小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

【緊急】菅新総理が早くも強権体質をむき出しにしだした。

2020-10-05 04:38:19 | Weblog
安倍政権の「負のレガシー」の検証記事をいったん中断して、あらわになった菅新政権の強権体質の検証を行う。
◎政府が決定したことに従わない官僚は異動する(クビにする?)
◎党の方針と違う発言をしばしばしている杉田水脈議員には「注意」だけ
◎政府の考えと違う日本学術会議の会員は任命しない
発足後、まだ1か月もたたない菅新政権だが、早くもその強権体質があらわになった。「安倍1強」と言われていたが、実は権力とは「人事権」であり、7年8か月に及んだ長期政権で事実上、裏で人事権を行使して安倍政権を操っていたのが菅官房長官だったようだ。そうした事実は、菅政権が誕生してからメディアが明らかにしだした。菅氏が政治家としての第1歩を踏み出した横浜市議会議員時代(2期のみ)の2期目には、すでに「影の市長」とささやかれていたというから、只者ではない。。

●行政改革は、まず国会から―ー国会議員の生産性をアメリカ並みに
あらかじめ申し上げておくが、私は思想的には「ニュートラル」である。だから野党を批判することもしばしばあるが、必然的に政府・与党サイドを批判することの方が多くなる。行政(政策や経済)のかじ取りをしているのが政府・与党だからだ。それ以外の意味は何もない。
もともと政治とは行政を意味する言葉だし、行政の目的は「国益」の実現にある。そして権力者が「国益」という場合、それは権力者が考えている「国益」であって、本当に国民にとって有益か否かは別である。さらに「国益」の実現には、経済思想及びそれと密接不可分な政治思想がある。こんな基本的なことを確認しておかないと、私の基本的立ち位置と、それに基づく主張をご理解いただけないからだ。
国益は、たとえ権力者が考える国益であっても、言うまでもなく時代と状況によって異なる。今がどういう時代であり、どういう状況なのかについての判断を、だれが一点の間違いもなく正確にできるのか。「今はどういう時代であり、どういう状況なのか」は、神のみぞ知る。
誤解を避けるために言っておくが、私は無宗教者であり、神の存在など、これっぽっちも信じていない。「神のみぞ知る」と書いたのは、一点の間違いもなく判断を下せる人間など存在しないという比喩的表現に過ぎない。たとえトランプであっても、安倍であっても菅であっても、だ。ただ、権力者には「どうすることが国益か」を決める権利を持っている。権力者が考えている国益が間違っていると国民が判断したら、選挙で政権を変えるしかない。

私はしばしば右寄りの人からは「左翼」とみられるし、左寄りの人からは「右翼」とみられる。それは私の立ち位置がニュートラルだからだ。私が基準にするのは、政治が民主主義にどこまで近づいているか、あるいは遠ざかりつつあるのかを、偏った思想を基準にしてではなく、論理だけを基準にして判断することを心掛けているからだ。
さて菅政権が誕生したとき、菅新総理は「安倍政治の路線を継承する」と言い続けた。私は一瞬「お友達のための政治を続けるのか」と思ったが、次々に打ち出した菅政策はちょっと違った。
たとえば世界水準からみて高すぎる携帯電話料金を安くするという世論受けする政策をまず打ち出した。縦割り行政にメスを入れるとも言った。これも世論受けした。地銀が多すぎると、地方金融機関の統廃合も断行するようだ。日銀のマイナス金利政策で悲鳴を上げている、体力の弱い地方金融機関を統廃合という形で効率化を図ることも大方の支持を受けている。
だが、国民が一番望んでいるのは国会議員の数を減らすことだ。あるいは議員一人当たりの歳出を減らすことだ。そういう方針を打ち出せば、国民は拍手喝采すること間違いない。念のためGDPが20兆4000億ドルと、日本の5兆4000億ドルの3.7倍のアメリカは、総人口3億2700万人で日本の1憶2500万人の2.6倍だが、国会議員数は下院435人、乗員200人で計635人だ。一方、日本は衆院465人、参院248人で計713人もいる。議員1人を養っている国民数はアメリカが51.5万人で、日本は17.5万人。つまり、日本の国会議員1人を養うために国民が負担している税金は、アメリカ人の4.1倍になる計算だ。
【3.7÷2.6×(51.5÷17.5)=4.1】
日本の労働者の生産性を他の先進国並みに引き上げたいなら、まず国会議員の生産性をアメリカ並みにしてからにしてほしい。つまり国会議員の数を現在の4分の1に減らすか、さもなければ1人当たり議員歳費を4分の1に減らすかすれば、日本の国会議員の生産性もアメリカ並みになるということだ。(※これは私の小学生レベルの計算なので、おかしな点があったら遠慮なく指摘してほしい)

