さんたろう日記

95歳、会津坂下町に住む「山太郎」さんたろうです。コンデジで楽しみながら残りの日々静かに生きようと思っています。

昭和は遠いですけども

2020-05-06 | 日記

私はいつのまにか93歳4ヶ月の古老になってしまいました

大正が昭和に改元されて9日めの昭和2年(1927)1月3日に生まれです。昭和の初年は幼い子供でしたけど懐かしい思いがいっぱいあるんですよ。

これは昭和の初め頃の懐かしい写真です

「肥え引き」というんです。当時の農業は金肥と言われる化学肥料は少ないので水田の肥料は馬や牛の小屋に敷かれて馬や牛の糞尿がいっぱいある藁と毎朝ご飯前に刈り取った草を積んで堆肥にした物を肥料にしていました。その堆肥を圃場に運ぶために、まだ深く消え残っている雪が固くしまっている四月の初日に集落で話し合って集落の農家が一斉に大きな橇に堆肥を積んで圃場に運んだのです。数日続く「肥え引き」と言われる作業です。

集落から圃場までには行きの橇道と帰りの橇道の二筋の橇道ができて肥え引きの橇が行き交いました。農家の仕事始めです。力仕事ですから休憩の「小昼(こびる休憩の時の食事)」は真っ白なおにぎりやきな粉をまぶした草餅などのご馳走を食べてなんか華やいだ気分の「肥え引き」でした。(当時のご飯は麦や粟などの入った黄金飯が普通でした。)

でも若者たちの間にはもうひとつの楽しみがありました。右はじの若い女の人の姿を見て下さい菅げ笠も・ひやけどめに顔を覆った真っ白な手ぬぐいも・絣の着物も・細くて黒いもんぺも・手袋も真新しいんですよ。左端の地味なおとなの方の服装と比べて見て下さい。娘さんの精一杯のおしゃれの晴れ着姿ですよね。行き交う若い男どもの目を引きつけないはずがありません。いつでもどこでも若者たちは輝いているんです。今は93歳の爺いですけども当時は私だって若かったんですよ。懐かしい心ときめく思い出のひとつです。

当時の田植えのための耕耘や代掻きは馬や牛を使ってやりました

                                        
でも田植え前の田んぼを平にするためには人の力も必要でした

 

 

                                       
田植え作業は家族も、親戚の方もお手伝いの方も、総力をあげての賑やかな作業でした

 田植えは子供から年老いた人までそれぞれの場所で精一杯に働く作業でした。決して楽な仕事ではありませんでしたけどどこかはなやいだお祭りのような気分の田植えで

 

あれ! これってなんでしょうね

お正月元旦の朝、身を清め蓑笠の姿で雪中の田植えのまねびをするのです。藁を使って雪の上に田植えのまねごとをして新しい年の豊作の祈願をするのです。木につるした藁包みは木の生り物や野菜への願いです。

 

時はもちろん軽トラなどありません馬や牛をつかった車が運搬に使われたんです

こんな怖い姿の牛が狭い草の狭い道をゆっくりと車を引いているんですね。御しているおばさんの姿立派です

 

牛の引く車で休む母親と娘さんの姿和やかです

 

若い女の子が母と弟たちをリヤカーに乗せて引いています。ほほえましいです

少年たちの薪運びの仲間です

当時は灯油やガスなどありません囲炉裏や竈の火は薪を燃やしていました。まだ雪の消え残っている春の山の斜面で刈り取られていた薪が山に積まれて乾燥されていました。少年たちは学校が終わって帰ると鞄を家において仲間たちそろって山に積まれていた薪を背負って家に運んだのです。たれもがやっている当然の仕事でした。肩や背中が痛まないように蓑を着て薪を背負いました。

 

嬉しく晴れやかな収穫の日です

はざ掛けされてる稲の前でのお父さん、兄さん。妹さんの笑顔が晴れやかです

                                                
赤ちゃんをおんぶして子供と一緒の買い物帰りのお母さんです

今のお母さんの買い物は乗用車で町のスーパーでします。でも当時はどの集落には雑貨屋さんも魚屋さんもありました。ですからこんな温かな買い物姿も見られたんですね。うしろの干し柿もみごとです。干してある大根の葉は馬や牛など家畜の大事ね冬の飼料になるんでしょうね。すべてに無駄がないんですね。

 

思い出すと昭和ってそんなに物が豊かではありませんでしたけど、心豊かなものがありました。子供たちは「がきたいしょう」を中心にして山野に栗や野ブドウやアケビをもとめておやつにしていました。がきたいしょうと言うのは力の強い者がなるのではなくて仲間の全てに思いやりがあって仲間のルールと安全をしっかり守って統率する心豊かで賢い者がなるのでした。

こどもたちのルールのひとつに「シメッ!」という決まりがありました。山野のものを求めているときにたとえば誰かが野葡萄を発見したときそれを最初に発見した子供はそれを指さして「シメッ!」と叫ぶのです。するとその野葡萄の管理権はその発見者のものになるのです。もちろんみんなでたべますけども発見者の許しが必要でした。もちろんアケビのような個体の所有権は最初の発見者のものになるんです。そのルールはすべて者が守りました。力の強弱は関係なかったのです。年上のものがしっかりと年下のものをまもり仲間のルールを教えるこどもたちの仲間でした。いじめなど仲間はずれなどは全くありませんでした。それがおとなの世界まで続いて助けあっていくのが集落の仲間だったのです。大人になっての冠婚葬祭は仲間たちが 集まって取り仕切りました。男たちの伊勢講仲間や女子の観音講などと言われた仲間です。

 

写真はすべて

モノクロは写真集「会津の昭和」「会津の百年」カラーは「熱塩加納の四季」からお借りしました