ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

美祢市秋芳町の江原はウバーレの中に集落 

2021年05月03日 | 山口県美祢市

        
                       この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         江原(よばら)は於福台と別府台との間にできた摺り鉢状の窪地で、集落は北部の山麓と別
        府台の東麓などに散在する。
         カルスト台地に多く見られるような窪地を「ドリーネ」といい、このドリーネがいくつ
        も組み合わさった窪地を「ウバーレ」というが、江原地形はウバーレの典型的な地形とい
        う。(歩行約2.4km)

        
         別府の堅田から県道銭屋美祢線に入り、約4.6kmの狭隘な道を走行すると江原多目的集
        会所がある。(🚻あり)

        
         県道を横断すると左手に火の見櫓があり、半鐘が取り付けてあるので現役と思われる。

        
         集落内は坂道であるが階段は見られない。

        
         下ってくると主屋と納屋兼作業場、蔵を持つ大きな民家。

        
         安楽寺(真宗)は、1649(慶安2)年大津郡渋木にある浄土寺の門弟であった浄西という
        僧が、この地に建立したと伝える。明治期に本堂を再建したが、1940(昭和15)年9月
        20日に起こった江原大火の難にあって焼失したという歴史を持つ。

        
         東の道へ下る。

        
         江原には川はなく、雨水は標高約170mにあるこの吸い込み穴から地底に消えるが、
        大雨の時は吸い込みができず、この一帯が浸水するとのこと。

        
         岩屋と云われる所で、家のすぐ傍に石灰岩の岩柱が立ち並び、岩の避けるように民家が
        建てられている。

        
         1940~1980年代に葉タバコの生産が盛んになり、標高の高い所まで畑地となっ
        たが、葉タバコの生産終了で広がっていた畑地は、植林地化などで大きく変化したようだ。

        
         土壁の建物は葉タバコ乾燥小屋で、焚き口で燃料を燃やすと、鉄管の内部を通る空気の
        熱が室内全体に回り、タバコの葉を乾燥する仕組みになっていたとか。(使用中止後屋根形
        態が変わったようだ)

        
         寺前に戻るとお堂の側に横田黙助先生の碑がある。16歳で吉田松陰の門下生となり、
        36歳で江原の寺小屋の先生となる。30年間で約600人を教え、1916(大正5)年逝
        去(享年81歳)

        
         集落道から見る岩屋。

        
         寺先から見る風景だが、集落中央を南北に1本の道が走る。

        
         2間×2間程度の小規模なタバコ乾燥小屋が各家に建設されたそうだが、これが本来の
        タバコ乾燥小屋のようで、換気用の屋根が取り付けてある。

        
         1940(昭和15)年の大火では、集落の大部分の建物が焼失したが順次再建された。

        
         傾斜地に造成された屋敷地は段状をなしている。

        
         屋敷は南向きを基本とし、主屋と納屋兼作業場があるという共通性をもっている。

        
         こうした家屋にも遭遇する。

        
         右折すると水神様への階段。

        
        
         水神社の創建年代や由緒を知ることができず。

        
         別府小学校江原分校は、1873(明治6)年美祢郡第二嘉万小学校設立により支校として
        設立される。その後、嘉万・堅田簡易・別府小学校の分校と変遷するが、1984(昭和5
          9)
年廃校となる。

        
         地形の底部分から見る家並み。

        
         1964(昭和39)年に簡易水道が敷設されるまでは、井戸水と天水を利用していた。井
        戸のない家は近隣の家から飲料水を確保し、生活用水や農業用水などは天水溜をつくり利
        用した。

         
         2つ目の吸込み穴は標高140mの最低部にあり、流入した雨水は地底に消え下嘉万地
        区の湧水となる。

        
         吸い込み口から県道までは長い急坂。

        
         複雑に窪んだ地形の低い部分に、建物が様々な方向に密集している。

        
         江戸期から麦などの穀物及び根菜類など水はけがよく、痩せた地質でも栽培できる作物
        を作ってきた。 

        
         墓地の一角に尚義館師・横田黙助先生の墓碑が建つ。

        
         お会いした方に吸込み口に案内していただくなど、心温まるもてなしに感謝して集落を
        後にする。


美祢市秋芳町の秋吉は秋芳洞と赤間関街道秋吉宿

2021年05月03日 | 山口県美祢市

               
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         秋吉は厚東川以東の秋吉台南縁と秋芳洞から流れる稲川流域に位置する。
         地名の由来について風土注進案
は、往古、この地が沼地であった頃に芦が茂っていたた
        めアシヨシといい、康永年間(1342-1345)に田畑が開かれるようになって、秋吉と称したと
        いう。(歩行約4.5km)

