ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

光市室積の海商通りと象鼻ヶ岬

2020年07月05日 | 山口県光市

           
                  この地図は、国土地理院発行の2万5千分1地形図を複製・加工したしたものである。
         室積は光市の南東部に位置し、北西から南東へ細長く延び、北に千坊山地があり、南西
        側は海に面し、その一角を島田川の上流より運んだ土砂が、沿岸海域や風によって陸繫島
        を形成した室積半島がある。(歩行約5.8㎞)

           
         JR光駅からJRバス室積公園行き20分、室積バス停で下車する。

           
         早長(はやおさ)八幡宮は室積宮町に鎮座し、普賢寺と同様に御手洗湾に向って社地を構え
        る。

           
         早長八幡宮の鳥居を潜ると、右側に雌雄の岩が祀ってある。「早長の瀬の二つの雌雄の
        岩が、動かぬ如く千代に栄えのあるように」という伝説によるようだ。

           
         室町期の1444(文安元)年に宇佐神宮から勧請され、神霊が「早長の瀬」の地に着いた
        ところから名付けられ、室積の氏神として崇敬されている。
         建物は江戸期のものが拝殿のみで、建築様式から18世紀末の建立とされる。

          
         宮前付近には牛島(うしま)への室積港があり、古民家を利用したお洒落な食事処や、昔懐
        かしい餅菓子などを提供する店がある。

          
          
         中野昌晃堂は銘菓“鼓乃海”を製造販売されていたが、2016(平成28)年12月末に
        閉店された。
         萩藩主・毛利元昭が来遊の際に、差し出した茶菓が無名だったので名付け親になったと
        か。(下は2009年に撮影) 

         
        
 江戸期の市場町・門前町・港町など人の出入りが激しい要衝の地に、幕府または藩のお
        触書・掟書などが掲示される高札場があった。高札の大きさは統一されたもので、約56
        ㎝の板に墨書で記されていたとのこと。  

          
         三谷薬品の地が松岡洋右の生誕地とされ、1880(明治13)年に松岡三十郎の四男とし
        て生まれる。生家は今津屋と号した船問屋であったが、洋右が11歳の時の倒産してしま
        う。
         満州国に強い影響力を有した軍・財・官の東條英機、星野直樹、鮎川義介、岸信介、松
        岡洋右(満鉄総裁)は、彼らの名前の末尾から「弐キ三スケ」と称された。松岡は東京裁判
        において公判中に病死するが、「参スケ」は山口県周防部の生まれ育ち、3人の間には姻
        戚関係があった。
            

          
         早長八幡宮の東、江の川から付属小中学校前までの通りは「海商通り」と呼ばれ、江戸
        中期から明治初期にかけて廻船問屋や魚加工問屋、料理屋などが並び、港町らしい活気が
        あった。
         しかし、明治後期に鉄道敷設や海運の近代化に伴い、その賑わいも過去のものとなる。

           
         人家密集地特有の人一人がすれ違うのがやっとの小路がある。室積では「あいご」と呼
        ばれ、昔はこのような小路が網の目に張り巡らされていた。
         語源はわからないそうだが、秋田地方で家と家の間として使われる「間(あいこ)」がな
        まったものと考えられる。「間」だとすると、北前船が運んできた言葉として興味深いも
        のがある。

           
         性空上人が普賢菩薩と対面したという場所には松が植えられ、亀践(きふ)塔記念碑がある。
         碑文には、1733(享保18)年に対面の松が野火よって焼失したため役人が植え継ぎ、
        1834(天保5)年近隣の村人が碑を建立したことが刻まれている。隣は恵比寿社だが詳細
        は不明である。

           
         1885(明治18)年に室積浦と室積村が分村していた時代に、盥海(みたらい)小学校とし
          て開校
したが、1899(明治32)年に廃校となる。

           
         江戸期の萩藩は小周防村に熊毛宰判の勘場を置いたが、1763(宝暦13)年藩政改革の
        一環として室積港を商業港として整備する。これを支援するため中熊毛宰判の勘場をこの
        地に置き、室積・光井・岩田などの9ヶ村を所管した。
         しかし、陸路では不便な地にあったため、僅か11年で廃止された。

