★ Serena ★

カナダ暮らしのエスペランチスト、自然愛好家。
エスペラントやカナダの野草、ネーチャークラブの活動など思いつくままに。

アゥシュヴィッツ & ビルケナゥ 死の収容所

2009-08-29 11:00:24 | エスペラント
<1-ビルケナゥの訪問者達<2-見張り台<3-広大な収容所内に敷かれた線路<4-ビルケナゥの門<5-当時の様をほぼ残しているバラック内部<6-門から見下ろす(1)<7-門から見下ろす(2)
アゥシュヴィッツ & ビルケナゥ 死の収容所
<8-ユダヤ人たちを運ぶ貨車が入ってきた線路<9-証拠隠滅を図った名残<10-ユダヤ人たちの使わされたバンクベッド<11-アゥシュヴィッツ第一収容所<12-居心地の良いアパートにも見える外見<13-死者たちに捧げる蝋燭も売っていた<14-ガス室の外見、内部は撮影禁止

楽しかった休暇の最後の日に訪ねたのは。。。アゥシュヴィッツ & ビルケナゥ収容所

「機会が与えられたなら訪ねるのが私たちの義務」と思っていただけに、クラコウから一時間程度の距離と知ってなおのことこの機会は見逃せないものでした。
他の人達が「塩鉱山」を訪問している間私たち五人は若い学生が運転する車でアゥシュヴィッツ収容所跡に向いました。
運転手のヴォィテックの英語は分かりにくく且つ私たちの英語もあまり良く理解しないので私のほかに二人英語を話す人が居たのにちょっと苦労でしたが、気立てのいい青年で私たちの希望に沿おうという努力が感じられました。

到着したのは、よく写真で見た大きな門(写真4、写真は内側から見たもの)です。
広大な、ということは聞いていましたが目を見張る広さです。
ナチスは証拠隠滅を図りこの収容所を破壊しようとしたのだそうですが時間が足りず中途半端に終わり私たちが今見られるのはその残骸です。
幾つか残ったバラック内部もメチャクチャに壊されているところが多くありました。
人間の尊厳を完全に奪い(写真5、このような形でトイレを使うことがあなたには出来ますか?)畜生以下に扱った上「」したナチスの行為は「狂気」と表現されていますが、それ以外の表現は考えられそうにもありません。けれどもこの「狂気」は正気の狂気なのです。彼らが証拠隠滅を図ったのは自分たちの行為が罪悪であることをよく知っていた証拠でしょう。

バラックの設計は52頭の馬を入れる厩で、その中に400人もの人間を押し込んでいたと言う事実を考えた時、収容された人々の言いようもない苦悩が伝わってきました。この収容所跡が「負の世界遺産」に指定されていることや入場は無料で公開されていることは多くの人々にこの苦悩を感じて欲しいからでしょう、二度と同じ事を繰り返さないために。

門の上の見晴台から外側を見ると貨車を運んだ線路(写真8)の一部も残されていました。訪問者達の車が散在していてその駐車スペースの小ささに驚くのですが、当然です。貨車で運ばれてきた彼らなのです。そして帰ることもなかったのです。

電気が通って居たであろう鉄条網に野の花が絡むよう(表紙写真)に咲いていました。草を刈る仕事の人が敢えて残していったものと私は勝手に想像しましたが、死者たちに手向けられた花(造花)はあちこちに見ました。

此処はビルケナゥという所にある「アゥシュヴィッツ第二収容所」です。
ここはアゥシュヴィッツではない、アゥシュヴィッツにも行きたいと同行者たちが言うので時間ギリギリに「アゥシュヴィッツ第一収容所」へも行きました。
距離的には車で二分です。アゥシュヴィッツ & ビルケナゥ収容所の地図を参照して下さい。
こちらは全く破壊されずに立派なレンガ造りの建物が並んでいました。もともとが兵舎として建てられたものなので、一応暖房もあったそうです。鉄条網がなければ人々が平和に暮らしているアパートかコンドに見えます。
展示室には「アンネ・フランク」や「コルチャク先生」の写真もありました。

そして悪名高きガス室の内部も見ました。内部は「死者たちに敬意を払って」撮影禁止なので写真はありません。おしゃべりも禁止です。カメラを持った人々は居ましたが、禁を犯して敢えて撮影する人は居ませんでした。


追加の写真は当収容所初代所長ルドルフ・フェルディナント・ヘスが死刑に付された絞首台です。
「身から出た錆」とも言えるでしょうか。

殺害されたのはユダヤ人に限っていません。
一言で言えばナチスが不浄と看做したものはみな、と言っていいでしょう。政治犯、ジプシー、身体・精神障害者、同性愛者や彼らを匿った者が含まれます。

