きぼう屋

生きているから生きている

複眼体

2008年04月12日 | 教会のこと
明日の週報巻頭言です。


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「キリストの体という『複眼体』」

まずはじめに、
教会に集うみなさまにお尋ねしたいことがあります。

今年度のテーマ(「キリストの体とされて」)

聖書箇所を、
筆で書いて、
礼拝堂のピアノの上に貼ることが、
先週の執事会で決まりました。
そして、
書くのは私
となったのですが、
もし、
書道の得意な方がおられたら、
代わりに書いていただけますと、
私は
極度のプレッシャーから解放されます。
お申し出を心よりお待ちしております。

さて本題ですが、
「複眼体」という言葉が
あるのかどうかはわかりませんが、
ちょっと思いついたので、
使用してみます。

私たちはそれぞれ、
日々の世界の出来事
(地球規模の出来事も身近な生活の出来事も)
を、
自らの経験、体験、知識、感覚などを駆使して、
しかし
わりと一瞬のうちに捉えて考えるのだろうと思います。

そしてその際によく言われるのは、
視点はひとつではない!
ということではないでしょうか。

つまり、
複眼的に(複数の視点を持って対話させつつ)
捉え考えることは、
より真実に迫るために、
また、
ひとつの考えにこだわらなくてよくなるために、
とても大事なわけです。

そして、
キリストの体とされるわたしたちは、
された時点ですでに
「複眼体」として、
複数の視点を持つしかない!
という状況の中に、
ありがたくも
神によって放り込まれた!
のだろうと思います。

そこでは、
様々な喜びの視点と、
様々な苦しみの視点という、
あらゆる視点が
入り混じり
ぶつかり
反発し
こんがらがりながら、
まさにキリストによって解放されるところの状況が、
愛と希望と信仰として、
見えてくるのだろうと思います。

一方で、
一つの意見が幅をきかせる!
ということから解放される!
ことも起こることでしょう。

もちろん最初はあるひとつの意見から始まったとしても、
そこに複眼的意見が重なりに重なり、
全く新しいものが創造されるという、
まさに神の出来事が、
キリストの体では
本当に起こるのです。

本日午後の全体懇談会は、
この神の業を味わうところです。

ぜひご一緒に
「複眼体」を体験してまいりましょう。