いわき・うぶすな広場だより

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「内郷にあった炭鉱」のお話・・・内郷学特別講座から

2018-03-24 17:09:09 | いわきの歴史

出展:「常磐地方の鉱山鉄道」おやけこういち著。
イラストは野木和夫先生が書かれた。
「内郷にあった炭鉱」マップ
片寄平蔵が内郷の弥勒沢で石炭発見以来の
炭鉱マップがわかりやすく見られます。
いのししも
内郷には4歳から高校卒業までいましたので
このマップを見ますと感慨深いです。
特に町田から常磐製作所までの通勤電車は思いで深いですね。


こちらはガソリンカーですが
町田から常磐製作所までの通勤用のは電車。
いのしし宅にも電車の写真はなかった。


内郷山神社にありました相撲小屋です。
本格的なものがありました。
現在は観客席が残っています。
いのししは小学生のときに
豪華な子供神輿を担いでいました。


各炭鉱は
受託を作り、飯場制度を利用しながら
各地から人を大量に集めて石炭の増産を図り、
内郷は住宅の供給基地になりました。
内郷の方は1割くらいで、
9割は県内の中通り・会津・県外の方々でした。

なんでわかるのか?
野木先生は
昭和2年3月発生の磐城炭礦(株)町田坑内(内郷にありました)火災による
殉職者134名の名簿を
見ながら説明されました。
炭鉱は大きな事故がおこりました。


内郷の様子が
イラストに描かれています。


三星炭鉱・・・最初は「みつぼし」後に「さんせい」と呼ばれたようです。
この写真では「みつぼし」に。


三星炭鉱の煙突が。


内郷支所に飾られています
石炭です。


いよいよ閉山を迎えました。


内郷にあった炭鉱
 講師は
 野木和夫先生(NPO法人常磐炭田史研究会 会長)でした。

明治から大正にかけ内郷に存在しました
地元資本の三星炭鉱を詳しく説明いただきました。

三星炭鉱は
内郷綴地区で採炭を開始し、そこで取れた石炭は東京で大好評。
売れに売れて順風満帆かと思われた矢先、
突然、「湯本断層」に遭遇。
湯本温泉地下に滞留していました温泉が一気に流入し
事業が停止に。
その後、磐城炭鉱に買収されました。

悲劇の炭鉱と呼ばれたと。
しかし、けが人等はいませんでした。

このように
地元資本が消滅後には
磐城・入山・古川等」の中央資本がその後の常磐炭田を形成していきました。

野木先生は
内郷にあった炭鉱マップを見せながら
片寄平蔵が発見した時代から
明治・大正・昭和の内郷の炭鉱の歴史を説明してくれました。
同時に
生活・水・道路・電車等も説明されました。
今も歩けば
痕跡が残っています。
明日は、そこを見学予定ですので楽しみです。

野木先生
貴重なお話ありがとうございました。

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