        
         県内屈指の観光地であるため各地からバスで訪れることができる。新山口駅(10:10)か
        ら防長バス約40分、終点の秋芳洞バス停で下車する。車だと近辺に有料駐車場がある。

        
         観光センター脇にある石碑は、「秋芳洞」は読めるが碑文は風化して読めない。

        
        
         昭和の時代になって秋芳洞と秋吉台が天下の観光地として脚光をあび、特に終戦後の観
        光ブームに恵まれ、広谷の商店街は急激に繁栄し、旅館や休憩所を兼ねた土産物売店、飲
        食店などが300mにわたって軒を並べた。今もそうした店は健在であるが、廃業された
        店もちらほら見かける通りになっている。

        
         この先は有料施設だが、その手前を左折する。

        
         自住寺を禅寺として開いた寿円禅師は、南北朝期の1354(正平9)年旱魃に苦しむ難民
        救済のため、入洞修法して願いが叶うと恩を仏天に報謝して竜ヶ淵に入寂する。村人たち
        は禅師の徳を偲び、遺体を火葬にしてその遺灰と土を混ぜた遺灰像(ゆいかぞう)を造った。
         この遺灰像は秋芳洞入口にある開山堂に祀ってあり、誰でも見学できるそうだが、現在
        はコロナ感染防止のため拝観できない。

        
         秋芳洞から流れ出る稲川の右岸道。

        
         最初の橋で左岸へ移動すると山口秋吉台自転車道。3本目の橋を渡って曽和集落に入る。
        (右岸道は悪路)

        
         山裾の家々を結ぶ集落道を川下へ向かう。

        
        
         曽和の湧水(通称・青池)は、秋吉台の南端の崖下に湧出する湧泉池。やや細長い池に木
        の葉が浮いているが、まさに名にふさわしい色を見せる。

        
         再び稲川の右岸に出て自転車道を南下する。途中、車道を横断しなければならないが、
        普段であれば交通量は少ないと思われる。

        
         上里集落。

        
         正面に曹洞宗の自住禅寺。

        
        
         自住禅寺は、平安期の807(大同3)年弘法大師開闢(かいびゃく)の千手観音鎮護の霊場と
        して伝わる。1870(明治3)年長門の大寧寺に合併して廃絶したが、1879(明治12)
        再び復興した。その後、境内の観音堂より出火して旧伽藍を全焼したが、1907(明治4
          0)
年に域内の岩永にあった西岸寺の本堂を移転改築したもので方形の屋根を持つ。

        
         上里集落は更新された家が続く。

        
         集落内を抜けて秋吉中学校を過ごすと車道に出る。

        
         車道を下ってくると右手に秋吉八幡宮がある。参道入口に江戸末期の1861(文久元)
        に造られた文久の石灯籠がある。
         割石を丁寧に組み上げた上部に入母屋型の屋根を張り出させた灯籠を置いている。当初
        は同八幡宮の御旅所近くにあって秋吉宿の常夜灯の役割を果たしていたが、道路拡張工事
        により、1968(昭和43)年現在地に移転された。

        
        
         風土注進案によると秋吉八幡宮は、「嘉祥年中(848-851)に百済国帝、大津郡の海岸に漂
        着後この所に遷住し、御卒去後霊を祭りて総鎮守とす」といい、鎌倉期の1192(建久3)
        年宇佐八幡宮より勧請し相殿したという。

        
         境内に鐘楼があるが、当社に社坊・正福寺があったとされる。

        
         境内から見る秋吉宿。右側は瀬戸、左側は里といい、秋吉宿を挟んで集落が異なる。

        
         秋吉宿は赤間関街道中筋にあたり、絵堂宿と河原宿の中間にあった宿駅である。172
        0(享保5)年新宿に指定されたため、
人夫8人、馬が5疋が常備され、宿役人が目代所に控
        え、人夫・馬は交代勤務していた。

        
         化粧地蔵尊と小さな祠が収められている。

        
        
         両側には古い民家が残る。

        
        
         商店が軒を連ねていたが、今は廃業された店もある。街道はバス停前の四差路で右折す
        る。

        
         街道とは反対側の裏道。

        
         防長バス新山口駅行きに乗車できる。