているのかということが

資料でどうのこうの
ということからではなく

人間の本性を追体験するかたちで

わかるのだろうなあ
と思います

歴史では

主イエスが背負う十字架が隠され
なかったことにされるわけです

だから
十字架の主イエスが
どこにおられるのか
誰であるのか
という問いをもっとも大切にする

キリスト者は

十字架を追体験するかたちで
コンパッション(共苦)
していくわけです

コンパッションは
資料以上の普遍性を持つと

キリスト者は
十字架の主イエスに従うキリスト者は
言い切っていいはずだと思いますし

そこでこそ

歴史が歴史とされるのだろうと思います

その歴史を隠すのは
たとえば

今なら
命よりよりも聖火が大切だ
という幻想であり

63年前までの日本なら
命よりも国体が!
であったり

イラクにミサイルを降らせる者たちだったら
命よりも「自由」「民主主義」というイデオロギー!
であったり

もっというと

ひとつひとつの命よりも国であり
ひとつひとつの命よりも地球規模の祭典であり

という幻想なんだろうなあ

と思わされます



歴史を掘り起こすとき
資料を分析するとき

そういう幻想から解き放たれて
つまり
まずは今を生きる自分がそういう幻想から解放されて

そこから
資料を見つめ
歴史を見る

ということは欠かせないのだなあ
と思います

そして
幻想から解放されて残るのは
十字架へのコンパッション!!

つまり

主イエスへのコンパッション!!

「聖霊が共にうめく」
からこそのコンパッションは

キリスト教会が獲得せねばならない
最重要課題といっても過言ではない
事柄だと思っております

というところで
おしまい。。。


おやすみなさい。。。

あたたかさ

2008年04月13日 | 教会のこと
朝の祈りを終えました

4月から九州より京都にこられたYさんが
ウチの教会での初めての礼拝だなあ
ということで
たくさん祈りました
水曜日の祈祷会に
はじめて

すごく久しぶりに参加してくれた仲間を覚えて
たくさん祈りました
新年度京都からはなれ異なる地で歩むようになった仲間
あたらしい環境で働き学ぶようになった仲間
高齢者
子どもたち
その家族たち
若者たち
を覚えて祈りました


昨日はTさんの納骨式がありまして
比叡山の霊園へとのぼり
ご遺族といっしょに礼拝をしました

とてもステキな家族で
こういう家族をつくりたいなあ

本気で思っております

なにしろみんなあたたかくて
みんな明るくて笑いが絶えなくて
みんなすこぶるリラックスした表情をしていて
家族のみんなが自由になんでも言えて
みんな声をしっかりと出していて
余計に気を使うことはなくて
自然に気をきかせてくれていて
だから
家族以外のわたしみたいな者が
気を使わなくてよくて・・・

Tさんの家族に
地域の人たちや同級生など
たくさんの人が集まることがよくわかります

墓地の帰りに
みんなで喫茶店に行きまして
空間も
お茶も
ケーキも
ばつぐんでありまして

暖炉に薪でもって
暖をとっているから
とてもやさしいあたたかさのある空気に囲まれて

気持ちのいい時を過ごさせていただきました

さてさて
これから礼拝なわけですが

京都教会が
ああいう家族のあたたかさと
ああいう空間のあたたかさとを
持ちうることがゆるされたらいいなあ

神さまに祈るばかりです

礼拝を祝し
交わりを祝してください

アーメン

複眼体

2008年04月12日 | 教会のこと
明日の週報巻頭言です。


*****************


「キリストの体という『複眼体』」

まずはじめに、
教会に集うみなさまにお尋ねしたいことがあります。

今年度のテーマ(「キリストの体とされて」)

聖書箇所を、
筆で書いて、
礼拝堂のピアノの上に貼ることが、
先週の執事会で決まりました。
そして、
書くのは私
となったのですが、
もし、
書道の得意な方がおられたら、
代わりに書いていただけますと、
私は
極度のプレッシャーから解放されます。
お申し出を心よりお待ちしております。

さて本題ですが、
「複眼体」という言葉が
あるのかどうかはわかりませんが、
ちょっと思いついたので、
使用してみます。

私たちはそれぞれ、
日々の世界の出来事
(地球規模の出来事も身近な生活の出来事も)
を、
自らの経験、体験、知識、感覚などを駆使して、
しかし
わりと一瞬のうちに捉えて考えるのだろうと思います。

