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相模太夫の旅録=Tabi Log

☆ 旅は一枚の写真から始まる!!

☆ 旅先での四季彩々一期一会の被写体を瞬撮!!

難攻不落の城と言われた「小田原城天守」の威容!!

2022-05-18 11:06:48 | 城・城郭
小田原市城内に小田原のシンボルであり難攻不落の城と言われた「小田原城天守」はある。市内の各所、一昨年駅前にできた「ミナカ小田原」の屋上からとどこからでもその美しい姿を見ることができる。小田原城の築城は応永24年(1417)で別名は「小峯城」「小早川城」とも呼ばれる城郭構造の「平山城」である。築城主は大森頼春。現在目にしている小田原城天守閣は江戸時代に造られた雛型や引き図を基に昭和35年に鉄筋コンクリート造で再築されたものである。日本100名城の一つにも数えられる「小田原城」はその昔、武田信玄や上杉謙信といった武将でも攻め落とせなかった天下の名城である。最近では天守閣の大規模な改修工事も終わり2016年から一般公開が再開されている。この城の特徴は何といっても豊臣軍に対抗用に作られた広大な外郭である。八幡山から海側に至るまで小田原の町全体を総延長9㎞の土塁と空堀で取り囲んでいて、後の豊臣大坂城の惣構を凌いだものとなった。天守構造は複合式層塔型3重4階(1633年築)である。小田原城天守は1階建の小天守、続櫓、3重4階の大天守の構成からなる。大天守は見た目は3重だが1重目は2階に別れ、4階建の天守となる。5重天守の規模で天守のみの高さは27.2m、天守台石垣高さは11.5m、総高38.7mである。本丸広場の海抜29.7m、合わせて海抜約70mとなる。1重の屋根には出窓の上に切妻破風と千鳥破風、出窓は3箇所に施されている。2重目の屋根には比翼千鳥破風と軒唐破風、入母屋造りの屋根には入母屋破風と軒唐破風と鯱が施されている。天守閣は白亜の壁が美しい約40mもの高さを誇る小田原のシンボル。コンパクトに見えるが真近で見ると大迫力が感じられる天守である。(2205)
 
 
 
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難攻不落の城と言われた「小田原城天守」の威容!!

2020-12-13 13:52:02 | 城・城郭
小田原市城内に難攻不落の城と言われた「小田原城天守」はある。市内のどこからで美しい姿を見ることができ小田原のシンボルとなっている。小田原城の築城は応永24年(1417)で別名は「小峯城」(小峰城)、「小早川城」(小早川館)とも呼ばれる「平山城」(城郭構造)である。築城主は大森頼春。現在目にしている小田原城天守閣は江戸時代に造られた雛型や引き図を基に昭和35年に鉄筋コンクリート造で再築されたものである。日本100名城にも数えられる「小田原城」はその昔、武田信玄や上杉謙信といった武将でも攻め落とせなかった天下の名城である。最近では天守閣の大規模な改修工事も終わり2016年から一般公開が再開されている。この城の特徴は何といっても豊臣軍に対抗用に作られた広大な外郭である。八幡山から海側に至るまで小田原の町全体を総延長9㎞の土塁と空堀で取り囲んでいて、後の豊臣大坂城の惣構を凌いだものとなった。天守構造は複合式層塔型3重4階(1633年築)である。小田原城天守は1階建の小天守、続櫓、3重4階の大天守の構成からなる。大天守は見た目は3重であるが、1重目は2階に別れ、4階建の天守となる。5重天守の規模で天守のみの高さは27.2m、天守台石垣高さは11.5m、総高38.7mである。本丸広場の海抜29.7m、合わせて海抜約70mとなる。1重の屋根には出窓の上に切妻破風と千鳥破風、出窓は3箇所に施されている。2重目の屋根には比翼千鳥破風と軒唐破風、入母屋造りの屋根には入母屋破風と軒唐破風と鯱が施されている。天守閣は白亜の壁が美しい約40mもの高さを誇る小田原のシンボル。コンパクトに見えるが真近で見ると大迫力が感じられる天守である。(2012)
 
 
 
 
 


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懸命の修復で蘇りつつある復興の象徴「熊本城」

2019-09-21 09:45:23 | 城・城郭
2016年4月16日に起きた熊本地震の本震から早いもので3年半が経過。市の中心に熊本のシンボルとして聳えていた「熊本城」、あの地震直後の武者返しといわれる石垣、大天守の崩壊、鯱の落下と目を覆いたくなる無残な姿に唖然とした。懸命の修復工事の甲斐あり「復興の象徴」としての「熊本城の大天守」が元の勇壮な姿を取り戻しつゝあり真新しい外観が姿を見せ、11月には大天守の石垣の積み直しが完了するなど着実に熊本地震前の姿に戻ってきている。昨年11月23日からは三の丸エリアの旧細川刑部邸で紅葉ライトアップされ、いよいよ来月10月5日~14日の「特別公開」も始まる予定。ただ全体完了は20年後である。地震のリアルな恐怖と人の力の凄さを痛感させられた。(1909)







 

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大多喜の象徴「大多喜城天守閣」と「桜」

2019-04-10 10:46:52 | 城・城郭
大多喜は徳川四天王の一人「本多忠勝」が「大多喜城」を築城した歴史を持つ町である。久保、桜台、新丁地区には江戸時代から変わらぬ佇まいを残す建物、造り酒屋「豊の鶴酒造」や 国の重要文化財「渡辺家住宅」など今なお多数の町屋が保たれて「房総の小江戸」と言われて城下町の面影を今も色濃く残している。江戸時代から続く大多喜の象徴=シンボルといえば大多喜駅から徒歩約15分の小高い山に聳え建つ白亜の「大多喜城」(現在は千葉県立中央博物館)である。当博物館は「房総の城と城下町」を常設展のテーマとした歴史博物館で、房総の中世・近世の城郭とそれに関わる武器・武具や調度品・古文書及び武家社会や城下町の生活などに関する資料が展示されている。大多喜城へ向かう道路の桜回廊、場内は城を包み込むような桜ベールは美しい絵葉書のようである。(1904)










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国指定史跡で日本百名城の一つ「人吉城跡」

2017-12-01 18:14:29 | 城・城郭
熊本県人吉市麓町に鎌倉初期から幕末まで約700年に亘って人吉球磨地方を治めた相良家の居城「人吉城」はある。人吉城の歴史は長年この地を統治した相良氏の歴史でもあり、別名「繊月城」とか「三日月城」とも呼ばれ「日本百名城」にも数えられ人吉のシンボル、最大の観光名所である。人吉城の城郭構造は「梯郭式平山城」、元久年間(1204~1206)築城、明治4年(1871)廃城。球磨川を天然の外堀とした中世の山城の形態に水の手橋付近の「武者返し」といわれる石垣の跳ね出しの建築様式は他に類を見ない特徴から国指定史跡に指定されている。城の北側は球磨川、西側は胸川、東、南側は険しい山々に囲まれた難攻不落の自然の要塞であったが1862年の「寅助火事」により城は焼失した。現在は城址公園となり武者返しの石垣、大手門跡、水ノ手門跡、間米蔵跡、御下門跡、中御門跡、本丸跡、二の丸跡、三の丸跡、掘合門が残されている。お城のの広さは東京ドーム約4個分に相当する17haで球磨川河岸沿いに築かれた見事な石垣、苔むした登城道、城内の鬱蒼とした杉木立の自然の中に古の美しき城姿を思い描かせる不思議な魅力がある。(1711)












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