さんたろう日記

95歳、会津坂下町に住む「山太郎」さんたろうです。コンデジで楽しみながら残りの日々静かに生きようと思っています。

コロナ禍の嵐の中に私生きていますけど

2020-05-05 | 日記

93歳の老体の長い年月を生きてきましたから振り返るといろんな思いが湧いてくるんですよ

 

会津も五月になって広い圃場に稲作の始まる様子が見えてくるようになりました

大型のトラクターと軽トラで熟年のお二人が田んぼ耕耘の準備をなさっています


       

私は会津の農村は昭和の63年、平成の31年の間に大きく変化(進歩)したと思っているんです。昭和20年(1945)8月あの狂気の太平洋戦争が敗戦で終わりました。よく人々は勝てるはずもない戦争に日本を引きずりこんだ帝国陸海軍指導部の愚かさを言いますけど、私はそればかりではなくて当時の日本の権力者が国民の人権を無視して奴隷のようにあつかったことが大きな罪悪だったと思っているのです。当時の陸軍では招集令状で入隊してきた新兵の二等兵をことあるごとに鉄拳で殴りたたきのめし。海軍では入隊してきた新兵を修正と称して海軍精神注入棒と称する樫の棒で尻をたたきのめし、上官の命令に絶対服従する奴隷のような兵卒にしたてあげました。下士官や士官のもっている軍刀や海軍の短剣は下級兵を絶対服従させるための権威のためのものでした。突撃と上官が叫べば機関銃や自動小銃の弾丸の嵐の中に身をていして突撃する兵卒にしたてあげられていたんです。

そして農村では○○さまと称する大地主の下に貧しい小作百姓がいて小作料を上納させられていました。当時は冷害による不作が度々ありましたけど小作料は必ず上納しなければなりませんでした。そういう冷害の年は女衒と称される人買い人が小作人のところを廻り食べるに困っている家の娘を買い取り遊郭に売り飛ばしたのです。それが当然のことのようにおこなわれていたのです。農村の貧しい小作人は奴隷に近い扱いだったのです。

でも戦後になると占領軍のGHQの命令で農地改革がおこなわれ、それまで苦しんできた小作農家が自作農家になって農村の状況が大きく変わってきたのです。鍬と鎌とで土地を這いずりながら小作百姓をして地主の○○様に小作料を上納させられていた多くの小作百姓たちが自立した農家の経営者に変わってきたのです。それに連れて農業のあり方も大きく変わって(進化)きたのです。そして女衒や遊郭も禁止されたのです。

昭和末年の60年代(1985)頃になると馬中心の耕作農業が単気筒水冷式のエンジンのついた耕耘機の耕耘に変わり、手で植えられていた田植えが小型の田植え機の田植えに変わり、鎌で手刈りしていた稲刈りが、稲を刈りとって束に結束する稲刈りバインダーというエンジン付きの機械での稲刈りがされるようになり、足踏みの脱穀機がエンジンの動力をつかった脱穀機に進化してきたのです。その頃の農村は生き生きしていました。一軒一軒の農家の皆さんがみんな農業の機械化に真剣に取り組んでいました。

でもそれが平成の時代になると農業の機械化が急速に進むようになったのです。歩きながら機械のうしろにっついて操作する単気筒水冷式エンジンつきの耕耘機は小型ながらトラクターにかわり、それがみるみるうちに大型で高速のトラクターになり、アタッチメントの補助機械をつけて 耕耘から代掻き・肥料散布・畦の堅め・除雪までするようになったのです。

うしろからあるいてついてついて行きながら操作していた小型の田植え機は機械の上にのって操作する田植え機になりました。それがみるみるうちに大型化高速化した田植え機になりました。

歩きながらうしろについて操作していた稲刈りバインダーは、小型ながら稲を刈り取って脱穀までするコンバインになりました、その頃はそれぞれの農家に小型コンバインがあり。家の主人がコンバインに乗って稲を刈り取り、奥様がコンバインの脇について歩きながら脱穀されて袋いっぱいになった籾袋を交換していました。でもそのコンバインもみるみるうちに大型化高能率化され刈り取られ脱穀した籾は長い筒で自動で奥様の運転する軽トラに移されるよになりました。

そのような農業機械が小型のうちはそれぞれの農家がそれを持つようになり、その農業機械をつかって自分の家の稲作をやっていました。でも小型の農業機械ですからまだたくさんの人手が必要で家族全員の農作業で圃場の農作業は賑やかでした。

でも農業機械が大型化高能率かする中で農家は大型農業機械を持つ農家と、自分の家の田んぼの耕作は大型農業機械を持つ農家に委託する農家に二分するようになりました。そして大型化・高速化・能率化が進んだことで農作業に多くの人手は必要なくなりました。またそれにつれて稲作技術の進化もあって施肥や除草や病虫害の防除などの人手も少なくてすむようになり農作業の中心は熟年のご夫婦二人で出来るようになりました。

大型の田植え機を運転して田植えをするご主人と軽トラで苗を運ぶ奥様とで進められる田植えです

 

大型のコンバインで刈り取られ脱穀された籾が自動でコンバインから奥様の軽トラに移されるようになりました

大型農業機械が使われるようになって農作業の人数は少なくてすむようになりました


「うちの百姓どもはみんなサラリーマンになってしまった」と嘆く山の集落のおばあさんの嘆きの声がが聞かれるよになったのです。農村の集落から若者の姿が激減し農業は熟年のご夫婦の二人が支えるようになりました

でも農村は昭和の初期(1940)頃では考えられないような豊かさになりました。それぞれの農家には数台の乗用車があり、昭和初期の茅葺きの農家は今は綺麗で大きな邸宅に変わっています。子供達は綺麗な服装で学校が終わると遊ぶ間もなく塾やスポーツ少年団に通います。そして高校が終わると大学に進学する者が多くなりました。

平成の農村は本当に豊かになりました。でもこれからの令和の農村はどうなっていくんだろうという不安の思いも私にはあるんですよ。

それに93年生きてきた老体の私には昭和の63年を懐かしむ気持ちもあるんです。

今日は少しく疲れました。ボケ老のつぶやきはこの辺でやめておきます。
明日は写真を中心にした昭和への懐かしみ回顧の思いを書いてみたいと思っているんです。