そしてその際によく言われるのは、
視点はひとつではない!
ということではないでしょうか。

つまり、
複眼的に(複数の視点を持って対話させつつ)
捉え考えることは、
より真実に迫るために、
また、
ひとつの考えにこだわらなくてよくなるために、
とても大事なわけです。

そして、
キリストの体とされるわたしたちは、
された時点ですでに
「複眼体」として、
複数の視点を持つしかない!
という状況の中に、
ありがたくも
神によって放り込まれた!
のだろうと思います。

そこでは、
様々な喜びの視点と、
様々な苦しみの視点という、
あらゆる視点が
入り混じり
ぶつかり
反発し
こんがらがりながら、
まさにキリストによって解放されるところの状況が、
愛と希望と信仰として、
見えてくるのだろうと思います。

一方で、
一つの意見が幅をきかせる!
ということから解放される!
ことも起こることでしょう。

もちろん最初はあるひとつの意見から始まったとしても、
そこに複眼的意見が重なりに重なり、
全く新しいものが創造されるという、
まさに神の出来事が、
キリストの体では
本当に起こるのです。

本日午後の全体懇談会は、
この神の業を味わうところです。

ぜひご一緒に
「複眼体」を体験してまいりましょう。


神の言葉を食べる

2008年04月11日 | 教会のこと
「人はパンだけで生きるものではない
 神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」

イエスの引用するこの言葉が
とても大事だなあと思います

神の口から出る一つ一つの言葉で!
生きるのであります
わたしたちは・・・
この世界全体は・・・


この神の言葉で生きる
というのは
活字を目で追って脳みそで理解する
というかたちで生きる
ということ以上のこと!と思います

この聖書の言葉から知りたいのは

神の言葉をパンのように食べるということです

わたしたちはしばらくパンを食べていないと
おなかがすいてパンを求めます
それも
命にかかわるものとして
時と場合によっては
死をぎりぎりで免れるために
パンを求めます

空腹のとき
わたしたちはむしろ
パンのことしか思いつかなくもなります

それも

そのパンの

かおりと
味と
色と
かたちと
手触りと
歯ごたえと
のどから食堂を通る感触と
おなかにおさまる感触とを

見事に生々しく思い浮かべることと思います

神の言葉も
そういうものです

神の言葉の

音と
色と
においと
かおりと
歯ごたえと
食感と
のどごしと
重みと
衝撃とを

わたしたちは

世界が世界とされず
生命が生命とされず
キリストがキリストとされず

ゆえに
わたしもわたしにされないという中で

まさに飢えており

神の言葉を
そのような生生しいものとして
がっちりと思いつつ
激しく求めるのでありましょう

その聖書の言葉は

たまたま開いたところの聖書の言葉であっても

わたしたちが
端的に
キリストに従い
神の国と神の義を求めているなら

つまり
信仰を生きるなら

つまり
飢えているなら

つまり
キリスト以外の諸力で飢えを解消してしまっていないなら

かならず
神の言葉として
生々しく飛び込んでくるはずです

そして
その神の言葉は
神の口から一つ一つ出てきたものであります

聖書を開き
たまたま読んだ文字であっても
それが神の口から一つ一つ出てきたものであることを
わたしたちは知らねばなりません

そして
神の口から出てきたものとして
聖書を食べるならば

極めて
五感以上のすべてに神の言葉が接触するかたちで
とりわけ首から下に響くかたちで
骨にひびき
内臓がふるえるかたちで
血がおどり
細胞が湧くかたちで

パンが身体をつくりいやす以上に
当然はるかにそれ以上に

神の言葉はわたしたちを
つくりいやします

救います


神の口から一つ一つ出るということ
これこそ聖霊というものでしょう

聖霊を決して
脳みそですっきりとわかるものに
偽造してはなりません
空気や波動みたいなものでもって
身体をみたす物質的なものというふうに
格下げしてはいけません

聖霊とは
神の口からでる一つ一つの言葉です
だから神の息であります
それは
神の口から私たちの口に
なんとも
口移しで与えられるところの
なによりも必要な食であります

