ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

宮島は旧参道を巡って厳島神社と大聖院

2021年07月30日 | 広島県

               
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         宮島は広島県の西、大野瀬戸で本土と隔たる島。島名の由来は、島北部に鎮座する厳島
        神社によるもので、宮島の地名は厳島の別称として中世を通じて頻出する。(歩行約5.3
        
㎞)

        
         JR宮島口駅は、1897(明治30)年山陽鉄道広島-徳山間の開通と同時に宮島駅とし
        て開業する。1942(昭和17)年現在の駅名に改称し、駅舎のデザインは厳島神社の大鳥
        居を模したものとされる。

        
         駅から連絡船ターミナルまで約230mだが、途中にエレベーター付き地下道がある。
        宮島桟橋までは2航路あるが、青春18きっぷのためJRフェリーを利用する。

        
         1976(昭和51)年に建てられた航路専用の駅舎は、廿日市市が管理しているが2つの
        航路が同居している。

        
         桟橋から正面に見える要害山には、日本の山岳宗教の祖とされる役の行者(神変大菩薩)
        を祀る行者堂がある。

        
         宮島の鹿には神鹿伝説が存在しないらしいが、厳島神社が創建されると神の島と呼ばれ、
        神の島での不殺生が鹿と結びついたようだ。

        
         桟橋付近の町並み。

        
         要害山にある今伊勢神社は、厳島神社の境外末社で一間社流造り。陶晴賢の霊を慰める
        ものとされるが鎮座年月は不詳である。

        
         要害山には宮尾城という連郭式平山城があった。当時は城北部には海が迫っており、三
        方が海で水軍の運用も可能な城であったようだ。
         大内氏によって築城されたと推測され、毛利氏占拠後に構造や防御力が強化された。室
        町期の1555(天文24)年10月陶晴賢と毛利元就との厳島の戦いで毛利軍が勝利したが、
        その後、城がどうなったかは不明とのこと。(ここに主廓)

        
         山頂から五重塔、豊国神社(千畳閣)と町並み、左手に弥山と駒ヶ林の頂。

        
         100段あるといわれる急な石段を下ると、途中には四脚鳥居がある。

        
         今伊勢神社下にある曹洞宗の存光寺(ぞんこうじ)開基は不明だそうで、出雲の一畑薬師
        から十二支神を持ち帰って開いたと伝えられる。境内に薬師堂があり、目に不自由な方に
        ご利益があるとか。

        
         伊勢町付近の町家通り。

        
         江戸幕府は一部を除いて富くじは禁止していたが、実際にはその土地の物産を入札する
        形を装って、各地で富くじの興行が行われていたようだ。宮島の富くじも広島藩が行って
        いた富くじの一つで、元禄年間(1688-1704)から毎年5回~6回市立て(宮島では焚木の大
        束(だいそく)が特産品で、これを入札するという形の富くじ)が行われ、明治になるまで続
        いたという。

        
         「金石(きんせき)地蔵」と呼ばれる子授け地蔵がある曹洞宗の徳寿寺。この付近の寺は鹿
        対策のため門には柵が設けてある。

        
         町家通りの1つ山手側の筋に、真光寺という宮島では唯一の浄土真宗の寺がある。かつ
        て宮島には厳しい霊地法度があり、その中で真宗ご法度が唱えられていたが、安芸門徒の
        移住や婚姻関係などで真宗信者が増え、戦前に説教所が発足する。終戦後に法令が改正さ
        れ、独立した寺院となった歴史を持つ。(廿日市市の資料より)

        
         宮島の恩人と呼ばれる僧・誓真が掘った井戸。誓真は伊予の生まれで、1784(天明4)
        年頃厳島に来て神泉寺の番僧となった。飲料水に苦しむ島民のため10ヶ所に井戸を掘り、
        それが今、誓真釣井(せいしんつるい)と呼ばれ4ヶ所残っている。

        
         不動堂は大御堂といわれ、厳島神社の東北にあり、この方角が「艮(うしとら)」にあたる
        ことから鬼門鎮護のため建立された。明治維新の混乱期に釈迦如来像が持ち去られ、不動
        明王と毘沙門天のみが残り不動堂と呼ばれるようになった。

        
         山辺の古径は神社への参詣客が歩いた宮島最古の参道。

        
         乳地蔵は拝むと母乳の出がよくなるとか。山辺の古径の女人坂にあるお地蔵さん。

        
         宮島は宮千軒と呼ばれ、かつては1,000軒近くの家が建ち並び、民家の軒下は迷路の
        ような小路で子供たちの遊び場だった。地蔵前から海に下る道が「小路・鬼隠(かくれんぼ)
        で、他にも「小路・鬼遊(おにごっこ)」とネーミングされた小路がある。

