「人はパンだけで生きるものではない
神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」
イエスの引用するこの言葉が
とても大事だなあと思います
神の口から出る一つ一つの言葉で!
生きるのであります
わたしたちは・・・
この世界全体は・・・
で
この神の言葉で生きる
というのは
活字を目で追って脳みそで理解する
というかたちで生きる
ということ以上のこと!と思います
この聖書の言葉から知りたいのは
神の言葉をパンのように食べるということです
わたしたちはしばらくパンを食べていないと
おなかがすいてパンを求めます
それも
命にかかわるものとして
時と場合によっては
死をぎりぎりで免れるために
パンを求めます
空腹のとき
わたしたちはむしろ
パンのことしか思いつかなくもなります
それも
そのパンの
かおりと
味と
色と
かたちと
手触りと
歯ごたえと
のどから食堂を通る感触と
おなかにおさまる感触とを
見事に生々しく思い浮かべることと思います
神の言葉も
そういうものです
神の言葉の
音と
色と
においと
かおりと
歯ごたえと
食感と
のどごしと
重みと
衝撃とを
わたしたちは
世界が世界とされず
生命が生命とされず
キリストがキリストとされず
ゆえに
わたしもわたしにされないという中で
まさに飢えており
神の言葉を
そのような生生しいものとして
がっちりと思いつつ
激しく求めるのでありましょう
その聖書の言葉は
たまたま開いたところの聖書の言葉であっても
わたしたちが
端的に
キリストに従い
神の国と神の義を求めているなら
つまり
信仰を生きるなら
つまり
飢えているなら
つまり
キリスト以外の諸力で飢えを解消してしまっていないなら
かならず
神の言葉として
生々しく飛び込んでくるはずです
そして
その神の言葉は
神の口から一つ一つ出てきたものであります
聖書を開き
たまたま読んだ文字であっても
それが神の口から一つ一つ出てきたものであることを
わたしたちは知らねばなりません
そして
神の口から出てきたものとして
聖書を食べるならば
極めて
五感以上のすべてに神の言葉が接触するかたちで
とりわけ首から下に響くかたちで
骨にひびき
内臓がふるえるかたちで
血がおどり
細胞が湧くかたちで
パンが身体をつくりいやす以上に
当然はるかにそれ以上に
神の言葉はわたしたちを
つくりいやします
救います
神の口から一つ一つ出るということ
これこそ聖霊というものでしょう
聖霊を決して
脳みそですっきりとわかるものに
偽造してはなりません
空気や波動みたいなものでもって
身体をみたす物質的なものというふうに
格下げしてはいけません
聖霊とは
神の口からでる一つ一つの言葉です
だから神の息であります
それは
神の口から私たちの口に
なんとも
口移しで与えられるところの
なによりも必要な食であります
わたしはつばめの親子を思い浮かべます
また
母親が赤子に乳を与える姿も
極めて類似していると思います
これが聖霊の働きです
それくらい
神が一人一人に丁寧に
今日もかかわりはたらくことを
強烈に知ることができるからこそ
わたしは神を信じ
神の口から出る一つ一つの言葉を頂いた者として
キリストに
極めて
あの生々しさをもって
従いたいわけです
そして
キリストと共に歩むところは
十字架の生々しさが
べったりと在るところの
現実です
聖書の言葉で生きることを
聖書に散らばる言葉を脳みそで論理的につなげて
自分なりの論を立てて
それを行き来させると
いうことと
同じにしてはなりません
聖書の言葉で生きるということは
生々しい現実
生々しい他者
と共に
在り
生きるということのみです
具体的に顔をあわせて
互いの肌の色と汚れとにおいと手触りと
口からの音とにおいを
行き来させるという只中で
聖書の言葉が
つまり神の口から一つ一つ出る言葉が
はじめて生きます
だから
教会抜きの信仰は本当にないのです
交わり抜きで聖書が神の口からの言葉になることはないのです
聖書の言葉は
あれだけの深い中身があるから
いかようにも
深い考察を導き出すことが出来ます
無論
安っぽい考察も導き出すことが出来ます