決して楽しい訪問ではありませんでしたが、私はこの機会を与えられたことを感謝しています。そして、みなさんにお伝え出来るブログを持っていることも。

エスペラントの父ザメンホフ
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ドゥナイツァ川下り

2009-08-28 00:28:31 | エスペラント
<オッカナビックリ筏に乗る。<滑らかに、それ出発!<もう、緑星旗がはためき。。。<。。みな神妙に大人しく<対岸はスロヴァキァ側の乗り場<見掛けたスロヴァキァ側のチャペル<石灰石の山はこの公園のシンボル「三王冠」
ピエニニ国立公園、ドゥナイツァ川下り
<岸辺で手を振る泳ぐ人たち<お、誰かさんが筏を逆行させようとしている??<どうにか元に戻して。。<船頭さんも『ホッ』<中々手際が良い、若さかな?<終点が見えてきました<終点で見たDVDの広告、ズバリ良く描けてます

ポーランドとスロヴァキァの国境を流れるドゥナイツァ川を筏で下りました。京都の保津川下りを思い出しましたが、保津川にあったような急流はなく滑らかでした。川の曲りくねりが多く、そこが船頭さんたちの腕の見せ所なのでしょう。
筏は私の知っている筏とは違って、五つの平底舟を一纏めにした形です。
一応説明があって、ポーランド語の出来る人が通訳です。私たちの筏はイスラエルから来たポーランド育ちのマチルダが引き受けてくれました。でも、右の耳から入って左の耳から抜けて行ってしまったらしく殆ど憶えていません。
後で知ったのですが、ここピエニニ国立公園はポーランドで一番小さい国立公園なのだそうです。果てしなく広がる空や、なだらかな緑の山々に色鮮やかな山荘が点在する風景はのびのびとして鬱陶しい浮世のことなど忘れていましたから公園の広さなどどうでも良い事のようです。
この公園のシンボル「Trzy Korony (三王冠)」は海抜982メートルと決して高い山ではありませんが、迫ってきた時には咄嗟にカメラを向けていました、気になる山です。
公園内に生えている植物の種類も多いそうで、歩く機会があったら楽しかったろうなァ、です。

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ザメンホフ・ストラートを読み始めました

2009-08-27 09:55:15 | エスペラント


カルガリーに居る間に、ビャウィストク大会中に買った二冊の本のうち薄い方は読み終えてきました。
というわけで昨夜からもう一冊の方「Zamenhof Strato(ザメンホフ通り)」に取り掛かりました。
既に日本語訳も出ていますが、エスペランチストとしては当然エスペラントで読むべきと思いこちらを選んだのです。日本語で読むようなわけには行きませんからかなりな時間が掛かる覚悟でしたが、読み始めたら引き込まれるようで、意外に早く読み終えるかもしれません。
まだ、ザレスキー・ザメンホフ博士が幸せな少年時代を語っている部分ですから、彼の恵まれた幼少時代を想像しながら楽しんでいます。

私がこの本を買った理由の一つは勿論エスペラントの創案者ザメンホフの孫が語り手であるからでもありますが、聞き手のローマン・ドブルジンスキ氏が話し上手だったからでもあります。
彼とはソンチ地方での休暇中、良く食卓が一緒になりましたが、その都度色々面白い話をしてくれました。この人が書いたものなら。。。という気がしたからです。

ザレスキー・ザメンホフ博士の幸せな少年時代はナチスによって無惨に破壊されるわけですが、多分その部分を読むのは大変辛いことでしょう。でも、頑張って読む心算です。著者のローマンさんと語り手のザレスキー・ザメンホフ博士二人のサインも戴いてきた本ですし。

エスペランチストでない皆さんにも、日本語訳があることだし読むことをお薦めします。
近い内、アゥシュヴィッツ・ビルケナゥ訪問の報告も書きます。

上に掲げた地図はワルシャワ訪問中に貰ってきたもので、ザメンホフ通りには印をしておきました。近く(左上)にはジカ(Dzika)通りの名前も見え、その右手にはザレスキー・ザメンホフ博士の父アダム、二人の叔母が他のユダヤ人たちと共に死のトレブリンカ収容所へ送られた貨車の出発地点の記念碑も見えます。
ワルシャワでのエスペラント縁の地訪問はこちらでご覧下さい。

