小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

菅新政権の「人気取り政策」は実現可能か?

2020-10-19 01:37:27 | Weblog
安倍政権の「負のレガシー」の検証記事を書き始めて2回目が終わった時点で学術会議問題が発生し、その問題をずっと追いかけているうちに、いまさら安倍政権の「負のレガシー」の検証を再開しても、という感じになった。
実は4回目まで原稿は完成していたのだが、そのポイントはすでに学術会議問題の記事の中で書いてしまった部分もあり、菅政権が取り組もうとしている課題の検証をしていく中で、安倍前総理が残した「負のレガシー」を継承している場合にあらためて触れることにする。
とりあえず、学術会議問題の今後だけ、簡単に触れておきたい。

●総理の任命権問題と学術会議の存続問題は別だ
 政府はあくまで学術会議会員の任命権はあり、「総合的・俯瞰的観点で判断した」という見解を維持している。が、総理の任命権は法律(日本学術会議法)上は「会員は学術会議が選考・推薦し、内閣総理大臣が任命する」となっており、任命権はあくまで形式的と考えるのが文理的解釈だ、というのが私の見解。
もし「内閣総理大臣が任命する」という表現が実質的に任命権の存在を意味するなら、憲法6条の規定により内閣総理大臣の任命権を天皇が有することになり、天皇は国民の象徴ではなく総理大臣の任命権を有する最高の政治権力者ということになってしまう。
法文の解釈は恣意的・ご都合主義的になされてはならず、憲法6条の「国会の指名に基づき、天皇が内閣総理大臣を任命する」は「天皇の任命権の存在を意味しない」と解釈するならば、学術会議会員の任命権も総理大臣にはないと解釈すべきである。法文解釈の整合性は法治国家にとって不可欠な要素である。
実は、法文解釈における任命権問題はないがしろにはできない重大事なのだ。たとえば、いま五神真・東大総長(任期は来年3月まで)の後任選考をめぐって東大内部で揉めているようだが、基本的に学長(東大の場合は総長)選考の手続きは大学の自治権に含まれる。が、東大をはじめ国立大学の学長は法律上では「文部科学省大臣が任命する」ことになっており、もしこの条文が「文科相に学長任命権がある」と解釈されると、大学の自治を認めた法律との齟齬が生じることになる。
このように法文解釈の整合性を「総合的・俯瞰的観点から判断」したら、学術会議会員の任命権は総理大臣にはなく、学術会議が日本学術会議法で定められた基準によって選出された会員の権利は総理大臣といえど侵すことはできず、当然総理大臣の任命権は形式的なものと解釈するのが妥当である。

この問題がこじれたのは政府が以前から学術会議の在り方について問題視していたことにあったようだ。
日本学術会議の前身は学術研究会議で、戦時中は日本における軍事研究の総本山だった。敗戦後、軍部の解体に伴い軍事研究も禁止され、1949年、GHQの助言によって平和的学問研究活動の拠点として日本学術会議が発足した。「軍事研究はしない」という伝統と、「学者の国会」と評価されるほどの権威はこうして生まれ、引き継がれてきた。
戦後の貧しい時期には、学問の砦として日本学術会議が果たしてきた役割は決して小さくなかったが、日本の経済復興とともに日本における学問・研究の場も拡大し多様化していった。国立の研究機関や大学の研究所、民間の研究機関も充実し、日本学術会議そのものの権威も形骸化していったことは否定できない。いま日本学術会議には10億円余の国家予算が投じられているというが、本当に「学者の国会」として日本の学問・研究活動の総本山としての活動を維持するとすれば、10億どころか数百億、数千億の国家予算を投じても過分ではない。実際、10億程度の予算で、何ができるのか、疑問が生じる。たとえば、新型コロナの治療法やワクチン開発に、日本学術会議がいかなる貢献をしているのか、まず私はそれが知りたい。
