この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
牛島(うしま)は室積港から南東約8.4㎞の瀬戸内海に浮かぶ島である。島名の由来は平
安時代に牛を放牧していたことから、「牛島」と呼ばれるようになったといわれる。(歩
行約2.5㎞)
JR光駅から防長バス柳井駅行き約20分、室積バス停下車する。バス進行方向にある
横断歩道を渡ると、早長八幡宮の先に室積港がある。(徒歩5分、駐車場もある)
10時発に乗船すると瀬戸内の多島美が楽しめる。
約20分で牛島港へ到着する。(往復1,000円)
定期船で運ばれる荷物を運搬する車が待機中。
港の北西側は盛郷地区で、端にある牛島八幡宮から散歩する。
島の住民は漁業を中心とし、幕府から遠洋漁業の許可書を得て、どこの港にも自由に入
れるほどになる。明治期になると大型船となったため係留できる波止が必要となる。牛島
独持の個人持ち波止、船主を中心とする組の共有波止が築造される。
ところが、1965(昭和40~50)年代にほとんどの波止が埋め立てられ、現存する左手
の西崎波止(1887年)、藤田波止(1892-1893年)が当時の姿のまま利用され、国交省の
「島の宝100景」に選ばれている。
牛島八幡宮は、室町期の文明年間(1469-1486)大島郡小松の志駄岸八幡宮から勧請し、1
549(天文18)年に社を建立して牛島の鎮守とした。
1753(宝暦3)年に勧請された恵比須社は、毎年4月には牛島の伝統行事として、海上
の安全と豊漁を祈願して牛島恵比須祭が行われている。御座船に神輿を乗せて海上パレー
ドも行われていたようだが、現在は高齢化と過疎化で神事のみだそうだ。
島特有の狭い道が家々をつないでいる。
この島では珍しい長屋門形式の入口を構える。
モクゲンジの自生地として知られる牛島。1935(昭和10)年に日本で初めて発見され、
初夏の7月には枝先に長さ15~40㎝の円錐花序を直立し、黄金色の小さな花を多数つ
ける。地元の方から民家前に咲くモクゲンジを教えていただく。(県天然記念物)
港方向に戻る。
地形に沿うように住宅が建ち、細い階段状の道で結ばれている。
比較的大きな住宅だが無住のようだ。
港から東郷への道には、1914(大正3)年道路を改修した旨の記念碑が建っている。
一歩奥に入ると井戸があり、碑には「共同井戸主、昭和7(1932)年3月」と15名の名
前が刻まれている。島には共同井戸と個人持ち井戸があったようで、路地を歩けば点々と
井戸がある。
教念寺(真宗)は、大内義隆の臣であった志熊宗俊が大内氏滅亡後、熊毛郡麻郷村に隠遁
した。その長男・善之進は、激動する世情に無常を感じて出家し、麻郷の地に一庵を結ぶ。
明治期の廃仏毀釈の際、牛島住民の懇請を容れて、島の小庵・妙華庵を本寺としていた
が、のちに現在の寺院を建立したとされる。
寺から見る集落には多くの建物が存在するが、24世帯34人が生活されているとのこ
と。(人数等は島の方より)
繁栄の証でもある重厚な家が並ぶ。
路地を歩くと廃屋も目立つ。
迷路を辿ると縦道の延長線上に明神と荒神が祀られている。その背後にタブノキの巨木
がある。
島に人が定住するようになったのは、室町後期(応仁の乱後の1500年代)頃とみられ
る。
集落の東端にも波止の一部が残されている。
こちらの波止側に共用墓地。
墓入口に鎮座するお地蔵さん。
共用墓地の中ほどに牛島に伝わる伝説「丑森明神」がある。牛を可愛がっていた甚兵衛
さんの牛が火事で焼け死んでしまう。数年後、死んだ牛の形をした黒い雲が発生し、島に
火の手が上がる。その後も不審火が続いたため、牛の供養のため墓地の一角に墓石を建て
て「丑森明神」と刻んだとある。
牛島小学校は教念寺の寺小屋を前身とし、1879(明治12)年小字である山上に校舎を
新築する。1948(昭和23)年には中学校を併設して牛島小中学校と改称し、旧光海軍工
廠の廃材をもって校舎が新築された。1962(昭和37)年現在地へ新築移転したが、20
05(平成17)年閉校となる。
海岸通りには旅館の看板が掲げてあるが、営業されているか否かははっきりしない。商
店や自販機はないので飲料水等は持参する必要がある。
1958(昭和33)年11月離島振興法により海底ケーブルで送電され、上水道も整備さ
れている。
12時30分の船で島を離れる。