少し 蘇 生 2009-02-15 08:44:45 | 雑 記 毎日水もミルクも食事も換えてあげているのに全く手をつけなかったツィツカが、10%クリームを飲み、柔らかい食事のグレーヴィーだけ舐めました。 「おお、おお、食べる気になったか!」 今朝起きてみたら、柔らかい食事が半分減っています。食べたのです。 また、又新しいのに換えておきましたが、後は水を呑んでおしっこして寝ています。まァ少しは食べたのだから良いことにしよう。何時まで持つのかなァ。苦しまないでほしいのですが。 エスペラントの父ザメンホフ
夢 / トロイメライ 2009-02-13 21:11:04 | 雑 記 猫のツィツカが食事を拒否して一週間になります。カルガリーに行っている間預けたので憤慨してのハンストかと思っていたのですが、丸一日経っても朝起こしにも来なければ夜中にあちこち引掻きまわることもしなくなりました。初めのうちはミルクを少し飲みましたが、今は水のみ。そして眠ってばかりいます。 二年余り前、獣医から数ヶ月の命と宣言されながら今日まで我が儘を通してきた猫ですから、その日が来たのだと覚悟しています。 子供達は獣医へ連れて行くことも提案しましたが、「車に乗ること」が彼女には大変なトラゥマの原因なのですから、苦しまない限り好きなように眠らせておこうと決めました。ラジオはクラシック音楽のステーションを常時付けっ放しで最後の日々を安心して憩えるようにしています。(だから、当分ここに置いてある洗濯機も乾燥機も使えません) そして、先ほどはラジオからシューマンの「トロイメライ」が流れていました。 トロイメライはドイツ語で夢と言う意味ですから、日本語では夢と訳されていることもありますが、大抵の人はトロイメライとして覚えているのではないでしょうか。少女時代婦人雑誌かなんかについていた楽譜を頼りに覚えた歌です。当時の私は楽譜から歌を覚えるのを仕事のようにしていたもので、父の本棚にあった楽譜の中には数字で書かれている物もあり、その読み方も憶えて密かに得意でした。 ツィツカは安らかな寝息を立てながらどんな夢を見ているのでしょう。 曲が終わって、解説者が「シューマンのドリーミング」と言った時、「目から鱗」というのはこういうときに当てはまるかと言えるほど新鮮な驚きを憶えました。 曲の雰囲気は確かに夢を表現していると言うより夢みている状態を表していると感じられるから。「フゥ~ン、ナルホドねぇ」なのです。 Sonĝo ではなく Sonĝanta なんだ、と。 今まで関わりのあった猫達に申し訳ないくらい世話を焼き面倒見たツィツカです。その割には愛情の表現も信頼の度合いも薄く他人様からは可愛げが無いと言われますが、我が夫が何故か特別に可愛がった猫です。今は亡き他の猫達に悪いなァと言いながら。。 その夫亡き後私にとって彼女は唯一の伴侶でした。英語では「Keep me company」と言いますが日本語ではどんな表現が適切なのでしょう。 「返事はしないけれど話は聞いてくれるでしょう?」とある友人の言葉です。 聞いているかどうか知りませんが聞いてる振りだけは確かにしていました。 全てに終わりがあり、終りは悲しいです。だから夢を見るのです。夢を見ることで悲しみが薄らぐのを期待するのです。そのこと自体が、ああ、なんと夢のように脆く儚いことか。。。。 エスペラントの父ザメンホフ
何故だ、何故だ、涙が出る。。 2009-02-12 13:59:29 | 雑 記 今日は強風、夕べからの雨は止んだものの。。。裏庭の雪はすっかり溶け去り、僅かに雪掻きで積み上げられた雪の小山が残っているのみ。 今夜から又雪で、寒くなるという予報を聞きながら郵便受けを開けました。 見慣れぬ茶色の封筒、切手は日本のもの、Miĉie という名が目に入ります。知らない人? いや、この名前知っている。誰だ?だれだ? 瞬間電撃が脳天を。。と言うのは大袈裟な話ですが、「そうだ、みちえちゃんだ」と閃いたのです。