さんたろう日記

95歳、会津坂下町に住む「山太郎」さんたろうです。コンデジで楽しみながら残りの日々静かに生きようと思っています。

大寒波厳しくて

2018-01-26 | 日記
さすがの山太郎も身動きできません



二階のパソコン室の窓からの眺めです。粉雪が激しく吹き荒れてます。車の通りも少なくて小型の自家用の除雪車が一台ライトをつけてゆっくりと移動していました。自分に家の庭や道路まで道の除雪をするんでしょうね

今朝6時の気温は零下6度、山のような吹き溜まりを除雪機で吹き飛ばしなら除雪していたんですけど手袋をしている手が厳しい寒気で痛いんですよ。

午前中は茶の間のストーブをつけてコタツに入りひっそりしていましたけど午後どうしょうかと二階に上がってみるとストーブを焚いていない室内温度は1度2分でした。外を見ると粉雪が激しく吹雪いています。たぶん除雪された歩道のあちこちは吹きだまりで閉ざされていて歩くのが困難でしょうし、吹雪で見通しが利かない車道を歩くのは危険ですし車の人に迷惑をかけます。今日の散歩は出来そうにありません。パソコン室のストーブを焚いて読みかけの藤沢周平の蝉しぐれでも読むのが正解のようです。

今日はばばちゃん(家内)はデーサービスで出かけています。帰ってくる4時前には家の前の除雪をしておかなければなりません。また手袋をしたてが痛むだろうと思いました。

私はふと、幼なかった小学校4年か5年の頃の東北地方の大寒波大雪の冬のことを思いだしました。私はその頃福島県側からの尾瀬登山口の桧枝岐村隣の集落小立岩というところにに住んでいました。その年は毎日の大雪で集落の家々が雪に埋もれてしまったのです。普通の年の冬は屋根の雪下ろしをしていたのですがその年は埋もれた屋根の雪除け上げをしなければなりませんでした、家の前から家の後ろで屋根の雪除けをしている父の姿が屋根越しによく見えたのをはっきりと覚えています。

その年は5月頃まで田畑に雪が残り大冷害の凶作でした。その頃の農村では小作農の方が多かったんです。小作農の人たちはたとえ凶作であろうと地主には小作料を納めなければなりません。困った小作農の人たちは家族が生き残るために娘を売って耐えなければならない人も少なくんかったと聞いています。そのような人たちの間を密かに娘買いの女衒といわれる人たちが回っていたのです。有名な島原の子守唄で歌われる鬼の久助どんがそれですね。

その頃226事件と言う大事件がありました。若い青年将校が下士官兵を率いて政治の中枢の重臣たちを襲撃して殺害し東都の一部を占拠し立てこもったのです。そのクーデターは失敗し首謀者の青年将校たちは銃殺されました。その事件以後は急速軍部独裁が進みやがて中国との戦争から太平洋戦争へと発展していったといわれています。

私は自分で言うのもおかしいですがどちらかと言えばリベラル派に近いと思っています。ですからこのクーデターによって日本の政治は萎縮し軍部独裁の軍国主義に急旋回した恐怖の憎むべき事件だったと理性では思っています。時の昭和天皇はクーデターを起こした青年将校たちを朕の重臣たちを殺害した無法者と激しく憎み先頭にたってクーターの鎮圧の指揮をなされたと聞いております。

でもそんな私の心のそこに残っている情感はちがうんですよ。目を瞑って銃殺された青年将校たちの写真を思い浮かべるとその人たちの軍服姿の凛凛しい姿に尊敬や憧れみたいな思いとその死を悼む心が湧いてくるのです。

その写真というのは母の購読していた雑誌に青年将校の一人一人の軍服姿が載っていて記事には青年将校たちはは部下の兵のたちの出身地の東北地方の貧窮の惨状を改善するために決起したのであると書いてありました。そして私の父や母たちもそのことを密かに話し合い銃殺された青年将校たちを悼んでいたのを聞いていたのです。子どもの頃経験した情念って心に深く刻まれて残るんですね。