●携帯電話の料金を安くする方法はこれしかない
 さて、菅改革について検証しておくことがある。まず携帯電話料金の問題だが、IT評論家には「日本は全国津々浦々、どこでも電波が届くように基地局を張り巡らしている。日本以外は電波が届かないところもある」と、携帯電話料金が高くなる理由を弁護している向きもある。
 だが、それだけで携帯電話料金が高くなるとは思えない。日本の国土面積はアメリカや中国、カナダ、オーストラリア、などに比べてはるかに小さい。
 ということは、日本の場合、全国津々浦々に電波が届くよう基地局を張り巡らしたとしても、アメリカや中国に比べてはるかに少なくてすむ。日本の携帯電話料金が世界主要国に比べて平均4割も高いということは、携帯電話会社の儲け過ぎにあると考えるべきだろう。そもそも「日本の携帯電話料金は高すぎる」として参入した孫正義氏のソフトバンクが、価格破壊に乗り出すどころか高止まりの防波堤になっていることからも明らかである。
 アナログ固定電話時代に中曽根総理(当時)が電電公社を民営化したとき、競争相手としてまず名乗りを上げたのは京セラ系の第二電電だった。そのとき通信インフラである電話網施設はNTTの既設設備を借りるという形を取った。
 携帯電話の時代に入るとき、なぜ政府(総務省)はインフラ設備である基地局会社と携帯電話会社を完全分離しようとしなかったのか。いまNTTドコモとau、ソフトバンク、楽天がそれぞれ、この狭い日本で基地局を別々に設置している。ほとんど隣り合って別会社の基地局が設置されているところもある。
 いっぽうテレビ放送。地デジ電波を送信している東京スカイツリーはNHKをはじめ首都圏のキー局が共同利用している。衛星放送の場合も、BS、CSともに各放送局がBS衛星やCS衛星を共同利用している。
 もし放送局ごとにテレビ塔を建てろということにしていたら、いったい放送局はいくつ生き残れただろうか。国民の視聴料で賄っているNHKでも経営難に陥っていただろうことは疑う余地もない。
 菅総理がモットーとして挙げた標語「自助・共助・公助」を全否定するつもりはないが、何でも自己責任で市場を開拓しろと言ったら、経済はかえって疲弊する場合もある。基本的にインフラ整備は政府が国家責任で整備すべきだと私は考えている。そのインフラの上で公平に民間企業が競争し合える条件を整えることが政府の役割だ。
 だから、携帯電話料金を下げろと言うなら(下げさせることには大いに賛成だが)、下げることができるような仕組みを考えるのが行政だろう。具体的には5Gや6Gの基地局を各携帯電話会社が別々に作るのではなく、共同出資でもいいし、あるいは別資本の基地局会社が東京スカイツリーや地域のテレビ塔のように、各携帯会社が共同利用できるようなシステムにすれば、日本の携帯電話料金は他国並み、あるいはそれ以上に安くなる。

●小泉「郵政改革」が失敗した理由
「民間がやれることは民間に」が行革のスローガンだが、通信に限らずインフラ整備は、インフラ企業の経営は民間が行うにしても、官が主導して作った方がはるかに効率的な場合もある。単純に公営事業を民営化すれば競争原理が働いて効率化が進むと限ったわけではない。
 たとえば郵政事業にしても、小泉氏が行った郵政民営化の「負のレガシー」がかんぽ生保の不正販売という形になって表れたことは、すでに私は何度もブログで書いた。日本郵便にはユニバーサル・サービスという義務を背負わせながら、郵便料金は赤字にならないように日本郵便が自由に決めることもできないという中途半端なやり方が原因だった。通信手段の主力が手紙やはがきからメールに移っていく中で、郵便事業の赤字を埋めるためにはかんぽ生保で詐欺まがいの商売をせざるを得なくなったのが偽りのない事実だ。郵便料金の値上げを認めたら、政府・与党の支持率が下がることばかり考えて、郵便事業の健全経営をどう維持してやるかに目を背け続けてきた結果である。
 はっきり言う。郵政民営化は失敗だった。郵便物の集配事業は完全に労働集約型産業である。人件費の高騰はもろにコスト増につながる。需要が増えれば増大する人件費をカバーできるが、すでに述べたように需要が激減する中で料金値上げはできず、人件費は膨れ上がる。どうやって郵便事業の赤字体質を埋めるかと考えたら、決していいことではないが高齢者をだましてかんぽ生保で儲けるしかなくなったのだ。