日本学術会議の活動実態は、報道によれば、ほとんどないようだ。会員に選ばれることが文化勲章や国民栄誉賞のような名誉のためだとしたら、そんな組織は必要ないと思う。学者たちが金を出し合って、勝手に権威付けをしあうのは自由だ。そんな権威など、外部には通用しないだろうが…。
日本学術会議法には、政府は学問的立場から政策について学術会議に諮問できるとあるが、07年以降、政府からの諮問はないという。その理由は政府に説明責任があるだろう。だが、「諮問がないから」という学術会議側の抗弁も説得力に欠ける。日本学術会議法には「政府に政策の勧告することができる」という記載もある。が10年以降、勧告は一度も行われていない。そのことについて、私はすでにブログで、この学術会議の怠慢については指摘しているが、「勧告」という重い権利も行使できなくなった組織はもはや賞味期限切れと言っても差し支えないだろう。いまさら梶田会長が菅総理との会談で「これからは頑張ります」と約束しても、組織存続のための言い訳でしかないように聞こえる。

なお学術会議やメディアの一部から行われている「憲法で保障された『学問の自由』に対する侵害だ」という批判も的外れだ。任命を拒否された6名の学者が安保法制や共謀法に反対の考えだったとしても、彼らが自分の思想に基づく学問・研究の機会を奪われたわけではない。だいいち、学術会議自身が与えられた「政府に対する勧告の権利」を放棄しているのだから、会員がどんな反政府思想の持主であっても、政府にとっては怖がる必要もなければ排除する必要もないからだ。「学問の自由に対する侵害」という批判はこじつけに過ぎない。その程度の批判しかできないところに、学術会議の存在意義が問われていると考えるべきであろう。
ただ、ネットで調べてみると似たような科学者団体がほかにもあるようだ。省庁横断的な政策提案を目的とする「総合科学技術・イノベーション会議」(内閣府所管 国家予算450億円)があり、独立法人の「日本学術振興会」(国家予算2600億円)、基礎研究を行う「科学技術振興機構」(国家予算1000億円)などもある。私には日本の科学技術行政が「屋上屋を重ねる」状態に見えてならない。既得権益を一切排除して、効率的な科学技術行政にしてほしい。「過去の慣行にとらわれず行革を推進する」というのが菅総理の一枚看板なのだから。
だが、それならそれで6名だけ任命拒否などという姑息な手段を使わず、いったん全員の任命を棚上げするか全員任命したうえで、過去の慣行にとらわれず効率的な学問研究
行政の在り方を全面的に見直すようにすべきだろう。
ピーターの法則「あらゆる組織は無能化する」
パーキンソンの法則「あらゆる組織は肥大化する」

●ハンコ廃止を公務員の生産性向上につなげよ
よく知られているように、日本の労働生産性は世界各国に比べてかなり低い。2019年11月にOECDが公表したデータによれば、日本の1時間当たり労働生産性は46.8ドルで、OECD加盟36か国中21位だ。いわゆる先進国とされているアメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、カナダ、日本の7か国では断トツの最下位だ。「何でも1位であることはいい」などとは言っていられない。1位でも下から数えての順位だからだ。とくにショックだったのは、アメリカの労働生産性が1時間当たり74.7ドルで、日本の1.6倍も高いことだ。
なお、各国の労働生産性を単純にドル換算すると、算出時の為替相場によって誤差が生じるので、OECDは購買力平価で算出している。