        
        
         宝寿院前の坂が女人坂と呼ばれ、土壁に女人像が安置されている。

        
         宝寿院は平安期の946(天暦10)年開基とされ、別名“あせび寺”といわれる真言宗の
        お寺である。寺前の堂には千手観音菩薩が祀られている。

        
        
         2つ目の誓真釣井。この付近は魚之棚町で、かっては魚の荷揚げ下ろしが行われた浜辺
        だったとか。

        
        
         古径からの眺望。

        
         「桜町のお地蔵さん」と呼ばれて親しまれている延命地蔵尊。

        
        
         五重の塔があるので塔の岡と呼ばれ、毛利方が陶方を襲撃した厳島合戦の古戦場である。
        室町期の1555(天文24)年9月21日陶方は大軍を率いて上陸し、ここに本陣を構え、
        毛利方の宮尾城を攻撃する。毛利方は30日の夜、暴風雨をついて包ヶ浦に上陸し、翌朝
        未明に陶方は不意を突かれて大敗を喫する。(説明版より) 

        
         はっきり読めないが立札に「樹齢二百年 龍髯(りゅうぜん)の松 松岡文左衛門植」とあ
        る。龍のヒゲに似ていることから名付けられたとか。

        
         眼下に厳島神社と山裾に大聖院。

        
        
         畳を敷くと857畳にもなることから、通称、千畳閣と呼ばれている豊国神社本殿。も
        とは豊臣秀吉が戦没兵士慰霊のために計画したものだったが、秀吉が死去したため天井の
        板張り、壁、正面入口が未完成のままとなる。単層本瓦葺き入母屋造りの大伽藍で、完成
        しておれば豪華な大経堂になっていたと思われる。明治期に豊臣秀吉と加藤清正を祀る豊
        国神社と命名される。

        
         千畳閣の床下を歩くことができる。

            
        厳島神社の五重塔は、もともと大聖院の子院にあたる金剛院の塔であったが、明治の神
       仏分離令により厳島神社の管理に移管され、内部にあった仏像は大願寺へ移された。
        和様と唐様が融合する美しい五重塔は、室町期の1407(応永14)年に建立された桧皮
       葺の三間五重塔婆で、重塔の高さは27.6mである。 

       
        大鳥居は屋根の葺き替え、塗装及び部分修理のためにネットで覆われて見ることができ
       ない。2019(令和元)年6月17日から大修繕工事が始められたが、終了時期は未定で、
       まだ2~3年はかかる見込みとのこと。

       
        大修繕工事前の大鳥居は、1875(明治8)年に造営された厳島神社を象徴する建造物で
       あり、8代目ないし9代目とされる。
        本殿正面から北西側に108間(約196.4m)離れた海中に自立し、満潮期は海に浮か
       び干潮期には大鳥居まで歩いて行ける。造営された時には参道はなく、満潮期に海から船
       で参拝するため、鳥居を潜る必要があるため海中に設けられた。

       
        厳島神社の社伝によると、飛鳥期の593年当地方の豪族・佐伯鞍職が社殿造営の神託
       を受け、社殿を造営したことに始まるという。
        平安期の1146(久安2)年神職の佐伯景弘が、安芸守の任に就いていた平清盛の援助を
       得て、回廊で結ばれた海上社殿を造営したとされる。

       
        社殿入口にある左右の灯籠にカラスが置かれているが、この地に社が建てられたが、こ
       れを導いたのがカラスとされる。

       
       
        客(まろうど)神社は御本社と同様に、本殿・幣殿・拝殿・祓殿からなり、嚴島神社の祭典
       は、この客神社から始まる。
        5男神が祀られ、摂社の中でも一番大きく、嚴島神社の祭事の折には、一番先に神職が
       お参りする。農業の神、日の神、雨の神、風の神、火難除けの神として崇敬されている。

       
        社殿東廻廊の海中に鏡の池がある。潮が引くと丸い池が現れるそうだが、訪れた時は満
       潮で見ることができなかったが、池からは伏流水が湧いているとのこと。

       
        客神社祓殿(はらいでん)と廻廊で囲まれたところを枡形といい、毎年旧暦6月17日に行
       われる「管絃祭」で、御座船や阿賀・江波の曳船がここで船を3回廻す。始めたのは平清
       盛だといわれている。