韮の花と伊東三郎夫人に名前も出ていますが、伊東三郎夫妻のお嬢さんです。この記事を読んで下さったのでした。 名前にエスペラント綴りを使っていること(Mi Ĉie「私は全ての場所に」がその名の由来です)がヒントです。 封を切ると確かに、間違いなく彼女でした。四十余年の昔、お会いしても「こんにちは」が精々の会話だった若い頃の私たちでした。が、懐かしさがム~ンと沸いてくるのです。理由も無く涙が溢れます。何故なのでしょう。 このような巡り会いが可能なのもインターネットのお陰です。良い時代に生きていることを感謝します。 ☆路辺ちゃん、お便り有り難う。すぐ返事を書きますが、とりあえず此の場を借りて受信のお知らせを。とても嬉しかったです。 エスペラントの父ザメンホフ
家 族 2009-02-08 08:51:25 | 雑 記 暮に、長女がトロントに来ているのだけれど公の車を使っているため寄り道が許されないので我が家には立ち寄れないからと電話をくれた時、秋に亡くなった夫の従弟の妻マグドルナにも電話しようと思うと言うので、大いに賛成しました。 それから十分もしないで当のマグドルナから電話があり暫らくおしゃべりしたのです。息子二人は親と一緒に暮らしているので彼女は孤独と言うことは無いのですがそれでも、週に二日だか三日だか仕事に出るので気が紛れていると言っていました。そして彼女はこんなことも言ったのです。 「私たちの間にあった過去の事は水に流して。。。」 私はちょっと言葉に詰まりました。正直言って私たち二人の間には何も無いのです。彼女の夫ラスロは感じやすく、我が夫は冗談が好き、それで、我が夫がちょっとからかっただけで、普通の人なら交ぜっ返したり笑って終わるようなことでさえ憤慨して口をきかなくなる、というタイプ。若い頃はこんなじゃなかったのになァと私が感じたのは病気のせいもあったのかもしれません。 晩年、我が夫は良くE-メールを送っていましたが返事が来たことがありませんでした。何を憤慨していたのか判らないけれど、です。 ラスロの兄デジョは彼等のすぐ隣町で暮らしています。が兄との間にも何かあって付き合いを拒絶していました。デジョの方は何が有ったのかサッパリ判らず、「まァ、シャーナイや」と言ってました。 妻が夫を支持するのは良いとして、マグドルナの態度は盲従とも言えるもので、デジョの妻マリアとスーパーマーケットでばったり出会っても、「フン!」とそっぽを向いて行ってしまうとマリががこぼしていた事があります。 我が夫が亡くなった後、私を気遣ってマリアが良く電話をくれました。電話を貰うだけを待っているのは付き合いが悪いと思い昨年から彼女に電話しているのですが何時も留守、しかも彼らは留守電を使っていないのでメッセージも残せません。 週末なら在宅かも、と電話してみると居ました。孫のお守に狩り出され終日は留守だったのだそうです。色々な雑談の中で、私の気になっていたことを訊いて見ました。 二人だけの兄弟ですから、弟の死の報せは当然伝えられたと私は信じたかったのですが、それは無かったのです。デジョ夫妻は赤の他人から知らされて墓地へ出掛けて行ったのだそうです。「私、何かを盗んでいるような嫌な気がした」とマリア。埋葬の場で歓迎されなかったのです。 この従弟たちと我が夫は子供の頃隣り合わせに住んでいて一緒に育ちましたから、兄弟の無い我が夫にとって彼らは弟のようなもの、実際お互いに「兄弟」と呼んでいました。それがこんな状態で終わってしまうのは何とも情けなく、私が何かすべきかな、とも思うのですが、下手な出方をすればマグドルナは私がマリアの肩を持つと誤解する可能性も有り辛いところです。 敬虔なカトリック信者のマリアは「彼女のために私は祈っているのよ」と言います。 三人それぞれ人種も違い年齢も違うけれど、私たちは言うなれば姉妹です。若い頃はそういう心算で付き合っていましたし、今も変わらないのです。少なくともラスロが病気になるまでは。。。 家族を纏めるのは私には大きな重荷かもしれません。少しづつマグドルナから事情を聞きだす努力が必要かと思うのですが、一方では余計な刺激は与えない方が良いようにも思えるし。 マグドルナが「つまらないことで怒り続けているのは馬鹿馬鹿しい」と気付いてくれるのを待つのみ、かもしれないし、私の日常生活には差し支えないのだから放っておくのが一番良いのかも知れないのですが。 エスペラントの父ザメンホフ