次はドゥナイツァ川の筏下りです。目下写真を選択中。

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クリニツァの鉱泉と養蜂場

2009-08-16 13:55:39 | エスペラント
<何処かの夜店かと。。。<。。思える土産屋街<みな真剣に説明を聞く<鉱泉の大元締め? ガラスで保護されていた<30℃はあったかという日。皆の服装からは感じないでしょう?<養蜂場の教会<養蜂場のガイドと通訳のローマンさん。背後には養蜂の守護神像
クリニツァの鉱泉と養蜂場
<蜂の巣箱ー1<蜂の巣箱ー2<蜂の巣箱ー3<店内に陳列された蜂蜜酒<田園風景-1<田園風景-2<田園風景-3

この日の午後はバスで、この辺りで一番大きい町クリニツァへ。
クリニツァは「泉」という意味だそうで鉱泉が沸いている所です。大きな建物の前の広場にその源泉がありました。建物の中に入ると広々としていて、長い行列が出来ても大丈夫な広さがあります。壁際のカウンターでは鉱泉を売っていました。
「もう飲んだ?飲まなきゃダメよ」などと言われて一応味見。特別美味しいとも拙いとも思いませんでしたが、冷たかったら良かったかなと。
集まってくる人たちはそれぞれ健康のためにこの鉱泉を飲みに来るのでしょう。医者の指示で来る人も居れば、私たちのように単なる観光で来る人も居るでしょうが、やはり鉱泉の「ご利益」は期待してくるのでしょう。ベンチにはそんなノンビリした人たちの姿が並んでいました。

街の中の散歩もしました。ガイドのアナの説明をローマンさんがエスペラントに通訳してくれます。
街を歩いていて目敏く銀行を見つけたドミトリが立ち寄りたいと言い出し、私も含め数人が便乗して換金、ワルシャワの空港より率が良いのでホクホクでした。

その後又バスに揺られて養蜂場へ行きましたが、立派な教会の中での説明はメモしておらず省きます。
お見せしたかったのはここの巣箱。四角な箱しか知らない私には面白くも珍しく沢山写真を撮りました。その一つ一つが丁寧な手作りで木彫りが施されてあるのもありました。
蜂蜜ワインの味見をし、お土産にはそのワインと蜂蜜、ハニー・ディッパー(蜂蜜用の棒)そして蜜蝋で作った蝋燭を貰いました。

帰路バスの窓から数枚の写真を撮りましたが、日本の秋に田んぼで見られた(稲の束を積み上げた「にお」と言ったと思うのですが)光景に似ていて懐かしさを感じたのです。乾し草かな、と思ったのですが、七月下旬なら小麦の可能性も有るでしょうか。

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南ポーランドの休暇

2009-08-15 14:43:14 | エスペラント
休暇の始まり
<バスの窓から見えた家<途中の景色<ゲォヴィタ・ズウォツキ、私たちの宿<私たちへのもてなし、民族舞踊<踊る若者達<バス停のベンチで着替える娘達<朝霧の中を行く馬車

ワルシャワから列車でクラコウへ。そこで他の人達と合流、バスでソンチ地方へ向いました。なだらかな山々に囲まれた保養地で、スロヴァキアとの国境に近い地方です。カナダのローレンシャン地方に良く似ていました。
ズウォツキという町のホテルに到着したのは予定よりもかなり遅れていたので、私たちを待っていた昼食は中途半端でしたが、遅い昼食と夕食と二度同じものを食べた記憶があります。これ、日本人だったら「昼も夜も同じもの?」と顔を顰めたかもしれないなと思ったのですが、そのことで不平を言う人は居ませんでした。
翌日午前中はホテルのお医者の診断を受けました。通訳はローマン・ドブルジンスキ氏です。
診断後処方箋を貰い、それぞれトリートメントを受けるのです。私は指の関節炎を訴えたので「手のジャクジ」。渦巻く温水に両手を入れて毎朝15分間じっとしているのはとても退屈でした。

その日の午後は隣のネストルという町での「フェステヴァル」。
ズウォツキでの予定でしたが市長さんが前日交通事故で亡くなったとかで急遽場所を変えたのです。バンド演奏から民族舞踊といろいろ楽しませてもらいました。
恰幅のいいおばさん達も若者たちに負けず誇らしげに踊っているのは見ていて気持ちのいいものです。丁寧な刺繍を施した民族衣装にも彼等の誇りが感じられました。

終わって帰るときバス停のベンチで着替えの娘たちにはつい微笑んでしまいました。我が子らがハンガリー舞踊を習っていた頃を思い出したのです。パーフォーマンスの後、大人が思い付かない様な階段の片隅とかヘンなところで着替えていたものでした。

早朝の散歩で出会った馬車、なんと牧歌的な光景でしょう。

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ビャウィストク世界エスペラント大会 (ワルシャワ その三)