わたしはつばめの親子を思い浮かべます
また
母親が赤子に乳を与える姿も
極めて類似していると思います

これが聖霊の働きです
それくらい
神が一人一人に丁寧に
今日もかかわりはたらくことを
強烈に知ることができるからこそ

わたしは神を信じ
神の口から出る一つ一つの言葉を頂いた者として
キリストに
極めて
あの生々しさをもって
従いたいわけです

そして
キリストと共に歩むところは

十字架の生々しさが
べったりと在るところの
現実です

聖書の言葉で生きることを
聖書に散らばる言葉を脳みそで論理的につなげて
自分なりの論を立てて
それを行き来させると
いうことと
同じにしてはなりません

聖書の言葉で生きるということは
生々しい現実
生々しい他者
と共に
在り
生きるということのみです

具体的に顔をあわせて
互いの肌の色と汚れとにおいと手触りと
口からの音とにおいを
行き来させるという只中で
聖書の言葉が
つまり神の口から一つ一つ出る言葉が
はじめて生きます

だから

教会抜きの信仰は本当にないのです
交わり抜きで聖書が神の口からの言葉になることはないのです

聖書の言葉は
あれだけの深い中身があるから
いかようにも
深い考察を導き出すことが出来ます
無論
安っぽい考察も導き出すことが出来ます

でもどちらも
それこそ原理主義だと思います

教会の交わりで
具体的に生々しく行き来し

生々しいゆえに
起こるべくして
互いに崩され壊され
再創造され

その体験ゆえに
死と傷と痛みを
罪を
共に背負うことをも与えられ

その現場で

共に
パンを頂く恵みに与り
同時に
共に
神の口から出る一つ一つの言葉を頂く恵みに
与るのでありましょう

神の言葉が
変造されず偽造されず
神の言葉として与えられるには

教会の交わりを
死守すること
それはただ集まるというのではなく
生々しく
互いの中身が行き来するという交わりを
死守すること

本当に不可欠です

それは
論を戦わせることの前に
とりなしの祈りをしあうということであるし
共に讃美をするということであるし
共にいるということでありましょう

他者のために動くということでありましょう

その中で
論が論となるのを経験することでありましょう

他者なしの論が
論外であったことを知ることでありましょう

論なんぞは常におぼろげであることを
突きつけられることでありましょう

他者のために祈りなさい

わたしが牧師として命令する行為はこれひとつです

他者のために祈るなら
その他者との関係における
とりわけ首から下に
骨に内臓に
ひびくところの生々しい感触ゆえに
それも瞬間瞬間の生々しい感触ゆえに

飢え

だから
その瞬間瞬間に
神の口から出る一つ一つの
そう一つ一つの言葉を
求めるしかなく

そこで
十字架を経験し復活を求め
敵対を経験し和解を求めるしか
ないわけでありましょう

この過程を通らない人生はあり得ないと思います

神の言葉は
首から上で読んで考える以上に
飢えるゆえに食べて
首から下が反応し応答する
ことを導き出します

今後とも
パンと
神の口から出る一つ一つの言葉を
一緒に
食べたいと願います

神の口から出る一つ一つの言葉が
わたしたちを
救い出し
それはつまり
罪をさばき
罪をゆるし
神と
他者と
世界と
和解させます

(ここでいう教会は
生々しい交わりの只中のキリストに生かされる「教会」
を目指しているところの教会のことです)


祈祷会

2008年04月10日 | 教会のこと
昨日の祈祷会は
赴任以来もっとも印象深いものとなりました

なんと
いつものメンバーはみんな欠席でした

葬儀
家族の入院
体調不調
孫の世話

などで来られないという連絡をいただいておりましたが
そのほかのメンバーの参加もなく
こういうのは初めてでした

しかし

半年ぶりのYさんと
Yさんの友人のSさんと
教会のプログラムは初めて参加のIさん
が来てくださり
そこで出会うことがゆるされ
じっくりと話し込むことができて
さらに
互いに祈って欲しいことを祈りあうという

