ぶらっと散歩

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赤穂市の赤穂城界隈を巡る

2022年10月22日 | その他県外

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         赤穂は千種川河口に発達したデルタに立地する。地名の由来は、海辺に生じる蓼(たで)
        の穂が赤いこと。また、元正天皇の時、赤穂の蓼が生じて帝へ奉献したことによると、い
        ずれにしても特産の赤い穂の蓼に由来するという。(歩行約5.8㎞)

        
         播州赤穂駅は、1951(昭和26)年に赤穂線の終着駅として開業する。現在の橋上駅舎
        は、2000(平成12)年に供用開始された。駅名は開業当時、飯田線に赤穂(あかほ)駅が存
        在していたので、頭に「播州」を冠した。

        
         駅からお城通りを歩くが、城までは約1㎞、約15分の距離である。

        
         1616(元和2)年日本三大水道(江戸神田水道、広島福山水道)の1つ、赤穂上水として
        築造された。赤穂城下の上流にある切山に隧道を堀削して千種川の水を導入し、城と城下
        町の各戸へ給水した。赤穂城下はデルタ上にあるため掘井戸は塩水が湧き、飲料にならな
        いため上水道が造られたが、この事業は池田家の赤穂郡代だった垂水半左衛門が築造の指
        揮をとったと伝える。

        
         主君浅野内匠頭長矩の江戸城での一件を知らせるため、早水藤左衛門と萱野三平が、江
        戸から早駕籠を乗り継いで4日半かけて赤穂城下に到着し、その時、この井戸で2人は水
        を飲み一息継いで赤穂城(大石邸)に向かったと伝えられる。(息継ぎ井戸)
         同広場には高さ4mほどのからくり時計「義士あんどん」が設置してある。9時から2
        0時までの毎正時に、義士の音楽と共に扉が開き、からくり人形が忠臣蔵の名場面を再現
        するそうだが、タイミングが悪く見ることができなかった。

        
         赤穂市のシンボル木である桜の中に市章、その周りに市花であるツツジとギザギザ模様
        は陣太鼓、下部に千種川と思われる川面がデザインされたマンホール蓋。 

        
         花岳寺筋の商店街。

        
         曹洞宗の花岳寺(かがくじ)は、1645(正保2)年常陸国(現茨城県)笠間より転封になった
        浅野長直が浅野家の菩提寺として創建する。
         山門は、もと赤穂城の西惣門(塩屋門)を、1873(明治6)年に寺が購入して移築したも
        のとされる。

        
         現在の本堂は、1758(宝暦8)年に再建され、幕に2つの家紋が施してあるが、右の
        「違い鷹の羽」は赤穂浅野家の紋。左の「二ツ巴」は大石家の家紋。

                
         
本堂の中には入れないが土間まで入ることができる。参拝を済ませると天井には大額
        (法橋義信の「竹に虎」)がある。

        
         拝観受付を済ませて義士墓所に参詣する。1701(元禄14)年3月14日(旧暦は4月
        21日)江戸城中で、浅野内匠頭長矩が旗本の吉良上野介義央に対して刃傷沙汰を起こし、
        即日切腹、浅野家は改易となる。
         その後、浅野の遺臣である大石内蔵助義雄以下赤穂浪士47名が翌年12月14日(旧暦
        1月30日)に吉良邸に討ち入り、吉良の首を泉岳寺の主君の墓前に捧げたのち、幕命によ
        り切腹する。
         花岳寺に墓所が建てられたのは、1739(元文4)年義士の37回忌とされる。墓には遺
        髪が埋められ、中央に浅野内匠頭長矩、右に大石内蔵助良雄、左に大石主税良金、周りを
        囲む墓標は格式順に建てられている。

        
         浅野家墓所には笠間藩主だった長重、赤穂藩初代藩主の長直、二代藩主の長友の他に、
        大石頼母の墓、義士宝物館、義士木像堂、森家の墓、大石家先祖の墓、義士家族墓などが
        ある。

        
         花岳寺門前にある古民家。

        
         旧備前街道筋の古民家。

        
         右手の古民家は旅館として再生されている。

        
         
