いわき・うぶすな広場だより

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飯野八幡宮の鳥居はいくつあったの ?・・・いわき市

2016-05-24 09:59:43 | なるほど歴史塾

田植え後の「甲塚」です。
秋の取入れの時と並んで1年で一番好きな季節です。


遠くに甲塚が。

 

 


鳥居の造立のことが書かれています。


1回だけでなく造立が書かれています。


こうして古文書を読み解くことで
謎が解けます。


「飯野八幡宮の鳥居はいくつあったのか」が今回のテーマ。
飯野八幡宮の古図によりますと三つありました。
現在の地図と合わせますとほぼ確定できました。

先日
飯野家文書の2回目を学びました。
今回は山名先生が
飯野家文書研究の過去の本・資料を見せてくれました。
上記に写真の一部を載せてみました。
苦労されて今、飯野家文書を読めるようになった経過です。

☆飯野文書解説・・・山森正一著 昭和25年8月
☆底本 飯野家文書 中世編   飯野文庫
☆陸奥国 好嶋荘と伊賀氏の研究 山名隆弘
☆近世以前 飯野及び國魂史料文書 諸根樟一編
☆飯野八幡宮文書 玉山成元校訂 続群書類従完成会
☆解説 飯野家文書 第一集   猪俣金五郎著 昭和29年
等の史料を山名先生から見せていただき
上記に一部載せてみました。

回のテーマは?

「飯野八幡宮の鳥居はいくつあったのか」

飯野八幡宮の古図によりますと三つありました。
現在の地図と合わせてほぼ確定できました。

古図と飯野家文書にありました史料を基に
山名先生が解説されました。

飯野家文書

 飯野家文書は、
鎌倉幕府政所執事伊賀光宗を祖とする
飯野八幡宮飯野八幡宮宮司飯野家に伝わる
鎌倉期から明治初期に至る文書で
平成6年に1683通が国の重要文化財に指定されました。
中世文書は209通。
その内容は好間の荘の相論に関する文書、
南北朝期の足利尊氏感状、飯野八幡宮縁起注進状案
・飯野八幡宮鳥居造立配分状などに区分されます。

これらを読みますと
鎌倉期の好間荘の状況を解読することができ、
伊賀氏(飯野家の祖)の活躍を伝えるものであり
室町から鎌倉期における
岩城氏の大名化の過程を知ることもできる資料といわれています。
また新井白石が元禄15年(1702年)に著わした「藩翰譜」に引用もしています。

いわきの国ができて後3年後(2018年・・・平成三十年)には
千三百年という記念すべき年を迎えます。
「続日本(しょくにほん)紀(ぎ)」・・・797年成立
「陸奥の国之石城、標葉、行方」、宇太、日理、常陸国之菊多六郡を割いて、石城の国を置く、
白河、石背、会津、安積、信夫五郡を割いて石背国を置く」と書かれ
現在の福島県浜通りが「石城の国」と名付けられ
中通りが「石背国」と呼ばれました。

そんないわきの国が誕生した平成三十年を迎える前に
いわきの鎌倉時代を学んでおかねばということで
3月までで「武士道」を終了し
なるほど歴史塾では
4月から「飯野家文書」を学ぶことにして、
今回が2回目を迎えました。

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