「古き良き時代にもう一度」と良く聞きます。確かに昭和初期頃までの大地主だった方たちにとってはその時代はいい時代だったかと思いいます。みな○○さまとあがめれていましたし裕福な生活が出来ていたでしょうから。でも娘を女衒にうらなければ生きて行けなかった小作人たちにとっては苦しい時代だったのです。

私は昭和初期は小学校で勉強していました。その中で国語の教材は意外に詩的で心豊かな教材が多かったのです。今でも心に浮かぶ教材がいっぱいあります。しかし小学校の教育の中心は「有名な教育勅語」です。その中の精神が至るところで絶対的なものとして教え込まれました。親に孝行しなさい。兄弟仲良くしなさい。夫婦は仲良くしなさい。友人互いに信頼できる立派な人間になりなさい。と心嬉しいことが述べられています。しかし最も中心的なことは「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」でした。あらゆるところであらゆる方法でこれを教え込まれました。今でも思い浮かぶのは修身という教科書に「木口小平は死んでもラッパを放しませんでした」という見出しで突撃ラッパを吹いていたラッパ手が敵弾にあたって倒れながらラッパを吹いている図がのっていました。つまり戦争になったら死を恐れず国のため君のために戦いなさいという教材です。それをあらゆるところであらゆる方法で教えこまれました。ですから小学校を終わる頃には立派な軍国少年になっていました。遊びの中心はいつも勇壮な戦争ごっこでした。ですから成人になると赤紙という一篇の令状を受けると迷わず妻子両親を残して戦いにいくようになったのです。

でもあの時代を経験した私は、軍隊には参謀肩章つけた一握りの上級将校のひとたちと、お前たちの代わりははがき代の3銭5厘あればいくらでも召集されると言われながら、海軍では海軍精神注入棒と呼ばれる樫の棒で激しく尻を打たれ、陸軍では鉄建で殴られ相互びんたで殴り合いをさせられて上官の命令には絶対服従させられるようにされた下級兵卒の集団があったのを知っています。安全なところで戦争を計画立案して命令する人たちと、その命令のまま迷わず殺し殺される戦いの場所に行かなければならない人たちがいたのです。私は貧しい自作農の出て、召集令状があれば迷わず戦地にいく階級の人間でした。戦時中私はそれを至極あたりまえのことと思い惑いはありませんでした。

でも今は違います、私は昭和初期の大日本帝国憲法の昭和初期の時代をいい時代だったとは決して思いません。でも参謀肩章をつけた上級将校たちの人たちにはあの時代は輝いていたんでしょうね。私は「古き良き時代にもう一度」と聞くととても不安になるんです。

数年ぶりの大寒波から、おもわぬほうに思いがいってしまいました。でもあの時代を生き残って今を生きている老体です。おかしな方向にいってしまった文章になってしまいましたけどそのまま投稿いたします。お読みいただけたならとても有り難いことです。




最強といわれる寒波の中の会津です

2018-01-25 | 日記
朝の気温は零下6度さすような寒さでした
でもどうしたことでしょうか午前10時頃になると空が綺麗に晴れたんです


   

午後1時頃の国道49号線バイパスの越後街道です


    
綺麗に晴れわたって温かそうに見えますけど気温は零下3度耳が痛く鳴る寒さでした


国道の歩道は小型除雪車できれいに除雪されていて散歩は快適でいた


   
しばらく散歩を続けていると急に空が暗くなって来ました



除雪された昨晩降った大量の雪が道の脇に積みあげれていました


光明寺楼門の見える北裏通りです。厳しい寒さのためでしょうか遠くまで車も人も見えません


  
今日の散歩は1時間20分ほどの散歩でしたけどお会いした徒歩の方はほんの数人だけでした。その中の一人が私です。雪道の散歩は疲れます家に着く頃は少々よろけていました。

今日の散歩は7135歩でした

厳しい寒さに吹雪く町

2018-01-24 | 日記


オートで撮りました。スローシャッターで撮るべきでした。激しい吹雪がうまく撮れていません。わずかに粉雪が白い点々で写っています。国道の歩道は除雪されていたんですけどあちこち吹雪で埋まっていました。老体の私ですけど吹雪のなかがんばって1時間30分程の散歩を楽しみました。