帽 子 2009-01-23 11:44:29 | 雑 記 <> 寝室の片隅に据えてあるワードローブの上部の棚が混雑していたので思いつきの掃除をしたのです。 子供達の思い出の帽子の中に夫の古い帽子を見つけました。 カナダへ来てからは殆ど被る機会の無かった帽子です。特に晩年は存在すら忘れていたでしょう。 ヨーロッパ時代に確か被っていたという薄い記憶があります。冬の帽子だからその姿を見る機会は少なかったはずですが、ああ、そうか、あの時も被っていたんだ、という思い出が蘇ります。 エスペラントだけが私たちの唯一のコミュニケーションの道具だった時代でした。 持ち主を失った帽子は所在無げで侘びしい。長女だったら、「私が被る、頂戴」と直ぐ手を出したでしょう。被ってみると大きさはぴったりです。私が被ることにしました。少なくとも車の中に入れておきましょう、お守りの心算で。 エスペラントのシンボル『緑の星』をあしらったバッジは帽子を造る段階で取り付けたものなのか、何度ひっくり返しトックリ返し眺めてみてもその付け方が判りません。 もうこんな帽子を被る男性は何処にも見かけられなくなりました。だから尚私が被るのが妥当なように思えるのです。 エスペラントの父ザメンホフ
裏 切 り 2009-01-19 08:26:11 | 雑 記 昨夜トロントの友人と電話で話しをしたのですが、気になっていた彼女の次男坊の様子を尋ねると「大分元気を取り戻したようよ」とのことでホッとしました。 もう6年も付き合っていた女性と婚約し、結婚後住むためのコンドミニァムも二人の名前で予約金を入れ、結婚式場の予約も済み、招待状も刷り上り送るまでになった段階で彼女から婚約解除の申込みがあったのです。 そこまで聞いて、そんなことってあるかしら、あって良いのかしら、と言うのが私の反応でした。「そんなの詐欺だよ」という私に彼女も頷いていました。 理由を聞けば「あなたは根暗で、一生共に暮らしていく気になれない」と応えたそうなのです。これにも呆れました。お付き合いの最初の一年でそんなことは判るでしょう。何故6年もの長い間付き合ったのか? 大人しいけれど根暗などではないし、礼儀正しく、頭も良くてハンサムで親にとっては自慢の子です。 私はその段階で「ああ、そんな子はさっさと諦めなさい。もっとふさわしい人が現れるわよ」と思ったのでした。 この青年の父親、友人の夫は「無駄になった経費の半分は出させなさい」と怒ったそうですが、青年は「いいよそんなこと」と全部被る心算。これで、心根の優しい性格がわかるでしょう。 私が感心したのは、「そんなことする必要ない」という父親の意見を無視し、元婚約者の両親に会ってキチンと挨拶して別れたいと、いつも遊びに言っていたそちらのお宅ではなく何処かのコーヒーショップで会い、挨拶したのだそうです。6年間の付き合いは彼女だけではなくその家族ともだったのですから、キチンとけじめをつけたいと言う気持ちも判りますが、とても勇気の要ることだと思いました。 元婚約者のお母さんは泣いていたそうですが、同情します。自分の娘の身勝手さに情けなくもあり、恥ずかしくもあったでしょう。 その青年が友達と出掛けるところまで元気を取り戻したと聞いて安心したのでした。 婚約する前の段階で別れることは間々ありますが、そこまで準備してからと言うのは、私にはやはり詐欺としか思えません。この裏切りに怯まず元気を取り戻して豊かな人生を進んで欲しいと願うのです。 エスペラントの父ザメンホフ