まさに感動的なときとなりました

たまたま来てくださった3名がいなければ
祈祷会は妻と二人というところでしたし・・・
しかしそのたまたまで
3名も来てくれたし・・・

たとえばもし
いつものメンバーが来られていたら
これほど話し込むことは逆にできなかっただろうし・・・


きっとこれが
祈祷会の原点なんだろうなあ
というような
祈りに対する熱さがありましたし・・・

なんとも不思議に整えられまして・・・
感謝感謝です・・・

わたしが京都教会に赴任して

礼拝
祈祷会
教会学校
執事会
総務
各委員会
各会
特別プログラム



形骸化していたり
一部のがんばりでようやくつながっていたり
もはや消滅していたり・・・
でしたが


今は
だいたい整い
祈りと情熱が込められるようになってきたと思います



そうなっているからこそ逆に

水曜日の祈祷会が
教会全体の意識となっていないことが
目立ちはじめましたなあ
と思ったりします

もちろん
火曜日の昼に新たに祈祷会を設けて
それが定着し
そこに情熱が注がれているという
優れてうれしいことがあるし

わたしが礼拝などのように
祈祷会の意味やプログラムを
全面的に見直すという取り組みを提案していないこともありますが

でも
水曜日夜の祈祷会は
すごく大事なので

ここでのとりなしの祈りの共有は
キリスト者の人格形成と
その前提であり基礎であり源泉である
教会共同体形成に
きわめて有益なので

これからは
ばりばり

水曜日夜の祈祷会の再創造を
祈りつつ見つけていきたいと思いました

来年度(2009年度)の
重要課題として
10ヶ月後の総会に提出できるよう
しっかり考えたいと思います



コメディな世界の中でのユーモア

2008年04月09日 | 「生きる」こと
なんとなくおなかが重たいので
胃酸を飲もうと思って
上を向いて口をあけて
胃酸を放り込んだけど

マスクをしたままで
胃酸はマスクの上にのっかってしまったところの

大谷心基でございます

とまあ
日常生活におけるコメディは
いろいろとあるわけですが

昨日は
日常とズレたところの厳粛さが
伝統・文化・習慣という理由をともなって
ますます厳粛であろうとするとき

笑いをこらえることができなくなるほどの
かなり高度なコメディとなっている

というあたりの記事を書きました

こちらはコメディですが


本日はその逆側に

ユーモアがある!

ということを書いてみたいなあと思います

(おとといの記事では
コメディとユーモアを混同している部分もありましたが
 混同はゆるされないなあと思いました
 すみません)

つまり

生がぼくらに求めるところの生であること
世界がぼくらに求めるところの世界であること
人間がぼくらに求めるところの人間であること

(簡単に書いてしまっていますが
 良心的な思想家がどんなに文字数を使っても
 なかなか表現しきれない事柄なのですが)

とは
ときに正反対であるくらいに
ズレているところの

つまり
その時代その地域が求めるところの
ズレた

人間
世界
の只中で生きるしかない私たちが

しかし
あの優れた思想家たちが表現しきれない事柄を
皮膚と筋肉と内臓で受け止めて
それゆえに
すべての血管が喜びつつ笑うしかないという

そういうユーモアこそ

ぼくらが歩む上での
最も崇高な力であり行為であるというは
本当だと思います

ズレた世界からみたら
それこそ逆にズレている
愛と希望と平和と信仰に満ちた生と人間と世界が
身体全体に飛び込んでくるという

ユーモア



どんどん発見していくというのが

思想の役目であるし

牧師の役目だし

キリスト者の役目だし

人間の役目なんだろうと思います

というわけで

本日も一日

ユーモアいっぱいで

(ユーモアはヒューマンと同じ語源でして
 なんてことはもう書かなくてもいいか・・・)

歩んでまいりましょう


遅くなりましたが

おはようございます!!
 

コメディな世界の中で

2008年04月08日 | 「生きる」こと
コメディってのは
人間の日常との
ズレ
を表現することで笑いを取るのだと思います



最近まじめに行われていることが
笑うしかない場合が多いと思うのは
わたしだけではないだろうと思います

とくに
こだわるところがズレているものが
多いと思っています

入学式の不思議な厳格さがまずそうでした

いま
ここ
における
群れ、つまり他者の集まり
という超越的現実という日常に

急に
伝統・文化・習慣を
(PTA会長がこの三つが大事と強調していたので面白かったです)
厳格に持ち込む姿は

コメディでした

ウェーバーは
人間の行為を意味のある高度な行為からいうと
目的合理的行為
価値合理的行為
感情的行為
伝統的行為
としますが

伝統・文化・習慣は
ウェーバーの分析に従うなら
意味がなく高度ではない行為ということになります

まあそれはさておき

たとえば
国家や国旗にこだわるというのは
コメディの要素がたっぷりです

ちゃんとその共同体の内面から
僕らで言うなら
讃美歌のように
当然声が出るものとして表現されて意味があるわけで
それなしで
伝統・文化・習慣
ということで歌うというときの姿は
ズレがそのまま表現されるという
コメディなわけです