●弱小地方金融機関が増えすぎたのも、かつての国策の結果だ
 地域金融機関の統廃合問題も根は同じだ。もともとは日本国中津々浦々に金融網を張り巡らしたのは政府の国策だった。まず明治政府は徳川幕府が欧米列強と結ばされた不平等条約を対等なものにするため国づくりの基本方針として「富国強兵・殖産興業」を掲げた。そのための資金集めのために渋沢栄一氏らが大英帝国の金集め方法から学んで日本中に金融網を張り巡らしたのが、そもそもの発端。戦後は戦後で、やはり日本経済復興を旗印に国民から広く資金を調達するため、護送船団方式で弱小金融機関を保護しつつ国民から広く復興資金を集めてきた。が、日本の基幹産業界はいまや国民からかねを集める必要がなくなった。金融機関は言うまでもなく融資金利と預金金利の差益で成り立つビジネスだ。ところが、金融機関が融資をしたい優良企業はもはや銀行を相手にしなくなったのだ。これも需要が減少しているのに、政府が手をこまねいてきた結果だ。
 日本企業の内部留保は2009年には204兆円だったが、いまは378兆円まで膨らんでいる。10年で1.85倍にも増えたのだ。今年度の国家予算が102兆6580億円だから、国家予算の3.7倍近い大金を企業は内部留保でため込んでいるのだ。もちろん内部留保をせっせとため込む企業には企業の、それなりの理由があるのだが、この稿では触れない。
 そういう状況だから、金融機関はおいしい融資先がなくなった。かつては預金者へのサービスとしてしぶしぶ始めた住宅ローンは、いまや金融機関にとっては最も重要なビジネスになっているし、暴力団などを使ってアコギな取り立てで社会問題と化したサラ金潰しも、実は金融業界が政府とつるんで行ったのではないかとさえ私は疑っている。少なくとも現在、銀行が旧サラ金を子会社化したり、銀行自身がサラ金ビジネスに力を入れていることからも、そうした疑念が生じても仕方ないだろう。
 こうして、かつては国策で必要だった金融網が、政府にとっては今や重荷になってしまった。いくら安倍政権がキャッシュレス化を進めようとしても、国民がその笛に踊らなかったのは、全国津々浦々に金融網が張り巡らされており、現金決済の方が安全で利便性も高いからだ(そのことは依然、すでにブログで書いた)。かつての国策が、いまではかえって足かせになったという実例である。
 国益は時代と状況によって異なる。国益が変われば、国益を実現するための国策も変わらざるを得ない。また為政者が決める国益が本当に間違いないのか、常に検証作業が必要となる。日本学術会議は、そのために存在している。学者が権力におもねって、為政者の意に沿う意見しか国会で述べなくなったら、国益は国民のための利益ではなく、権力者のための利益と同義になってしまう。