徳永街子さんのこと 2009-01-13 10:00:25 | 雑 記 「そのうち一緒にビール飲もうよ」 「ありがとう。だけど私もう直ぐヨーロッパへ行くの」 「じゃ、帰ってからね」 帰ってくる心算の無い私だったが、そうしようと応えて別れたのが徳永街子さんと会った最後だった。 とある切っ掛けで新劇の俳優さんその他の人々の仲間に入れてもらい舞台稽古など見に行っていた。本番の時でも裏口から入れてもらい観客席の後ろで立ち見をしたりするのが何となく冒険的で気に入っていた。若かったなァと思う。 彼等の会話を聞いていると全くの別世界で、奔放な性生活など気軽な話題になって居たり度肝を抜かれた憶えもある。そんな会話に顔色も変えずからかったり、チャチャを入れたりしている街子さんはとても大人に思えた。 徳永直の娘さんと聞かされて居たので、「街子」は「太陽の無い街」から来たのだなと咄嗟に思ったことも鮮明な記憶だが、あえて当人に確認しなかったのは、彼女が年長でもあり、女優としてもそれなりに名を成していた人でもあったし、私には遠慮があった。が、それ以上に彼女が「徳永直」をおくびにも出さなかったからだろう。 サバサバした明るさやテキパキした態度など羨ましくもあり、私には彼女に対する幾許かの憧れがあった。 だから、「一緒にビールを飲みに行こう」というお誘いはとても嬉しかったものだ。 十年後に里帰りした時連絡を取らなかったのは関わりを持ちたくない或る人を通さなければ彼女に連絡出来なかったからでもあるけれど幼い息子を連れている私には気軽に「ビールを飲みに」行けなかったからでもある。 ふと思いついて検索して見た。真っ先に目に入ってきたのが彼女の朴報である。もう四年も前に亡くなっていた。亡くなる殆ど直前まで舞台に立っていたのだ。 心から冥福を祈りたい。 その最後の舞台についてこんな記事を見つけた。書いた人が誰なのか判らない、私には判らないと言ったほうが良いかもしれない。 『この芝居を観て少し立ったある日新聞の死亡欄を見て驚いた。徳永街子が亡くなったとある。プロレタリア作家の徳永直の長女だった。あの日目の前で管理人役の長い口上を聞いたその人は顔色も悪く生気もなかった。よほど悪かったのか。とにかく冥福を祈る。 この芝居は青年座の五十周年記念として下北沢の五つの劇場でそれぞれ別の演目を同時に上演したもののひとつである。他は見ていないが、こんなことが出来る劇団が今どきあるだろうか。快挙である。 この機会に青年座のHPをのぞいてみたら、研究生の公演があるというので12月のはじめに行ってみた。演目は永井愛の「萩家の三姉妹」。若い俳優のどこがよくて何が悪いかわかった。いつか感想を書こうと思う。 (2004.12.17)』 そのページを確認したい方はこちらをどうぞ。 もう会えないと思うとことさら会おうと努力しなかったことが悔やまれる。正直な話私のことなど覚えていてくれたとも思えないのだけれど。。。 エスペラントの父ザメンホフ
寒 空 に。。。 2009-01-07 12:44:47 | 雑 記 <> 朝のうちは陽射しが美しい日。昼近くから曇りだし、予報の雨か雪の前触れが感じられました。そんな寒空に湖に船を出している人、釣り人と憶測しましたが。 好きだからこそこんな日でも出て行くのでしょうし、また、こんな日は釣れるのでしょう。 水面に浮くのは氷です。水鳥たちが泳いでは潜り、潜っては泳ぎを繰り返していました。 日本の四国とほぼ同じ大きさがあるオンタリオ湖の風景です。 予報どおり今朝は霙が雨に変わり、裏の柳の枝は薄い凍りで覆われてしまいました。その重みと風の力で折れて地面に落ちてくるのも時間の問題でしょう。 エスペラントの父ザメンホフ