        
         花岳寺から赤穂城まで道は、かってのお成り道(藩主が通った道)とされる。  

        
         赤松滄洲(そうしゅう・1721-1801)は江戸中期の儒学者で、藩主森忠洪(ただひろ)により藩儒
        に登用され、私邸では塾静思亭を開いた。のち、儒業を長子・蘭室に譲るが、蘭室ととも
        に藩校の設立に尽力し、1777(安永6)年塩屋門外に「博文館」が設立される。その後、
        京都で生活したが晩年は赤穂に帰り、81歳で没した。(宅跡) 

        
         お成り道に残る町家。

        
         赤穂城は現在の千種川によって形成された三角州の先端部分に築かれた平城で、現在は
        城の周囲が埋め立てられて、海岸線から遠く離れているので海に守られた城とは想像しが
        たいが、城の南側まで海が入り込んでいたという。

        
        
         この城の特徴の1つとして、櫓台状の突出部・櫓矢桝形が城全体に多用され、防衛力を
        高めていた。1935(昭和10)年に太鼓橋、1955(昭和30)年に三の丸大手隅櫓と大手
        門(高麗門形式)が復元された。

                 
         大手門を潜ると内桝形構造になっている。

        
         大石神社の白壁塀を見ながら進むと、重職にあった近藤源八宅跡の長屋門がある。源八
        の妻は大石内蔵助の叔母にあたり、大石家とは親戚関係にあった。
         長屋門は4戸部分に別け、下級武士の住宅として使われていたという。近藤家の門は大
        石家の長屋門の斜め向かいにあったと考えられている。

        
         大石家は、1645(正保2)年浅野長直が赤穂に入封して以来、1701(元禄14)年浅野
        家が廃絶するまでの57年間、3代にわたりこの地に居住した。赤穂城開城の4月16日、
        ここを引き払って尾崎の仮寓に移る。
         後に屋敷は森藩の藩札製造所や会所に使われたが、1729(享保14)年火災により建物
        の大半が焼失し、長屋門と庭園を残すのみとなった。長屋門は間口29m、奥行き9mの
        木造瓦葺きである。

        
         赤穂城三の丸から本丸にいたる重要な位置に二の丸門が設けられた。やや南寄りの西方
        に開かれた桝形構造を持つ切妻式楼門であったようだが、明治維新後に門は取り壊されて
        しまう。

        
         二の丸門を挟んだ東方の東北隅櫓台から西方の北隅櫓台にかけての石垣土塁は、189
        2(明治25)年千種川の洪水による災害復旧と流路変更のため、築石として取り除かれたが、
        現在は白壁の一部と低石垣が復元されている。

        
         大石頼母助良重は大石内蔵助の大叔父にあたる人物で、家老職にあって藩主・浅野長直
        に重用され、二の丸に屋敷を構え、妻は長直の娘を迎えたという。
         山鹿素行が赤穂に配流された際、素行はこの屋敷の一角で8年余を過ごしている。門は
        発掘調査に基づき、薬医門形式の屋敷門として復元された。

        
         二の丸庭園は、赤穂城二の丸北西部に存在した回遊式庭園で、東は大石頼母助の屋敷か
        ら、西は西仕切りまで及ぶひょうたん形の雄大なものであったという。

        
         赤穂城は、天正年間(1573-1592)に宇喜多秀家が岡山城の支城として構築したが、160
        0(慶長5)年播磨国が姫路城主・池田輝政領となり、当地には末弟の池田長政が配され掻上
        城が築かれた。1615(慶長20)年輝政の第5子正綱が3万5千石で分知立藩、正綱没後
        に弟輝綱が入封するが乱心により改易となる。
         1645(正保2)年浅野長直が移封され、幕府から新城構築の許を得て、支城のあった場
        所に13年の歳月をかけて築城する。1701(元禄14)年浅野長矩が江戸城中で刃傷にお
        よんで改易となり、一時幕府領となったが翌年に永井直敬が入封、1706(宝永3)年森長
        直が入封して廃藩まで続く。(本丸表門)

        
         この城の特徴的なものとして、江戸軍学をそのまま具現化したことにあり、本丸御殿か
        ら見える位置に単独で天守台のみが構築され、天守台まで上がれるように石段が付設され
        ている。天守を築ける天守台を持つことが何よりも優先されたと考えられるが、最後まで
        天守が築かれることはなかった。