かつて日米貿易摩擦が火を噴いた時期、アメリカは日本の非関税障壁を散々問題にした。アメリカは何でも自国の基準が最高だと思っている国だが、自動車の排ガス規制に世界で最初に乗り出したのもアメリカだった。地球温暖化に歯止めをかけるパリ協定にソッポを向き続けている今のアメリカを見るとき、これが同じアメリカかと「不思議の国のアリス」になったような気がする。
アメリカが自動車の排ガス規制に乗り出したのは1970年。この年3月、上院議員のマスキー氏が大気浄化法を議会に提出、喧々囂々の議論の末、同年末に採択され、翌71年6月に施行された。通称「マスキー法」と言われている。
これを受けて日本でも排ガス規制問題が生じた。日本ではトヨタ、日産の2大メーカーが猛烈に反対したが、川崎を中心とする京浜工業地帯の公害問題や、いまでは死語になってしまったが「光化学スモック」問題もあって環境庁が排ガス規制に乗り出し、当時としては世界一厳しいと言われた「53年規制」に踏み切った。
実はアメリカでマスキー法が成立したのは、アメリカ独特の政治事情がある。日本ではアメリカの下院に相当する衆院が優位だが、アメリカは上院が優位な仕組みになっている。アメリカの上院は人口に関係なく各州2人が上院議員になる(計100人)。トランプ氏のようなケースは異例中の異例で、通常、共和党にしろ民主党にしろ有力州の知事か上院議員が大統領候補になる。だからアメリカの自動車のメッカと言われるデトロイトがあるミシガン州選出の議員がいくら頑張っても、消費者が多い州の議員に勝てないのだ。
それはともかく、日本の自動車王国、豊田市の治安は極めていいが、デトロイトはもともと失業率・貧困率が高く、「犯罪都市」と言われるほど治安も悪い。当然デトロイトで働く自動車産業の労働者のレベルも低く、アメ車を買った日本人が運転しているとカラコロカラコロ音がするので、整備工場に持ち込んだら中からコーラの空き瓶が出てきたという、笑うに笑えない話が当時あった。
そういう話を知っている私としては、有能だと思っていた日本人労働者の生産性がアメリカの6割でしかないという現実を突きつけられて、本当にショックだった。
この日本人の労働生産性の低さを、果たして「ハンコ革命」で解決できるのか。日本の労働生産性を低くしている要因の一つに公務員の仕事ぶりにあるとは私も日ごろから感じていたので、ハンコをなくすことで公務員の仕事が劇的に効率化することを期待したいのだが…。
この記事を書いているとき(17日午後)、河野行革担当相が「こより閉じ」の慣習を廃止したというニュースが飛び込んできた。官公庁では数枚の書類を閉じるのにホッチキスではなく、千枚通しで穴を開け、こよりで閉じるという、お話にもならないような慣行が官公庁では続いていたようだ。
ついでにその日の朝のテレビ番組では元女子アナが、リモート生出演していた河野大臣に「日本にはハンコ文化があって、例えば人生の大切な節目である婚姻届けからもハンコを失くすのか」とばかばかしい質問をしていた。河野氏は苦笑いしていたが、実際「ハンコ文化」なる日本の伝統を声高に叫ぶ輩もいるが、ハンコを押した書類は自分の手元には残らない。別に私は婚姻届けからもハンコを排除すべきだと主張しているわけではないが、ハンコを押した婚姻届けは役所に提出され、戸籍の手続きが済んだら何年後かに処分されるはずだ。婚姻届けが手元に戻ってきて、額縁にでも入れて、夫婦喧嘩をした時額縁を見て仲直りする習慣ができるのであれば、それはいいことだと思うが、肝心の婚姻届けは手元にはない。「ハンコ文化」なんてたわごとは、ハンコを商売にしている連中の身勝手でしかない。
※なお、ある弁護士がネットで婚姻届けや離婚届からもハンコを失くしたほうがいいと主張していた。婚姻届けも離婚届も実印である必要はなく、ねつ造が可能だというのだ。ハンコを廃止すれば、当事者の本人確認の書類が必要になるから、ねつ造した婚姻届けや離婚届を役所に提出することが難しくなるというのだ。ごもっとも。なお元女子アナとは河野恵子氏である。

