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ぶら~と散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

下関市清末‥長州藩の孫藩・清末藩1万石の地

2019年11月22日 | 山口県下関市

        
                この地図は、国土地理院の承認を得て、2万5千分1地形図を複製加工したものである。
         清末(きよすえ)は木屋川と神田川の間に位置し、南東は周防灘に臨む。南側の沖積低地は
        藩の干拓によって成立した。
         地名の由来について地下上申は、当地にある石井の湧水が鏡のような清水であったこと
        から名付けられたと記す。(歩行約9㎞)

        
         1901(明治34)年開業のJR小月駅は、厚狭と馬関(下関)間の鉄道開業と同時に駅が
        設置される。

        
        
         駅通りを直進して旧国道2号線を横断すると、その先でT字路に突き当る。

        
         下関福祉専門学校入口の角に「旧国道」と刻まれた石標がある。ここは旧山陽道で昭和
        初期に国道2号線が開通するまで国道として利用されていた。

        
         旧山陽道を南下する。

        
         1874(明治7)年建立の孝女・政の顕彰碑には、幼くして父を失い長く母だけと暮らし
        ていた。非常に孝行で結婚してからも母にも夫にもよく仕えたので、殿様から度々褒めら
        れた。1871(明治4)年46歳で病死したが、美談を後世に伝えるために、募金でこの碑
        を建てたとある。

        
         碑から旧山陽道と分かれ、右手を直進して清末藩邸への坂道を上がる。見返ると清末の
        町並みが広がってくる。

        
         毛利清末藩の堀は、その後に灌漑用水池となるが、現在は歩道や池の護岸が整備されて
        憩いの場になっている。

        
         清末藩は初代長府藩主・毛利秀元の二男毛利元知(もととも)が、1653(承応2)年領地の
        内1万石を分地されたものである。以来、明治維新まで藩政が行われてきた。
         1871(明治4)年の廃藩置県にともない、1873(明治6)年に建物や土地が競売処分さ
        れ民間に買い取られた。大戦中は軍用として接収され、戦後、学校用地として下関市に払
        い下げられ、1947(昭和22)年現在の東部中学校が開校した。

        
         清末藩が始まるまでは、旧山陽道から沖合は海で、今の本町、西町の住民は井戸がなく、
        大地主の石井家が井戸を掘り、六角の井側を設けて水を汲ませていた。
         1955(昭和30)年頃に通学路を設ける時に埋め立てられ、井側だけが記念として現在
        地に移設された。

        
         清末小学校正門を左折する。

        
         内藤家は、1653(承応2)年毛利元知が長府藩より分知された時、300石を給され清
        末藩の家老職を代々勤めた。広大な屋敷を構えていたが焼失し、藩政時代の面影を残すも
        
のはこの門だけとなった。
         門は、一対の角柱上に冠木(かぶき)を置き、内側に控柱を立てた藥医門形式で、屋根は切
        妻桟敷瓦葺となっている。(市有文)


        
         坂を下れば県道。

        
         西方寺(浄土真宗)は、大内氏の家臣・真鍋幸次郎が吉敷郡吉敷村に建立する。その後豊
        浦郡熊野村に移し、1469(文明元)年当地に移したとされる。

        
         橋を渡り右折すると小原集落。

        
         田園地帯を抜けると阿内(おうち)八幡宮の一の鳥居、その先に赤い屋根瓦が見えてくる。

        
         阿内八幡宮の社門は旧清末藩邸の裏門を移したもので、1873(明治6)年の藩邸入札払
        い下げ目録では、価格16円95銭と記されているとか。

        
         1471(文明3)年宇佐八幡宮より勧請したとされる阿内の氏神。

        
         中国自動車道の函渠を潜ると赤池町。

        
         集落内の路地を抜けると山裾に高林(こうりん)寺の山門が見えてくる。

        
         1855(安政2)年の火災で伽藍は焼失したが、山門は類焼を免れて建立時の姿をとどめ
        ている。
         下層を門、上層を鐘楼とする鐘楼門は、1682(天和2)年に建てられたもので、足元が
        大きく湾曲した柱や、三手先(みてさき)と呼ばれる軒廻りや縁を支える組物に特徴がある。
        (下関市有形文化財)
        
         1678(延宝6)年清末藩初代藩主・毛利元知が、父である長府藩主・秀元を祀るために
        建立した寺院である。初めは秀元に因んで智門院と称したが、長府6代藩主となった元平
        (もとひら)が父・元知の供養のため高林寺と改め、代々清末毛利家の菩提寺とされた。18
        55(安政2)年に伽藍が焼失し、現在の本堂は廃寺を移築したものという。

        
        
         高林寺境内の左手奥に、清末藩主の初代元知から8代元純までと、その一族の墓であり、
        下段は元知の母と側室のものとされる。

        
         神田川の支流・員光(かずみつ)川に架かる善勝寺橋を渡り、堰堤に沿って下流の旧山陽道
        を目指す。

        
         1658(万治元)年に旧山陽道が整備され、木橋の神田橋が架けられたが大水害のたびに
        流される。1811(文化8)年石橋が築造されたが、近年、老朽化により架け替えが行われ、
        その一部が神田側に復元保存されている。この橋が長府藩と清末藩の境であった。

        
         橋本家の長屋門は、1873(明治6)年清末藩邸処分の折に裏門が買い取られて移築され
        たと伝えられる。多少の改修はされているようだが、鬼瓦をはじめ本体はそのままで、数
        少ない旧藩邸の遺物とされる。

        
         下関といえば「フグ」。フグがデザインされたマンホール蓋。

        
         1889(明治22)年町村制の施行により、清末村と阿内村が合併して清末村となり、現
        在の「老人憩い家」の場所に村役場が設置された。1911(明治44)年に建物は現在地へ
        移築されて文教関係に利用され、現在は商工振興会の施設として活用されている。

        
         建物は寺社建築に見られる起(むくり)破風切妻と懸魚(けぎょ)をあしらったものとなって
        いる。

        
         商工振興会を直進すると、四差路の角に「清末老人憩いの家」がある。この地に清末村
        役場が設置され、1939(昭和14)年下関市に合併するまで行政の中心をなした。

        
         清末八幡宮の社伝によれば、1335(建武2)年宇佐八幡宮より勧請して創建された。1
        662(寛文2)年清末初代藩主・毛利元知が再建して藩の氏神にしたという。

        
         山門はないが礎石のようなものは残されている。前の広場は、幕末時には藩の練兵場と
        して使われ、明治期から1954(昭和29)年まで清末小学校があった。

        
         正面参道から遠くに周防灘。

        
         八幡宮下から小月方面へ向かうと、すぐ左手に「贈従五位村上倫」という碑がある。清
        末藩が七卿落ち・幕長戦争などに功労のあった藩士に贈位したとのことで、追贈記念石柱
        が親戚の邸に建てられたそうだ。

        
         1934(昭和9)年孝女・政が生まれ育った場所に石柱が建立された。旧山陽道がやや左
        へ湾曲する右手の片隅にある。

        
         狭い路地を抜けると清末バス停がありJR小月駅に戻る。


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