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さんたろう日記

95歳、会津坂下町に住む「山太郎」さんたろうです。コンデジで楽しみながら残りの日々静かに生きようと思っています。

肥後の守ナイフのこと ふと懐かしく思い出しました

2020-07-19 | 日記

肥後の守ナイフってこんなナイフなんですよ

   でもこのナイフのこと知っていて懐かしむ人はもう少なくなりました。

80年ほど昔、私を含めて小学校の同級生たちはみんな筆入れの中にこのナイフを入れていました。鉛筆を削るためにです、一個5銭くらいの値段だったような記憶です。自分の小遣い銭で買いました。私たち子どもがいろんなことに使う大事な道具ですから自分が選んで買ったんですよ。5銭の価値は感覚的にいうと現在の500円相当だったでしょうか。高価なもものではありませんでした。

肥後の守ナイフは旧式で今ではもう使い道はありません。でも子どもの頃の思い出が懐かしくて購入する人がいるんでしょうね、写真のような昔の肥後の守ナイフそっくりの復製ナイフが作られて3000円から4000円見当でネットで販売されているんですよ。

肥後の守ナイフはあの頃の男の子どもにとってはとても大事な道具でいろんな物を肥後の守ナイフで削って作っていたんですよ。

当時の男の子は軍国日本の子どもですから学校から帰るとすぐに仲間が集まって敵味方に分かれて戦争ごっこをしました。物陰に身を隠しながら進んで近づくと大声をあげて突撃し本当の兵士になったような気持ちで戦争ごっこをしていたんです。そのとき使う鉄砲や刀はみんな肥後の守ナイフで削ってつくったんです。

そのほかホウノキの大きな葉のついた枝を細工して風ざ車をつくって回しながら走り回ったり。クルミの木のヒコバエを細工して呼子をつくって鳴らしたり、いろんなおもちゃや子どもの用具をこの肥後の守ナイフで削って作ったのです。

あの頃の子どもは縄文人並みの技術を持っていたような気がします。細い竹でつくった紙鉄砲(竹の筒の両端に噛んでやわらかくした紙を詰め細い竹の棒で押し込むと圧縮された空気の力でパーンと音がして紙が飛ぶのです。)や、肥後の守ナイフで削って作った竹トンボなどたれが一番高く遠くまで飛ぶかを真剣に競いあったりしました。そのほかいろんなおもちゃを肥後の守ナイフで細工して作って遊んだんですよ。

肥後の守ナイフではないけれど遊びに使うおはじきなどもガラス瓶のかけらや陶器のかけらを丁寧に石でたたいて作りました。お祭りの小遣いなどで買ったいろんな色の綺麗なおはじきはギヤマンと称して宝もののように大事にしていました。

このように肥後の守ナイフは子どもたちにはすごく大事な用具でした。だから綺麗に研ぎあげて髪の毛さえ切れるほどにしていました。

研ぎ方は誰に教わるわけではなくて自分の経験で覚えていくんです。私も研いでいて水がなくなって砥の粉だけになるまで研ぐと美しく輝いてすごく切れるようになることを経験して知っていました。

研ぎあげた肥後の守ナイフはすごくよく切れました。ですから使っていて左手の指をよく切りました。その時の手当も仲間(兄貴分)から教わって知っていました。血止め草をよくもんで傷口を押さえ手ぬぐいを細く裂いて縛りました。それで一度も化膿したことはありません。指などを切りながら安全な刃物の扱いを覚えていくんですね。大人の人から刃物の扱いを教えてもらったのではないんです。

考えてみると子どものころの私は縄文人並みに器用でした。縄文人は黒曜石を叩いてやじりや肉切りナイフをつくったように私らはガラスのかけらや陶器のかけらを叩いておはじきをつくりました。

そんなことで私だけじゃなくって肥後の守ナイフを懐かしむ人が結構いるんですよね。だから使いものにならない復製の肥後の守ナイフが2000円から3000円で販売されているんですね。なんか嬉しいです。

 肥後の守ナイフを使っていて懐かしく思う人は85歳以上の人たちでしょうか。やがて保護者や学校の先生が、肥後の守ナイフは危ないから禁止しようということになって教室に手回しの鉛筆削りが備えられるようになったり、鉛筆にさしてくるくるまわして削る鉛筆削りが出来たりして肥後の守ナイフは姿を消していきました。でも私にとってはすごく懐かしいナイフなんですよ。

そうそう昭和10年代の洟垂れ腕白小僧だった子どもたちにとって肥後の守ナイフは武士だったら刀、百姓だったらいつも腰に手挟んでいる鉈や鎌・・のように自分の誇りのシンボルだったんですよね・・・

ですから複製の肥後の守ナイフを見ると心にぐっときてちょっと目がうるむんですよ

 

なぜでしょうか?ね、肥後の守ナイフが使われていた頃は子どもの間に陰湿ないじめなどは全くありませんでした。不思議ですね。