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楽しかった休暇の最後の日に訪ねたのは。。。アゥシュヴィッツ & ビルケナゥ収容所
「機会が与えられたなら訪ねるのが私たちの義務」と思っていただけに、クラコウから一時間程度の距離と知ってなおのことこの機会は見逃せないものでした。
他の人達が「塩鉱山」を訪問している間私たち五人は若い学生が運転する車でアゥシュヴィッツ収容所跡に向いました。
運転手のヴォィテックの英語は分かりにくく且つ私たちの英語もあまり良く理解しないので私のほかに二人英語を話す人が居たのにちょっと苦労でしたが、気立てのいい青年で私たちの希望に沿おうという努力が感じられました。
到着したのは、よく写真で見た大きな門(写真4、写真は内側から見たもの)です。
広大な、ということは聞いていましたが目を見張る広さです。
ナチスは証拠隠滅を図りこの収容所を破壊しようとしたのだそうですが時間が足りず中途半端に終わり私たちが今見られるのはその残骸です。
幾つか残ったバラック内部もメチャクチャに壊されているところが多くありました。
人間の尊厳を完全に奪い(写真5、このような形でトイレを使うことがあなたには出来ますか?)畜生以下に扱った上「」したナチスの行為は「狂気」と表現されていますが、それ以外の表現は考えられそうにもありません。けれどもこの「狂気」は正気の狂気なのです。彼らが証拠隠滅を図ったのは自分たちの行為が罪悪であることをよく知っていた証拠でしょう。
バラックの設計は52頭の馬を入れる厩で、その中に400人もの人間を押し込んでいたと言う事実を考えた時、収容された人々の言いようもない苦悩が伝わってきました。この収容所跡が「負の世界遺産」に指定されていることや入場は無料で公開されていることは多くの人々にこの苦悩を感じて欲しいからでしょう、二度と同じ事を繰り返さないために。
門の上の見晴台から外側を見ると貨車を運んだ線路(写真8)の一部も残されていました。訪問者達の車が散在していてその駐車スペースの小ささに驚くのですが、当然です。貨車で運ばれてきた彼らなのです。そして帰ることもなかったのです。
電気が通って居たであろう鉄条網に野の花が絡むよう(表紙写真)に咲いていました。草を刈る仕事の人が敢えて残していったものと私は勝手に想像しましたが、死者たちに手向けられた花(造花)はあちこちに見ました。
此処はビルケナゥという所にある「アゥシュヴィッツ第二収容所」です。
ここはアゥシュヴィッツではない、アゥシュヴィッツにも行きたいと同行者たちが言うので時間ギリギリに「アゥシュヴィッツ第一収容所」へも行きました。
距離的には車で二分です。アゥシュヴィッツ & ビルケナゥ収容所の地図を参照して下さい。
こちらは全く破壊されずに立派なレンガ造りの建物が並んでいました。もともとが兵舎として建てられたものなので、一応暖房もあったそうです。鉄条網がなければ人々が平和に暮らしているアパートかコンドに見えます。
展示室には「アンネ・フランク」や「コルチャク先生」の写真もありました。
そして悪名高きガス室の内部も見ました。内部は「死者たちに敬意を払って」撮影禁止なので写真はありません。おしゃべりも禁止です。カメラを持った人々は居ましたが、禁を犯して敢えて撮影する人は居ませんでした。
追加の写真は当収容所初代所長ルドルフ・フェルディナント・ヘスが死刑に付された絞首台です。
「身から出た錆」とも言えるでしょうか。
殺害されたのはユダヤ人に限っていません。
一言で言えばナチスが不浄と看做したものはみな、と言っていいでしょう。政治犯、ジプシー、身体・精神障害者、同性愛者や彼らを匿った者が含まれます。
決して楽しい訪問ではありませんでしたが、私はこの機会を与えられたことを感謝しています。そして、みなさんにお伝え出来るブログを持っていることも。