        
         廃藩置県後に本丸跡地は田畑となったそうだが、1928(昭和3)年に兵庫県立赤穂中学
        校(現在の赤穂高等学校)敷地として使用されることになる。
         その後、国史跡となったため校舎は城外に移転し、絵図を基に御殿の間取りが復元され
        る。 

        
         御殿南面に大池泉庭園が復元されている。

        
         浅野家改易の報が赤穂に届けられ、籠城か切腹か大評定の結果、城を明け渡して家中は
        離散した。山科(現京都)に隠棲した大石内蔵助は長矩の弟・浅野大学長広による浅野家再
        興を目指しながらも、同志と連絡を取りながら堀部安兵衛らの急進派を押さえつつ仇討ち
        の時期を待つ。
         しかし、翌年の1702(元禄15)年長広が広島藩宗家に預けと決まると、吉良邸討入り
        に向って行動を起こす。初め120名の同盟者がいたが最終的に47名となり、同志たち
        は江戸に集結して12月15日未明吉良邸に討入りする。吉良の首級をあげ、芝・泉岳寺
        へ引き上げて幕命を待ったが、結局切腹と決まりお預かりの大名家で切腹する。

        
         1873(明治6)年に一般的にいわれる廃城令で、赤穂城も民間に払い下げることになる。
        このような事態を見かねた花岳寺の住職が、大石家の屋敷を買い取り、1912(大正元)
        大石神社を建立する。

        
         赤穂城塩屋門は三の丸の西に開かれた門で、搦手にあたり桝形と高麗門で構成されてい
        た。浅野長矩の刃傷・切腹を知らせる早便が入った門とされ、城請取り役となった備中足
        守藩主木下肥後守の軍勢も、この門から入城したとされる。

        
         赤穂といえば忠臣蔵で有名だが、赤穂の塩として名を馳せていた。1645(正保2)年浅
        野長矩が入封すると、入浜塩田の開拓に着手し、3代で約100haの塩田を開いた。のち、
        永井、森家へと引き継がれ、結果的に千種川を挟んで左岸(東浜塩田)に約150ha、右岸
        (西浜塩田)に約250haが開拓された。
         明治になると日露戦争の戦費調達と国内塩業保護を目的に、1905(明治38)年専売法
        が導入され、全国22ヶ所に塩務局を設置して塩の収納と売渡しを担わせ、下部組織に出
        張所(167ヶ所)を設ける。

         
         1908(明治41)年大蔵省塩務局庁舎として建てられたが、赤穂在住の大工たちによっ
        て、和の技術を用いながらアーチ状の庇屋根、イオニア風の柱頭飾、壁面から突き出た梁
        (ハンマービーム)を多用した西洋風の趣を持つ事務所が建築される。
         事務所のほか文書庫、塩倉庫も建築され、ほぼ完全な形で残されているのはここだけと
        のこと。1907(明治40)年10月塩務局や煙草専売局などが統合されて、新たに「専売
        局」が設置されて業務が引き継がれた。後に日本専売公社赤穂支局、現在は民俗資料館と
        して活用されている。

        
         入館すると吹き抜けのホールがあり、2階部分にはギャラリーを廻して 手すりが備え付
        けられている。今は狭いホールだが、かっては事務室との間に長いカウンターがあったと
        のこと。

        
         当時は事務所として利用された場所で、その天井には、メダイヨン(フランス語で「大型
        メダル」)とよばれる円形の浮き彫りが2ヶ所に施されている。(1ヶ所だけ撮影) 

        
         塩倉庫だが当時は11棟あったとされる。

        
         本館南側にある煉瓦造の建物は文書庫で、外壁はイギリス積みが変形したような積み方
        がなされている。(内部は非公開) 

        
         2階に上がると部屋の左右に、向き合った形で壁の上部から水平に突き出した梁が支え
        ている。これがハンマービームと呼ばれるもので、壁の上端から突き出した片持ち梁を利
        用している。

        
         城の石垣に沿ってお城通りに出て駅に戻る。

        
         ホーロー看板など昭和のものが所狭しと置かれているが、「赤穂玩具博物館・懐かしい
        昭和の世界」とされ、通りから目を惹く一角である。