ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

下関市豊北町の滝部に旧滝部小学校校舎と旧赤間関街道

2020年08月04日 | 山口県下関市

           
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を加工・複製したものである。
         滝部は山に囲まれた盆地にあって中央部を滑川が流れ、山陰本線が北西から中央部を通
        り南西へ向かう。地名の由来は、末森にあった滝にちなむという。(歩行約4.7㎞)

           
         1925(大正14)年開業のJR滝部駅は、当初の計画では日本海沿いに敷設される予定
        であったが、地元の要望などで内陸部の滝部を通って、再び日本海に出るルートとなった。

           
         赤間関街道滝部ルートは滝部駅裏から駅前につながっていたようだが、鉄道敷設により
        寸断されている。駅前から旧道を中心部へ向かう。

           
         新しい住宅が主流を占める。

           
         山陰本線滝部踏切の先で赤間関街道と合わす。

           
         かって商店が建ち並んでいたと思われるが、どこでも見られる商店街の風景となってい
        る。

           
         肥中街道と合わすが赤間関街道は直進する。

           
         滝部郵便局を過ごし旧国道を横断するが、この付近も見るべきものは残っていない。

           
         旧豊北町の町章を中心に町の木・ツバキ、町の花・ヤマザクラ、町の鳥・メジロがデザ
        インされたマンホール蓋。

           
         県道を横断して農機具販売店傍の小路を進む。

           
         JR滝部駅から北へ約1.4㎞(徒歩25分)の所に西楽寺があり、毛利秀包(ひでかね)
        墓がある。この先街道は西楽寺と滝部小学校の間を通り、神出川を渡って粟野に至る。

           
         滝部にある真宗の寺院は、いずれも1594(文禄3)年に没した中山弾正浄西を開基とし、
        4人の子を始祖としている。西楽寺は現在の豊北高校に隣接する地にあったようだが、そ
        の後、当地に移転したとされる。

           
         毛利秀包(1567-1601)は毛利元就の九男で、実子のなかった兄の小早川隆景の養子となっ
        たが、秀吉の甥が小早川家を継いだことで独立する。豊臣政権下で久留米城主となるが、
        関ヶ原の戦いからの帰路に発病し赤間関で没した。秀包はキリシタン大名で、正室は大友
        宗麟の娘(秀吉の養女)とされる。

           
         秀包の墓の横には殉死した家老・白井景俊の墓が寄り添うように建っている。関ヶ原の
        戦いでは同僚の桂広繁とともに久留米城の留守居役を務め、黒田如水・鍋島直茂ら3万7
        千の兵に攻められ、数日間持ち堪えた末に開城勧告に応じる。

           
         墓の正面右側に秀包の生前の功徳を頌する神道碑が建てられている。

           
         下市交差点まで戻って旧国道を進むと「通学路」と記された道に入る。

           
         肥中街道が合わす三辻に地蔵道標があり、「右/文化11年(1814)3月、正面左/とよた
        道/三界萬霊、中/をだけ道」と刻まれている。

           
         歯抜けしたように空地が目立つ。

           
         この筋で目立つのが戸原酒店で、周囲は新しい家に生まれ変わっている。

           
         この先で赤間関街道北浦道筋(滝部ルート)と合わす。

           
         滑川に架かる市川橋を渡って西進する。

           
         この筋も見るべきものはなく国道に合流する。

           
         国道を左折して下って行くと、滝部八幡宮と旧滝部小学校の校舎。

           
         滝部八幡宮参道脇には「烈婦登波乃碑」があるが、登波は滝部八幡宮の宮番をしていた
        甚兵衛の次女で、1821(文政4)年義妹まつと石見の浪人枯木竜之進との離婚話がもつれ、
        竜之進が父と弟勇助を惨殺、まつは3日後に死亡したが、夫幸吉は重傷を負うが快復する。
         この仇を討とうと許しを得て20年も追い続け、1841(天保12)年豊前の英彦山で藩
        の助力もあって本懐を遂げる。
         その後、先大津代官となった周布政之助は、登波の表彰文をその師吉田松陰に依頼し、
        1857(安政4)年執筆されたという。碑は長府の桂弥一の進言によって、1917(大正6)
        年地元有志が発起し、中山太一の寄付によって建立される。

           
           
         滝部八幡宮は、鎌倉期の1263(弘長3)年蒙古襲来に備え、神田上村の一の宮から勧請
        して創建したと伝える。境内には赤崎社、忠魂碑、イチイガシの巨木がある。
            
           
         阿川毛利氏による当八幡宮への篤い崇敬は、江戸時代を通して行われ、数々の奉納品が
        残されている。この建物には神輿(子供神輿含む)が格納されているとのこと。(総代より)

           
         1924(大正13)年に建築された旧滝部小学校は、鳳凰が両翼を広げたような美しいた
        たずまいの建物である。ルネサンス様式の石造建築を木造建築に取り入れた構造で、大正
        期の代表的な学校建築である。

           
         地元出身の実業家・中山太一氏(クラブ化粧品・現:クラブコスメチックス)が、兄弟3
        人で私財6万円、その他村民の寄付で完成した約760㎡の木造2階建て校舎である。

           
         正面のバルコニーにはイオニア式柱頭を持つ列柱、玄関のアーチ、塔屋などに特徴があ
        り、調和のとれた美しい建物である。

           
         児童はこの出入口を利用していたとのこと。

           
         旧校舎はうぐいす色と白が基調とされている。

           
         女生徒の礼儀作法や裁縫を教える畳間は、女礼室と呼ばれていた。

           
         教室には懐かしい二人用机も残されている。

           
         重厚な階段。

           
         講堂正面には第二次大戦敗戦まで、教育勅語を収めていた奉安庫が設けられている。

           
         時間に余裕があったので校門を出て右折するが、駅には県道粟野二見線を南下すると戻
        ることができる。

           
         民俗資料館下を進む。

           
         山陰本線請願川踏切を渡って道なりに進み、高良自治会館前で左折する。

           
         スーパー「サンマート」前の県道を横断すると、赤間関街道に合わして駅に戻ることが
        できる。