デントコーンは昨年あたりから肥育牛農家の方が栽培をを初めました。夏空の下会津の新しい風景なんですよね。
デントコーンと言えば私には遠い日の思いでが二つあるんですよ。ひとつにはいつの頃か定かではないんですけど子どもの頃「バハトウモロコシ」というトウモロコシを食べたことがあるんですよ。確か食料不足を補うために栽培されたトウモロコシで大きな実についた粒が馬の歯のような形をしていて食べて見ると固くておいしくないものでした。 今考えるとその馬歯トウモロコシはデントコーンっだったように思います。味よりも量が大事な時代の食べ物だったんですね。
昭和20 年(1945 )4月から9月まで18歳の私は援農学徒動員で北海道十勝で農家に宿泊して援農作業をしていました。形は大きくはないんですけど温和で力の強いどさんこの馬2頭にプラオを曳かせて広い畑を耕していました。乳牛の飼料にするデントコーンを栽培するためにです。デントコーンは人間のたべるものではなくて乳牛の飼料にするトウモロコシだったことを知りました。
8月15日昼過ぎ学徒はすぐに村の集会所に集まるように連絡がありました。私の宿泊していた家にはラジオがなかったのです。
集まって見ると村の大人の人は呆然としていましたし、私達学徒の仲間は悲憤慷慨していました。なにしろ私たち学徒は2年か3年後には軍隊に入隊して予備士官学校に入り命を賭してお国のために戦うという立派なひとたちばかりでしたから。
わたしなど本質的には気弱な性格でしたけど、たぶん仲間と一緒に整列させられて、上官から「只今から特攻攻撃を実施する、志願するものは一歩前へ」と言われればみなと一緒に迷わず一歩前に出たと思います。そのように強く訓練されていましたから・私も純粋なでも盲目的な軍国学徒の一員だったのです。
でも、気弱な私は夜床に入ると毎晩思い悩んでいたんですよ。18歳の私の命はあと2年2年後にはかならず死はやってくる、いったい死ってどうゆうことなんだろう。怖い恐ろしいと思い悩んでいたんですよ。それはもう本当に強烈な恐ろしい悩みだったんですよ。
そんな私です。終戦を聞いて皆と一緒に悲憤慷慨する気にはなりませんでした。集会が終わって宿泊先の家に帰る道筋に8月のデントコーン畑の緑が広がっていました。私は一人です、私は声には出しませんでしたけど、広いデントコーン畑に向かって心の中で大声で叫びました。「死ななくていいんだ、死ななくて生きていていいんだ~」と ほんとぅにほんとうに嬉しかったんですよ。8月15日の十勝の空は明るく晴れ渡っていたんですよ。