きぼう屋

生きているから生きている

預言者

2008年04月18日 | 平和のこと
名古屋ですばらしい判決がでました

キリスト者という立場でいうなら
聖書的な判決とも言っていいだろうと思います

ちょっと長いけど
新聞の記事をどうぞ

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<イラク自衛隊>多国籍軍空輸は違憲 名古屋高裁が初の判断
4月17日14時44分配信 毎日新聞

イラクへの自衛隊派遣は違憲だとして、市民団体などが国に派遣差し止めなどを求めた訴訟の控訴審判決が17日、名古屋高裁であった。青山邦夫裁判長(高田健一裁判長代読)は原告の請求を却下するなどした1審・名古屋地裁判決を支持し、控訴を棄却したが、「航空自衛隊による多国籍軍の空輸活動は憲法9条に違反している」との判断を示した。

 全国で行われている同種の訴訟で空自の活動の一部を違憲と認定したのは初めて。原告団は「控訴は棄却されたが、違憲の司法判断が示された」として上告しない方針で、勝訴した国は上告できないため判決が確定する。

 青山裁判長は判決で「イラクでは、多国籍軍と国内の武装勢力の間で国際的な武力紛争が行われ、特に首都バグダッドは多数の犠牲者が出ている地域でイラク復興特別措置法でいう『戦闘地域』に該当する」と認定。クウェートからバグダッドへ多国籍軍の兵士を空輸する空自の活動について「戦闘行為に必要不可欠な後方支援を行っており、他国による武力行使と一体化した行動」と述べ、武力行使を禁止した憲法9条1項とイラク特措法2条2項、活動地域を非戦闘地域に限定した同条3項に違反すると判断した。

 また原告は派遣により平和的生存権が侵害されると訴えていたが、判決は平和的生存権を「憲法上の法的な権利」と認定。「戦争への協力の強制など憲法9条に違反する国の行為により個人の生命が侵害されるような場合には、裁判所に違憲行為の差し止めを請求するなどの具体的権利性がある」と判断した。

 そのうえで、今回の原告の請求については「戦争への協力を強制されるまでの事態が生じているとは言えない」などとして控訴を全面的に棄却した。

 同訴訟原告団は04~06年、自衛隊の派遣差し止めと違憲確認、原告1人当たり1万円の損害賠償を求め、7次に分かれて計3268人が集団提訴し、うち1122人が控訴していた。原告団によると、自衛隊のイラク派遣を巡り、全国の11地裁で提訴されているが、判決はいずれも原告側の訴えを退けている。【秋山信一】

 ▽弁護団長の内河恵一弁護士の話 ようやく勝ち取った違憲判決。裁判所がしっかりした考えを出してくれたことを法律家として誇りに思う。


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わたしはイラク派兵は違憲である!
ということで、京都における裁判の原告のひとりでもあり
京都地裁では意見陳述もさせてもらいました
こんな陳述です



京都では見事にすべてを
もっとも無視する形で葬られてしまいましたが
それはこんな感じでした

名古屋ではその逆となりました


さてさて
おそらくこれから
この判決を出した裁判長がどれだけくだらないやつか
という論客から出てくると思います

福岡の靖国違憲判決でも
大阪のそれでも
必ず裁判長が個人的にどうしょうもないやつ
という論でもって
判決がおかしいということを正当化する試みが繰り返されています

そして
その背景には
その裁判官個人や
この裁判の原告のような一部がおかしいのであって
他の日本人は
(この場合「日本人」という枠組みとなる)
まともだ!
というところを
確保したいのだろうと思います

ここでなにがわかるか
と言いますと

たくさんの普通の日本人
という
集団に属することでしか安心感を得ることができない社会があり

そういう集団の安定という安心をすこしでもみだす
この裁判長や原告たちみたいな人が

とてもこわいので
必要以上にこわがるしかない社会構造なので

そういう人たちを
排除したくなるのだろう
と思います



その集団における安心というときの
護教的論理として
靖国神社や自衛隊は必須になっている
そういう国のそういう時代だなあと思います

これは逆に言うと

単独者として立つことができない

という欠点を
この社会が持っているということでもありましょう

そして集団の中で匿名になるから
インターネット上では
匿名者が活躍もできるわけですが

しかし
そこでよくわかることが
集団での安心がないとこわい場合に
人は集団のかげで匿名を選び
そして
集団での安心を乱すと
その人が考える人に対して
(それは結局自分の想像
 いや妄想といってもおかしくないところのものにおいて
 勝手にこわがって勝手に嫌う他者に対して)
攻撃をするのだろうと思います

だから

ネットでは

保守的な人の匿名による発言が群を抜いて多いわけです


それは逆に言うなら

単独者として立つことができない
名前を持つ者として名を名乗ることがこわくてできない

そういうところにはまった場合の発言でもあるわけです


だから
この裁判長は大変だなあと思います

かつて大阪高裁で
こういう集団の安心を覆す判決を出した裁判長が
直後に自殺するということもありました

京都におけるイラク派兵違憲訴訟では

もと裁判官で現在弁護士の方が
裁判長に向かって
そういう集団の安心を覆すこと
(彼は国の方針に反対すること
 と表現したと思いますが)

裁判官としてすごく勇気がいるけど・・・

と公判で述べておりました


ネットでも雑誌でも
一部新聞でも
政治家からも
叩かれに叩かれると思います

しかし
わたしがこの記事の最初に
聖書的な判決
と言ったのは

まさにここです

主イエスは
集団の安心をこわすばかりに
「十字架に付けろ」
と言われたわけです

このわたしも
主イエスにそう言うわけです

それくらい
集団の安心というものは
我々にとって権力となります

会堂で汚れた霊に取り付かれた男が
主イエスに
「おれにかかわるな!」
と言ったとき
主イエスは言ったわけです
「黙れ!汚れた霊よ!出て行け!」
と言いましたが

ここにおける汚れた霊とは
まさに
集団における安心という権力だと思います

今なら
群集心理
大衆心理
集合沸騰
などの用語で表される事柄であったのではないかと思います

でも
そういう事柄が
霊というわねばならないほどの
人格として我々に迫り

我々はその力に
無意識に
しかも喜んで受け入れつつ
屈服し
そして
主イエスのことを
「十字架につけろ」
と突き放すわけです


だから
そういう集団の安心という権力に
打ち勝つ
ことを信じることは

復活を信じるということでもあります

十字架で死んだ主イエスの復活の出来事なわけです



そういう復活の場に立つとき

人間は集団の安心から解放されて

単独者として

立つわけです

これこそ預言者!!


言うなれば

裁判長は預言者的行動をとった

と聖書的に述べても過言ではないわけです


あとそうそう
この裁判で
平和的生存権が具体性を持つことが示され
感激しました

これまでのどの裁判でも
抽象的で意味なし!
と切り捨てられていましたので・・・

また
最近は
高裁において
違憲判決を出しつつ裁判では負けにする

というものが続いていますが

それは
最高裁は
もはや権力が分立していなくて
政府どおりの判決しかでない
ということに対する
プロテスト
なんだろうなあ
と思えて仕方がありません

そして
きわめてすぐれた
知恵だと思います


集団の安心とか安全でなく
主の平和がなるよう
切に祈ります

アーメン