わたし
日本が好きでして
サッカーでも日本を徹底的に応援しますし
オリンピックでも同じです

どうあがいたって
日本で生まれ育っておりますし・・・

このあたりはとっても単純で
ある意味情けない人間性であるところのわたしですが

たとえば野球は
福岡にいけばホークス
関西に来ればタイガースを

見事に応援してしまいます

自分の住んでいる地域とか
身内を応援するという
一方ではくだらない情熱を
わたしはとってもたくさんもっておりますが

しかし
それと
国家・国旗は別問題なわけで

実は
多くの人がそれをうすうす
いやバリバリ
知っているわけでもあると思います

あと
この間面白いのは
聖火リレーです

火にあまりにこだわるゆえの
厳重な警備は
まさにコメディですし

火を消さないために
警察官が妨害する人をボカボカなぐっているのも
あれがフィクションだったらコントそのものであるわけで・・・

でも
それが実際に起こっているわけで・・・

なんとも悩ましいわけです

映画「靖国」をめぐるいろんな現象も
とてもズレていて
これを題材にしてコメディ映画をつくることもできると思います

表現の自由をめぐる問題というには
ちょっとレベルが・・・

でもそういう問題として丁寧に考える必要のある現象であることも確かですが・・・


やっぱり
日の丸・君が代に関する
教育委員会などの対応は
それを推進する姿も
それに反対する人たちに応対する姿も
見事に
コメディでして・・・

まずは
大笑いしてから
そういうものとして
真剣に取り組むべきなんだなあ
と思いました


こだわる部分がズレている・・・

でもこれって
笑ってからはじめるしかないけど
なかなかの
大問題ですなあ

悩ましいねえ

でも笑っちゃうねえ

最後にくりかえしますが

いま
ここ
他者
という超越的現実という日常の中に

伝統・文化・習慣というこだわりが押し込まれるという

ズレ


ちょっと多すぎて大きすぎるという
そういう中に生きているのだと思いました


入学式雑感・・・3回目ですみません

2008年04月07日 | 「生きる」こと
入学式雑感は3回目

第一子と第二子のときのはこれ
とくに第一子のときは
はじめてということもあり
とっても熱いですねえ

そして今年は第三子がめでたく小学校入学

というわけで
その雑感を

まずは昨年の反省をいかして
早めに入学式会場に行きました

それは、家族席に座るためです

昨年の第二子のときは
ぎりぎりで行ったら
席が埋まってしまっていて座れませんでしたので
今年は気合を入れて席を確保しました

なぜそこまでして席を確保するかというと
国歌斉唱のときに
ちゃんと着席するためです

立ち見だとそれができないので
それではキリストに生かされている者として
キリストさんに申し訳ないので

席を確保して
着席できるようにしました


着席したのは
わたしたち夫婦だけだったでしょうか

でも
みんな見事に歌わないですねえ

わたしは
ほかの類似した現象も含めつつ
こういうあたりに今の社会の無意識を見ているところです

その無意識が
ここ
というときには働くわけですが

わたしは
だから
つまりそういうふうに予想しているわけです



今年は校長先生が変わりまして
おはなしを楽しみにしていたのですが
まったく過去二回とまったく同じおはなしでした

なるほど
校長先生の入学式のおはなしは決まった原稿があったわけです

その内容の貧しさは過去の雑感をどうぞ
なんというか
たとえば
フランスの学校で
14歳の子どもが必須の哲学を一年間学んだら
あまりに非論理的ではずかしくて言えないというような
そういう内容であります

論外なわけです

PTA会長の挨拶も
またもやまったく同じで
やっぱり
その14歳の子どもがはずかしくて聞けなくなるほどの内容でして・・・

こちらも論外なわけです

言い方をかえると
言葉が貧しすぎるし
言葉が大切にされていません

日本社会の一番の問題点は
ここにあるのだなあ
と思います

言葉というものが大切にされないから
関係が大切にされず
契約や交換というものもきっとピンときていないから
実は経済もわかることがないという
そういう貧しさにあるのだなあと思います

当然
贈与や奉仕という事柄が根付くわけもなく・・・

ということは

その逆の
独占と搾取をしやすい体質でもあるなあ

あらためて確認しました

面白かったところは
同じ内容だけど
校長は前任よりも勢いがなく
(これは語っている言葉にそんなに納得していないと見ました)
PTA会長は前任より勢いがあった
(こちらは論外な論を信じきっているようにも見えました)
というところでしょうか

