ぶらっと散歩

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防府市中関は三田尻塩田と諸国廻船で栄えた町

2023年12月10日 | 山口県防府市

               
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         中関(なかのせき)は防府平野の南西部に位置し、大部分は江戸期の開作により造成された
        地域である。東の上関、西の赤間関(下関)の中間に位置し、その繁栄にあやかるために明
        和年間(1764-1772)に中関と名付けられる。
         中関へは防府市新橋の旧山陽道から仁井令・植松を通る道と、防府市佐野からの中之関
        港道があった。(歩行約6.9㎞)

        
         JR防府駅南口から防長バス中浦行き約15分、下新前町バス停で下車する。 

        
        
         磯崎神社は、1738(元文3)年厚狭毛利氏が中野開作築立した際、その鎮守として市杵
        島姫命を勧請して厳島社を建立する。その後、中野開作は完成しないまま萩本藩に上地さ
        れる。1825(文政8)年社号を荒神社と改めたが、明治になって現社号に改める。

        
         1889(明治22)年町村制の施行により、田島村、浜方村と向島が合併して中関村と称
        した。村役場は域内の中心であるこの地(現えんしん幼稚園)に置いた。

        
         防府市スポーツセンターを目指すと入川があり、河口へ向かうと県道58号線(防府環状
        線)の和合橋に合わす。

        
         県道左前方の防音林に塩田関係の碑がある。 

        
         鳥居を潜ると、1699(元禄12)年以後に入浜式塩田(六ヶ所浜)が構築され、赤穂に次
        ぐ塩の生産地となった旨の塩田跡碑がある。

        
         1771(明和8)年萩藩は鶴浜に三田尻塩田大会所を設け、大年寄による休浜法の規定や
        塩田の営業の取り決め、販売統制などを行った。

        
         田中藤六は、明和年間(1764-1772)生産過剰による塩業大恐慌にあたり、三・八替持の休
        浜法を建策する。操業を3月~8月(現在の4~9月)とし、さらに塩田を2分して日替え
        に操業するというもので、安芸・備後・伊予・周防の四ヶ国協定を成立させて危急を救う。
        (顕彰碑)

        
         瀬戸内海全体の塩田振興のために、身を粉にして働いたが、1777(安永6)年に他界す
        る。右の碑は藤六の功績を称え、1908(明治41)年三田尻の浜主が建てた「白和翁田中
        藤六君之碑」で、「後の世も、人ならはなん(習はなん) 朝夕に、汲めや潮のつきぬ功を」
        と刻まれている。
         左手の碑は、1915(大正4)年11月大正天皇即位にあたり、藤六が従5位に叙せられ
        たことを記念して、1917(大正6)年「贈位承恩之碑」が建立される。

        
         1752(宝暦2)年鶴浜塩田の築立にあたり、厳島神社より勧請された厳島社と思われる。

        
         塩田に必要な物資のほとんどが船で運ばれた。各浜の境には海に通じる水路が造られ、
        それぞれの浜を結んで東西に走る水路(入川)が設けられた。

        
         三田尻塩田の概要は、1687(貞亨4)年に古浜、1721(享保6)年に中浜、1753
          (宝暦3)年に鶴浜、1766(明和3)年の大浜(1~5ノ枡の総称)が毛利藩の資本によって
                開発された。
         1959(昭和34)年塩田廃止の際、浜子の失業問題が起こったが、浜主の転業問題は起
        こらなかったという。すでに塩田を生活の糧にしていなかったことや、廃止による相当額
        の交付金が支払われたり土地所有権が残ったためといわれている。
         かっての塩田は開発公社が買収し、1970(昭和45)年以降に工業用地として転用され
        る。
          1899(明治32)年の地形図
               左より     大浜5        中浜
                            (中央に入川)
                   大浜4・大浜3・大浜2・大浜1・鶴浜 古浜

        
         最初の橋(浜方橋)で県道を横断すると、わが国の塩業史に大きな役割を果たしてきた三
        田尻塩田を記念して、1992(平成4)年鶴浜塩田跡地の一画に入浜式塩田の諸施設が復元
        された三田尻塩田記念産業公園が開業する。

        
         江戸期から古浜、中浜、鶴浜、大浜、江泊浜、西浦前ノ浜の六ヶ所浜で製塩が行われて
        きたが、戦後、外塩の輸入と「流下式製塩法」により内地塩は生産過剰となる。1959
          (昭和34)年塩業整備臨時措置法により、260年にわたり日本の塩業を支えた三田尻塩田
        は幕を降ろす。

        
         塩作りに使う砂(持砂)を塩田にまき、潮が着いた砂を沼井(ぬい)に入れて、海水などで濃
        度の高い鹹水(かんすい)を作るという作業工程が見られる。

        
         濃縮台と呼ばれるものだそうで、入浜式塩田で採鹹(さいかん)した鹹水(かんすい)を濃縮す
        るため装置だそうである。鹹水を自然に流下させて、太陽熱や風により水分を蒸発させ、
        雨の日は流下を止めて雨水を水路に流すようになっている。
         電力の普及によりポンプを利用して鹹水を汲み上げるようになり、浜子が桶で運んだり
        暗溝(鹹水を溜めておく施設)が姿を消したという。

        
         煎熬(せんごう)とは鹹水を煮詰めて塩を採るで、煎熬釜は江戸時代から明治にかけては石
        釜が使われており、その後は鉄製に変ったという。燃料も松の薪が使われたが、その費用
        は生産コストの中で大きな割合を占めていたが、経済的な石炭焚きが導入されると各浜に
        広がる。

