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ぶら~と散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

岩国市錦町広瀬‥錦川鉄道の終着駅から古い町並み

2020年02月23日 | 山口県岩国市

           
               この地図は、国土地理院の承認を得て、2万5千分1地形図を複製加工したものものである。
         広瀬は西南から東に貫通する錦川の本流がつくる河岸段丘の谷間に、農地や集落を持つ
        地域である。地名の由来について由来書は、「渡瀬の左右広き所で、遠くまで見渡せるの
        で広瀬という」とある。
         1889(明治22)年町村制施行により、広瀬・中の瀬・大野・府谷・野谷の5ヶ村が合
        併して、改めて広瀬村となり、のちに町制に移行し、現在は岩国市錦町広瀬である。(歩行
        約2.5㎞)

           
         1922(大正11)年の改正鉄道敷設法により、
岩国より島根県日原に至る鉄道として工
        事が始められた。1987(昭和62)年に法律が廃止されたため、1963(昭 和38)年1
        月に開通した錦町で工事は終了したが、路線名は計画当初の岩日線となる。

           
         1987(昭和62)年の日本国有鉄道改革法に基づいて、国鉄は民営化(JR)されたが、
        当時の国鉄特定地方交通線であった岩日線は切り捨てられて錦川鉄道㈱に転換させられる。

           
         鉄道が走る予定だった線路跡を利用して、観光用トロッコ遊覧車「とことこトレイン」
        が、錦町駅から雙津峡(そうづきょう)温泉までの約6㎞(約40分)に運行されている。

           
         駅から路地裏を歩いて安楽寺へ向かう。

           
         堀江酒造を左に見て右折する。

           
         安楽寺は広瀬八幡宮の社坊で開山・開基は不明だが、古くは真言宗であったという。1
        660(万治3)年に堂宇を再建し、大通院(京都)の末寺となり臨済宗に改めたとされる。

           
         境内一面が苔で覆われ苔寺といった感がする。

           
         金雀(きんすずめ)の銘柄で酒造りをされている堀江酒造。

           
         山代街道に沿うが堀江姓が多い。

           
         堀江酒造は、この地で毛利家の家臣であった堀江太朗兵衛が、宝暦から明和(1751-17
        72)にかけて造り酒屋を興したのが始まりとのこと。
         その後、時代の移り替わりや政変に伴い、当家も紆余曲折があったようだが、現在も家
        業として酒造業を受け継いでいる。

           
         白壁通りの坂道。

           
         醤油製造をされていたK邸。

           
         藩政時代の山代街道沿いには、白壁造りの商家30軒が連なり繁盛していたとされる。
        現在は数軒の商家が残っており、往時を偲ぶことができる。
   
        
         この周辺には白金屋(呉服商)、加登(材木商)、幸岡(紙屋)、光金屋(油屋)などの建物が残
        されているが、どの邸宅かは特定することができなかった。

           
         金喜(現在の堀江嘉夫氏宅)は明治初年に建てられた商家で、呉服を中心に紙類、金物、
        油、化粧品、塩にいたるまで手広く商いをされていた。

           
         屋号が見えるが特定できず。

           
         参道の先に本通り。

           
         八幡宮境内から広瀬の町並み。

           
         広瀬八幡宮は、平安期の807(大同2)年宇佐八幡宮より勧請された。拝殿には左右に2
        つの「横町(よこちょう)」と呼ばれる座敷がある。横町は八幡宮の運営や行事に参画する名
        主の協議の場であった。 

           
         拝殿の中間に馬道をとる割拝殿形式で、本格的な三間社流造りは19世紀の典型的な作
        例であるとのこと。

           
           
         善教寺(浄土真宗)を右手に見ながら路地を下る。

           
         長栄寺(浄土宗)は、1581(天正9)年原集落に創建されたが、その後、寺は荒廃するが、
        1602(慶長7)年毛利元就の重臣・渡辺飛騨守長(はじめ)が朝霧城主として居住し、同寺を
        菩提寺として現在地に再建した。

           
         石垣と参道には藤棚。 

           
         長栄寺から坂道を上がる。

           
         平坦地に出ると右手の永井中将頌徳碑は、1935(昭和10)年に建立されたもので、何
        を称えたかは不明であった。

           
         白山神社の社伝によると、飛鳥期の650(白雉元)年に熊野権現を勧請したとある。周囲
        にはイチイガシの巨樹。

           
         渡辺飛騨守は舟津の丘に朝霞(あさかすみ)城を築いてここに住んだ。城跡はその跡をとど
        めないが、麓に
渡辺飛騨守の墓所がある。高さ150㎝の墓碑(宝篋印塔)には、戒名と慶
        長17(1612)壬子(みずえのね)2月24日と刻まれている。


           
         隅家の板塀と土塀。

           
         隅家は毛利家から名字を拝領した庄屋宅で、江戸期以前からこの地に居を構えていたと
        される。

            
         藩主の御国廻の際に本陣として使われ、1747(延亨4)年からは代官所(勘場)が建物内
        に置かれた。この建物は焼失したため、1861(文久元)年に再建されたが東の蔵は解体さ
        れて現存しない。

           
         明和年間(1764-1772)の広瀬本陣・隅貞六宅の配置図。

           
         隅邸から商店街通りを横断すると末広橋前に出る。

           
         江戸中期頃までは船渡しであったが、1742(寛保2)年に船橋が設置され、1845
         (弘化2)年に木橋となる。

           
         山代街道は船渡し場から錦川に沿っていたようだ。

           
         突き当りを左折すると八幡宮の通り。

           
         広瀬は山陰と山陽を結ぶ中継地として、錦川を利用する河舟や筏の津として栄えた。岩
        国まで人や荷物を運んだ河舟輸送は昭和初期まで続いた。

           
         町の花だったシャクナゲとオシドリ、アマゴがデザインされたマンホール蓋。

           
         広瀬商店街は公民館から繁栄橋までの間に集中する。(林電化商会さん付近) 

           
         その先に内山金物店と広瀬映画館資料館。資料館には広瀬映画館に残っていた映写機な
        どが展示されているとのこと。 

           
         とんがり帽子の屋根を持つこんにゃくミニ資料館(にしき産品ステーション)は、こんに
        ゃくに関する基礎的知識が得られ、町内の特産品も販売されている。

           
         2017(平成29)年には約半数の店が無くなっており、商店街としての機能は失われつ
        つある。

           
         広瀬簡易郵便局付近。まだ商店街の一角だろうか融雪溝が続いている。

           
         直線的な道を進むと駅前で、14時15分の列車に乗車すると、車窓から見える山々は
        まだ深い眠りの中にあるようで、お目覚めまでは今しばらく時間が要するようだ。


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