ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

下関市綾羅木に綾羅木郷遺跡と中山忠光卿の墳墓

2021年09月10日 | 山口県下関市

                 
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         綾羅木(あやらぎ)は響灘に注ぐ綾羅木川下流に位置し、流域の沖積平野・洪積台地と海岸
        の砂丘に立地する。
         
地名の由来は、竹生観音開基の実仲法師が、海岸に霊木が流れ寄るのを見て、「あから」
        と感嘆の声をあげたことによる説と、神話に出てくる橘の小門の阿波岐原に基づく説、神
        功皇后が凱旋し、当地で勝どきをあげたことに由来する説がある。(歩行 約3.3km)

        
         
JR梶栗郷台地駅は、1935(昭和10)年梶栗駅として設置されたが、第二次世界大戦
        において燃料統制のあおりを受けて、1941(昭和16)年廃止された。
         その後、下関市街地のニュータウンエリアとして宅地開発が進み、2008(平成20)
        3月に開業する。場所は旧駅と異なるが、旧梶栗駅名に綾羅木郷遺跡周辺の地名・郷台地
        を後ろに付すことになった。ホーム1面1線の駅には駅舎が設けられていない。

         
         
駅から跨線橋で駅東側に出ると綾羅木郷遺跡の入口が見えてくる。当台地は鋳型の材料
        となる珪砂(けいさ)を産出しており、史跡公園に整備されるまでは経緯があったようだ。
         史跡公園に上がると墳丘墓があり、5つの墓が重なりあって作られている。これらは弥
        生時代前期に営まれた綾羅木の弥生集落が途絶えた後に築かれたものという。

        
         若宮1号古墳は全長約40mの前方後円墳で、古墳時代中期頃この地を治めていた人物
        の墓と考えられるとのこと。 

        
         岩谷古墳は下関市椋野にあった古墳時代後期(6世紀後半)の円墳。1970(昭和45)
        中国自動車道建設に伴い考古館へ移築された。

        
         
弥生時代と古墳時代の竪穴住居2棟が復元されているが、こちらは綾羅木郷遺跡で確認
        された竪穴住居跡を参考に復元された。その他に若宮2号古墳、3号古墳などがある。
 
        
         
考古博物館はコロナ感染防止のため休館中だった。

        
         長くて緩やかな坂を下ると住宅団地と農地が混在する。

           
         山陰本線引田踏切を過ごすと賑やかな県道筋に出る。

        
         
中山神社参道入口まで約440m南下する。

          
         下関市のマンホール蓋は、シンボルマーク「ふぐ」が下関の「し」の中に描かれ、ふぐ
        の周囲は海の波が表現されている。

        
         
中山神社参道の左右は住宅地。

            
         
国道から海に向かって約650m歩くと中山神社。
 
         
        
 祭神は攘夷派公卿の中山忠光で、忠光の姉は明治天皇の生母である。天誅組の首領だっ
        た忠光は、1863(文久3)年8月大和国で倒幕の兵をあげたが、挙兵は失敗に終わった。
        その後長州藩に逃れたが、長州藩内で俗論派が台頭すると、1864(元治元)年11月8日
        の夜、長府藩の俗論派刺客によって、田耕(たすき)村(現下関市豊北町)の山中で暗殺される。
        (享年20歳)
         遺体は
長櫃(ながびつ)に詰めて下関方面へ運ぼうとしたが、綾羅木で夜が明けたので人目
        を恐れて綾羅木川近くの砂浜
に葬られた。1865(慶応元)年長府藩が遺体を埋めた場所に
        墓と
小社を建立し、のちに社地を墓の東側500mの位置に移して分離したが、1923
          (大正12)年現在地に移転する。

        
         中国清朝最後の皇帝・宜統帝(薄儀)の弟、愛新覚羅薄傑(あいしんかくら ふけつ)と、彼の
        妻で忠光のひ孫にあたる浩(ひろ)を祭神とする「愛新覚羅社」が祀られている。
         忠光は長府藩潜伏中、現地女性の恩地トミを侍妾とし、トミは忠光死後に遺児となる娘
        ・南加を出産する。南加は後に中山家に引き取られたのち嵯峨家に嫁ぐが、
南加の孫が浩
        である。

        
         1865(慶応元)年建立の墓には「藤原忠光卿神霊」とあるが、中山家をたどれば藤原家
        の出となること。或いは長府藩が埋葬したことを隠したかったという説もある。

        
         中山神社から綾羅木駅に直結する道も住宅街である。

        
         他に見歩きする所もなく、JR綾羅木駅に到着すると下関~小串間は便数が多いと思っ
        ていたが、昼間は1時間に1本程度だった。1914(大正3)年長州鉄道の駅として開業し
        た当駅は、近年にベッドタウン化したこともあってかなりの乗降客があった。


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