墓碑に「昭和50年5月12日 成田 博」とあるお墓なんですよ
句碑には「大阿賀を越ゆれば他郷あげ雲雀 青芦」とあります
「お名前は成田 博 62歳 俳号は青芦」
昭和50年(1975年)お亡くなりになられたんですね。 私が48歳の時でした。
成田さんは 私より14歳ほど年上の方で金上集落の名家にお生まれになりました。若くして海兵団に入られ海軍中尉で終戦をお迎えになりました。復員されてからは県の地方事務所にお勤めになられ、定年で退職なさってからは私の家の隣に家を新築なさって奥さまと暮らしていらっしゃいました。
人生経験豊かな温和な方で未熟な私たち夫婦をなにかと優しくご指導下さいました。でも12歳も年齢が離れていましたし私もまだ現役の忙しい身でもありましたのでそれほどの深いおつきあいはありませんでした。
私が現役をはなれ退職後は野仏など撮っ楽しんでいたときこの成田さんのお墓にこの句碑があることに気がづいたのです。
大阿賀を越ゆれば他郷揚げ雲雀 青芦
たぶんお勤めの終わりに近い頃今まで勤めていた地区の県事務所から新しい地区の県事務所にご栄転なされたときに詠まれた句だと思います。阿賀川の大きな流れに掛かる橋を前に、今まで勤務していた地区への惜別の思いと新しい地区への期待とに高揚された思いがいっぱいの句だと私は思うのです。
また句碑の裏にはこんな句が彫られていました。
湯のたぎる音して風邪寝人を恋う 青芦
成田さんは退職なさった60歳の時に私の家の隣に家を新築なさって奥様とお住みになられました。子供さんたちは皆独立していたんでしょうね、子供さんたちの姿は見えませんでした。
ところが悲しいことに成田さんは60歳の終わり頃に癌を発病なさったのです。
昭和50年頃は癌は不治の病として絶対に本人には知らされませんでした。告知された奥様やこどもさんたち本当に悲しく辛かったと思うのです。
発病初期の頃はしばらくは新築されたばかりの家で奥様の介護で療養なさっていらっしゃいました。成田さんの客間は和室で畳の上に机と座布団と長火鉢がありました。成田さんご夫婦の思いなんでしょうね、ポットのお湯などはおつかいにならず、長火鉢の灰ののなかに炭火が埋もれていてその上の五徳(三本脚で鉄瓶などを炭火の上にのせるもの)に使いこんだ銀口の南部鉄瓶が乗っていました。使いこんだ南部鉄瓶の底には酸化鉄でしょうか赤い色の固い湯垢がついていました。湯垢には小さくかすかな穴がいっぱいあって湯がたぎると細かな泡をだしてシェーンシェーンとかすかな音がするのです。鉄瓶を洗うときは気をつけてその湯垢をとらないようにしていました。湯垢がお茶にいいお湯を湧かすと思っていたのです。
自分は風邪と思い入院を拒んでいらっしゃった成田さんです。病気が長くなると友人の見舞いの訪れも少なくなります。自分は癌とはしらず風邪とばかり思って隣の部屋でお休みなさっていらっしゃる成田さんの心がしみじみと分かる句だとわたしは思うのです。
成田さんは新築の自分のお家で一年もお暮らしにならずに病院でお亡くなりになりました
私は成田さんのお墓の前でもっともっと俳人青芦さんのお話を聞いておけばよかったといまも悔やんでいるんです。
数年後奥様も癌でお亡くなりになって成田さんのお宅は今も空き屋になっています。