いずれにしろ

もう少し
人間らしい音と間とリズムといったものも
意識したらいいのに
と思ってしまったわけです

でもまあ
しかし
第一子のときにみたいに
変に心配しているわけでもなく
まあ
こんなもんなわけです

トップがこういう人になるというのは構造的な問題で
さらにこういう言葉が生まれるのも構造的な問題で

わたしはたまたまキリスト教会や
東京でも福岡でも
キリスト者の学者たちに当たり前に学ぶことがゆるされ
また多くの牧師たちに育てられているので
そういう構造的なところから
ある程度は解放されているのかもしれませんが

そういうのにいまだ出会っていない人は
そういうわけにはいかず
その構造内でしたたかに生きるか
洗脳されきって生きるしかないわけで
(たぶん洗脳されるのも半ばわかりつつ
 しかしそのことを意識にはのぼらせずに
 生きるために洗脳される決断を
 皮膚感覚でしてしまうのだろうと思います)

結構大変なことだろうと想像します



その論外の論ですが
それは
目の前で起こっていないことを
まるで起こっているかのように嘘をつくという論です

子どもからのリアクションがないのに
すばらしいリアクションがあったかのようにしてみたり

逆に変なリアクションがあるのに
それはなかったことにしてみたり

きちんとしていないのに
きちんとなっていることにしてみたり

だから

先生たちも
入学式全体が
(写真撮影から各教室での説明までをも含めて)
ぜんぶきちんとなっているという
幻想の中で行動しているから

すごく
変な様子で
(表情も行動も不自然なんです)

わたしなんかは
もっとのんびりと自分を表現しながら
丁寧にひとつひとつ言葉を発し行動すればいいのに

と思ってしまうわけです

保護者用の椅子が足りないとなると
みんなが同じスピードで走り
椅子を出し始めるとか

いろいろと指示をするにも
眼が半分しか開いていなくて
半分は脳みそに入っているマニュアルを覗いている感じで
だから
場の空気をつかんでいなくて

写真撮影では
子どもたちが足を閉じることに
びっくりするくらいしつこくこだわり

教室では
子どもたちに不思議な笑顔をふるまう一方で
落ち着かないアシスタントスタッフがせかせか動き・・・

もう全部
コメディのようでした

いや
これがコメディなんだと思います

そういう演技を
みんなが知らず知らずのうちにするしかないのだと思います

まあ
人間なんてのは
演技なしで生きられることなんかなくて
わたしはわたしで
必要な場では
本質的でない部分における
牧師という格好をを演じるわけですし

そもそも
オオタニシンキ
を演じている部分もないはずはないのですが・・・

でも
あまりにも演技の部分で占められる割合が高く
(というか全部演技に見えましたが)

これも
言葉が未熟なゆえだろうとも思います

そうそう
ビデオやカメラを構える家族の姿も
コメディでありましたよ

もしかしたら
コントの領域に入っていた部分もあったと思います

それを真顔で本気で生きているから
わたしは
笑うのをこらえるのに必死でしたが

本当は
笑うようなことではなく
もっと真剣に受け止めるべきことかもしれません

でも
しかし
笑っておこうと思います

ユーモアっていうのは
人間のもっとも高尚な
もっとも脳みそを高度に活用する
事柄でありますし・・・


というわけで

全国的に注目されている実験公立校の
論外の論が奨励されているというところは

笑う以外にないのだろうなあと思います

しつこいけど
言葉が未熟ということは
関係性が共同体が未熟ということで
契約や交換
奉仕や贈与
福祉や経済も未熟ということで
もちろん
教育も未熟で・・・

ということは

そういう世界にいるわたしも
どんなにがんばっても未熟で・・・


でも
教会で生きてて
よかったあ・・・



そうそう
その後の
午後の看護学校の入学式は
校長先生のはなしも
理事長のはなしも
深かったです

校長のはなしの
看護学は人間学です!