でもどちらも
それこそ原理主義だと思います
教会の交わりで
具体的に生々しく行き来し
生々しいゆえに
起こるべくして
互いに崩され壊され
再創造され
その体験ゆえに
死と傷と痛みを
罪を
共に背負うことをも与えられ
その現場で
共に
パンを頂く恵みに与り
同時に
共に
神の口から出る一つ一つの言葉を頂く恵みに
与るのでありましょう
神の言葉が
変造されず偽造されず
神の言葉として与えられるには
教会の交わりを
死守すること
それはただ集まるというのではなく
生々しく
互いの中身が行き来するという交わりを
死守すること
は
本当に不可欠です
それは
論を戦わせることの前に
とりなしの祈りをしあうということであるし
共に讃美をするということであるし
共にいるということでありましょう
他者のために動くということでありましょう
その中で
論が論となるのを経験することでありましょう
他者なしの論が
論外であったことを知ることでありましょう
論なんぞは常におぼろげであることを
突きつけられることでありましょう
他者のために祈りなさい
わたしが牧師として命令する行為はこれひとつです
他者のために祈るなら
その他者との関係における
とりわけ首から下に
骨に内臓に
ひびくところの生々しい感触ゆえに
それも瞬間瞬間の生々しい感触ゆえに
飢え
だから
その瞬間瞬間に
神の口から出る一つ一つの
そう一つ一つの言葉を
求めるしかなく
そこで
十字架を経験し復活を求め
敵対を経験し和解を求めるしか
ないわけでありましょう
この過程を通らない人生はあり得ないと思います
神の言葉は
首から上で読んで考える以上に
飢えるゆえに食べて
首から下が反応し応答する
ことを導き出します
今後とも
パンと
神の口から出る一つ一つの言葉を
一緒に
食べたいと願います
神の口から出る一つ一つの言葉が
わたしたちを
救い出し
それはつまり
罪をさばき
罪をゆるし
神と
他者と
世界と
和解させます
(ここでいう教会は
生々しい交わりの只中のキリストに生かされる「教会」
を目指しているところの教会のことです)
神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」
イエスの引用するこの言葉が
とても大事だなあと思います
神の口から出る一つ一つの言葉で!
生きるのであります
わたしたちは・・・
この世界全体は・・・
で
この神の言葉で生きる
というのは
活字を目で追って脳みそで理解する
というかたちで生きる
ということ以上のこと!と思います
この聖書の言葉から知りたいのは
神の言葉をパンのように食べるということです
わたしたちはしばらくパンを食べていないと
おなかがすいてパンを求めます
それも
命にかかわるものとして
時と場合によっては
死をぎりぎりで免れるために
パンを求めます
空腹のとき
わたしたちはむしろ
パンのことしか思いつかなくもなります
それも
そのパンの
かおりと
味と
色と
かたちと
手触りと
歯ごたえと
のどから食堂を通る感触と
おなかにおさまる感触とを
見事に生々しく思い浮かべることと思います
神の言葉も
そういうものです
神の言葉の
音と
色と
においと
かおりと
歯ごたえと
食感と
のどごしと
重みと
衝撃とを
わたしたちは
世界が世界とされず
生命が生命とされず
キリストがキリストとされず
ゆえに
わたしもわたしにされないという中で
まさに飢えており
神の言葉を
そのような生生しいものとして
がっちりと思いつつ
激しく求めるのでありましょう
その聖書の言葉は
たまたま開いたところの聖書の言葉であっても
わたしたちが
端的に
キリストに従い
神の国と神の義を求めているなら
つまり
信仰を生きるなら
つまり
飢えているなら
つまり
キリスト以外の諸力で飢えを解消してしまっていないなら
かならず
神の言葉として
生々しく飛び込んでくるはずです
そして
その神の言葉は
神の口から一つ一つ出てきたものであります
聖書を開き
たまたま読んだ文字であっても
それが神の口から一つ一つ出てきたものであることを
わたしたちは知らねばなりません
そして
神の口から出てきたものとして