●郵政民営化がかんぽ生保の不正販売を生んだ理由
 前回のブログの【追記4】(17日)で、郵便物の配達を土日を除く週5日体制にすることになったと書いたが(正確には「時事通信のネット配信で来秋から郵便物の配達を週5日にすることが決まったというニュースがあった」と記載)、
まだ決定したわけではないようだ。実はネットで検索して分かったのだが、昨年8月にいったん政府は土曜日の配達を廃止する郵便法改正案をまとめ、秋の臨時国会に提出、今年秋から土曜日配達を辞めることにするつもりだったようだ。が、「桜を見る会」問題で国会が紛糾し、見送られたという事情がある。時事通信の配信記事がちょっと先走った感がある。
 それはともかく【追記4】で私が主張したことは、郵便配達の全国一律ユニバーサル・サービスを義務付けられたことが、郵便局員のかんぽ生保不正販売の原因になったと私は考えており、日本郵便も民間企業になったのだから集配体制についてもコスト・パフォーマンスを重視した体制にすべきだと主張した。
私自身、年賀状もやめたし、よほどのことでない限りはがきや手紙を出すことはない。文字でのやり取りが必要な場合はほとんどメールで行っている。郵便物の集配需要が激減しているのに、集配のユニバーサル・サービスが義務付けられ、郵便料金はコストに見合った料金改定も政府(総務省)の許可なしにはできず、郵便事業の赤字体質を穴埋めするため郵便局員がかんぽ生保の不正販売に走らざるを得なくなったのは当然の帰結であり(不正販売を容認しているわけではない)、小泉郵政改革の「負のレガシー」だと私は考えている。だから、郵便料金を大幅値上げするか、需要に応じて週3回の地域、週2回の地域、週1回の地域と集配体制を効率化すれば、かんぽ生保の不正販売などしなくても済んだはずである。
実際、中曽根内閣の時、国鉄を民営化したが、JRは赤字のローカル路線の大半を廃止するか第3セクタ-化した。それに電車の運行本数も需要に応じて大幅に削減した。なぜ郵便物だけ大都市も地方の過疎地も同じ集配体制を義務付けたのか。国営であれば、大都市の住民も過疎地の住民も同一のサービスを提供できるが、民営化しておきながら国営企業のような全国同一サービスを義務付けるというのは、その基本設計自体が間違っていたといわざるを得ない。電話の場合は交換機を経由するから市内料金と市外料金(電車運賃と同様の距離制料金)を採用できるが、ポスト投函のはがきや手紙の場合は配達距離による料金差をつけることが不可能だ。だから、郵便事業の赤字化を防ぐためにははがきや手紙の料金を大幅に値上げするか、さもなければ集配体制を自由化するしかなかったのである。
そういうことを当日、日本郵便に申し上げておいたが、携帯電話料金問題については真逆の状態にあり、16日、総務省にある提案をした。その内容を書く。

●菅総理の「思い付き政策」は人気取りのためか
 菅総理が具体的な政策として打ち出したのが、不妊治療の保険適用と携帯電話料金の値下げ要求である。行政改革については具体策は何も示していない。
 不妊治療の保険適用は少子化対策のためと考えられる。私は別に反対はしないが、健康保険は病気を治療するための制度だ。不妊治療を健康保険の対象にするには「不妊の原因が病気である」ことの科学的証明が必要になる。菅さんは厚労省の健康保険担当官僚に健康保険適用が法的に可能かどうかを確認したうえで発言したのか、それとも女性の人気取りのための思い付き政策だったのかは、いまのところ不明だが、もし健康保険の適用ということにすると介護保険との整合性が問われることになる。おそらく、この観点からの問題提起は私が初めてだと思う。