       
        本殿は三女神のほかに30柱の神様が相殿(あいどの)とされており、海の神・交通運輸の
       神・財福の神・技芸の神として信仰されている。平清盛は瀬戸内の海賊を平定し、海運業
       者を支配し日宋貿易によって莫大な財を築き急速に昇進する。瀬戸内や宋との交易船の航
       海安全を祈るため、また、瀬戸内海航路の要衝であった厳島を篤く信仰したとされる。

       
        舞楽が舞われる高舞台と火焼前(ひたさき)を挟んで左右にあるのが門客(かどまろうど)神社
       で、祭神は豊石窓神(とよいわまどのかみ)と櫛石窓神(くしいわまどのかみ)で鎌倉期に設けられ
       た。火焼前は海上からの参拝の際に「かがり火」を焚く所であった。

       
        門客神社の脇にあるのが楽坊で、舞楽がある時に楽を奏する所で左右にある。舞楽には
       二つの流れがあり、インド・唐から伝わったものを左の舞といい、左舞(さまい)を舞うとき
       は左楽房で奏でる。満州・朝鮮半島から伝わったものを右の舞といい、右舞(うまい)を舞う
       ときには右楽房で奏でる。 

       
        高舞台、祓殿、拝殿、幣殿、本殿と続く。

       
        大鳥居の扁額は木製漆箔銅板製で縦2.6m、幅2.45mあり、2面に掲げるようにな
       った経緯は明らかでない。沖側にある「厳島神社」は上辺中央に宝珠、左右に屈輪模様の
       渦巻文と唐草文を配している。 

       
        大鳥居の社殿側扁額は「伊都岐島神社」とある。伊都岐島とは島の古い名称である。

       
        大国神社の祭神は大国主命で出雲大社の祭神と同じである。国造りの神・農業神・商業
       神・医療神・縁結びの神とされる。大国主命は、田心姫命と結婚しているので、御本社に
       近い場所にお祀りしてあるとか。

       
        天神社は、室町期の1556(弘治2)年毛利隆元が建立寄進したものである。
丹が塗られ
       ていないのは、社殿群の中では新しい建物で、時代が下がる
ためとされる。古くは連歌堂
       といい、明治時代の初めまで毎月連歌の会が催されていた。 

       
        能舞台は、室町期の1568(永禄11)年毛利氏が観世太夫を招き、仮の能舞台を海中に
       設けさせて能を奉納した。現在の建物は、1680(延宝8)年広島藩主浅野綱長により改修
       されたもので、天神社と同じく建造時期が下がるので丹塗りはされていない。

       
        反橋(そりばし)は勅使橋とか太鼓橋と呼ばれ、天皇からの使者(勅使)だけがこの橋を渡る
       ことができた。中央に階段を設けて渡ったものと思われるが、どのようにして歩いたかは
       はっきりしないそうだ。
        長さ約24m、幅4m、高欄は丹塗り・橋脚は墨塗りで、鎌倉期には既にあったようだが、
       現在のものは室町期の1557(弘治3)年、毛利元就・隆元父子により再建された。 

       
       
        大願寺の山門に仁王像が安置されているが、廃仏毀釈で廃寺となった神力寺(要害山)の
       仁王門とされる。

       
        大願寺の開基は不明とされるが、建仁年間(1201-1204)に再興されたと伝わる真言宗の古
       刹で、明治の神仏分離令まで厳島神社の修理造営を担ってきた。
        現在の本堂は昔の僧坊で、厳島神社の参拝者は大鳥居を潜り、大願寺近くの砂浜に上陸
       し、大願寺裏の風呂で身を清め、僧坊で休憩・着替えをして参拝したという。厳島神社の
       出口が唐破風造りとなっているが、昔の入口とされる。
        幕末の1865(慶応元)年第二次幕長戦争が起こり、翌年に同寺が休戦交渉の場となり、
       幕府側は勝海舟、長州側は広沢真臣、井上聞多(木戸孝允は姿を見せず)らで会談が行われ
       た。

       
        西の松原は厳島神社の出口から西海岸沿いの歩道で、歩道の両側には松と石灯籠が並ぶ
       絶景の場所である。厳島神社の裏手を流れる御手洗川によって運び出された土砂や浜辺に
       堆積した砂を築固め、江戸期以降、徐々に延びて行った突堤である。

       
        清盛神社は、1954(昭和29)年3月清盛没後770年を記念して、摂社三翁神社から
       分祀した新しい神社である。一間社流造、桧皮葺き、丹塗りで瑞垣を廻らせている。 

       
       