        
         大正前期に造られた越中屋の石造り釜屋煙突で、髙さ12.5m、頂上の周囲は4.2m
        もある。塩釜で長い時間をかけて高温で煮詰めるため大きな煙突を必要とした。
         こちら側からではわからないが、右に廻り込むと入川方向へ少し斜塔となっているが、
        風速50mぐらいでは倒壊しないよう補強されているとのこと。(国登録有形文化財)

        
         煎熬釜に使用された花崗岩と同じ材質のようだ。

        
         桝築らんかん橋が移設されているが、大浜塩田に同形同大のものが9橋あったうちの1
        つである。

        
         右のお堂は防府霊場53番札所で、左の祠名は知り得なかったが、注連縄があるので現
        役のようである
。推測の域を出ないが、塩田に入る前に参拝してらんかん橋を渡ったので
        はなかろうか。(公園のある入川にも1基)

        
         塩田公園から西約700mの所に桝築(ますつき)らんかん橋がある。大浜に塩田が築かれ
        た明和年間(1764-1772)に架橋されたという。

        
         橋の中ほどが両脇より60㎝ほど高い構造になっている。製塩燃料の石炭や製品の塩を
        運搬する上荷船が、満潮期でも通行できるように工夫されている。
         橋の名は、浜の形が四角形で米や塩などを計る枡の形に似ており、その間に築かれたこ
        とから枡築、橋の両側には安全のため欄干が付けてあったので「枡築らんかん橋」といわ
        れた。

        
         往時の地に残るものはこの一橋のみで、2基は塩田公園と山陽自動車道佐波川SA上り
        線に移設されている。

        
         らんかん橋の構造図。

        
         中関配水機場を過ごすと北側は航空自衛隊防府南基地。ここでは採用された航空自衛官
        の教育訓練が行われているが、約69万㎡という広さは周防国府の面積に匹敵する。ちな
        みに北基地は254万㎡の広さである。

        
         1932(昭和7)年に建設された中関橋は、幅3.4m、長さ11mのコンクリート造橋
        で、高欄のアーチと直線が組み合わされている。当時は町と塩田をつなぐ重要な役目を担
        っていた。

        
         中関は防府地域の主要幹線である旧山陽道や萩往還から離れており、人や物流の妨げに
        なっていた。国道の新橋南口から中関港への道路建設が1887(明治20)年後半に計画さ
                れ、1889(明治22)年に直線的な中之関港道が完成した。

               
        
         塩釜神社は、1767(明和4)年大浜塩田の築立てが完了した翌年、その鎮守として奥州
        一の宮・塩釜神社を中関の猿迫に勧請したが、1893(明治26)年6月現在地に迂祀した。     
        (山口県神社誌より)
         これよりも前、鶴浜塩田の築立にあたり、安芸宮島の厳島神社より勧請して厳島社が創
        建されたが、1907(明治40)年塩釜神社に合祀される。
         また、1766(明和3)年現中関本町に厳島神社が創建されたが、1965(昭和40)年塩
        釜神社に合祀され、塩釜厳島神社と改称する。かっての繁栄ぶりを示す塩竃厳島神社は神
        明造りの社殿である。

        
         萩藩7代藩主・毛利重就(しげたか・1725-1789)は、塩業中心であった中関の発展に力を
        注ぎ、産物や商品を積んだ船が出入りする港の整備も怠らなかった。
         上関は岩国領、赤間関(下関)は長府藩であったので、萩藩の港として田島の小泊(おどま
          り)
港と向島の小田港を整備し、風向きによってどちらかに停泊できるようにし、上関と下
        関の中間であることから「中関」と名付ける。
         1888(明治21)年重就の100年忌にあたり、彼の業績を称えその遺徳を後世に伝え
        るため境内に記念碑が建てられた。

        
         道を挟んで双方とも加藤家のようだが、山手側の加藤家には加藤勉二翁之碑が邸内にあ
        る。加藤勉二(1876-1940)は初代・伝蔵から数えて6代目の当主で、2代中関村長に就任し、
        防府町などと合併するまでの28年間村・町長として中関の発展に尽力したとされる。

        
         三田尻塩田は、1767(明和4)年大浜塩田の築立でほぼ完成し、各地から人が移り住む
        ようになる。藩は萩の町人・梅屋吉右衛門に町づくりを委ねたが、塩浜の不振により撫育
        方から借用した開発資銀の返済に行き詰まる。
         1783(天明3)年萩藩の招きで都濃郡浅江村の豪農・加藤伝蔵が町づくりを進めた。伝
        蔵は芝居小屋、料理屋、遊女屋などを建てて賑やかな町をつくる。

        
         伝蔵は新規に酒造業の承認を得て殖産にも力を入れた。1789年の天明末期から諸国
        廻船が西泊に入港するようになり、塩業の町として繁栄した。加藤家の前には蔵と井戸が
        残されている。

        
         川を挟んだ対面の塩田跡地は工業地に姿を変えた。

        
         この地に厳島神社があったものと思われる。

        
         広い敷地に小さな恵比寿社のみ。

        
         この先のマリーナに塩倉庫があったといい、灯台があるというが遠いためここで残念し
        て引き返す。

        
         三田尻塩田の塩を積み出す港として栄えたが、塩田の廃止とともに町は衰退する。(入川
        遊歩道を引き返す) 

        
         本町の町並み。

        
         普門寺(真言宗醍醐派)は、岩国市のと或る山の頂にあった竜宝院を現在地に移して祀っ
        たのが始まりとされる。1902(明治35)年現寺号に改称するが、現在は無住で他寺の住
        職が兼務し、門徒有志が寺を管理されているとのこと。

        
         中関の町並みを歩いて中関バス停よりJR防府駅に戻る。


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