 日本で介護保険制度がスタートしたのは2000年4月1日からである。私の記憶では、最初は健康保険と同様銀行口座からの引き落としで支払ってきたと思うが、いまは健康保険も介護保険も年金から自動的に引かれている。私はまだ介護認定を受けていないが、そろそろ区役所に相談に行こうかと考えている。
 区役所で説明してもらわないとわからないことが多いが、ただ歳を取って掃除・洗濯や料理が面倒臭くなったという程度の理由では要介護の認定は受けられそうもない。要支援との違いも分からない。交通事故で手足が不自由になったとか、認知症で日常生活に支障をきたすようになったという明確な理由があれば認定も容易だろうが、その場合でも健康保険ではなく介護保険という別の保険制度の対象になる。
 そう考えると、不妊が病気でないとしたら(病気だったら、とっくに健康保険の対象になっている)、医療の専門家の判断ではなく総理判断で不妊は病気だと決めることになる。介護保険と同様に不妊治療保険という保険制度を作るのなら別だが…。
 
私に言わせれば、官がやることはなんでも遅い。遅いというより、問題が生
じてから初めて考えるという体質になっている。先読みして失敗したときの責任を取りたくないからか。
 日本の携帯電話料金が高いという話はかなり前からあった。ソフトバンクの孫社長が携帯電話事業に参入するときも、「日本の携帯電話料金は高すぎる」と参入理由を述べていた。が、ドコモやKDDIに説得されたのか、やっぱり儲けたかったのかは知らないが、結局、足並みを揃えてしまった。ユーザーを囲い込むための「4年縛り」とか「2年縛り」も足並みを揃えた。東日本大震災の後だったと思うが、テレビのCMで「ソフトバンクの携帯が一番つながりやすい」とPRした時期がある。私はソフトバンクに電話をして、「このCMはまずい。つながりやすいのはソフトバンクのユーザーが少ないため、政府から割り当てられた電波帯に余裕が生じているだけのことで、ソフトバンクの経営努力や技術力のためではない。だからCMを信じてユーザーがどっと増えたら、ソフトバンクの携帯が一番かかりにくくなる。わかっているんだろうね」とクレームをつけたことがある。当然、ソフトバンクはCMをやめた。
 実際携帯電話3社と総務省はこの間ずっと闘ってきたといっていい。私は妥協せず攻めまくった高市前総務相を高く評価している。世界主要都市の料金との比較調査を継続的に行い、携帯電話会社にしばしば値下げを迫ってきた。菅氏が官房長官時代に「日本の携帯電話料金は4割値下げできるはずだ」と記者会見で発言したことがあったが、その根拠となるデータも高市氏のもとで総務省が調査したものだ。
 今年3月時点での主要6都市の料金比較でも、東京が一番高いという結果が出た(※調査対象は各国シェア1位の事業者で20GBプランの場合。日本はドコモ)。料金の高い順から転記する。
① 東京8175円 ②ニューヨーク ③ソウル6004円 ④デュッセルドルフ(ドイツ)4179円 ⑤パリ3718円 ⑥ロンドン2700円
もっとも、日本の携帯会社に言わせれば、いまは利益が出ているが、G5,G6に対応するための設備投資が膨大になるため内部留保が必要だからだという。また日本ではどんなへき地でも電波が届くように全国にくまなく基地局を作ってきたため設備投資がかさみ、それが料金に反映されているとも。
実際、ネットに投稿されている記事のなかには「日本の使い勝手は世界最高」というのがあるのは事実だ。海外に行くと日本の使い勝手の良さ(どこにいても電波が届く)を感じるという記事も見かける。その記事の書き手が冒険家・探検家ならわかるが、仕事で主張した人なら、果たして携帯が使えないような場所に行くだろうかという疑問は残るが…。

●携帯電話料金を安くする方法はこれしかない
実は、これから書くことは総務省の担当者には電話で伝えてある。担当者は
