この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
伊部(いんべ)は北に熊山山魂、南は大平山山魂が続き、中央に平地が開け、不老川が南流
する。地名は氏族的職業集団として勢力を誇った忌部氏に由来するものと考えられている。
伊部周辺には忌部の人々が住み、そこから忌部が地名となり、漢字が転じて伊部になった
という。(歩行約2㎞)
JR伊部駅は、1958(昭和33)年赤穂線が日生(ひなせ)から当駅まで延伸した際に終着
駅として開業し、北側に平屋の駅舎が設置された。のちに南口が開設され、北口は198
7(昭和62)年備前焼伝統産業会館内に併設された。
国道2号線を横断すると窯元の煙突が並ぶ。
不老川への道筋。
履掛(くつかけ)天神宮は、菅原道真公が太宰府に西下の時、休憩されたという伝承があり、
鳥居前には備前焼の狛犬が置かれ、お宮の屋根も備前焼である。
板壁と石壁、瓦壁が並ぶ。
不老川に出ると蔓が這う2つの煙突。
川上へ進むと旧山陽道に合わす。
不老川と山陽道が交わる場所に、茅葺きの屋根と門構えのある民家は、伊勢崎さんの工
房で築200年以上の建物とか。
伊部橋から赤穂方面への街道歩きだが、橋の親柱は備前焼で、橋の袂にあったお地蔵さ
んも備前焼だった。
10月15・16日は備前焼まつりが行われたようが、静かな備前焼の里をのんびり歩
くのも格別である。
備前焼の狛犬と市章がデザインされたマンホール蓋。
町中を歩くと、美術館の中にいるような気分になる。
煙突から煙がみられる時期ではないようだが、1200℃を超える中で2週間も焼き続
けられるという。
店先で見られるのは作家の自信作のようだ。
からくり人形でも出現するような造りの店構え。
通りにも備前焼の工房が並ぶ。
焼物の知識を持ち合わせていないが、備前焼は釉薬(ゆうやく)を使わない独自の製法が特
徴のようで、釉薬を塗ると光沢と耐水性が増すが、備前焼は使わないためひとつとして同
じものができないとされる。
看板には「陶印」が施してあるが、備前焼が「大窯」と呼ばれる共同窯で焼かれるよう
になった室町期頃から、作品を見分けるために刻印を始めたという。
備前焼の歴史は古く、平安末期から中世にかけて、当初は熊山山中で焼かれていたが、
時代が経つにつれて麓に降りてきたという。
「備前の擂り鉢、投げても割れぬ」と謡われたように、堅牢な作りから生産を増やし、
山陽道だけでなく、片上湾の海運と吉井川の高瀬舟の水運にも恵まれて販路を拡大した。
(駅通り)
備前焼の魅力に惹かれて、何度も訪れる陶芸ファンも多いという。
左右には和と洋の小西陶古。
店先には大甕が並ぶ。
しっとりと落ち着いた佇まいを見せる。
天津(あまつ)神社の鳥居にある扁額は屋根付き、狛犬は履掛天満宮同様に備前焼であり、
参道には陶板が敷き詰めてある。
神門の屋根も備前焼瓦で葺かれている。
由緒等は不明のようで、古老の口碑によると、昔から伊部、浦伊部は菅原氏の荘園であ
ったことにより、室町期の1411(応永18)年に配祀されたという。
社殿は当初、浦伊部に創建されたが、1579(天正7)年伊部に疫病が流行した際に遷座
したという。
天津神社境内に室町時代から江戸時代にかけて、この地に備前焼の同業者が、共同で使
用した大規模な窯のひとつである伊部北大窯があった。室町時代末期に北、南、西の3ヶ
所に大窯が設けられたが、幕末になると窯の経営がたちゆかなくなり、使用されなくなっ
たという。(窪地になっている所が大窯跡と、窯を保護するための溝だそうだ。)
忌部神社は天津神社の境内末社で、備前焼の窯元六姓(金重・森・木村・大饗・寺見・頓
宮)が、古くから小祠のあったこの地に、1929(昭和4)年伊勢神宮から摂末社をいただ
き、伊勢から船で片上湾へ船で運ばれて建立されたという。祭神は天太玉命で、玉串、注
連縄をはじめ多くの祭具を作ったことにより、物造りの神として祀られている。
神社から2~3分ほど小径を登ると、展望台(標高60m)から伊部の里が一望できる。
天保窯のある道を下ると町並みが見えてくる。
町全体に窯元の赤煉瓦煙突が並ぶ。
江戸後期まで三大窯で生産していた備前焼も、藩の保護の減少、燃料の関係で規模を縮
小した三基の小窯が造られた。天保窯はその1つで、1832(天保3)年頃に築窯され、1
940(昭和15)年頃まで焼き継がれた。
当初は長さ23mであったが、乾燥などによる崩壊で残存長は17.5mになったという。
保護屋根の設置や窯体を強化保存する工事が行われたが、崩落による危険防止のため金網
が設けられている。(上部の写真は燃焼口、下部は崩壊の様子)
街道を過ごして駅に戻る途中、煙突を間近に見ることができる。次の予定もあって駅の
南側を見て歩きできなかったが、日本六古窯に数えられる備前焼の里を見納めする。