2009-08-09 10:51:19 | エスペラント

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教えられたとおり180番のバスに乗ってユダヤ人墓地方面に向いました。その時は気が付かなかったのですが、窓に張ってある路線地図(裏写真/赤印は筆者)には英語でユダヤ人墓地その他の所在地も記されてあり、ポーランド語が解らなくても自分の降りたいバス停を見つけることが出来ます。
とりあえずエスペラント通りで降り、歩きました。
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エスペラント通りは人通りも疎らな、庶民的ではあるけれど落着いた通りです。
短い通りなので数分歩けば終わりでしたがその間に一人か二人の通行人とすれ違っただけ、もう夏休みでしょうのに子供の姿さえ見かけず静かでした。
通り名は二箇所で撮ったので雰囲気の違う二枚を重ねておきました。マウスオーヴァーで見られます。




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ユダヤ人墓地もそこから歩いて程遠くないところにありました。我々観光客は何ズローチだったか入場料金が必要です。
ザメンホフのお墓の場所はたどたどしい英語で教えてくれました。そのお墓に到着する前に数人の観光客が写真を撮っている場所に来ました。
児童文学者で、小児科医でもあり、孤児院の院長をしていたコルチャク先生が子供達の手を引いている姿を表した記念碑です。
ナチスに「処刑」される子供達を「子供達だけで死の旅に出すわけにはイカン」と自ら申し出て死の道を選んだという人。トレブリンカ強制収容所が彼の最後の地です。
その直ぐ傍にはナチスに殺された子供達のための記念碑(裏写真)もありました。その記念碑を囲むように建っていた壁の詩には当時ゲットーに押し込められ物資の流通も大方中断されていたユダヤ人達の生活の喘ぎが覗えます。超特急の意訳ですが、この少年の心は伝わってくるでしょう。


The little smuggler

Through a hole, through a crack or a cranny
Starving yet stubborn and canny
Sneaky and speedy like a cat
I daily risk my youthful neck
And if fate will turn against me
Do not weep for me mother;
Don’t cry
Are we not all marked to die?
Only one worry besets me
Lying in agony ; so nearly dead
Who’ll care for you tomorrow
Who’ll bring you, dear Mom
a slice of bread.

Henryka Lazowerl / Ghetto Warsaw 1941
小さな密輸入者

穴や隙間を通り抜け
飢えてはいるが強情で抜け目なく
猫のように素早くすり抜けて
僕は毎日この若い首を賭けているんだ
運命が僕に逆らうなら
泣かないでよ、お母さん
泣かないで。
僕たちみんな、何時かは死ぬことになっているんだろ
死の苦痛に喘ぐ時の
唯一の僕の気がかりは
明日、誰があなたを気遣うのか
大切なお母さん
誰があなたに一切れのパンを運ぶのか

ヘンリカ ラゾウエル/ゲットー ワルシャワ 1941


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ザメンホフのお墓はその直ぐ近くにありました。ついに私も此処に来たのだという感慨があります。ザメンホフ夫人クララのお墓(裏写真)はその脇にひっそりと立っていました。ウッカリすると見逃してしまうほど飾り気の無いものでした。ザメンホフ夫妻も三人の子供達をホロコーストで失っています。
後で知ったのですがザメンホフを経済的に援助したクララの父のお墓もこの墓地に有るのだそうです。彼の援助なくしてエスペラントは成就しなかったでしょうから彼はやはり大切な存在です。
Umschlagplatz
ジカ(Dzika)通りにあるユダヤ人が列車に乗せられた駅跡も通りました。過去には彼等の乗った車輌の一つが置いてあったそうですが今は御影石の記念の壁にUmschlagplatzと刻まれてあるのみです。写真は「此処から1942年~1943年にわたり30万人以上ののユダヤ人がワルシャワからナチの死のキャンプに送られた」との英語の説明です。
町を行く人々は忙しそうで、この記念碑の存在すら忘れているようでした。立ち寄るのはやはり観光客でしょう。






Zamenhof stratoそこから間も無くザメンホフ通りに入りました。エスペラント通りに比べるとはるかに大通りです。
何故かこの写真は侘びしいのですが。。。
ザメンホフ、エスペラント縁の地はカヴァーしたところでドッと疲れを感じ、オオ何と足の重いことか。