「携帯電話料金の値下げ問題については、ドコモに対抗する携帯電話会社を国が作れなど、いろいろ国民から提案をいただいているが、あなたの提案が最も合理的だと思う」と言ってくれた。が、電話の途中で割込みが入ったため、やや中途半端で終わった。
 私の提案は携帯電話会社事業と、携帯電話のインフラである基地局事業を分離し、基地局は国が設置するという体制にすることである。ただし、国が設置する基地局の運営は、全国をいくつかの地域に分けて(例えば北海道・首都圏・首都圏以外の東日本・西日本・四国・九州)民間に委託する(地域ごとに入札を行い民間企業に運営させる)。携帯電話会社への電波割り当て制は廃止し、まったく平等な競争条件で料金・サービスの競争をさせる。だから、東日本大震災の時のように、ある地域で携帯使用が許容量を超えたら、空きが出るまでどの携帯電話も使用できなくなる。「つながりやすさ」の差別化はできなくなる。
 固定電話の場合も、NTTの電話網(もともとは電電公社の電話網)をKDDIやソフトバンクが借りて事業を行っている。同様に通信など、巨額な設備投資が必要な社会インフラを、民間がそれぞれ自前で作れというのは必ずしも効率的ではない。
「官の仕事は非効率だ」という思い込みがあって、「民ができることは民に」という行革思想が定着してしまったが、BSやCSのように放送衛星を打ち上げる民間会社があって、その衛星会社が各放送局にチャンネルを貸すというプラットホーム・ビジネスを民間企業が行うのならいいが、携帯電話事業の場合はNTTが始めた自動車電話からスタートしており、携帯の時代に入っても衛星放送のようにテレビ局が一斉に衛星を利用するというような経緯にならなかったことが、きわめて非効率な設備投資を各社が別々にしなければならない状態になった。
 そういう意味ではG5やG6という新たな巨額の設備投資を要する時期に差し掛かったことは、基地局というインフラ整備を国が行うことによって携帯会社の設備投資負担を軽減し、競争条件を公平化する絶好のチャンスでもある。そうすれば、携帯電話会社間で料金とサービス、ユーザーの利用目的に応じたプランの開発をめぐってフェアな競争ができるようになる。
 ただ、携帯電話料金を引き下げろと上から押し付けるのではなく、フェアな競争ができる条件を整えながら、料金の引き下げにつながるような施策を行うのが政府の使命ではないか。
【特別追記7】19日現在、依然としてNHKからの回答はない。

【特別追記】19日、再度NHKに問い合わせに対する回答を要求した結果、ようやく同日午後6時ころ、以下のような回答があった。
「日曜討論では、様々な政治課題をテーマに、与野党同席による討論や、専門家による討論、個別インタビューなど様々な形式で放送を行っています。
今回(10月11日)は、政府内で具体的な検討が進行している「不妊治療の保険適用拡大」について、保険の適用対象や範囲、治療をめぐる現状と課題、そして必要な少子化対策などについて考えるため、田村厚生労働大臣と専門家による討論を企画しました」
 はっきり言っておくが、不妊は病気ではない。菅総理は安倍総理と同様、総理になれば憲法も法律も自分の意のまま、好き勝手に恣意的解釈で変更できると考えているようだ。
 私は厚労省にも問い合わせたが、「不妊は病気ではないから、いくら総理のご発言でも健康保険の対象にするのは難しいと思います。厚労省としては従来、助成金で扶助しており、助成金の引き上げを検討することになると思います」との回答を得ている。
 私自身は少子化に歯止めがかからない現状で、子供が欲しいと願っている夫婦には、少子化対策として国が支援することにはむしろ賛成の立場だ。が、菅総理の思い付き的な「不妊治療に保険を適用する」という発言には、二つの重要な問題があると考えている。
