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ぶら~と散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

山陽小野田市鴨庄(旧山陽町)‥寝太郎堰から寝太郎水路

2024年12月10日 | 山口県山陽小野田市

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千1地形図を複製加工したものである。
         鴨庄(かものしょう)は厚狭川下流域、厚狭盆地に位置する。
         地名の由来について風土誌は、山代国賀茂神社の庄なれば鴨庄というにて、鴨神社は賀
        茂神社の庄なれば本社より霊を分ちて祀れるならんと記す。(歩行約7.8㎞)

        
         JR厚狭駅は、1900(明治33)年に山陽鉄道が三田尻駅から延伸し、その終着駅とし
        て開業する。1959(昭和34)年に鉄筋コンクリート造で改築された駅舎は健在である。

        
         稲束と鍬を持った寝太郎像は、1971(昭和46)年に建立されたとのこと。

        
         県道225号線(旧国道2号線)を横断して見返る。

        
        
         案内によると、厚狭川を堰き止める大井手(寝太郎堰)から引き入れられた水は厚狭盆地
        をくまなく流れている。いつ誰の手によって、この事業が行われたのか公的な資料は残さ
        れていないという。

        
         常盤町通りの南北に延長する線に条里制の一部が残るとのこと。

        
         寝太郎用水路の説明板ある地点から用水路に沿う。

        
         もとは鴨庄や広瀬地区を流れているだけだったが、1968(昭和43)年分水場が造られ、
        山川地区にも流れるようになったという。

        
         水路を跨ぐ太鼓橋と立派な門がある。千町ヶ原の山手に熊谷屋敷の遺構があり、その周
        辺に桐原、末田、細迫、原など諸氏の旧宅・旧屋敷があるとされるが、それに該当する屋
        敷だろうか。(H家) 

        
         灌漑用水だけでなく生活用水にも利用されていたようだ。

        
         この時期の水量は少ないが、澄んだ水が流れ出ている。

        
        
         この辺りは大きな屋敷地傍を流水する。

        
         大きな門と洗い場らしき階段、敷地内にも引き込まれている。

        
         寝太郎用水路分水場。
        
        
         印行(いんぎょう)第3踏切で厚狭川に出る。

        
         山口県の南北を走る美祢線の線路は赤錆びているが、2023(令和5)年6月30日から
        の大雨で全面運休となった。
         赤字路線には補修費用が重くのしかかり、復旧の目途がたっていないという。(鴨庄信号
        場附近) 

        
         厚狭川は水源を美祢市於福の大ヶ峠とし、美祢市を貫流して大小の支流を集め43.9㎞
        を南流し、周防灘に注いでいる。

        
         沓古墳は厚狭川が流れ込むところ、右岸の標高10mの水田の中にあったという。封土
        はほぼ流れ出し、露出した石室の側面は崩れかかっていたという。横穴式石室で玄室長約
        2.5m、幅と高さが約1.5mで移築復元と思われる。

        
         堰手前の小祠は墓標のようである。

        
         柳瀬の入口で厚狭川本流を堰き止め、「千町ヶ原」を長年にわたって潤いしてきた新装
        の堰。厚狭川を堰き止めて導入する最初の構想は、少なくとも300年以前に遡る。
         しかし、最初の試みられた堰き止め工事がどのようなものであったかは知る手掛かりは
        ないという。(疎水百選) 

        
         1959(昭和34)年頃まで見られた旧寝太郎堰は、使用された松の丸太の保存状態から、
        1877(明治10)年代ではないかと推測されている。

        
         1959年の大洪水は、井堰の中央部を大きく流失させ、修理不能のダメージを与えた。
        5ヶ年かけて旧井堰の跡にコンクリートの堰長82.5m、堰高3mで、調節自在の水門と
        魚道を備えて誕生する。

        
         用水路分水場先を右折する。

        
         千町ヶ原は用水が十分にあるが、大雨の場合はたちまち冠水する。一方の山川・別府は、
        農業用水が不十分で干害を避けることができなかった。
         厚狭盆地383.4haに灌漑排水事業が、1959(昭和34)年11月に始められ、196
        8(昭和43)年に竣工する。

        
         熊谷家居館跡の石碑と説明板がある。熊谷信直は毛利宗家の勢力拡大に多大な貢献し、
        1593(文禄2)年87歳で死去。
         信直の孫・元直はキリシタン信者で、萩城築城の時に石垣の石材のもつれから事件を起
        こし、1605(慶長10)年毛利輝元の命によって誅殺(ちゅうさつ)される。後に、長府藩祖
        で伯父の毛利秀元に養われていた元直の孫・元貞が大坂夏の陣で武勲をたて、熊谷家を再
        興し、吉田(下関市)に居館を構えた。

        
         就実の時、津布田で百姓一揆(1687年)が起こり、その責めを問われて知行地替えと
        なり、鴨庄・山川など2千石で、この地に居館を構えた。1843(天保14)年には家来と
        して15氏の名がみられるとのこと。

        
         敷地内には3基の祠があるが、右には「八王神」とあるが、他は何かわからない。

        
         円応寺(曹洞宗)の寺伝によると、創建当初は天台宗の寺院であったが、その後、臨済宗
        から曹洞宗に改宗した。1840(天保14)年代には桁行五間4尺余(約10.3m)の本堂の
        他、薬師堂、荒神社があった。荒神社は千町ヶ原の鬼門にあたることから、権現・住吉・
        三宝荒神を安置したという。

        
         
鴨庄と山川の境を過ごすと、この先で用水路なのか承水路なのかわからないが、この先
        で南下している。

        
         野田神社とあるが詳細わからず。

        
         西進すると山川八幡宮の常夜灯と庚申塚(年号無記名)がある。

        
         山川八幡宮鳥居前にも常夜灯と右端に庚申塔があり、庚申塔には文化9壬申(みずのえさ
        る・1812)8月21日とある。 

        
         山川八幡宮の創建は、鎌倉期の1192(建久3)年とも、不詳とも伝える。

        
          境内から厚狭の町並み。

        
         公地公民制はわが国最初の徹底した土地改革であったが、条里制はそれにともなった班
        田収授を効率的に実施していくための区画整理事業である。
         大化の改新(645)後の諸改革と並行して進められ、河川や地形を踏まえて耕地を6町ご
        とに地割りして「北から南を条、東西を里」と数えた。厚狭の条里制は、常盤通りの南北
        に延長する線などに部分的に遺り、東大坪、西大坪、中坪などの小字で地名が残されてい
        る。

        
         この時期の排水路は、鳥たちの楽園となっている。

        
         山陽勤労青少年ホームは、勤労青少年福祉法に基づいて設置されたが、ホーム設置に関
        する規定が削除されたことや施設の老朽化が著しいため、2021(令和3)年3月をもって
        廃止された。 

        
         山陽本線北側の道を東進して駅に戻る。


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