出掛けます 2008-11-28 08:37:27 | 雑 記 呼ぶよりそしれ、と誹ったにもかかわらず意外と出足の遅かった主催者。 で、私は「もう、や~めた!」と思いながらE-メールを開けると、「提案どおりに云々」との返事が入っていました。私も意地悪だから直ぐには返事をしないでいたら、これまたせっかちに「まだセレナから返事が来ない」と。 ま、これが彼女なんです。悪い人ではないけれど意外と自分中心なところがあるので。 ともあれ、久しぶりの友人達にも会えるので出掛けることにしました。 問題は我が猫ツィツカ。 たった一晩留守にするのに預けていくことにはかなりな抵抗があります。 ヒューマン・ソサイエティまでの片道15分ギャーギャー啼き続け、吐いたり漏らしたりとその後始末も煩わしいし、かといって家に置いて行くことも心配です。 万が一私が何かの事故で帰れなかったら?? その心配は、何も一晩の留守に限ったことではないと気付きました。朝出て夕方帰る日でも同じです。ほんの一時間の外出でも同じことですから。 水はタップリ用意しなければなりませんので、洗面器一杯に入れた水をバスタブの中に入れておくことにしました。水を沢山飲むのでお便所も一つ余分に作って置きました。帰るまでには両方とも一杯になっているでしょう。 食事も贅沢なのです。 しばらく空気に晒されると拒否し、いずれダッファリン島のカモメの御馳走にしてしまいます。生肉も要求しますから、これの工夫も必要です。彼女のために小さな入れ物に分けて居れ冷凍してある挽き肉を出掛けに出して行く心算です。徐々に融けるのを少しづつ食べれば良いという訳で。 水と乾燥した猫食をタップリ置いておけば三日くらいは大丈夫、と言う人が羨ましいです。 ツィツカは乾燥猫食は好みませんが、たまにはおやつに食べているらしいので出しておくと少しづつ減っていますから、これもタップリ用意しておきましょう。 空腹が最高の御馳走という諺がありますが、彼女も空腹に耐えられなかったら与えられた物を食べるでしょうし、何しろ要求する相手の私が留守なのですから、私に怒鳴って。。ッてことも不可能です。 私にもこういう息抜きは必要なのです。明日はこの集まりには関係の無い別な友人と昼食を取ることにしました。出掛けた序でに遊んできます。 エスペラントの父ザメンホフ
呼ぶより誹れ 2008-11-19 08:29:33 | 雑 記 最近ある集まりのことでごたついていたのです。 集まり場所をミシサガ(トロントの隣街)に決めたと言う連絡を貰った段階で私は即返信しました。「皆さんにはお会いしたいけれど、そんなところではとても行けないので不参加」と。 集まりの場所について打診があった時、私の返事は「トロントなら行けるけれど、其処(主催者の自宅、遠い)ではとても無理」でした。 ミシサガはトロント国際空港がある街ですから、空港の近くなら空港行きのシャトルを使うと言う手もありますが、これも無理な距離です。自分の車で夕方知らない街を運転する心算は全く無い私は路線バスを使う心算でした。トロントに入れば市バスや市電、地下鉄があります。 私の最初の疑問は「何故こんな場所?」でした。 第一、この集まりに来る人達でミシサガに住んでいるのは独りだけ、その人は車は体の一部みたいな人で知らない街でも恐れない人です。 昨年、廃棄ガス放出を抑える目的で車を売り払い、公共の乗り物を使うことにしたと言ってた人も居ますが、彼はどうやって行くのかな? という疑問も湧きました。 運転については私より酷い、運転免許は持っているけど一度も運転したことがないという友人に電話しました。彼女はこの集まりのある日はミシサガの娘宅に居ますが、「街の反対側、遠いのよ」と、もう一人の友人に拾ってもらうことにしたそうです。「私も何でここにしたのか不思議で質問のE-メールを送ったけれど無視された」とも言っていました。 そして主催者は彼女に「セレナは参加を拒否した」と言って来たそうなのです。 私の参加は不可能という便りは全員宛てに出したので、この友人も勿論受け取っています。「私の英語ってそんなに拙い?理由は明白に書いた心算だけれど理解できなかったのかしら?」という私の質問に彼女は「とても判りやすく書いてあった」 で、今回の彼女との会話で、遠くから来る主催者が私をトロントの地下鉄の駅で拾ってくれれば参加出来ると言う結論がでました。 