 一つは言うまでもなく、不妊は病気ではないから治療に健康保険を適用することは法律違反になるということ。総理が自ら法律違反をやると公言したことが、これまで学術会議問題に隠れて追及されてこなかったことも重要な問題である。メディアや野党の無能さのためだ。
 もう一つは、やはり菅総理の発言だが、個人と地域社会、国や自治体といった公的機関の関係について「自助、共助。公助」と順番を付けておきながら、不妊治療に関しては自助も共助も通り越して公助を優先した腹黒さだ。はっきり言えば、選挙で女性票を増やしたいだけの発言だろう。
 10月11日と言えば、国会の閉会中審議で紛糾し、またNHKを除くあらゆるメディアが大騒ぎをしていた(今でも騒ぎが収まる気配すらないが)学術会議問題をわざわざ避けて、まったく政治問題化していない「不妊治療の保険適用」をテーマにして、田村厚労相を「お招き」してまで「日曜討論」をしなければならなかった理由は何だったのか。
 私が指摘した菅発言の二つの重要な問題を抉り出して、菅政権が発足早々に生じた学術会議問題と並ぶ重要な法律違反であり、かつ菅総理自身が最重要視した「自助」を自らひっくり返すようなことをやろうとしている意図を、公共放送として明らかにする必要があると判断し、田村厚労相に問題提起したのであれば、私はわざわざNHKに質問をぶつけたりしていない。(20日)

【追記】 昨日(20日)、文芸春秋社から1冊の新書が緊急出版された。題名は『政治家の覚悟』。著者は菅義偉とある。言うまでもなく、いまの内閣総理大臣である。
ただし、書下ろしではない。民主党政権時代の2012年、政治家としてまだ無名だったころに出版された『政治家の覚悟 官僚を動かせ』の改訂版である。菅氏が自民党総裁選の本命視されるようになった8月末ことから、ネット・オークションに出品されるようになり、高額で取引されるようになってネットでは話題になっていた。
12年に出版された本は、100%とまでは言いきれないが、99.99%自費出版だったと思う。出版不況で、文芸春秋社や新潮社、講談社といった一流出版社も、よほどの有名人でなければリスクが高い企画出版はしない。とくに無名の政治家が書いた本は、「内幕暴露」ものでもなければ、手を出さない。
出版社が儲かることが確実視できるケースしか、出版社は危ない橋はわたらない時代に、当時もうなっていた。99.99%自費出版だっただろうと書いたのはそういう事情を知っている人間だからだ。
だけど、私は自費出版が悪いとは思っていない。とりわけ政治家が自らの政治姿勢・信条・政策を、自費を使ってでも有権者に訴えることは悪いことではないと思っている。とくに菅氏の場合は、無名だった時代から高邁な「政治家の覚悟」を初版本では語っていたようだ。
菅氏は、民主党政権時代に起きた東日本大震災に関して、政府の議事録保存状態を批判し、「政府があらゆる記録を克明に残すのは当然で、議事録は最も基本的な資料です。その作成を怠ったことは国民への背信行為であり、歴史的な危機に対処していることへの民主党政権の意識の薄さ、国家を運営しているという責任感のなさが如実に現れています」と、文書管理の重要性を訴えていたという。
毎日新聞によれば、菅氏が官房長官時代だった17年8月8日の記者会見で、加計学園問題に関する議事録公開に関連して、朝日新聞の記者が同書のこの部分を読み上げ「これを書いた政治家は誰かわかるか」と質問したのに対して、菅官房長官(当時)は「知らない」としらばくれたらしい。
今回改訂出版された『政治家の覚悟』には、この箇所がすっぽり削除されたという。菅総理の「政治家の覚悟」がどの程度の覚悟かが透けて見える。ま、人間だれしも年を取ったり、立場が変わると考え方も変わるという好例として、好意的に受け止めることにしよう。(21日)


【追記2】不妊って、病気なの?