           
         その向かい側は室積警察署跡だが、1879(明治12)年2月岩国警察署室積分署として
        発足するが、1886(明治19)年8月に岩国署から独立して警察署に昇格する。1943
        (昭和18)年光警察署に改称されて室積での役目を終える。 

           
         この付近と宮前に食事処があるので好みに応じて利用できる。(海商館もお食事処) 

           
         専光寺は浄土宗の寺で、大内時代には外国使節等を迎える館として利用される。藩政時
        代も渉外館として利用されたり、諸事件の処理裁判も行われた。
         幕末には、この寺を本拠として南奇兵隊(第二奇兵隊)が結成されたが、手狭となったた
        め普賢寺へ移転、さらに石城山へと転陣する。

           
         亀甲模様に光市の市章がデザインされたマンホール蓋。

           
         磯部家の建物は明治初期に建てられた町家造りの商家で、俗に「うなぎの寝床」といわ
        れ、間口が狭く奥行きが長い造りとなっている。現在はふるさと郷土館として利用されて
        いる。 

           
         磯部家は安永年間(1772-1781)頃に本家の礒部家(向かい側の家)から「礒」を「磯」に変
        えて分家する。弘化年間(1844-1848)に3代目民五郎が「磯民」の名で醤油製造業を始め、
        後に「磯屋」となる。1955(昭和30)年代まで製造販売されていたようである。

           
         煉瓦造の煙突と奥に醤油蔵。

           
         礒部家は磯部家の本家に当たり、廻船業を営み江戸・大坂・琉球などとの交易により財
        をなした旧家である。建物は昔の姿をとどめ、主屋、釜屋、離れ座敷が国の登録有形文化
        財に指定されている。ふるさと郷土館の別館として公開されていたが、2017(平成29)
        年9月閉館する。

           
         建物は室積湾を背にして表通りに面し、木造2階建ての本瓦葺寄棟屋根、軒裏と外壁は
        白漆喰で塗込められている。正面と両側面に下屋を付け、2階中央と玄関両側の格子窓に
        より端正な構えの造りである。

           
         明治後期に離れ屋敷(茶室)が主屋北側に増築され、座敷から渡り廊下でつながっている。
        瓦葺入母屋屋根の三方に庇を回した構成をとり、4畳半の茶室を中心に主屋との間に程良
        い中庭的空間を設けている。

           
         1702(元禄15)年浦年寄の松村屋亀松が、自費を持って象鼻ヶ岬に燈籠堂を建て、1
        875(明治8)年までの173年に渡って御手洗湾を照らした。1991(平成3)年に復元さ
        れて公園の一画に建てられた。 

           
         古くは神功皇后が三韓遠征の際に寄港され、手を洗われたという伝説から「御手洗湾」
        の名が生まれたとか。中世以降、明治中期まで周防灘の風待ち港として栄え、藩政時代に
        は北前船が寄港するなど賑わった。

           
         1831(天保2)年に建設された普賢波止(はと)は、諸国の回船や客船の利用に供される。

           
         普賢堂に金剛力士像が安置されていたが、拝殿が手狭になったため、1798(寛政10)
        年楼門(仁王門)が建立される。左右に仁王像、楼上には16羅漢像が安置されている。

           
         普賢市の雑踏のなかで迷い子が出るのは今も昔も変わらない。参道入口左に迷い子張り
        出し石が建っているが、1856(安政3)年5月建立で「迷い子つれはぐれ、すたりもの、
        ひろいもの張り出し石」と刻まれている。

