ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

山口市鋳銭司は周防鋳銭司跡と大村益次郎のふるさと 

2019年11月18日 | 山口県山口市

        
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         鋳銭司(すぜんじ)は南若川の上流、高橋川の流域に位置する。地名の由来について風土注
        進案は、「昔鋳銭司が置かれて白銀銭銅銭を鋳造せられたことの名残りの由」とある。(歩
        行約9.5㎞)

        
         JR四辻駅は、1920(大正9)年5月16日信号所があったところに駅舎を建てて開業
        するが、駅名は地名の鋳銭司ではなく、駅舎のある地が小字の四辻だったことによるとい
        う。木造駅舎は開業当時のもので、駅正面の松の木や植え込みは、駅開業を祝って地元の
        人が植木や庭石などを持ち寄って造ったものである。

        
         大村益次郎(1825-1869)の父・孝益が隣の秋穂村の藤村家から村田家に婿養子として入っ
        た地で、3歳の頃までこの地で育つ。その後、家族で父の生家である秋穂村に移り住む。
        家は代々勘場付の医者で、医業の傍ら農業(3反6畝)をやっていた百姓家である。(生家跡
        は駅前を直進する)

        
         長州藩では風貌から「火吹き達磨」とあだ名が付けられた益次郎は、三田尻(現防府市)
        の梅田幽斎、日田の広瀬淡窓、大坂では緒方洪庵に学び、帰郷して医師となるが、蘭学の
        知識を買われて宇和島藩に出仕する。
         藩主に従って江戸に行き、私塾「旭居堂」を開き、幕府の講武所でも教えることになる
        と、評判が萩藩に伝わり萩藩に仕えることになる。萩藩では軍事改革の責任者となり、第
        二次幕長戦争(石州口の戦い)などを指揮して勝利に導く。
         維新後は、兵部省の兵部大輔(現代の次官)となり、兵制改革を進めるが反対派により京
        都で暗殺される。

        
         大村益次郎生誕地傍にある庚申塔(右)とお地蔵さん。1996(平成8)年県道四辻停車場
        線の工事により地蔵菩薩像が移設される。

        
         この付近は「大村」と呼ばれる地である。

        
         山陽本線矢田踏切を渡ると、旧国道2号線と旧山陽道に合わす。

        
         旧国道と分かれて左の道に入ると、大村益次郎が医業を始めた地がある。1846(弘化
        3)年3月蘭学を学ぶため大阪の緒方洪庵の塾に入り、ここで5年余、医学・蘭学を学び、
        1850(嘉永3)年に適塾を辞し、帰郷して「村田良庵」と名乗り村医者となる。翌年には
        隣村の農家・高樹半兵衛の娘・コト(琴子)を娶る。琴子18歳であった。

        
         古代律令国家の貨幣生産を担った官営の鋳造所で、平安期の825(天長2)年長門国から
        移設された以降、約200年間にわたって錢貨作りのほとんどを担っていたとされる。

        
         1973(昭和48)年に約38,502㎡が国の史跡に指定された。発掘調査の結果、工
        房、倉庫群、炉などの遺構・遺物が発見されたとのこと。(2017(平成29)年11月に
        拝見した発掘調査現場)

        
         積水ハウスの工場を背にして里道を東へ向かう。

        
         鋳銭司小学校を過ごすと黒山八幡宮。社伝は平安期816(弘仁7)年鎮座とするが確証は
        ないとされる。黒山神を堺から勧請したとされるが、黒山の神は鋳造に關係する神と伝え
        られ、鋳銭司設置にあたり官社として祀られたものかと考えられている。鎌倉時代に宇佐
        八幡神を合祀して黒山八幡宮になったされている。

        
         最初の社地は1㎞西方にあったと伝え、室町期に現在地へ移ったという。現在の社殿は
        江戸期に修復されたものであるが、16世紀頃に山口地方で造られた神社形式で、3つの
        建物を1つに繋いだ楼拝殿造りとなっている。

        
         江戸初期に長沢池が造られ農業用水が確保されると、鋳銭司の地に入植が始まる。時を
        告げる鐘の音が村内の隅々まで届くようにと、一元寺(現在の両足寺)の鐘が移され、鐘楼
        堂が建てられた。しかし、鐘は太平洋戦争で供出されて現在は存在しない。

        
         顕孝院(臨済宗)は、室町期の文明年間(1469-1487)大内政弘の妹である妙英尼が、鋳銭司
        の大円の地に庵居して顕孝院と号した。1517(永正14)年妙英尼が没したが、遺言によ
        り曹洞宗の寺にしたという。

        
         大内氏の庇護も厚かったが大内氏滅亡後は寺勢が衰え無住となる。江戸初期に山口の常
        栄寺に請うて中興されて臨済宗の寺として再興される。1781(天明元)年大円から現在地
        に移転する。本堂は今年4月に建て直されたとのことで、寺の西方に周防国三十三観音霊
        場と妙栄尼の墓と伝える宝篋印塔がある。