聖書を食べるならば
極めて
五感以上のすべてに神の言葉が接触するかたちで
とりわけ首から下に響くかたちで
骨にひびき
内臓がふるえるかたちで
血がおどり
細胞が湧くかたちで
パンが身体をつくりいやす以上に
当然はるかにそれ以上に
神の言葉はわたしたちを
つくりいやします
救います
神の口から一つ一つ出るということ
これこそ聖霊というものでしょう
聖霊を決して
脳みそですっきりとわかるものに
偽造してはなりません
空気や波動みたいなものでもって
身体をみたす物質的なものというふうに
格下げしてはいけません
聖霊とは
神の口からでる一つ一つの言葉です
だから神の息であります
それは
神の口から私たちの口に
なんとも
口移しで与えられるところの
なによりも必要な食であります
わたしはつばめの親子を思い浮かべます
また
母親が赤子に乳を与える姿も
極めて類似していると思います
これが聖霊の働きです
それくらい
神が一人一人に丁寧に
今日もかかわりはたらくことを
強烈に知ることができるからこそ
わたしは神を信じ
神の口から出る一つ一つの言葉を頂いた者として
キリストに
極めて
あの生々しさをもって
従いたいわけです
そして
キリストと共に歩むところは
十字架の生々しさが
べったりと在るところの
現実です
聖書の言葉で生きることを
聖書に散らばる言葉を脳みそで論理的につなげて
自分なりの論を立てて
それを行き来させると
いうことと
同じにしてはなりません
聖書の言葉で生きるということは
生々しい現実
生々しい他者
と共に
在り
生きるということのみです
具体的に顔をあわせて
互いの肌の色と汚れとにおいと手触りと
口からの音とにおいを
行き来させるという只中で
聖書の言葉が
つまり神の口から一つ一つ出る言葉が
はじめて生きます
だから
教会抜きの信仰は本当にないのです
交わり抜きで聖書が神の口からの言葉になることはないのです
聖書の言葉は
あれだけの深い中身があるから
いかようにも
深い考察を導き出すことが出来ます
無論
安っぽい考察も導き出すことが出来ます
でもどちらも
それこそ原理主義だと思います
教会の交わりで
具体的に生々しく行き来し
生々しいゆえに
起こるべくして
互いに崩され壊され
再創造され
その体験ゆえに
死と傷と痛みを
罪を
共に背負うことをも与えられ
その現場で
共に
パンを頂く恵みに与り
同時に
共に
神の口から出る一つ一つの言葉を頂く恵みに
与るのでありましょう
神の言葉が
変造されず偽造されず
神の言葉として与えられるには
教会の交わりを
死守すること
それはただ集まるというのではなく
生々しく
互いの中身が行き来するという交わりを
死守すること
は
本当に不可欠です
それは
論を戦わせることの前に
とりなしの祈りをしあうということであるし
共に讃美をするということであるし
共にいるということでありましょう
他者のために動くということでありましょう
その中で
論が論となるのを経験することでありましょう
他者なしの論が
論外であったことを知ることでありましょう
論なんぞは常におぼろげであることを
突きつけられることでありましょう
他者のために祈りなさい
わたしが牧師として命令する行為はこれひとつです
他者のために祈るなら
その他者との関係における
とりわけ首から下に
骨に内臓に
ひびくところの生々しい感触ゆえに
それも瞬間瞬間の生々しい感触ゆえに
飢え
だから
その瞬間瞬間に
神の口から出る一つ一つの
そう一つ一つの言葉を
求めるしかなく
そこで
十字架を経験し復活を求め
敵対を経験し和解を求めるしか
ないわけでありましょう
この過程を通らない人生はあり得ないと思います
神の言葉は
首から上で読んで考える以上に
飢えるゆえに食べて
首から下が反応し応答する
ことを導き出します
今後とも
パンと
神の口から出る一つ一つの言葉を
一緒に
食べたいと願います
神の口から出る一つ一つの言葉が
わたしたちを
救い出し
それはつまり
罪をさばき
罪をゆるし
神と
他者と
世界と
和解させます
(ここでいう教会は
生々しい交わりの只中のキリストに生かされる「教会」
を目指しているところの教会のことです)