私の家の前の通りです
厳しい寒さの中吹雪が吹き荒れていました。寒さで耳が痛くなりました



国道49号線バイパス通りです

  

除雪された雪が道路脇にいっぱいです。歩道は除雪したばかりで綺麗でしたけど写真でははっきりしていません。スパイク付きの長靴でしたので滑らなくてとても楽でした。

北裏通りです。除雪車が入りませんから皆さん家の前の除雪におおわらわでした。狭い一本道ですけど皆さん雪になれていますからお互い譲り合って上手に通るんですよね。





東京23区は33年ぶりの大寒波で大混乱と報道されています。会津は寒さに吹雪いても雪国ですから特別変わったこともありませんけど西高東低の気圧配置はしばらく続きそうです。今夜0時の気温は零下7度と予報されています。あと数日は厳しい寒さの中吹雪く日が続きそうです。気を引き締めてがんばります。でも日が長くなりました、気持ちが明るくなります。

ひっそりと静まる街に昔を懐かしむ

2018-01-23 | 日記
ここはかつては人々や車で賑わう町の本通り越後街道街でした>



50年前41歳だった私はこの街通りから定期バスにのって会津若松市の職場に通っていました。この街通りにはバスの停留所が3箇所もあってそれぞれの停留所には若松方面に通うバスを待つ人でいっぱいでした。その頃は自家用車を持っている人は少なくて一般の人の交通手段は定期バスかJRの列車しかなかったのです。ですからバスの停留所やJRの駅はたくさんの人で賑わっていたのです。

余談になりますけど若松までの朝の通勤バスはいつも超満員で身動きが出来ないほどでした。職場の近くの停留所まで約40分はほとんど立ち通しのつらい通勤でした。でも同じ停留所から乗る人たちと顔見知りになって温かい仲間意識みたいなものができて挨拶もかわすようになるのでした。車で独り通う孤独の通勤とはひと味ちがってもいました。

また町には大型のスーパーやコンビにみたいな量販店はありませんでした。街通りのお店はみな老舗(しにせ)で店の奥には机と腰掛があってお茶も飲めるようなっていてご主人は近くに敷いてある畳の上にいらっしゃってお客と応対なさるんです。お店には何人かの使用人の方がいらっしゃって店はなにやら賑やかでした。買い物はスーパーなどの買い物と違った温かい心の通いがあったようにおもいます。近郷近在の人はみなバスや自転車に乗って街にやってくるのです。街はその人たちで賑わっていました。

それに町にはまだ越後街道(国道49号線)のバイパス通りは出来ていませんでした。ですからこの町の本道は越後街道になっていてバスやトラックの往来も頻繁で賑わっていたのです。

この道は現在の越後街道(国道49号線)です



最初は国道の町バイパスに作られた道路でしたけど今は大きな駐車場を持つスーパーやコンビニなどの量販店や食堂が道路沿いに並んでいます。かつては町の本通りで買い物をし外食をしていた人たちはみなこの通りに車でやって来るようになりました。自然大きな駐車場もない本通りには車も人も行かなくなってしまったのです。                                

越後街道の宿場であった坂下町の本格的な町割がなされたのは寛永元年(1624)と言われています。いまから394年前のことです。それまでの越後街道は今の北裏通りだと言われております。北裏通りの今は町の細い裏通りになっていますけどこの道には定林寺・光明寺・光照寺・法界寺の大きな寺が並んでいます。もと越後街道だったなごりなのかもしれません。



町の主要な通りは時代とともに変わっていくんですよね。今は国道49号線のほかにも町の南側に立派な南幹線道路ができ、また国道49号線と南幹線道路を結ぶ新しい通りも出来て賑わっています。いよいよ昔の町の本通りは静かになっていくように思えます。


                             
でも私のような老体の私はこの昔の本通りに立つと華やかだった昔のことが思い出されて懐かしくなってしまうんですよ。今日のつまらない私の感懐です。


心温まる裏町通り散歩道

2018-01-21 | 日記

なんか古里に帰ったような気がするんでよ
とくに言葉を交わすのではありませんけど裏町通りを歩む人人を見ると心ほのぼのと温まるのです

ここは私の古里などではありませんけどもね私の大好きな散歩道のひとつなんですよ