いわき・うぶすな広場だより

セカンドライフの生き方を書いています。

関 寛斎と奥羽出張病院・・・いわき地域学會市民講座

2010-04-06 10:54:54 | いわき地域学會
戊辰戦争時の「関 寛斎」です。


先日
いわき地域学會市民講座第259回に参加しました。

「関 寛斎と奥羽出張病院」

講師は、関内幸介先生でした。

戊辰戦争(1868年)で
政府軍の野戦病院院長としていわきに来た
関寛斎の奥羽出張病院はいかに活動し、いわきの人々は病院にいかに協力したのか
又、その生涯と思想について年表に沿って話していただきました。

戊辰戦争のいわきにつきましては、政府軍が平潟港に上陸して、
圧倒的武器の力により平城が落城して終了するわけです。
その時政府軍の野戦病院の院長が関寛斎で、
長崎で近代医術を学ぶだけでなく、
思想的にも素朴な人道主義者で、平潟に上陸するや否や
住民の間に蔓延していた腸チフスや戦傷者を
近代医術を用いて処理し、1万数千人を治療し、
合わせて地元の医師をも教育しました。

•戦傷の治療で洋医学の優越性を実証し洋医学の普及と向学心を刺激したと。
•敵味方の区別なく治療を行い、難民の医療に尽くしたと。
(その中でいわきの人々がいかに協力したのかを資料をもとに詳しく話されました。)
→「わが国の赤十字事業の先駆である」(石原明)といわれています。

関内先生は、
寛斎のその後、官位に着かず、43歳からの徳島で開業医となり町医者として生きた話。
さらに、72歳で、北海道で牧場開設をした事を話され、
最後は、トルストイの博愛主義にも似た、
農地解放のような行動で、孫に告訴されるというようになり、
明治天皇が崩御された2ヶ月後に服毒自殺をされました。
明治天皇に殉じたのではといわれています。

このように、
気骨あふれた関寛斎の生き方は、

激しい生き方だったけれどもその時、その時、
一生懸命に生きて人の心(=ひとの誠)を実践した人
だったのではないだろうか。
そこに感動します。

関内先生は、

関寛斎の「寛翁七福」として

一 災害に遭うとも驚かず
二 艱難に向かうとも悲しまず
三 貧しけれども飢えず
四 老て労を厭はず
五 衣薄くも寒からず
六 粗食にも味あり
七 雨漏りりても眠を妨げず
・・・命の鍛錬(明治37年)より
を紹介していただき、
その生き方のすごさを紹介し結びとされました。


なお、戊辰戦争で、
政府軍で平潟に上陸した医師群の中には、
作家の吉村昭さんが描いた
「白い航跡」(講談社文庫で上下各540円)の高木兼寛
・・・(後に、慈恵医大・海軍軍医総監・
「脚気」の原因を美食によるビタミン不足と解明した。
一方森鴎外はその時、陸軍軍医総監で、
脚気細菌説を取り、後に日露戦争で犠牲を出す結果となりました。

幕府軍の中には、
作家の吉村昭さんが描いた「暁の旅人」(講談社文庫で620円)
の松本順(佐藤良順)や高松凌雲などがいました。
記憶に残しておきたい事実です。

関内先生が上げた参考文献としまして、
•関寛斎(1868年)「奥羽出張病院日記」全5冊・・・いわき総合図書館所蔵
•関寛斎(1901年)「いのち乃洗濯」・・・・・・・・・・・・・自費出版
•司馬遼太郎(1976~1979)「胡蝶の夢」・・・・・・・・・朝日新聞
•松村亨(1977年)「近代の医術」・・・・・・・・・・・・・・いわき市史6巻「文化」
•白里研究グループ(1982年)「寛斎日記」・・・・・陸別町教育委員会
•戸石四郎(1982年)「関寛斎ー最後の蘭医」・・・三省堂
•関寛斎顕彰会(1986年)「関農場の考察」・・・・・山本書店
•松村病院史編集委員会(2003年)「病院前史第1部」・・・財団法人磐城経世回会
•戸石四郎(2005年)「津波とたたかった人ー浜口梧陵伝」・・新日本出版社
その他6点ほど参考文献として紹介いただきました。

関内先生、貴重な話と資料の説明ありがとうございました。
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