っていう出だしはしびれました

理事長の
キリスト教精神がいかに看護の中核をしめるか
というはなしもしびれました

説教は
校長や理事長が関係性、隣人性を語っているのとは対照的に
自己実現性という枠で語っていたので
ちょっと印象が薄かったですが
しかし味わい深いものでした


小学校の入学式のとき
体育館の屋根に雨がぶつかる音が響き
教会で行われている炊き出しが心配で心配でしかたなく
終わったらタクシーで急いで帰りましたが

本日は春休みということもあって
高校生ボランティアもたくさん来てくれていたし
大学生も来てくれたし
なんとか対応できていて
ほっとしつつ
感謝するばかりでした

神奈川の大秦野教会のメンバーが
旅行中に教会に寄ってくれて
炊き出しを終えたみんなと一緒にコーヒーを飲むこともできて
これまたうれしいかぎりでした


とまあ

そんなこんなの一日でしたが
なかなかたのしいものでありました

ではまた明日



テーマが落ちておりまして

2008年04月07日 | 教会のこと
自分でつくっておきながら
昨日の週報を見て驚きました

3月30日は
青年が14名
30代の独身の人を含めると17名
も来てくれていたんですねえ

昨日は12名

うーん
これはつまり
京都教会が大きな責任を担っている
ということなのでしょう

もっとしっかりと
青年期における信仰生活
というテーマを考えます

新年度初の執事会(役員会)
SさんとYさんとYさんがいない執事会は
赴任以来はじめてです

すると
なんと執事会で詰められないことが多いことか

この3名に多くの部分を頼っていたことを
改めて強く実感し
それは同時に反省でもあり・・・

このことを予測しつつ
今年度は総務委員会の規模を大きくしたのですが
それだけでどうにかなる事柄でもなく・・・

わたしの赴任したときは
Kさんおひとりにすべてを頼っている教会で
それじゃあよろしくないということで
組織を常に変更しつつ
現在
1名から3名になったということはよくわかりましたが

しかし
もっとみんなでかかわりあい分かち合うべきでありますから
そのあたりを
教会のテーマとして
聖書から導き出さねばならないなあ
というわけで
こちらも考えます

本日は
これから添くんの入学式にいって
午後は看護学校の入学式にいって

まあ入学式をはしごします

小学校の方は国家神道で
看護学校はキリスト教会というわけですが

その違いも味わってみようと思います



本日は
ホームレス支援炊き出しでもありまして・・・
わたしたち夫婦が参加できず申し訳ないのですが
しかし
なんの支障もなく活動できるわけでもありますが

祈って祈ってやみません

では
行ってきます

復活からはじまる新年度

2008年04月06日 | 教会のこと
本日の週報巻頭言です。

************************


「復活からはじまる新年度」

私たち京都教会は、
23日のイースター礼拝と30日の年度末の礼拝にて、
共に主イエスの復活を分かち合いました。

復活の主イエスは、
今もここに、
わたしたちみんなの最も近くに、
必ずいます。

先週までに私たちが分かち合ったのは、
復活の主イエスは、
理論でもって頭で理解するのでもなければ、
目に見えない物質や波動として共にいるのでもなく、
極めて生々しく、
それも手とわき腹の傷を伴った身体全体として、
私たちと共にいるということです。

もちろん見えないし触れません。
でも、
にもかかわらず
主イエスが共にいることを、
私たちは信じます。

だから、私たちは、
同じように見えず触れない
愛や
希望や
赦しや
平和も
信じます。

またそういう見えない事柄が、
理論や神秘的物質ではどうにもならなくて、
具体的に
生々しい人と人との関係においてしか
知ることができないことをも知っています。

さらには
人と人との関係における
つまり世界が生きるということにおける
しかしその行き詰まるところに
主イエスが
生々しく復活されるからこそ
すべてが在ることをも知っています。

人間にとって
最も大切で必要な事柄は、
復活の主イエスの身体あってこそ
のことなのです。

さて、新年度が始まりました。
私たちは、
新年度を生々しい復活からはじめることとなりました。
それは、
年度末の3月29日に
当教会と深いかかわりのあったI牧師が天に召され、
30日に前夜式、31日に告別式を、
当教会で執り行うことが許されたからです。

そして
その翌日から新年度がはじまりました。
つまり私たちは、
復活の主が約束してくださるように、
I牧師の復活を頂きつつ、
新年度をスタートさせたのです。

もちろん、
復活を語りきることができるのは信仰によるものです。
信仰が私たちをI牧師とつなげ、
今後もそこに交わりを創ります。

信仰と云う言葉を分かりやすい日本語で言うと
「神さまの働きをなにしろとりあえず選ぶ」
となりましょうか。

つまり
神さまは、
私たちが分けるところの生者と死者をも、
主イエスの復活を通してつなげますから、
その神の働きを、
新年度の初めに
なにしろとりあえず選びたい
と願ってやみません。