           
         平安期の1177(安元3)年6月に平康頼は平家打倒の密儀に参加するが、密告により策
        謀が
漏れて捕縛される。康頼は薩摩国の鬼界ヶ島へ流されることになり、配流途中の室積
        で仏道に入る。もっと早く出家しなかったことを悔やんだ和歌「終(つい)にかく 背(そむ)
        きはてけむ世の中を とく捨(すて)ざりしことぞかなしき」が碑に刻まれている。(192
        4(大正13)年に再建される)

           
         1788(天明8)年建立の普賢堂は周囲を堀で囲まれた中にあり、堂には海の守護神であ
        る普賢菩薩が安置され、普賢寺の奥の院的存在である。

           
         平安期の1006(寛弘3)年播州の性空上人によって普賢寺が創建されたと伝わる。当初
        は峨嵋山の峰に堂を築いたが、室町期に現在地へ移された。1854(嘉永7)年建立の本堂
        と17世紀初期建立の山門が建ち、境内奥には雪舟作と伝えられる庭園がある。3つの自
        然石を配して枯滝とし、前面を池に見立てた約20mの枯山水の庭となっている。

           
         1733(享保18)年に「享保の大火」があり、惨禍を再び起こさないため山城屋という
        廻船問屋が、火災予防と飲料水を兼ねて、宮の脇から江の浦にいたる道路脇に10ヶ所の
        井戸を掘った。これらの井戸は口伝えで「イロハ井戸」と呼ばれたが語源は不明とのこと。
         その後、道路整備などで失われ、この井戸だけが現存する。

          
         萩藩は現付属光小中学校一帯に財政改革の一環として、1763(宝暦13)年撫育方を新
        設して、1769(明和6)年に撫育方室積会所を設ける。主に藩の年貢米をここに集めて売
        さばく業務を行なった。

          
         室積会所跡は明治期になると熊毛郡役所が置かれた。1903(明治36)年役所が移転し
        た以降は、山口県立工業学校、師範学校、女子師範学校、山口大学教育学部と次々に学校
        が置かれ、現在は山口大学付属小中学校となっている。

          
         蛾嵋山東外れの高台に、1870(明治3)年元遊撃隊士らによって招魂社(現護国神社)が
        創建された。1864(元治元)年禁門の変で戦死した遊撃隊総督来島又兵衛以下48柱と、
        1866(慶応2)年の四境の役、1868(明治元)年の鳥羽伏見の戦いにおける戦死者ほか
        合計79柱が祀られている。 

          
         室積半島を象の頭部とし、そこから海に突き出た砂嘴を象の鼻に見立てて「象鼻ヶ岬」
        と名付けられた。

          
         明和年間(1764-1772)象の「眼」に当たる位置から湧き出たので象眼水井戸と呼ばれて
        いる。

          
         1864(元治元)年4ケ国艦隊が下関報復攻撃のため、横浜港を出航したとの報が伝わり、
        藩はこれを防衛するため各地の沿岸要衝地に台場を築かせた。
         長州藩は内外ともに多事多難で、青壮年はこれに駆り出されたため、婦女子を中心に室
        積台場(石塁)を3つ築造して主砲2門の大砲を設置したとされる。(1944年の台風で1
        基が崩壊)

           
         1949(昭和24)年3月に初点灯された室積港灯台は、1994(平成6)年3月改築され
        た。

           
         象鼻ヶ岬の先端には、弘法大師が唐より帰朝の際に立ち寄り、七日七夜の護摩供養を行
        い、自像を刻んで厨子を彫って安置したと伝わる霊場である。入母屋造りの小堂は大師堂
        (海蔵寺跡)と呼ばれている。

            
         大師堂境内に遊女の歌碑があり、変体かなで「周防なる御手洗の 浜辺に風の音つれて
        ささら波立・・」と刻まれている。この詩は普賢寺に関係するものだが、何のために建立
        されたかはわかっていない。

           
         1790(寛政2)年、大師堂までの道しるべとして四国霊場八十八ケ所を勧請したとの
        こと。(1番札所)

           
         室積公園入口バス停(普賢寺北側の通り)よりJR光駅に戻る。