ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

下関市の新地は高杉晋作終焉の地

2018年03月17日 | 山口県下関市

        
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号
        
         
         新地は古くには大きな入江で、伊崎入江とか長崎入江と呼ばれ、厳島神社から了円寺の
                下まで海が入り込でいたという。そこを江戸期に萩藩が開作によって埋め立て、新しくで
        き
た土地である。(歩行約5㎞)

                           
                             JR下関駅は、1942(昭和17)年世界初の海底鉄道トンネル開通に伴い、細江から現
        在地へ移転する。2006(平成18)年には放火で駅舎が焼失するが、2014(平成26)
        に新駅舎が完成する。(駅西口)

        
         中国電力の敷地内に白石正一郎旧宅跡碑がある。荷受問屋・白石正一郎は勤皇商人で坂
        本龍馬ら各地の志士を支援する。1863(文久3)年6月、高杉晋作は白石正一郎の後ろ盾
        を得て、当地で奇兵隊を結成する。晩年は一切の俗事から離れ、赤間神宮の宮司として生
        涯を終える。(享年69歳)

        
         1849(嘉永2)年に吉田松陰は、藩命により北浦海岸防備視察のため、7月15日から
        20日まで伊崎の付船業(水先案内役)関屋松兵衛宅に宿泊した。(松陰19歳)

        
         伊崎の厳島神社参道。

        
         厳島神社は吉田松陰が小門海峡を視察展望した地とされる。

        
          彦島と伊崎町の間の海峡は、小門(おど)あるいは小瀬戸と呼ばれる急流で知られている。 
        1866(慶応2)年に高杉晋作も舟遊びを楽しんだといわれている。

        
         伊崎は港町下関の歓楽地だったとか。

        
         案内に従って徳利小路に入るが、井戸は個人の敷地内にある。

        
         高杉晋作が刺客から身を隠すために、丸1日潜伏したとされる「ひょうたん井戸」。

        
         伊崎は昭和初期を思い出させる古い佇まいが残っている。

        
         看板はないが現役のお風呂屋さんで「千歳湯」だそうだ。

               
                 千歳湯は土曜日が定休日のため暖簾等もなく、銭湯だとわからないが黄色い張り紙で銭
        湯だとわかる。

        
         国道181号線の手前にも「ゆ」の看板を見ることができるが、現役かどうかは定かで
        ない。

        
         功山寺で決起した高杉晋作らは、1864(元治元)年12月15日に新地会所を襲撃した
        後、この了円寺に立て籠もる。山門は勝山御殿の表門を移設したものである。

        
         本堂は当時のもので、本堂内の柱には挙兵軍の兵士たちがつけた刀疵(かたなきず)が残さ
        れているとのことだが、本堂では卒園式が行われて拝見できなかった。

        
         桜山神社(元は桜山招魂場)は、1865(慶応元)年に亡き同志の霊を祀るため、高杉晋作
        らの発議によって創建される。

        
         七卿が長州へ都落ちした翌年の3月26日、馬関砲台を巡視する途で錦小路頼徳は病を
        発したため、六卿で当招魂場と鋳造場に立ち寄る。

        
         この地は奇兵隊の訓練場跡でもあり、招魂場となった以後に桜を植えたことから、桜山
        と呼ばれるようになった。

        
         龍馬死後、下関に滞在していたお龍は、一時期、桜山招魂社の運営のために設けられた
        「あけぼの」という茶屋で過ごす。この間、招魂場に祀られた人々への想いを詠んでいる。
                「武士のかばねは ここに桜山 
                         花は散れども 名こそ止むれ」

        
         1866(慶応2)年8月9日の招魂社新築落成祭典の日、高杉晋作が詠んだ詩の自筆が刻
        まれている。
               猛烈の奇兵何のために志す所ぞ 
               一死将って邦家に報いんと要す
               尤(もっとも)欣ぶ名を遂げ功成りて後 
               共に弔魂場の花と作らんを 

               「弔らわる人に入るべき身なりしに 弔う人になるそはずかし」とある。

        
         明治維新に散った志士たち391柱の霊標がある。中央に吉田松陰、両側には高杉晋作、
        久坂玄瑞が並び、後ろの方は名前だけが刻まれたものもある。

        
         吉田松陰から奇兵隊の名もない者にいたるまで平等に祀られていることで、整然と立ち
        並ぶ霊標の姿は、奇兵隊における武士、町人の身分制を越えた新しい時代への理念を伝え
        ている。

        
         1959(昭和34)年の吉田松陰没後百年祭にあたり、山縣有朋ら23柱を追祀して、3
        91柱となった。

        
         高杉晋作は小倉戦争では長州軍を指揮して幕府軍と戦うが、この戦いで持病の結核が悪
        化する。桜山神社近くの小さな家で野村望東尼、愛人おうのの看病による療養生活を送る。
         この地を選んだのは、亡き同志の霊を祀る桜山招魂場が近くにあったためとされる。

        
         厳島神社は平家一門が、安芸の厳島神社の分霊を守護神として船中に祀っていたが、1
        185(文治元)年の壇ノ浦合戦後、磯辺に漂着した神霊を祀ったのが始まりとされる。

        
         境内の太鼓堂に、直径1.1m、重さ390㎏の大太鼓は、小笠原藩の小倉城の櫓にあっ
        たものとされる。1866(慶応2)年の第二次幕長戦争における小倉口の戦いでの戦利品と
        して、奇兵隊が持ち帰り神社に奉納したものである。

        
         下関市街地の大半は長府・清末藩領だが、伊崎、今浦の先を埋め立てた新地は萩本藩の
        直轄地であった。
         1864(元治元)年12月15日に高杉晋作が長府の功山寺で決起して、俗論派政権打倒
        のため最初に襲撃したのが萩藩新地会所であった。

        
                療養中に晋作の身を案じた正妻マサが看病のため、萩から訪れたことを機に新地の庄屋
        ・林算九郎宅に移るが、1867(慶応3)年4月14日に27歳8ヶ月という若さでこの世
        を去る。

        
         今浦町界隈。

        
        
         1916(大正5)年開業のノスタルジックな銭湯「えびす湯」がある。山陽本線高架下を
        潜って、ハングル文字を目にするグリーンモール商店街を歩けば下関駅東口である。