Warszawa Uprising最後に立ち寄ったのがワルシャワ蜂起の記念碑です。
亡命中のポーランド政府の支援を得ての蜂起ということですが、政治の世界のややこしい取引や駆け引きも絡む蜂起、無残な敗北に終わっています。その後ワルシャワはナチによって破壊されています。
40ン年前、ブダペシュトの世界大会で一緒だったヤニナが宿泊先の建物に残る弾丸跡に眉を寄せた私に「ブダペシュトはこんな程度で済んだからまだいい。ワルシャワなんて酷いものよ」と言ったことを思い出しました。
ポーランド人はその壊された瓦礫を一つ一つ拾いあげ、旧市街を復元したのです。その忍耐強さや諦めない強情さが今のポーランドを築いたのでしょう。誇り高い国民と認識しました。


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ビャウィストク世界エスペラント大会 (ワルシャワ その二)

2009-08-06 04:18:32 | エスペラント
Palaco sur akvo

旧市街の南の方にあるワジェンスキ公園にも行きました。池に浮かぶ小島の水上宮殿が美しく、これは18世紀にポーランド最後の王スタニスワフ2世アウグストが夏の宮殿として建造したものだそうです。
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此処には数羽の孔雀が放し飼いしてあり、人々の間を巡り歩いてショーを見せてくれました。
孔雀のお尻なんて見たことがなかったのですが、結構綺麗なものです。マウスオーヴァーで、表面も見られます。
ヴィデオも撮ったのですが、残念ながら拡張子が違うので此処では披露できません。
美しい尾の先は引きずって歩くので痛んでいましたが、孔雀自身は特に気になるわけでもなさそうでした。

Chopinワジェンスキ公園にはポーランドの生んだ作曲家ショパンの像もあります。
すごく広いのです。歩き回っている内に出口が判らなくなりました。地図がありましたが、ポーランドは不思議な国でこういう公園の地図に「Vi estas ĉitie / 現在位置」の印が無いのです。
これでは何の意味もありません。巧い具合に公園のお巡りさんが居ましたが、エスペラントは勿論英語もダメ。ドイツ語だったら良かったかも知れませんが、「ドイツ語なら、、」ということも言ってくれなかったところを見るとダメだったのでしょう。多少は気の毒そうにニコニコ笑って手を振っているだけでした。
すれ違った人に聞いたら「あっち」、別な人は「こっち」。結局入ったところからはちょっと離れた場所に出ました。

Kato旧市街のとある通りにこんな猫が居ました。この窓ぶちが彼(大きさから雄と憶測)の昼寝の場所であり、この窓が彼の出入り口らしい様子でした。
と言うのは別な日に路上から窓を目掛けて飛び上がろうとし、失敗していたからです。悔しそうに見上げて再度試みていましたが、何処の猫も同じなんだなぁと思いました。人間とて然りでしょう。

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ビャウィストク世界エスペラント大会 (ワルシャワ その一)

2009-08-04 05:59:55 | エスペラント
ワルシャワの人魚

ビヤウィストクに向う途上ワルシャワで三日間を過ごしました。旧市街に宿を取ったのは歩き回ることが目的だったからです。旧市街のこの広場にはワルシャワの紋章である人魚の像があります。
『伝説によると、ヴィスワ川を遡って来た人魚がワルシャワ旧市街の下方にある河岸の砂地で休息し、そこがとても気に入ったので住み着きました。ある時、地元の漁師たちは漁をしている時に、何かが篭状のワナから魚を逃がしていることに気付きました。そこでそれを捕まえて一生いたずらできないように懲らしめることにしました。しかし人魚の美しい歌声に魅了された漁師たちはそれまでの憎しみを捨て人魚を慕うようになり、人魚はその気持ちに応えて毎晩猟師たちのために歌いました。ところがある日ヴィスワ川沿いを歩いていたある金持ちの商人は、縁日の見世物にするために人魚を騙して捕まえ、木造の小屋に閉じ込めてしまいました。しかし人魚の泣き声は漁師の息子の耳に届き、彼は仲間を集めて夜中にそっと人魚を逃がしてやりました。そのお礼として人魚は、“命の恩人たちを一生守る”と約束しました。それ以来人魚は剣と盾を握り、ワルシャワとその市民を守り続けてきたということです。(ワルシャワ観光案内より)』
この広場の、人魚の後ろに見える建物の裏側の通りが私たちの三日間のアパートメント・ホテルの所在地です。
おお、歩きましたねぇ。足が痛くなりましたが、それでも。。。
無名戦士の墓無名戦士の墓には規則正しく闊歩する衛兵が居ました。そこを通り過ぎ木立の茂る公園をどんどん。
この日はその後文化宮殿に行き展望台から街を見下ろしました。ディスカウント切符が必要ですか?と聞かれ当然イエスと答えたんですが、聞く必要もないのではないかと思ってしまいました。黙ってディスカウントしてくれても問題はないのではないかと。
ミツキェヴィチ
ポーランドが誇る、政治活動家でもあるロマン派詩人
アダム・ベルナルト・ミツキェヴィチの像の周りは公園のように手入れされた芝生で、中に入れるのかと入り口を探して一回りしてしまいました。

