この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を加工・複製加工したものである。
宇部丘陵の南部、瀬戸内海に面する地で、地内北部に1698(元禄11)年に築造された
常盤池がある。(歩行約7.5㎞、駅から常盤池まで🚻なし)
JR常盤駅は、1925(大正14)年6月宇部鉄道の停留場として開業したが、1943
(昭和18)年国有化されると駅に格上げされた。海岸に近くホームから海が見え、山口宇部
空港の飛行機離発着を垣間見ることができる。
黒崎の岬に炭鉱坑道跡があるとのことで、駅から常盤(鍋島)海岸に出て岬へ向かう。
坑道跡を見つけ出すことができず、山口宇部空港方面(左端)を眺めて床波海岸へ移動す
る。
国道の案内板(床波漁港)に従うと海が見え、海中に炭鉱の遺構が見えてくる。
海中に突き出た2つの杭は、長生炭鉱のピーヤといわれるもので、海底炭鉱の入気口と
排気口の役目を担っていた。1942(昭和17)年2月、坑口より1,010mで浸水事故
が起こり、183名が犠牲となり、今なお海底に眠っている。その多くが朝鮮半島出身者
であったことを忘れてはならない。
黒崎の東海岸には炭層露頭が見られる。以前は潜頭だったようだが台風などで浸食され
て姿を現したとのこと。
東海岸から引返して、国道手前の路地を右折する。
民家を過ごすとJR宇部線に合わす。
「永遠に眠れ 安らかに眠れ 炭鉱の男達」
長生炭鉱の食堂があった地に「殉難者之碑」が建てられている。この事故は太平洋戦争
が始まってから2ヶ月後のことで、戦時下で報道も控えめで世間の目に触れることはなか
った。この碑は、当時の関係者などによって事故から40年後に建てられた。
この付近に、1938(昭和13)年宇部鉄道が長生炭鉱停留所を新設するが、炭鉱が海水
流入事故により事実上閉山に追い込まれたため廃止された。
線路に沿うと新生浦踏切があり、その先の国道を引き返す。
トヨタカローラ店手前を右折して道なりに進むと、左手に野黒目から大沢県営住宅へ上
がる坂道がある。昔には岐波から新川へ至る公道であり、この坂で馬が苦労したので馬を
大切にしたことから「馬守り坂」と呼ばれた。
馬守り坂から常盤小学校通学路に入ると、左手に長生炭鉱の火薬庫跡が残されている。
案内はなく途中にはU字溝があって飛び越えなくてはならない。
通学路は山口宇部道路が横切り暗い函渠道となっている。(学校前を右折)
上り坂を終えると三差路を左折する。
この付近はマムシが多いことから、毒蛇の厄払いとして中江頭八王子社が祀られている。
西進して常盤池を目指す。
モモイロペリカン「カッタくん」と子供、周囲にサルビアの花がデザインされたマンホ
ール蓋。
団地内を抜けると常盤周遊路に合わす。
湖畔を巡る5.7㎞の周遊路は、ウオーキング等を楽しみことができる。
常盤池は1698(元禄11)年毛利家の給領主だった福原氏が、コメの収穫を得るために
灌漑用溜池を造らせた。この辺りは常盤原といわれる野山で、30軒程度の家があったと
いう。
この池には流れ込む川がなく水不足を解消するため、1938(昭和13)年厚東川から水
を引く工事が行われた。
常盤橋と左手に石炭記念館。
宇部炭田発祥の地とされる常盤湖畔に石炭記念館がある。記念館のシンボルである櫓は、
かって宇部興産東見初(みぞめ)炭鉱に使用されていた竪坑櫓である。
記念館の野外にある坑内石炭運搬車は、ディーゼル機関車で2屯鉄製炭車20函をつな
いで運搬されていた。
その他、竪坑櫓の上部に据え付けられていた矢弦車、人車、蒸気機械の原動力として使
われたランカシャ―ボイラー、巻き上げ機などが展示してある。
館内には海底炭鉱の様子を伝える坑道が再現されている。(館内無料)
鉱員たちが住んでいた炭鉱住宅(炭住)も再現されている。1棟が5軒ほどに区切られた
長屋で、1軒の広さは時代によって異なるが、6畳と4畳半の部屋と簡素な調理場あり、
トイレ、風呂は共同であった。この1棟に3~4人家族が生活していた。
記念館は宇部から炭鉱が姿を消してから2年後の1969(昭和44)年、炭鉱で栄えた宇
部の歩みを長く後世に伝えるため、日本初の石炭記念館として誕生した。櫓は展望台とな
っているがコロナの影響によるものか利用不可であった。
国道に出て宇部市街地へ向かうと、1917(大正6)年常盤池の補助溜池として、女夫岩
(めおといわ)の地に築堤されたもので、常に満水状態を保ち続けている。
ときわ公園入口前で国道を横断して小郡方面に戻ると、国道190号線の中央分離帯に
周防長門国境の碑がある。昔は国が違うため、大沢(周防)と亀浦(長門)との間でいさかい
が多くあったとされる。
さらに進むと、山口宇部道路交差点でJR常盤駅への細い道がある。