ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

周南市湯野は温泉と夏目漱石の小説「坊ちゃん」のふるさと

2019年11月15日 | 山口県周南市

           
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         湯野は夜市川上流域と同支流柳瀬川の流域に位置する。江戸期から1944(昭和19)
        まで
湯野村として存立し、江戸期には全村が堅田氏の給領地であった。
         地名の由来について風土注進案は、「昔から温泉があることから名付けられた」とある。
        (
歩行約5㎞
)

           
         JR戸田駅前から防長バス湯野温泉行き約15分、終点の湯野温泉バス停で下車す
る。
        
           
         夜市(やじ)川のほとりにある河川公園。

           
         夏目漱石の小説「坊っちゃん」の主人公のモデルとされる弘中又一は、教員の免許を得
        て22歳の時、松
山尋常中学校に赴任し、ここで英語教員として赴任していた夏目漱石と
        出会う。

         「一体、夏目はまめな男で、そこいら手当たり次第遠慮えしゃくもなくモデルに失敬し
        ています。坊っちゃんにしても夏目自身でもあるし僕の事でもある。夏目と僕は毎日の出
        来事やら、失策を互いに話し合い、笑い興ずることが多かった。」(回想録より)

           
         「坊ちゃん」像は小説の中に教頭の「赤シャツ」と画学の教師「だいこ」に誘われて釣
        りに行く
場面があるが、像はモデルとなった弘中の少年時代の姿だそうで、彼を顕彰する
        ために作
られたモニュメントだそうだ。

           
         河川公園内を上流へ進む。

           
         「ギャラリー&カフェむらやま」は古民家の珈琲店だが、営業は金・土・日のみのであ
        る。

           
         湯野のメインストリート。

           
         山田家は萩藩の重臣・堅田氏の家臣で旧領地に居を構える。江戸時代中期の建物とされ、
        武家屋敷の趣きと、民家風の素朴な構えをもった屋敷である。かつては戸田の山陽道沿い、
        湯野温泉入口の西に位置していた。(正面右手には足湯)
 


           
         書院造りの中門にあたる部屋が、母屋から庭に突出して建てられている。(中門造)

           
         霊舎の間、局の間、奥の間、中間部屋、化粧部屋などがあり、台所回りのムシロ天井や
        外部から開かれない回転式雨戸など。


           
         刀隠しがある座敷。

           
         左側面に窓が設けられているが、中二階の隠し部屋の明り取りなのか脱出用のものかは
        聞き漏らす。

           
         神田神社参道入口の鳥居は、奈良時代の明神鳥居の形をしている。神社の石段西側付近
        に竪田氏の御田屋(下屋敷)が
あり、1876(明治9)年に屋敷のの一部を改造して校舎に充
        てたとか。


           
         1906(明治39)年神社合祀令により、湯野村にあった4つの河内神社と竈門神社を合
        祀して、字神田の地に社殿を建立して神田神社と称した。後に豊浦郡の八幡宮を合祀した
        という。


           
         玉垣には「明治38年 湯野村従軍者建立」とあるが、1904年から1905(明治3
                   8)
年にかけて日露戦争が起こる。


           
         神田神社鳥居前から山手へ向かい、橋を渡って左折すると弘中又一の生家がある。所有
        者は弘中家から移転しているが建物は現存する。長い期間、生活をされていないようで荒
        れ気味である。

           
         弘中又一(4873-1938)は堅田氏の旧家臣だった家に生まれ、山口市の私塾に学び同志社大
        学を卒業する。漱石は弘中の「ボンチ」(松山地方の方言で坊ちゃんの意)からヒントを得
        て、小説名を「坊ちゃん」にしたといわれている。

           
         弘中又一生家前から里道を利用すると常照院(曹洞宗)参道入口前に出る。

           
         山門は上層と下層の階高が等しく見栄えが悪いが、これは上層に床を設けて多くの尊仏
        を祀る空間を必要としたことによる。

           
         1667(寛文7)年に堅田家の菩提寺として建立された常照院と学音寺の禅寺を合併し、
        新たに「常照院」とされた。同寺は弘中家の菩提寺でもある。

           
         教育者であった弘中又一の言葉「教育は王道なり」の石碑と顕彰碑があり、弘中又一記
        念公園とされている。

           
         公園から下って細い道を辿ると、208段の石段と12の遊び場がある招魂社参道。急
        石段のため両脇にはロープが設置してある。

           
         9番目の遊び場にある石祠は倒壊寸前である。

           
         1866(慶應2)年の幕長戦争、明治維新の戦乱で戦死した家臣14柱の霊が祀られてい
        る。(竪田氏が建立)

           
         招魂社入口先には立派な石垣が残されているが、どんな建物があったのかは不明。

           
         1603(慶長8)年西蓮寺として建立されたが、領主であった堅田就政が正室の院号をと
        って性梅院
(しょうばいいん)
と改称された。

           
         浄土宗総本山知恩院直参の寺で、山門を潜ると湯野の町並みが一望できる。

           
           
         1625(寛永2)年堅田就政が湯野・戸田・日置の領主になって以来の代々の墓地。萩藩
        重臣にふさわしい立派な形式と規模を誇っている。

           
         高台の墓地から眺める湯野の町並み。
 
           
         夜市川に架かる橋に出ると「天狗伝説の碑」がある。西の城山から東山に飛び立ったが、
        距離が遠すぎたため湯野の温泉場に降り立ち、温泉を楽しみ東山へ飛び立ったという話で
        ある。

           
         夜市川には堅田家の家臣だった娘・陽晏(ようあん)と、この家の食客大五郎乗実という若
        侍は添える中でなく、二人で淵に身を投じたといい、その淵を陽晏淵、橋を乗実橋と呼ん
        で2人の悲恋を今に伝えると案内されている。

           
         温泉街に戻ると公園の隅に湯野道祖神が祀られているが、疫病や災難を防ぎ、旅人を守
        ってくれるとされる。

           
         同じ公園内に湯野温泉薬師が祀られているが、天正年間(1573-1592)の頃に河村三五兵衛
        が薬師如来のお告げにより掘ったら、温泉と薬師如来像が出てきたという伝説に基づいて
        祀られたという。

           
         湯野温泉は日露戦争の際には、広島衛戌(えいじゅ)病院の転地療養所に指定される。

           
 

         湯野の町並み・史跡を見ながら散歩し、温泉を楽しんで湯野温泉発16時8分のバスで
        JR戸田駅へ戻る。
      


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