スフィンクスというレストランで昼食を食べたのですが、その時アイスティを注文したのです。これが美味しかったですね。レモンの代わりにピーチ(桃)でした。「美味し~い」と言ったらウェーターはとても誇らしげで且つ嬉しそうでした。
皆さんも一度お試しあれ、気に入ると思います。

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旅 の 準 備

2009-07-01 09:21:18 | エスペラント
Monarch on Milkweed

旅の楽しみはその準備から始まるということは良く聞きます。そうかも知れません。けれども、何処から手をつけるかという辺りから、旅の準備は頭痛の種でもあります。
漠然と何処其処へ行ってみようという旅の場合は準備の過程ももう少し単純なのですが、今回のように選んだ大会前のツアーが成り立つのかどうかハッキリしないため、飛行機の予約も直ぐには出来ず、イライラした期間があり、決して楽しいものではありませんでした。そうした問題が一つ一つ片付いてようやく旅の全貌がハッキリし始めた頃から楽しみというものを感じられるようになったと言えるでしょう。

今年のエスペラント世界大会はポーランドのビャウィストクで行われます。ビャウィストクはエスペラントの創案者ザメンホフが生まれた町であり、今年は彼の誕生150年目に当るのです。

UEAからこの大会の予定を書いた Dua bulteno と呼ばれる小冊子が送られてきた時一緒に入っていたのが、大会前のツアーのパンフレットでした。
UEA自体が企画する大会前、大会後のツアーとは別にポーランドのエスペランチストが企画したもので、クラコウから始まり悪名高きアゥシュヴィッツにも行く可能性が書いてありました。アゥシュヴィッツは機会が与えられるなら訪ねて見るべき場所と思っていたのでこのツアーへの参加はすぐ決めたのです。
それが何人以上集まらないとツアーは出ないとか言っているので、どの程度集まったのか、出る可能性はどの程度なのか、それを決めてもらわないと飛行機の切符の手配が出来ないから早く決めてくれとか、E-メールを何度も送りました。

その後、やっと飛行機の手配、ゴタゴタしている内に値段も上がっていました。
私は直行便を好みます。特に知らないところでウロウロするのは得意ではないので、トロントからワルシャワ直行を選びました。
日本から来る妹とワルシャワで合流、二日くらい観光します。そのための宿探し。
インターネットで探せる時代ですが、英語です。妹は英語が出来ないので、当然私が探します。
それから、ワルシャワからクラコウまでの列車の手配。夏休みで、若者達の旅行者も増えるでしょうから前出のツアーに必ず参加するには列車も確保する必要があると思ったのです。これはカナダで買えました。間も無く切符が送られてくるでしょう。
ようやく旅の手筈がある程度整ったというところで、当初の辛い部分は通り過ぎたわけですが、まだユーロを買いに行かなければなりません。
子供たちのために旅程と連絡先も英語で書かなければなりません。スーツケースの中味もこれから考慮です。
今日から七月、二週間足らずで出発の日です。
私にとってポーランドは初めてなのでどんな旅になるのでしょう。まだ細々した準備事項がありますがUniversala vagabondoは既に未知の世界を彷徨っています。
写真は長旅の途中ミルクウィードで一休みするオオカバマダラ蝶

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M e K a R o

2009-05-19 09:15:52 | エスペラント

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Esperanto-Rondo de Toronto が企画していた MezKanada Renkontiĝo (MeKaRo)にちょっとだけ顔を出してきました。
この週末は連休で、その連休を利用した企画。私は連休のことをすっかり忘れていて、宿を提供してくれる友人が月曜日には仕事に戻らなければならないと勝手に思い込み土曜日だけ予約してあったのです。それで、参加は土曜日の午後から日曜日の夕方までと決めていました。
猫の事があるので泊まりは予定に入れず日帰り参加を考えていたのですが、息子がその頃帰省するというので急遽友人宅に泊めてもらうことにしたのです。

写真はその会場情景、始まったばかりでまだ人々は集まっていません。三枚目は片隅に置かれたGoodies (Bonaĵoj)のテーブル。飲み物は別のテーブルでもう一つの片隅に置かれていました。

土曜日、天気が良ければ市内の散策に。。。と予定には出ていましたが、私が到着した頃は雨もかなり激しく降り、結局雑談で時間が過ぎました。ピアノの上手な Jeremy がエスペラントの歌に誘っていましたが中々乗ってくる人が居なくて。。。「昔はオペラ歌手にもなれるか、と言われた声だけど、、、」等と冗談を言いながら私は誘いに乗ってみたのですが全く声が出ないのです。あの美声はどこへ行ったのだ?鼻声も出ない!状態で楽しめません。