        宮島歴史民俗資料館は、江戸後期から明治にかけて、醤油の醸造を営んだ豪商・旧江上
       家の主屋と土蔵を展示施設にしている。

       
        大元神社の由緒によると、厳島神社の摂社で鎮座年月日不詳だが、本社の旧址とも伝わ
       る。当神社と長浜神社が向かい合い、両社が厳島神社の両翼を成し、管絃祭の時、沖合の
       御座船で祭事を執り行い管絃が奏される。
        社殿は三間流造り、日本で唯一の6枚重三段葺というこけら葺きの屋根と、拝殿には奉
       賽額が多数掲げられている。

       
        大元神社から大聖院に抜ける約700mの散策路は、あせびが多いことから「あせび歩
       道」とされる。

       
        宮島の町並みが一望できるビューポイント。

       
        室町期の1523(応永3)年建立とされる多宝塔には薬師如来が祀られていたが、明治の
       神仏分離令で大願寺へ移管され、建物は厳島神社に属する。
        この時期は樹木に隠れて全体を見ることができないが、屋根は方形で下層の屋根には饅
       頭型の亀腹がある。

       
        多宝塔からあせび歩道を進むと、大聖院の唐破風造り檜皮葺きの御成門前に出る。
大聖
       院は真言宗御室派で、平安期の806(大同元)年弘法大師が唐からの帰途、弥山で百日修法
       を修め開創された古刹である。

       
        行基作の十一面観音菩薩像が祀られている観音堂。

       
        勅願堂は鳥羽天皇勅願道場で大聖院の本堂である。豊臣秀吉が朝鮮出兵した文禄の役(1
       592~1596)の折、必勝・海上安全を祈願した波切不動明王像が祀られている。

       
        摩尼殿(まにでん)は弥山三鬼大権現の祈祷所で、大日如来、虚空菩薩、不動明王の化身と
       される三鬼神が祀られている。

       
        大聖院の一番奥の高い所にある弘法大師を祀る大師堂は、大聖院本坊最古の建物とされ
       る。

       
        大聖院参道入口にあって、外敵を払い、仏法を護持する仁王像が安置されている。

       
        厳島神社から大聖院へ至る緩やかな坂道は滝小路(たきのこうじ)と呼ばれ、かつては厳島
       神社の神職の居住地になっていたところである。棚守・上卿・祝師などの社家や内待、大
       聖院の宿坊が軒を連ねていた。

       
        淡島神社は厳島神社の末社で鎮座年月不詳とされ、大聖院の旧社僧・東泉坊の鎮守あっ
       た。祭神は少彦名命(すくなひこなのみこと)という男神だが、淡島さんと称して女性の守護神
       で病気平癒、安産の神として信仰され、明治維新後に現在地へ移された。

       
       
        石垣の上に建つ林家は、古くから厳島神社の神職をつとめ、朝廷の差遣される奉幣使の
       代参をつとめて「上卿(しょうけい)」と呼ばれていた。
        現在の建物は元禄時代(1688-1704)に建てられたもので、社家の屋敷として当時のままの
       建築様式を残す貴重な建物とされる。(見学は日曜のみ、要予約)

       
        上卿屋敷付近から見る大聖院への滝小路。

       
        白い壁の古民家はカフェとなっているが、この付近は古民家が並ぶ。

       
        三翁神社は厳島神社の摂社だが鎮座年月不詳である。平清盛が近江の「日吉山王」を勧
       請したことから「山王社」といい、この付近を坂本ともいった。一間社流造、桧皮葺きの
       社殿が三殿並立し、銅で巻かれた神明鳥居がある。

       
        旧宮島町の汚水用マンホール蓋は、亀甲模様に旧町章が中央に配されている。

       
        旧宮島町役場前に「宮島奉行所跡」の碑がある。1635(寛永12)年広島藩はこの場所
       に奉行所を設置し、1868(明治元)年4月に廃止されるまで宮島を統括していた。

       
        トンネル出口の右手に誓真釣井。

       
        幸(さいわい)神社の祭神は猿田彦で、一間社流造りの本殿と幣殿および拝殿、石造りの4
       脚鳥居がある。神社の創建年代などは不明だが、1800年頃までは疫病の神「牛頭天王
       (ごずてんのう)」が祀られていた。 

       
        表参道商店街より1本奥に入った町家通り。江戸時代初期に埋め立てられ、宮島が最も
       華やいだ時代のメインストリートである。当時、本町筋と呼ばれた通りで、1955(昭和
         30)
年代の面影をそのまま残している。

       
        宮郷家はかっての杓子の家で、表には格子戸がはめられている。

       
        景観を配慮した宮島市民センター。

       
        表の賑やかさが嘘のような静かな町並みが続く。

       
        観光の定番コースともいえる宮島で最も賑やかな表参道商店街。昭和の高度成長期にメ
       インストリートとなり、左右にお土産屋などがびっしりと並ぶ。