菅総理が総理になって、いくつか公約をした。公約の趣旨自体は、賛成できることが多いが、副作用もあることを、この際、指摘しておく。野党やメディアは、いかなる政策でも薬と同様、必ず副作用があることを指摘し、どうやったら副作用を軽減しつつ効果をできるだけ高めるかを考え、政府に「物申す」姿勢が必要だ。薬の場合は必ず「注意書き」として副作用の記載が法律で義務付けられているが、政治家の公約や政府の政策については、なぜか副作用の記載が義務付けられていない。
菅公約について、とりあえず私が気付いた副作用の可能性について指摘しておく。
① 「ハンコ廃止」について――これは大賛成。たぶん副作用はほとんどないと思う。実際サイン・オンリーの欧米で問題が生じているだろうか。日本の「ハンコ文化」の一つに実印には上下の印をつけないという慣習がある。これは重要な書類に実印を押す場合、ハンコの上下を確認することで、「この書類に実印を押していいか、もう一度考えろ」という意味だと聞いている。たぶん「ハンコ廃止」でも実印廃止まではいかないと思うので、とくに役所での「無駄な書類のたらい回し」がなくなるだけでも公務員の労働生産性はかなり上がると思う。
② 「デジタル庁」の新設――これはどこまでデジタル化をやるかによって異なる。まずペーパーをなくすということには基本的に大賛成。政治家の都合による官僚の深夜業務が激減する。私も現役時代を思い出しているが、どんなに締め切りに追われても徹夜で原稿を書いたことは一度もない。徹夜仕事は、ロボットではないから身体も疲れるし、頭の働きも鈍くなる。3時間でも寝れば、かなり身体も頭もリフレッシュできる。書類作成などの業務をすべてデジタル化すれば、官僚も役所で待機している必要がない。家で休んでいて、急に書類作成の要請が生じても家で作成できる。必要なデータ類はすべて書類に当たらなくてもパソコンで取り寄せればいい。ただペーパーのいいところは記録として確実に残ることと外部からのアクセスが不可能なこと。デジタル化を進める場合、データを更新・改ざんしても原データの消去ができない仕組みにしてほしい。また外部からの不正アクセスを防ぐ仕組みを常に改良し続けることが重要だ。
③ 縦割り行政打破について――これも基本的には賛成だが、縦割り行政は責任の所在が明確になるというメリットもある。これもどこまでやるかという話になるが、責任の所在が不明確になると、いざ問題が生じたとき省庁間での責任のなすりつけ合いが生じるリスクがある。すでに安倍政権の時、内閣府に担当大臣制を導入して二重行政体制になり、肝心の担当省庁が無責任状態に陥った。たとえば西村氏が経済再生担当相と新型コロナ感染対策担当相という、相反する政策の最高責任者になり、メディアは西村氏について、緊急事態宣言解除までは「新型コロナ感染対策担当相」という肩書で紹介していたが、解除後はコロナ対策の発表をしているときでも「経済再生担当相」の肩書で紹介していた。NHKには何度か「おかしいよ」と注意したが、いまでも肩書矛盾は続いている。責任の所在が不明確にならないようにしながら縦割り行政をどこまで打破できるか、政治の力量が問われることになる。
④ 「不妊治療」の保険適用――こんな馬鹿げた話は聞いたことがない。菅さんはこの政策、厚生官僚や医療の専門家に事前に相談したのかね。医療現場は大混乱する。不妊治療に健康保険を適用するという場合、不妊が病気の一種ということを政府が認めることを意味する。不妊が病気の一種ということになれば、認知症も病気、アルコール依存症、たばこ依存症、パチンコ・競馬などあらゆるギャンブルの依存症なども病気ということになり、健康保険で治療する必要が生じる。タバコはすったもんだしたあげく、肺がんの1大原因ということで禁煙治療が保険対象になった経緯があるが、不妊治療を保険で、というのはいくらなんでもめちゃくちゃ。少子化対策のためということなら、現在の助成金制度を拡充すれば済む話だ。この政策は効果より副作用の方がはるかに大きい。

このように、政策の効果と副作用を検証し、ただ副作用をあげつらうだけでなく、いかに副作用を軽減しつつ効果の最大化を図るかを野党やメディアは考えるべきだろうと思う。(21日)