ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

山陽小野田市須恵は徳利窯などの遺構が残る小野田セメントの町 

2020年02月21日 | 山口県山陽小野田市

        
            この地図は、国土地理院院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複第546号)
         須恵は有帆川の左岸に位置し、南は周防灘に面する。(歩行約3.5㎞)


        
         JR南小野田駅はセメント町駅から小野田港駅、小野田港駅北口と駅名変更してきたが、
        1962(昭和37)年3月に現駅名となって今日に至る。


        
         1994(平成6)年小野田セメントと秩父セメントが合併して秩父小野田セメントが誕生
        したが、1998(平成10)年日本セメントと合併し
て太平洋セメントになる。
         1927(昭和2)年小野田セメントの事務所として建てられたもので、正面のパラボラ状
        柱形にみられるように、デザインを重視した大正建築の流れを受け継いでいる。


        
         旧小野田セメント徳利窯は一般公開されており、太平洋セメント正門前に案内板が設置
        されている。残念ながら改修工事中のため見学することがで
きなかった。


        
         徳利の形をした窯であることから「徳利釜」と呼ばれるが、1883(明治16)年に設置
        された4基のうち、一番西の1基を改造して大型化したもので、1
25,000個の煉瓦で
        造られている。国内に現存する最古のセメント焼成窯で
あるとのこと。
(17年5月撮影)

        
         窯の周囲に展示されている蒸気機関や製樽機とともに、経済産業省より「近代産業化遺
        産」に認定されている。


        
               
         使用方法は、窯内の下にある火床の上に焚付用の枯れ枝を敷く。その上に燃料の石炭と、
        石灰と川で採った泥土を混ぜて、塊にした原料を交互に12~1
3回積み重ねて、窯内の
        最大径のところまで積み終えると点火し、平均7昼夜
をかけて焼成する。


        
         覆屋で隠されているが、もともとこの窯が屋根から突き出た状態で操業されていたため、
        それに似せて復元された。最盛期には12基の窯が稼働していた
が、1913(大正2)年に
        廃止が決定されて1基だけが残された。


        
         焼成取出し口で下部の火床を外し、焼魂を取り出す構造である。(約10㌧程度)

        
         繁如院(はんにょいん)は、1921(大正10)年に玖珂郡灘村より引寺し、3年後に公称寺
        院となる。


        
         門を潜ると左手に「釈尊佛跡北インド巡拝土砂埋蔵碑」がある。1979(昭和54)年住
        職が釈迦の佛跡を訪ね、そこの土砂を持ち帰り埋めたとされる。
碑の前には足形があり、
        ここに足を合わせて拝めば、佛跡を踏んだのと同じ
功徳があるといわれている。


        
        
         1924(大正13)年に小野田セメント重役社宅として建てられたもので、コンクリート
        造の赤瓦住宅が5軒並んでいたが、現在は1棟だけが保存されて
いる。


        
         住吉神社は小野田セメントの創立者・笠井順八が、1887(明治20)年に自宅敷地内
        (現在の住吉神社)に出身地である萩の住吉神社より勧請し
たという。1899(明治32)
        に社殿を改築して現在の規模とした。


        
         1908(明治41)年小野田セメント所有となり、以来、会社の守護神として祀られた。

        
         セメントをつめる樽は木樽で、400ポンド(約181㎏)の重さがあったとか。(奉納
        は模型)


        
         1835(天保6)年萩藩御舟手有田甚平の三男として萩で生まれ、萩藩士笠井英之進の家
        名を相続する。明治維新後は山口県の勧業局主任として殖産興
業に力を注ぐ。
         その後、生活に困窮していた士族の救済と、高価な輸入品だったセメントの国産化を目
        指し、1881(明治14)年日本初の民間のセメント製造会社(
後の小野田セメント)を創立
        する。
小野田を選んだのは、地元の石炭・粘土などの原料調達や製品の輸送に便利な地で
        あったためとされる。


        
         旧小野田セメント山手倶楽部は、第4代社長笠井真三氏がヨーロッパ遊学の帰途、イギ
        リスからコンクリートブロックの型枠を持ち帰り、
1914(大正3)年にブロックを製造し
        て完成させた。大正期のブロック建築は大変珍しいもの
であり、建築史上貴重な建物であ
        るとされる。


