★ Serena ★

カナダ暮らしのエスペランチスト、自然愛好家。
エスペラントやカナダの野草、ネーチャークラブの活動など思いつくままに。

ビャウィストク世界エスペラント大会 (ワルシャワ その三)

2009-08-09 10:51:19 | エスペラント

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教えられたとおり180番のバスに乗ってユダヤ人墓地方面に向いました。その時は気が付かなかったのですが、窓に張ってある路線地図(裏写真/赤印は筆者)には英語でユダヤ人墓地その他の所在地も記されてあり、ポーランド語が解らなくても自分の降りたいバス停を見つけることが出来ます。
とりあえずエスペラント通りで降り、歩きました。
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エスペラント通りは人通りも疎らな、庶民的ではあるけれど落着いた通りです。
短い通りなので数分歩けば終わりでしたがその間に一人か二人の通行人とすれ違っただけ、もう夏休みでしょうのに子供の姿さえ見かけず静かでした。
通り名は二箇所で撮ったので雰囲気の違う二枚を重ねておきました。マウスオーヴァーで見られます。




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ユダヤ人墓地もそこから歩いて程遠くないところにありました。我々観光客は何ズローチだったか入場料金が必要です。
ザメンホフのお墓の場所はたどたどしい英語で教えてくれました。そのお墓に到着する前に数人の観光客が写真を撮っている場所に来ました。
児童文学者で、小児科医でもあり、孤児院の院長をしていたコルチャク先生が子供達の手を引いている姿を表した記念碑です。
ナチスに「処刑」される子供達を「子供達だけで死の旅に出すわけにはイカン」と自ら申し出て死の道を選んだという人。トレブリンカ強制収容所が彼の最後の地です。
その直ぐ傍にはナチスに殺された子供達のための記念碑(裏写真)もありました。その記念碑を囲むように建っていた壁の詩には当時ゲットーに押し込められ物資の流通も大方中断されていたユダヤ人達の生活の喘ぎが覗えます。超特急の意訳ですが、この少年の心は伝わってくるでしょう。


The little smuggler

Through a hole, through a crack or a cranny
Starving yet stubborn and canny
Sneaky and speedy like a cat
I daily risk my youthful neck
And if fate will turn against me
Do not weep for me mother;
Don’t cry
Are we not all marked to die?
Only one worry besets me
Lying in agony ; so nearly dead
Who’ll care for you tomorrow
Who’ll bring you, dear Mom
a slice of bread.

Henryka Lazowerl / Ghetto Warsaw 1941
小さな密輸入者

穴や隙間を通り抜け
飢えてはいるが強情で抜け目なく
猫のように素早くすり抜けて
僕は毎日この若い首を賭けているんだ
運命が僕に逆らうなら
泣かないでよ、お母さん
泣かないで。
僕たちみんな、何時かは死ぬことになっているんだろ
死の苦痛に喘ぐ時の
唯一の僕の気がかりは
明日、誰があなたを気遣うのか
大切なお母さん
誰があなたに一切れのパンを運ぶのか

ヘンリカ ラゾウエル/ゲットー ワルシャワ 1941


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ザメンホフのお墓はその直ぐ近くにありました。ついに私も此処に来たのだという感慨があります。ザメンホフ夫人クララのお墓(裏写真)はその脇にひっそりと立っていました。ウッカリすると見逃してしまうほど飾り気の無いものでした。ザメンホフ夫妻も三人の子供達をホロコーストで失っています。
後で知ったのですがザメンホフを経済的に援助したクララの父のお墓もこの墓地に有るのだそうです。彼の援助なくしてエスペラントは成就しなかったでしょうから彼はやはり大切な存在です。
Umschlagplatz
ジカ(Dzika)通りにあるユダヤ人が列車に乗せられた駅跡も通りました。過去には彼等の乗った車輌の一つが置いてあったそうですが今は御影石の記念の壁にUmschlagplatzと刻まれてあるのみです。写真は「此処から1942年~1943年にわたり30万人以上ののユダヤ人がワルシャワからナチの死のキャンプに送られた」との英語の説明です。
町を行く人々は忙しそうで、この記念碑の存在すら忘れているようでした。立ち寄るのはやはり観光客でしょう。






Zamenhof stratoそこから間も無くザメンホフ通りに入りました。エスペラント通りに比べるとはるかに大通りです。
何故かこの写真は侘びしいのですが。。。
ザメンホフ、エスペラント縁の地はカヴァーしたところでドッと疲れを感じ、オオ何と足の重いことか。




Warszawa Uprising最後に立ち寄ったのがワルシャワ蜂起の記念碑です。
亡命中のポーランド政府の支援を得ての蜂起ということですが、政治の世界のややこしい取引や駆け引きも絡む蜂起、無残な敗北に終わっています。その後ワルシャワはナチによって破壊されています。
40ン年前、ブダペシュトの世界大会で一緒だったヤニナが宿泊先の建物に残る弾丸跡に眉を寄せた私に「ブダペシュトはこんな程度で済んだからまだいい。ワルシャワなんて酷いものよ」と言ったことを思い出しました。
ポーランド人はその壊された瓦礫を一つ一つ拾いあげ、旧市街を復元したのです。その忍耐強さや諦めない強情さが今のポーランドを築いたのでしょう。誇り高い国民と認識しました。


エスペラントの父ザメンホフ
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