その提案は彼女が主催者にE-メルで、CCが私にも来ました。 翌日彼女からの再度のE-メルは、「まだ返事が来ない」です。 そしてこうも書いてありました。 「呼ぶよりそしれ」 主催者を「呼ぶよりそしれ」ば早く反応があるということです。 主催者の性格は鵜呑み、早とちり、思い込み等々その辺を並べ立てて誹っています。効果があるかな? でも私にとってこの諺は初耳でした。 検索してみると色々出てきます。 鼠の悪口は言わないことにしているというのもありました。なるほどねェ、です。 目下結論待ち。乞う御期待! エスペラントの父ザメンホフ
お悔みの手紙を。。 2008-11-18 21:10:18 | 雑 記 書かなければならなくなったのです。日本語も英語もエスペラントも通じない人に。 先週のある日帰宅すると電話にメッセージが入っていました。デスプレーに現れている電話番号は長距離で、しかも見慣れぬエリアコード。誰かしら、何処かの広告かな? いやいや深刻な声で、英語で「。。の息子のチャバです、父が二日前に無くなりました」と言っている、しかも最後には私の名前をはっきり発音しているのです。 ただとても聞き取りにくく、父親の名前もはっきり聞こえないので一時メッセージを保存し、暫し保留にしました。先ず、812というエリアコードを調べると米国のインデアナ州です。 その後このメッセージを何度か聞きようやく言っている事の大半を理解したのですが、旧ユーゴ、ノヴィ・サド市で暮らすカロリが亡くなったのです。カロリの息子チャバが米国で暮らしていることなど知らなかったのでちょっとショックでした。 電話番号はメッセージに残してくれなかったので、デスプレーに出ている電話番号に掛けてみました。 録音のメッセージで、「あなたのダイヤルした番号では掛けられません、電話番号を確認、掛けなおしてください」と言う声が繰り返されます。放っておくのも一つの手ですが、他に方法があるかしら。他の友人達も連絡は受けているでしょうからそちらに問い合わせる方法も考えましたが。 チャバの父カロリは亡夫の子供の頃からの友人で若い頃夫婦で遊びに来たことがありましたし、毎年クリスマス、誕生日、イースターには欠かさずお祝いのカードを送ってくれる人たちです。今年のイースターにも絵葉書が来ました。 ユーゴの住所は持っているので、そちらにお悔みの便りを書けば直接ユリアナに気持ちを伝えられるのですが、彼女はハンガリー語とセルボクロアチア語は良いけれど英語は殆どダメ、エスペラントなど勿論ダメですから私は困ってしまいました。 こんな時、本当にインターネット様さまです。 私は直ぐ英語で書き、カルガリーの娘にE-メールで翻訳を依頼しました。 彼女は出来るだけ努力すると言ったのですが、私の英語の間違いや言い回しを修理翻訳し、モントリオールに住む義姉に転送添削を依頼したのです。ブダペシュト生まれのブダペシュト育ちの彼女は直ぐ添削返送、私が送って三日目には私の手元に綺麗なハンガリー語の手紙が。 この手紙に私はユリアナとカロリが遊びに来た頃を思い出し「あの頃は私たちは若かったし、このような日が来ようなどとは夢想だにしなかった。。。」と言うようなことを書いたのです。 私の母の口癖は「その日と言うものは来るものだ、私が死ぬ日もお前がお嫁に行く日も」というもので、私はこれを聞くのが嫌でしたが、ふとそのことを思い出しました。 三十数年後この二人の義姉妹が私の年齢に達したら私の手紙の内容は全て忘れてもその一行だけは思い出し、実感になるだろうと言うことも思いました。 そして、私は今一人減り二人減りという年代に何時の間にか突入していたということも実感したのです。 ユリアナに再会する日はまずないでしょうが、私が同じ立場だった時受けた人々の優しさを彼女にも伝えたいのです。 明日はお悔みのカードに添えて投函しようと思います。 エスペラントの父ザメンホフ