        
         正門は閉ざされているが、住吉祭り時に倶楽部の1階が一般公開されるとのこと。

        
         1階は応接間、客間、食堂、2階は図書室及び寝室とベランダなどで構成され、古典的
        なデザインを基調とした本格的な倶楽部建築である。
社員クラブとして建てられたものだ
        が、当時、小野田はホテルもなく、市の
来賓にも使われていた。


        
         1925(大正14)年築の伊藤医院。

        
         小野田二番溜池沿いの道路高台に福井忠次郎記念碑がある。小野田新開作は石炭採掘を
        目的として計画されたもので、福井が工事を主管した。この開作
地は、その後、南にセメ
        ント、北に硫酸の会社が設立されて近代小野田発展の基
礎となった。


        
         千代町にある報恩寺は、毛利家の家臣だった渡辺七郎崇光が防長二州に移封された際、
        僧となって目出村の松江八幡宮近くにお堂を建てた。小野田新開
作に2つの会社が設立さ
        れ、1892(明治25)
小野田の町が形成されたこの地へ移転する。


        
         千代町の町並み。

        
        
         1899(明治32)年に開業した旧小野田銀行は、小野田セメント創業者の笠井順八が初
        代頭取となる。1923(大正12)年に百十銀行と合併して小野田
支店となり、1944(昭
          和19)
年に山口銀行小野田支店となる。その後、小
野田支店の倉庫として使用されていた
        ようだ。


        
         千代町バス停からJR小野田駅への便数は多い。


山陽小野田市の旦・目出に硫酸瓶垣と登り窯 

2020年02月21日 | 山口県山陽小野田市

                
                 この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を
                        複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)

         もとは東須恵村に属していたが、1879(明治12)年の村境決定で、有帆川左岸に位置
        する旦(だん)と目出(めで)地区は西須恵村に属することになる。
         1889(明治22)年の町村制施行により東須恵村が合併して消滅したことで、西須恵村
        は須恵村に改称する。(歩行約5.5㎞)

        
         JR小野田駅は、1900(明治33)年12月山陽鉄道の開通と同時に開業する。

        
         かって飲食街だった駅前。

        
         県道30号線(小野田美東線)を横断すると旦橋への道。

        
         徳利窯とツツジがデザインされたマンホール蓋。

        
         有帆川に架かる旦橋。

        
         旦橋を左折して小野田線高架を潜ると、左手に「瓶垣」と案内されている。山手に向か
        うと道は二手に分かれるが、右手の道を進み四差路を左折する。

        
         左手に瓶の破片が積み重ねられている。


        
        
         焼きキズのある硫酸瓶や焼酎瓶を活用して築かれた三好邸の瓶垣。

        
         1894(明治27)年この地で三好源之助氏が製陶所を創業する。3年後に河野正喜氏に
        引き継がれ、1955(昭和30)年頃まで硫酸瓶を製造する。登り窯に付随する煉瓦造りの
        煙突が当時の面影をとどめている。


        
         原土撹拌(かくはん)機、石や異物を除去する篩(ふるい)などが泥こし場に残されている。

        
         1889(明治22)年日本舎密(にっぽんせいみ)製造会社(現日産化学小野田工場)が設立さ
        れると、硫酸や硝酸を運搬するために硫酸瓶が作られるようになった。


        
         旦橋に戻って案内に従い左手の道に入る。

        
         三差路を左折すると前原一誠の宅跡を示す標柱がある。

        
         維新の十傑の一人とされる前原一誠(1834-1876)は、6歳の時に父が藩の郡使となったた
        め一家で目出に移る。農漁業に従事する傍ら、近隣の子弟と塾に学
ぶ。
         13歳から18歳まで姉が嫁いだ萩の家に寄宿したが、目出村へ戻って農漁業に従事し
        ながら父親の陶器製造を手伝う。24歳の時に父が御駕籠奉行になったのに従い萩に戻る。