おやつばかり食べて居てお腹も空かないのだけれど、私は友人と夕食の約束があったので5時過ぎには会場をでました。

昨年、エスペラント市ヘルツベルグでのような濃厚なプログラムを心に描いていたせいか、主として遠足で終わってしまうのが物足りなく思えます。遠くは米国のマリランドから来る人もいたし、そういう人にはトロントの観光も楽しいでしょうけれど。
翌日曜日はせめて遠足のどれかに参加しようと思っていたのに、美味しい昼食を作ってもらいおしゃべりしている内に時間を忘れ、その計画はお流れでした。夕食後にエスペラントの映画(DVD)もあったのですが、私の就寝時間をはるかに過ぎる時間で、帰宅が午前様になってしまうのでこれもボツ。

これが私の MeKaRo 初参加でした。が、参加者の中には初心者の若い人が居たし子供の参加者もあって未来に希望がもてると感じられたのは嬉しいことでした。

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ビャウィストック

2009-02-09 20:20:33 | エスペラント
今朝、ファブリックランドと言う店に布地を買いに出掛け、どうせ序でだからと同じショッピング・センターに並ぶスーパーマーケットA & Pに行きました。近付くと、丁度出てくる二人連れ、ポーランド出身のソフィアとアンドリュー夫妻です。暫らく振りだったので立ち話になりました。
「今年ポーランドへ行くよ、ビャリストック。正確にはBiałystok / ビャウィストック
と発音するんでしょう?」
「ウへッ、何で?」日本人の私がポーランドくんだりまで。。ッて言うのは実に奇跡と言わんばかりの驚きの表情です。
「エスペラントって知ってるよね」とこの辺りから始めなければなりません。ある程度教養のある人なら知っているものと勝手に思っていた私は度々「ギャフン」と感じることがあったからです。
勿論知っていました。
「ポーランド人でも知らない人がいるのよね。誇りに思っても良いのに。。」
「知らない人もいるでしょうけど、話題にしたくない人もいるのよ」とアンドリュー
「えっ?何で?」度肝を抜かれる思いです。
「ザメンホフがコミュニストで無かったから。。 でも事情は変わってきていると思うよ」
これも私にはショックでした。その場ではすぐ思い出さなかったのだけれど日本でエスペラントを初期に学んだ人々の多くはコミュニストではなかったか???

もっと実用的な情報を必要とする私はビャウィストックに行くのにどのような経路で行くのが良いか聞きました。ベルリンかワルシャワとソフィア。
コペンハーゲンからフェリーで、とアンドリュー。仲間が一緒ならそれも楽しいけれど、独りじゃねぇ。とソフィアは「そんなややこしいことを。。」と夫をたしなめていました。
「ポーランド人の旅行社へ行きなさい」と旅行社名を教えてくれました。いずれは彼等に聞こうと思っていたことです。航空会社は「LOT」とも。

漠然としていた「ビャウィストック世界大会」がかなりハッキリした姿を形成し始めた気がしました。


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Claude Piron / クロード・ピロン

2009-01-18 15:19:16 | エスペラント
来る22日は Craude Piron の一周忌。
先日行われた米国のオバマ新政権に希望を出す提案の一つ、エスペラントを米国の義務教育に導入 / Introduce Esperanto as a foreign language subject in schools というアイデアのページに彼のヴィデオが挿入されてあり、彼のスピーチを熱心に聞いた人も多かったでしょう。
ピロンについて殆ど無知だった私は検索して調べる必要が有りました。
言語学者で心理学者、国連で数ヶ国語の通訳として活躍していた時もあり、エスペランチストとしても大きな業績を残している人。
ウィキペディァにはエスペラントのページも日本語のページもあります。
私と同じように良く知らなかった人は是非読んでください。
誰でも努力さえすればこれだけの仕事が出来ると思うわけではありませんが、真似の真似事くらいはしてみたいものです。


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ザメンホフ祭

2008-12-14 10:11:57 | エスペラント
ザメンホフ再現?

何処かの会場で偶々入り口に立っていた時、東洋系のエスペランチストがその会場に入ろうとして「お、ザメンホフ博士!」と挨拶したそうです。「亡霊かよ」と他の人は冷やかしますが。。。似ていませんか?