年度のはじめ
一緒に次のことを確認しましょう。

復活の主イエスが絶対にいます。

満開の桜のかたわらで

2008年04月05日 | ホームレス支援のこと
本日は
ホームレス支援機構・京都寄り添いネットの
鴨川と御所のパトロール

どちらも桜が満開で
ひとだらけの中を
おにぎりと味噌汁をもって訪問


本日は
今年で56回目になるという
高校生たちの春季討論会を準備している
高校生3名と先生おひとりが参加

この討論会の基調講演を頼まれたのですが
残念ながら
日程が日曜日で
さらに
ウチの教会の特別研修会の日と重なり
まったく身動きが取れないので
N先生にバトンタッチ

ほんとはやりたかったなあ
生徒さんたちが
すでに熱く議論を開始していて
さらに先生が熱く協力しているというような取り組みには
なかなか出会えないものです

先生だけが燃えているというのは
あったりしますが・・・

うーん
残念!!!


生徒さんたちがパトロールを終えて
目を輝かしておりました

すごく楽しかった

ということで・・・

そうなんです
すごく楽しいのです
出会いというのは


先生に言われてしまいました

今日いちばん驚いたのは
牧師さんがこんな普通の人だったということでして・・・
きちっとした服とか着ているのかと思った・・・

こんなんが牧師ですみません
ジーンズにウインドブレーカーで
坊主に無精ひげですみません

でもまあ
いちおうちゃんと牧師だったりするんです

生徒さんにも言われてしまいました

普通のおじさんでびっくりした・・・
受付の人かと思った・・・

まあそんなもんです


先日少し書かせて頂いた
胸が痛む女性は
本日
医者と相談員さんと長いこと面談して
今後の歩みを決めることができました

また歯医者さんも参加してくれて
感謝感謝です

ひさしぶりにNさんも参加してくれました
場の雰囲気をやわらかくしてくれる女性で
感謝感謝です



鴨川沿いに
たくさんの荷物をおいて生活しているおじさんが
本日はいなくて
荷物もなく

おそらく花見シーズンで移動するように言われたのでしょうが

その壁のところに張り紙を残しておりまして

そこには

炊き出しをしている教会のボランティアが暴力を振るってきたのに
牧師も牧師夫人も他のボランティアも止めなかった

なんて書いておりまして

半ばあきらめつつ笑いつつ
その張り紙の写真を撮ったりしましたが

かかわるというのは
なかなか大変だなあ

久々に強く思わされました

もちろん
そんな事実はありません

これまでも
何度となく被害妄想的な発言をしてきているおじさんですが

実は
寄り添いネットのみんなが
最も心砕いてかかわっているひとりです

まあ
こういうときは
ため息をつきつつ
また今日くらいは
彼の悪口も言いつつ
しかし
彼のために明日からもかかわるという
そういうことになるわけです

こういうのは
実は人とかかわる仕事なりボランティアをする人は
何度も経験することだとも思います

かかわってほしくて
かかわってもらうけど
そうなると
うらみだす
という
精神状況は
結構説明しやすいものだろうなあとも思います



本日の嬉しい出来事は
おしのびで
学生のXくんがガールフレンドと一緒に
教会に顔を出してくれたことです

彼はちょっと驚くほどの人格者で
強く優しく深く賢いという
この5年で出会った学生では
Uさんと並んで飛びぬけているなあ
と思っています

なんというか
今のわたしでも
彼の芯の強さとやわらかさと太さというのは
持ちえていないのではないか
と思うほどです


なんとかわいく
親には内緒ということで

そりゃあそうでしょう

内緒にしますとも

顔をだしてくれて
感謝感謝



巨人がまた敗れて
うれしいねえ


あ!
そういうえば
昨日は大阪ドームにS家族と行きまして
オリックスは負けてしまいましたが
めずらしいものを見ることができました

それは初回の日ハムの攻撃ですが
森本が四球
でも盗塁死
田中も四球
でもまたまた盗塁死
稲葉も四球
というもので・・・


最後に
2歳の憐くんの言葉を・・・

ウルトラマンセブンの歌をうたいつつ
「もーろぼしだんごー」

いったいどんなだんごなのでしょう

二階建てバスを見て
「にかいだけばす」

どんなバスなんでしょう
一階がないってのはどういうことなのでしょう
イメージもわきません

というわけで
明日は礼拝です

みなさまどうぞ