ここはかつては人々や車で賑わう町の本通り越後街道街でした>
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50年前41歳だった私はこの街通りから定期バスにのって会津若松市の職場に通っていました。この街通りにはバスの停留所が3箇所もあってそれぞれの停留所には若松方面に通うバスを待つ人でいっぱいでした。その頃は自家用車を持っている人は少なくて一般の人の交通手段は定期バスかJRの列車しかなかったのです。ですからバスの停留所やJRの駅はたくさんの人で賑わっていたのです。
余談になりますけど若松までの朝の通勤バスはいつも超満員で身動きが出来ないほどでした。職場の近くの停留所まで約40分はほとんど立ち通しのつらい通勤でした。でも同じ停留所から乗る人たちと顔見知りになって温かい仲間意識みたいなものができて挨拶もかわすようになるのでした。車で独り通う孤独の通勤とはひと味ちがってもいました。
また町には大型のスーパーやコンビにみたいな量販店はありませんでした。街通りのお店はみな老舗(しにせ)で店の奥には机と腰掛があってお茶も飲めるようなっていてご主人は近くに敷いてある畳の上にいらっしゃってお客と応対なさるんです。お店には何人かの使用人の方がいらっしゃって店はなにやら賑やかでした。買い物はスーパーなどの買い物と違った温かい心の通いがあったようにおもいます。近郷近在の人はみなバスや自転車に乗って街にやってくるのです。街はその人たちで賑わっていました。
それに町にはまだ越後街道(国道49号線)のバイパス通りは出来ていませんでした。ですからこの町の本道は越後街道になっていてバスやトラックの往来も頻繁で賑わっていたのです。
この道は現在の越後街道(国道49号線)です
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最初は国道の町バイパスに作られた道路でしたけど今は大きな駐車場を持つスーパーやコンビニなどの量販店や食堂が道路沿いに並んでいます。かつては町の本通りで買い物をし外食をしていた人たちはみなこの通りに車でやって来るようになりました。自然大きな駐車場もない本通りには車も人も行かなくなってしまったのです。
越後街道の宿場であった坂下町の本格的な町割がなされたのは寛永元年(1624)と言われています。いまから394年前のことです。それまでの越後街道は今の北裏通りだと言われております。北裏通りの今は町の細い裏通りになっていますけどこの道には定林寺・光明寺・光照寺・法界寺の大きな寺が並んでいます。もと越後街道だったなごりなのかもしれません。
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町の主要な通りは時代とともに変わっていくんですよね。今は国道49号線のほかにも町の南側に立派な南幹線道路ができ、また国道49号線と南幹線道路を結ぶ新しい通りも出来て賑わっています。いよいよ昔の町の本通りは静かになっていくように思えます。
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でも私のような老体の私はこの昔の本通りに立つと華やかだった昔のことが思い出されて懐かしくなってしまうんですよ。今日のつまらない私の感懐です。
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