goo blog サービス終了のお知らせ 

相模太夫の旅録=Tabi Log

☆ 旅は一枚の写真から始まる!!

☆ 旅先での四季彩々一期一会の被写体を瞬撮!!

2万年前の生活跡に思いを馳せて「田名向原遺跡公園」

2022-02-11 10:31:25 | 史跡・遺跡
相模原市中央区田名塩田に歴史公園「史跡田名向原遺跡公園」「田名向原遺跡旧石器時代学習館」(旧石器ハテナ館)がある。区画整理事業に伴う発掘調査時の平成9年に後期旧石器時代末(約20,000年前~18,000年前)の遺跡建物跡と推定される遺構(住居状遺構)が発見された。我が国で最古の部類に入るという貴重な遺跡であることから、平成11年(1999)に国史跡となった。平成19年(2007)に歴史公園「史跡田名向原遺跡公園」が造られ、園内の野外展示内容は旧石器時代の「住居状遺構」、「縄文時代の竪穴住居」、「古墳時代の小円墳」と約2万年前の川原石で囲まれた直径10m程の円形の範囲には「12本の柱穴や2か所の焚き火跡」である。ここからは石器製作を思わせる「石器片」と大量の「石片」が発見、出土した。多量に発見された「石槍」などは長野県や伊豆、箱根等の黒曜石で作られており、遠隔地との交流を想定させる後期旧石器時代の生活の一端を示す遺跡である。出土品は現在「田名向原遺跡旧石器時代学習館」(旧石器ハテナ館)に展示されている。相模川左岸の比高11メートルの低位段丘上にある本遺跡はやはり生活水も重要な要因だったように思われる。後期旧石器時代末の生活の一端を示す遺跡として後世残しておきたい遺構である。相模原にはもう一つ史跡国指定の縄文時代中期(約5000年前)の大集落跡「勝坂遺跡」がある。(2202)
 
 
 
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神の島「江ノ島」の「岩屋洞窟」へ!!

2021-12-26 07:59:12 | 史跡・遺跡
神の島といわれる「江ノ島」。その最も奥に鎮座する江島神社の「奥津宮」左側の石段を下りていくと右手に稚児ヶ淵の海岸が広がり、入口まで続く長く赤い「岩屋橋」を進むといかにも神秘的な「江ノ島岩屋」がある。相模湾景色を眺めながら岩屋の洞窟内に入るとそこはもう俗世とは異なった不思議な雰囲気が漂っている。古くは弘法大師や日蓮上人も修行したといわれ、江の島信仰発祥の地として崇められてきた洞窟であり、神聖な修業場的空間のように感じられる。奥行152mの「第一岩屋」、奥行56mの「第二岩屋」は長い歳月を経て波の浸食でできたというが自然の力の驚異をまざまざと見せつけられた。第一岩屋洞窟内には「ギャラリー」、「石造物」、残されている「富士へ通ずる」言い伝え、江島神社発祥場所がある。中間にある本物そっくりの亀石、第二岩屋洞窟内には「龍神信仰地」、「天女と五頭龍伝説」が紹介されている。ロウソクの炎に照らし出された石像や岩壁が神秘の世界へいざなってくれる。 歴史的にも貴重な文化遺産であり場所だけに浸食せずいつまでもの存続することを祈るばかりである。(2112)
 
 
 
 
 
 
 





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「義経」と「弁慶」ゆかりの藤沢の史跡を辿る!!

2021-09-25 17:34:40 | 史跡・遺跡
東海道五十三次の6番目の藤沢宿に残る「源義経」「武蔵坊弁慶」ゆかりの史跡を辿った。一つは藤沢の地に鎮座する「白旗神社」。鎌倉時代より以前から相模国にある「寒川神社」の寒川比古命を祀り同じ名前の寒川神社と呼ばれていた古社である。文治5年(1189)源義経公は奥州平泉の衣川館において自害。その「義経の首」は奥州から鎌倉腰越に送られ、同時に送られた「弁慶の首」とともに頼朝命により白旗明神(祭神)として祀られた。旧東海道を藤沢へ進むと腰越の浜から境川を遡りこの辺りに漂着した義経の首を洗い清めたとされる「首洗い井戸」跡がある。一方、弁慶の首は「常光寺」の西側「八王子社」に祀られ、その近くに「弁慶塚」がある。主従が離れ離れに祀られるというなんとも切ない思いを抱かせる。(2109)
 
 
 
 
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平塚発祥の地、地名由来の史跡「平塚の塚緑地」

2021-07-09 13:38:38 | 史跡・遺跡
平塚は小田原北条氏が城郭を築いたところから発達した町で最盛期には、2千人の人口と75軒の旅籠屋を抱えた宿で「平塚宿」は東海道五十三次の7番目の宿場である。「平塚」という地名の発祥の地、由来となったとされる史跡「平塚の塚緑地」が旧東海道をややそれた平塚市平塚4丁目、「春日神社」と蓮寺の日蓮宗寺院「要法寺」の間にある。平安時代の中期、天安元(857)年、桓武天皇の孫・高見王の娘「政子」が京都から東国に下る途中にこの地で逝去し、その柩を埋めて塚を造ったところ、塚の上が平らだったことから里人は「平塚」と呼びこの地名が起こったといわれている。現在は石造りの囲の中に高さ1mほどの塚が築かれ中央が元平塚市長戸川貞雄揮毫の「由来碑」(眞砂子と表記)、左側が「平塚碑」(政子と表記)が建てられている。傍らに真砂子が葬られて以来三代目とされる「松の巨木」が植えられている。平塚の歴史の古さが伝わってくる場所である。(2107)
 
 
 
 
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

縄文時代中期の大集落跡が発見された「勝坂遺跡公園」

2021-05-05 07:56:33 | 史跡・遺跡
相模原市南区磯部に大正15年(1926)に約5000年前の縄文時代中期の大集落跡が発見され関東地方の標式遺跡、国指定史跡「勝坂遺跡公園」はある。大山柏考古学者が発掘・発見の縄文土器は立体的な装飾の文様や顔面把手などの特徴が希少であり後に「勝坂式土器」と命名された。縄文時代中期の目安としてその貴重性が認められた。同時に発見された多くの「打製石斧」も土を掘る道具と考えられ縄文時代において農耕の可能性を示すものとして注目を浴びた。昭和48年(1973)の発掘で発見された集落の一部2ha「勝坂遺跡D区」が昭和49年、55年、59年に国の史跡として順次指定された。D区の東方、谷を隔てた台地に位置する「勝坂遺跡A区」では平成17(2005)年の発掘調査で発見された集落の一部、磯部字中峰2097番1ほか3,797㎡が平成18年に新たに追加指定となった。勝坂遺跡周辺は起伏に富んだ自然の地形に緑豊かな斜面樹林や湧泉など、縄文人が長く暮らし続けた豊かな自然環境が今なお残っている。遺跡はA~Dの各区に分けられ、その総面積は5万㎡を超える。平成21年に「大自然の中の縄文時代を体感」できる「勝坂遺跡公園」が完成した。園内には縄文集落が再現され「土葺き竪穴住居」「笹葺きの竪穴住居」の2棟と周辺には竪穴住居廃絶後の「窪地」、「縄文生活林」、「埋没谷」なども復元された。この公園がかつての縄文人が農耕生活、暮をしていた場所であったかと思うと「古代ロマン」を感じることができる。(2104)
 
 
 
 
 




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする