きぼう屋

生きているから生きている

みんな→ひとり→みんな

2008年04月20日 | 「生きる」こと
ふと
ひとり
という状況が
どれだけ
心身に負担がないか

ということを感じています

我が家はご存知の通りで
6人家族でして
牧師というお仕事ですから
みんなで一緒にいる時間を
会社員と比べると
より多く持つことができます

そして
夜が来て
じきに子どもたちが寝て
妻も寝ると

わたしはひとりで読書なりなんなりをするわけですが

みんなが起きているときは

今日も疲れたなあ

だいぶ重たくなっている身体で
生きているのですが

とりわけ昨晩は
立っているのもやっという疲れ具合だったのですが

ひとり
になると

一気に軽くなり

筋肉が柔らかくなり
頭も柔軟になりました

すると
急に
一日の出来事の反省点が
どんどん脳みそに映写されます

やわらかく考えることができて

あのときは
こんな言葉をかければよかった
とか
こんな手順ですればよかった
とか
これをすればよかった
これを見逃していた
これは子どもや妻からのサイン(無意識の)だったはず
とか

いろいろ出てきます

すると
もう寝てしまった妻や子どもたちに
すごく会いたくなります

その日会った人たちに
また会いたくなります

みんなといると
おそらく無意識のうちに
相当心身に負担をかけているのだと思いますが

いうなれば
また負担をかけたくなります

なんか

たとえばテニスなどで
(どんなスポーツでもいいですが)
試合が終わって
筋肉をリラックスさせているときなどに
その試合の反省点が急に脳みそに映し出されて
またすぐに試合をしたくなるというような

そんな感じなのかもしれません



本番は共にいるときで
本番に備えているのがひとりのとき
と言えるのかも・・・
と思いました

だから
ひとりというのは負担が軽いのだろうけど
でも
負担が重くても
みんなといたい

という

まあそんなこと考えたわけです




試合を重ねるごとに
成熟するように

みんなと一緒にいるほどに
成熟するのだと思いました

成熟は
共に生きる現場の
場数による
と思います

ひとりの時間が多いというのは
やっぱよくないのだなあ・・・

そうそう
みんなと一緒というのは
そこで
いちいち言葉を交わしている
いちいちリアクションせねばならない
という条件におけるみんなであって

なんらかのルールや原理において
一緒にいるという
職場などによくある
みんな
ではないのだろうと思います

ルールや原理によるみんなというのは
ひとりと同じなんだなあと思います



ストレスは実は
ひとり
の増加が主な原因ではないか
なんて考えてしまいます
みんなと一緒にいるようでそれもまたひとり
というのが多くなっているわけでは・・・





いまひとりで
とても軽く

そしてこれから家族と会い
礼拝でみんなと会う

ということで
まさに試合のごとく

体中の
まあこの場合
手足というより
脳や神経を動かす筋肉を
たくさん使い
ゆえに負荷を
心身にかけることになるわけだけど

それが
やっぱりとても楽しみなわけです

なんていうことから

ひとりとみんな

ということを考えていました

ボンヘッファーいわく

ひとりでいることのできる者は交わりにいることができるし
交わりにいることができる者はひとりでいることができる

ということで・・・
もちろんボンヘッファーは
その根拠が仲介者キリストとの出会い
と語り
きわめてキリスト論で
信仰的なのですが

わたしのこの書き連ねは
きわめて人間論で
身体感触的なのですが

つながらない話ではないだろうと思います

そういえば
確か彼はこれを否定文で書いていたような気もするなあ

ひとりでいることのできない者は交わりにいることもできない
交わりにいることのできない者はひとりでいることもできない

こっちのほうが真実味があるような気がするなあ
なんでだろう

というところで

本日も一緒に礼拝をささげましょう

ではまた後ほどお会いできたらと願います

祈りつつ