        
         旦の皿山の硫酸瓶垣は、硫酸瓶の底の部分で焼き傷があり、売り物にならない硫酸瓶を
        積み上げて垣にしている。

        
         食卓用の皿など家庭品を焼いていたことから「皿山」という名が生まれたとのこと。

        
         旦の登り窯は、陶工甚吉が佐世彦七(前原一誠の父)の援助を受け、窯を開いたのが始ま
        りとされる。

        
         旧江本製陶所登り窯(通称・旦の登り窯)は、1840(天保11)年頃に陶工甚吉が登り窯
        を開き、製陶業繁栄へと繋がった往時を偲ばせる窯である。

        
        
         登り窯は荒れるに任せた状態で、窯の中は崩れている箇所もある。

        
         1890(明治23)年頃にブロック状の大型煉瓦を使って建てられ、「とんばり」と呼ば
        れる窯10袋と火力調整用のふかせ1袋、煙突1基で構成されている。
         第二次大戦後、硫酸瓶はステンレスやポリエチレン製の容器に取って替わられ、旦地区
        の製陶業は衰退してしまう。

        
         煙突の高さは12.3mあったとされるが、煙突の上部は崩落している。

        
         片隅に置かれた硫酸瓶。

        
         このような風景が所々に残っている。

        
         小野田線が接近(一丁田踏切)する反対側に、空地と民地の間に田平山墓地への細い道が
        ある。陶工・甚吉の墓は奥まった右手の片隅にある。

        
        1840(天保11)年代に都濃郡富田(現在の周南市)の製陶に携わる家に生まれたが、小
        野田の伊藤家に作男として農作業をしていたある日、旦の畑の土が焼き物に適していると
        甚吉窯を起こした。一人作業で効率の悪さや販路も小さくて大した儲けもないまま、18            
        58(安政5)年に病没する。

        
         線路に沿いながら坂道を下ると旦児童公園。

        
         有帆川を見ながら河口を目指す。

        
        
         目出駅は「メデタシ」の語呂合わせから一時期、入場券ブームを呼ぶ。1915(大正4)
        年小野田軽便鉄道の小野田駅とセメント町間が開業した際に設置されたが、1982(昭和
        57)年の秋、無人駅になってしまう。

        
         松江八幡宮は、奈良期の709(和銅2)年江本四郎丸貞頼が宇佐から勧請して社殿を祀り、    
        目出地方の守護神としたのが始まりと伝える。

        
         目出という地名は、寄進された社領地の税を免ぜられた免田による語音の転化であって、
        いつしか「めで(目出)」となり、社号の松江は松の生い茂る入江に因んだものとされる。

        
        
         線路が周囲より高い場所または低い場所に設けられた踏切は、極端に盛り上がったり窪
        んだ形状になるため、「かまぼこ型踏切」といわれる。見れば線路付近が高くなっている。

        
        
         県道233号線(小野田港)に合わすと、三差路手右の小野田橋東詰には、硫酸瓶が「お
        わに船」によって積み出される様子をイメージして造られた広場がある。

        
         1891(明治24)年に操業を開始した日本舎密(せいみ)製造㈱小野田工場では、硫酸を製
        造して頑丈な硫酸瓶に詰めて出荷されていた。舎密とは英語のケミカルの当て字で「化学」
        の意味だそうだ。
         いくつかの社名変更を経て、1937(昭和12)年現在の日産化学工業と改める。197
        2(昭和47)年に硫酸製造は中止され、現在は農薬や殺虫剤、医薬品の原薬が製造されてい
        る。

        
         南栄町から中川1丁目付近も現在的な建物に様変わりしている。(正面に小野田線)

        
         JR南中川駅も小野田軽便鉄道の開通に伴い、中川町停留場として設置される。築堤の
        上に設けられた片側使用のホームから、市街地や工場群を見渡すことができる。小野田線
        も日中の便数は少なく、利用するには不便である。

        
         バス利用のため県道に出ると、シルバーセンター敷地内に「風水害救援感謝碑」がある。
        1942(昭和17)年8月27日の周防灘台風により市街地が水没し、死者142名が出る
        など甚大に被害を受けた。全国から救援物資をいただいた感謝を表す碑である。

        
         バスの便数が多いので、時間に束縛されることなく歩くことができる。(中川通バス停)