日本のストリート・マジッシャン 2008-11-14 08:04:50 | 雑 記 今日送られてきたE-メール。 アメーズィング! と送ってきた人のコメント、この斜めに倒れていく方法どうやっているんでしょうね?と。 確かにこの若者の演技は素晴らしい。見ている人たちの反応も面白い。中味が若者と知らないだけに余計面白いのです。 まァ、見てください。 そのヴィデオ でも、気付いた方はいるかしら? 電車の中の若者達に。席を譲ろうとするのは年配の男性です。それを何度も繰り返すのだけれど回りの若い乗客は一人として立とうとしません。 私が日本を訪ねた時と全く同じです。勿論役者は座る心算は無いのですがそれを乗客は知りませんからね。とても寂しい気がします。 エスペラントの父ザメンホフ
日本人の贅沢 2008-11-11 18:52:09 | 雑 記 先月亡くなったお母さんの住処の後始末に日本へ行っていた友人が帰ってきた。 カナダへ持って来てもどうしようもない物も沢山あるし、殆どの物を捨てなければならなかったのだが、捨てる事さへ生易しいことではなかったらしい。 郵便でカナダへ送れるものは送ったそうだが、それだって最近の日本の郵便局は細かく煩いので、頭の痛い話だったとか。 電気製品(冷蔵庫など):誰も貰い手が無い。近くの大学寮の関係者に声を掛けてみたら、答えは 「近頃の学生は入寮の際新しい物を持ってくる、出て行くときは捨てて行く、他人の使ったものなど使わない」と言われたそうである。 そういう物を受け入れる業者を見つけて問い合わせたら、三年以内の新しい物のみ、と言われ、ボツ。 友人にお皿など、貰ってくれない?と聞いたら、箱に入った状態の真新しいものなら頂くけど、一度でも使ったものは要らない、と言う返事。 掛け軸などの入った箱を見つけたけれど、中味を見る暇もなく時間切れで、業者に取りに来てもらったそうだが、お皿などはボンボン放り込んで割りながら詰め込むので胸が痛くなったと言っていた。割った方が隙間無く詰められるからでしょう、と彼女は言うが胸の痛みに変わりは無い。 着物類だけは、何とか言う盲人のための組織で、パッチワークなどの手芸品を作っている所が取りに来てくれて、無駄にせずに済んだけれど、とのことだった。 最近の経済不況で事情が変わってくると、日本人の考え方も変わってくるかも知れないと私は言ったのだけれど、そうだろうか。未だに捨てることは美徳と言う精神が息づいているような気がしてならない。 どうりで、フリー・サイクルとかグッドウィル、ヴァリューヴィレッジ、救世軍のような事業が通用しない訳だとも思う。どんなに空き缶や古新聞のリサイクルに精を出しても片手落ちという気がする。 カナダでは自分が新しい物を買って、古いがまだ使えるものを始末するのにそれを必要とする人に譲るのは常識である。譲り方は知友に、或いはガラージュセールで、又は上記のような慈善事業団体に寄付すると言う方法がある。 そうする値打ちもなくなった冷蔵庫とかストーヴなどは道路脇に出しておくと業者が拾って行ってくれる。彼女はゴミの業者に何万円とか払わなければならなかった。 カナダではこのような店を利用する人も結構沢山居るもので、それなりに経営が成り立っているようだ。が、日本では無理なのだろうか。 エスペラントの父ザメンホフ
運命の絆 2008-11-08 08:03:29 | 雑 記 朝から気分の優れない日だったから、昼食は久しぶりに和食の十ドルランチを食べに行こうと思った。 二、三ヶ所用を済ませてレストランへ。 こんな日、日本語を喋る必要があると感じているわけではないのだが体の片隅にそういう要求があるのかもしれない。 何時も選ぶ秋刀魚定食は税込みで$10.12、チップを入れても$12で済む。お目当ては主役の秋刀魚ではなく付録の揚げ出し豆腐。このカテゴリーに鯖もあるけれど脂っこくて嫌いだから何時も秋刀魚。秋刀魚は骨が多いから嫌いという人も居るけれど私は骨の影響しないところだけを食べる。子供の頃から私の食べ残しは一人前残っていると母が言っていたものだ。 