        
         高速道山口南ICの函渠を潜り、鷹の子集落に入る。(鷹の子という道標あり)

        
         大村益次郎は青木周弼が周布政之助、桂小五郎に周旋し、幕府や宇和島藩と折衝し、1
        860(万延元)年4月に萩藩雇士となる。その頃、江戸にいた大村は蘭学のみの時代は既に
        過ぎ、英学を必要とする時代と幕府の許可を得て、英国宣教師ヘボン氏に付いて2年間英
        語を学ぶ。(夫妻宅跡の碑は左手の民家奥にある)

        
         医者を辞めた後に益次郎・琴子夫妻が過ごした宅跡。益次郎は宇和島や江戸にいたため
        留守がちであった。

        
         宅跡から正面に民家を見ると左折する。

        
         琴子は高樹半兵衛の長女で、益次郎の死後はこの地で過ごす。以前の居宅は盗賊が入っ
        たこともあり、実家近くに居宅を建てて大村家を守り、1905(明治38)年に没する。

        
         さら東進して鷹ノ子会館前の三叉路を右折すると、その先左手に潮満寺入口を示す道標
        がある。(山は花ヶ岳)

        
         潮満寺は、1870(明治3)年禅昌寺と合併して寺はなくなったが、1885(明治18)
                大村益次郎旧宅を移築して潮満寺として再建した。1999(平成11)年の台風で大破して
        しまうが、住職が兼任のため再建されずに今日に至る。

        
         歩いて来た鷹ノ子集落は長閑な田園風景が広がる。

        
         長沢池への道を進むと社会福祉法人「るりがくえん」があり、その先を右折して道なり
               に進むと墓地への案内がある。

        
         明治新政府の兵部大輔(兵部卿には小松宮彰仁親王)となった大村は、近代日本の陸海軍
        を築こうとするが、不平士族の恨みを持たれて京都で襲撃を受ける。1869(明治2)年1
        1月5日大阪の病院で他界し、
遺骸には海路郷里に送られて神葬される。(隣は琴子夫人の
        墓)

        
         1878(明治11)年その事績を刻んだ神道碑が建てられたが、碑文を書いたのは愛弟子
        の山田顕義である。

        
         益次郎を祭神とする大村神社。1997(平成9)年に放映された司馬遼太郎作のNHK大
        河ドラマ「花神」では、主人公として明治維新の原動力となった若者たちが描かれている。
        

        
         1871(明治4)年に田中山の中腹に墓とともに神社が設けられたが、1941(昭和16)
        年現在地に社殿建築が始められ、1946(昭和21)年に完成した。

        
         鋳銭司郷土館は大村益次郎の遺品と遺墨を中心に展示され、さらに史跡「周防鋳銭司跡
        」から出土した遺物、日本の貨幣の移り変わりなどが紹介されている。

        
         大村愛用の西洋ランプは、桃色をした切篭の美しい油壷、金色した金具と人の顔をかた
        どった台である。

        

         大村が所持した箱提灯とその袋は、村田蔵六時代に使用したもので、提灯を入れる木綿
        の袋に家紋の桔梗が描かれている。郷土館にある史料は琴子が襖の下張りに使用していた
        とのこと。

        
         弁天社は、1663(寛文3)年宮島から勧請して長沢池の守り神として祀られる。

        
         長沢池の北西部に突き出した所に、小道と太鼓橋が設置されている。

        
         長沢池の西側に「東條就類頌功碑」碑がある。長沢池は、1651(慶安4)年頃小郡宰判
        の代官・東條九郎右衛門の在役中に築かれたものである。周囲は約6㎞あり、天保年間(18
                30-1844)には鋳銭司村、名田島村、台道村の田畑に堤水を供給し、たとえ他村が干ばつに
        みまわれても、長沢堤を利用する村々は干ばつを免れたという。

        
         1862(文久2)年建立された赤川晩翠(漢学者)の詩碑が湖畔にある。
          「萬頃(ばんけい)の澄波茫として湖に似たり、漕いでは牢角を膏腴(こうゆ)に変ず。
          居民夜々来りて福を祈る。時に見る神龍球を吐きて出ずを」とある。
         晩翠は萩藩士で昌平校に入り、当時の名儒と交わい、長州征伐に際しては宍戸備後之助
        に隋って広島に使などを務める。

        
         長沢池に鳥居が立っているが、黒山八幡宮の一の鳥居を移して厳島神社に見立てたとか。

        
         1889(明治22)年町村制の施行により、近世以来の鋳銭司村が単独で自治体を形成し、
        昭和の大合併で山口に編入されるまでこの地に村役場が置かれた。(道路の反対側が駅)