エスペラント・セーター
信じられない。。。このおそろいのセーターを編んだのはルーニョ(明るい緑のセーターを着た女性)。皆さん大柄だから、編む時間だって掛かるし、四着も?
一度に編んだのではないにしても私なら一着で投げ出しているでしょう。

エスペラント・サンタ
誰の作品か。。。一応サインは入っているけど読めません。サンタ装束のザメンホフ博士。笑っているのが珍しいですね。

昨日土曜日十三日、トロントのザメンホフ祭でした。

何となくお喋り
二時からということだったのですが集まり始めたのは三時過ぎ、五時にお暇する頃にようやく揃ったという感じでした。これからエスペラントの歌を歌うけど、歌って行かない?と言われましたが真夜中の帰宅は待っている猫が可哀相だしその辺で。。。
美味しそうな食べ物も沢山並んでいたのですが胃を壊した直後だけに慎重に、ほんの少しだけ頂いてお暇しました。
久しぶりにエスペラントを喋って気が晴れたことは確かです。トロンターノのエスペラントの癖にも少し気付きました。例えばKokidajxo(鶏肉)、Bruli(タバコに火をつける又は喫煙する)など。Hm?という時が何回かありましたね。
結論:楽しんできました。


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「米国裁判所の混乱」 - 3 -

2008-11-17 20:43:40 | エスペラント

Tiuj anekdotoj estas eltiritaj de libro nomita 'Malordo en Usona juĝejo', kaj aferojn homoj aktuale diris en la juĝejo, vorto post vorto notitaj kaj nun publikitaj de juĝejaj raportistoj kiuj havis turmentojn por resti kvietaj dum tiuj interŝanĝoj aktuale okazis.

下記の逸話は「米国裁判所の混乱」と題する本から取った。実際に人々が裁判所で言った言葉を、このような会話が行われている間冷静さを保つのに苦労した裁判所のリポーター達が一語一語書き取り出版したものである。

ADVOKATO: Ĉu estas vero ke ŝi havas tri infanojn?
ATESTANTO: Jes.
ADVOKATO: Kiom da knaboj estas?
ATESTANTO: Neniom.
ADVOKATO: Ĉu estas iom da knabinoj?
ATESTANTO: Via moŝto, mi pensas ke mi bezonas alian advokaton. Ĉu mi povas havi novan advokaton?

弁護人:彼女には三人の子供が居るんですよね?
証人:ええ、そうです。
弁護人:それで、何人が男の子ですか?
証人:一人も居ません。
弁護人:女の子は何人か居ますか?
証人:裁判官様、私は別な弁護人が必要な気がします。新しい弁護人を手配できますか?


ADVOKATO: Kiel via unua geedziĝo finis?
ATESTANTO: De morto.
ADVOKATO: Kaj kies morto finis ĝin?
ATESTANTO: Nun kies morto vi supozas finigi ĝin?

弁護人:どのようにしてあなたの最初の結婚は終わったのですか?
証人:死が原因です。
弁護人:で、誰の死ですか?
証人:さて、誰の死が私たちの結婚を終わらせたと思いますか?


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「米国裁判所の混乱」 - 2 -

2008-11-14 20:10:49 | エスペラント

Tiuj anekdotoj estas eltiritaj de libro nomita 'Malordo en Usona juĝejo', kaj aferojn homoj aktuale diris en la juĝejo, vorto post vorto notitaj kaj nun publikitaj de juĝejaj raportistoj kiuj havis turmentojn por resti kvietaj dum tiuj interŝanĝoj aktuale okazis.

下記の逸話は「米国裁判所の混乱」と題する本から取った。実際に人々が裁判所で言った言葉を、このような会話が行われている間冷静さを保つのに苦労した裁判所のリポーター達が一語一語書き取り出版したものである。

ADVOKATO: Nun doktoro, Ĉu ne estas vero ke kiam persono mortas dum sia dormo, li ne scias pri tio ĝis sekvonta mateno?
ATESTANTO: Ĉu vi aktuale sukcesis ekzameno de advokato?

弁護人:さて、先生。もし眠っている間に死んだら、その人は翌朝までそれを知ることは出来ないということは真実ですよね。
証人:あなたは本当に弁護士の試験に合格したのですか?


ADVOKATO : La plej juna filo, la dudek-jaraĝa, kiom da jaron li havas?
ATESTANTO : Uh, Li estas dudek.

弁護人:22歳の一番年下の息子は何歳なんですか?
証人:ァ~、20歳です。


ADVOKATO : Ĉu vi ĉeestis tie, kiam vi estis fotita?
ATESTANTO : Ĉu vi mokŝercas min?

弁護人:あなたの写真を撮った時あなたはそこに居たのですか?
証人:私をからかっているんですか?


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