まだ早いので客は二、三人。斜め向かいで食べていた白人男性と眼が遭ったら笑顔で会釈されて、戸惑う。私を知っている人かしら? 慌てて会釈を返す。失礼になってはいけないから。 ウエートレスは仕事上の日本語は話すが韓国系の人で口数は少ない。でもおっとりした優しい感じの人で、会って何となくホッとする人だ。 食べ終わって、支払いも済ませ外に出ようとして歩きながら鍵を取り出そうとしたら、無い。パウチに入れた筈なのに無い。 食事中にパウチの中を弄った時に落としたかもしれないと席に戻ったのだけれど落ちてもいない。 先刻のウェートレスも、マネージャーも探してくれるが、無い。 緑色のバンジー・コードが付いているから目立つし、どこかに紛れる小さなものでもないのだから、実に不思議なのだ。 車の中に忘れてきたんでしょう。 実はジャケットのポケットに入れていたのを、外套掛けに掛ける時、身に付けておく方が安心かと思って移動させたのだ。だから、車の中ということは絶対にない。 というところへ新しい客が入ってきた。 見れば此処しばらく会っていない友人二人。付き合いは薄いが長い人たちだ。 事情を聞いて二人とも車の中だ、行って見ておいでと言う。 しょうがないのでブツブツ良いながらも車に戻るが勿論無い。 そんなら、とペニーが言う。ポケットみんな空けナ。 パウチの中味をみんな出してみせる。ホラ、無いでしょう。 このパウチは主要ポケットの前後に厚みの無いポケットが一つづつ付いていて、前方のにはペン、メモ用紙、櫛などを入れてある。後方の体にくっつく方には運転免許が入っている。こっちを開けたら、アッタ。 ほーら、見てミナ。 そこで座りなおし、彼女達が食事をする間、しばらく会わなかった間の情報交換。 御主人どうしてる?とペニーに聞かれてハッとする。三年前の今頃私は病院通いをしていたのだ。ペニーとはもう三年あまり会っていなかったことになる。 彼女たちは二人とも牡蠣フライを美味しそうに食べ、私はそれを見ながらそんな物が美味しいなんて気が知れないと思う。そんなことを話しながら、話題は年の話に自然に移行。 テリーは78歳になった。信じられないほど若々しい。 忙しくしてるよ、と言う。 ペニーが音頭を取って踊りを教え、その辺で生地を買って着物を自分たちで縫い、最近はパーフォーマンスもしているとか。 日本舞踊?あなたが? がさつ者のペニーには似合わない気がして私は驚く、が、彼女は平然として、日本舞踊と盆踊りの中間みたいなヤツ、と言っていた。想像出来なくは無いが、そんな踊りってどんななのだろう。でも、それはどうでも良いような気がする。70才を過ぎてそういうことを楽しみ且つ人々に楽しみを分け与える、良い事ではない? 一種の健康方でもあるのだろう。 運命の絆、などといえば大袈裟かもしれないが、私が鍵を見失わなかったら今日の出会いは無かったのだ。 Everything happens for a reason. 何事も理由があって起る。 と言う言葉を思い出した。 気の置けない日本語でのおしゃべり、幾分気が晴れて帰路についた。 エスペラントの父ザメンホフ
カナダ産 2008-11-07 09:26:01 | 雑 記 カナダ・アーム、メープルシロップなどは皆さんおなじみのカナダ製品ですが、この中でなじみのものはありますか?ブラックベリーを使っている人も多いでしょうけれど。。 カナダが誇るカナダ産 十点 poloさんのコメントで、開けない人も居るらしいと判ったのでその十点を列記しておきます。 リンクは日本語がある場合はそれを使いましたが、日本語が無いものもあり、それはそのままです。 Mountain Equipment Co-op Tim Hortons Maple syrup Toronto Maple Leafs The Canadarm Roots Canadian Tire Cervélo racing bikes Hudson’s Bay Company IMAX エスペラントの父ザメンホフ