●日本学術会議会員の任命権を総理大臣が行使できるのなら…
「政府が決めたことに従えない官僚は異動する」
 そんなことを総理が今更強調しなくても、これまでも政府がやってきたことだ。「政治主導」をことさら強調し、内閣府に人事局を作って官僚が政府の言いなりになるよう人事権を行使できるようにしてきたではないか。
 実際、文科省の事務次官をしていた前川喜平氏のたわいもない私事を(確かに褒められたことではないが)、あたかもスキャンダルのような扱いで読売新聞にリークして辞任に追い込んだこともある(※辞任理由はいちおう天下り問題の責任を取ったということになってはいるが)。当時官房長官だった菅氏は「前川氏は地位に恋々としていた」と人格攻撃までしたよね。前川氏の反撃が怖かったからか?
 菅総理が、「そういう姑息なやり方での人事は今後はしない。今後はマスコミから批判されようと、政府に逆らう官僚は内閣府の強権である人事権を堂々と行使して排除する」と言うなら、まだわかる。安倍前総理のように陰険極まりないやり方で自身のスキャンダルに蓋をしようとするより、はるかに正直だと私は思う。 
が、本当に人事権を行使して、政府の方針に逆らった官僚を窓際に追いやった場合、政策の裏に隠された政府の本音も明るみに出ることになる。左遷されたり、排除された官僚も黙ってはいないだろうから…。
「やられたら、やり返す。倍返しだ」(半沢直樹) 
菅総理が早速「人事権」を行使したのが、日本学術会議が推薦した新会員105人のうち6名の任命拒否である。当然、マスコミが騒ぎ出した。かつて欠員補充の推薦新会員を任命せずたなざらしにしたことはあったようだが、名指しで任命を拒否したことは初めてだったようだ。学術会議側や任命を拒否された6学者は、政府に拒否理由を問うているが菅総理は「法に基づいて適切に対応した」と言うだけだ。
「法に基づいて」は、任命権が総理にあるという意味か。つまり自分の判断で任命しなかったのは違法ではないと言いたいようだ。
「適切に」にとは、任命されなかった学者たちの考え方が政府の考えと相容れないからか。つまり政府の言いなりになる学者だけが「適切」な学者ということか。
 日本学術会議は「学者の国会」とも言われ、定員は210人。任期は6年で、3年ごとに半数が入れ替わる(再任は妨げない)。その目的は行政組織とは別に学者としての視点から国が直面している様々な問題について政府に提言することだが、行政決定権があるわけではないから単なるアドバイザー的役割と考えていい。任命されなかった6名は普天間基地移設問題や集団的自衛権行使問題などについて学者としての知見で政府の政策を批判した方たちのようだ。
 確かに日本学術会議には任命権はなく、日本学術会議法によれば「会員は、(日本学術会議の)推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命する」(第7条2項)とある。菅総理は、この法律が総理の任命権を認めていると解釈したようだ。
 この法律によれば、文言上は総理に任命権があるように見えるが、総理の任命権についてはかつて中曽根総理が国会で「形式的なものに過ぎない」と答弁している。その解釈を変えたというなら、大変な事態が生じかねない。実は憲法の条文上では、内閣総理大臣の任命権は天皇にあることになっているからだ。
「天皇は、国会の指名に基づいて、内閣総理大臣を任命する」(憲法第6条)
 さあさあさあさあ、どうする。
日本学術会議法7条2項が形式上の手続きを定めたものではなく、実質的に内閣総理大臣が任命権を行使できるという法解釈が成り立つならば、憲法6条による内閣総理大臣の任命権も実質的に天皇が行使できることになる。つまり、国会の指名を天皇は拒否できることになるのだ。天皇に総理大臣任命権があるとなれば、象徴天皇制はどうなる? まさか「天皇親政」制に戻したいと考えているわけではないだろうな。
 さあさあさあさあ、どうする。

【追記】日本学術会議が推薦した新会員のうち6名を菅総理が任命しなかった件について、「学問の自由に対する侵害」という批判がある。が、そうした批判は的外れである。
 別に菅総理は任命しなかった6名の学者に対して「従来の見解を変えろ」とか、大学などでの地位をはく奪したり、あるいは研究内容に対して政治的迫害を加えているわけではない。菅総理が行ったのは任命権の拡大解釈であり、会員について内閣総理大臣が日本学術会議の推薦に基づいて「任命する」という法規定を、「任命権が内閣総理大臣にある」と、勝手に拡大解釈したことが問題なのだ。
 だから私は、そんな拡大解釈ができるなら、憲法6条の規定(天皇は…内閣総理大臣を任命する)も天皇の任命権を認めることになるぞ、と主張しているだけだ。つまり国会が指名しようがしまいが、天皇が気に食わない人物は内閣総理大臣任命を拒否することができることになる。天皇は象徴天皇ではなく、親政天皇になることを意味する。
「…に基づいて任命する」と意味の主体は「…」にあり、任命者にあるわけではない。たとえば「…」の部分が複数であり、その中から任命者が選ぶということであれば、任命者の任命権は複数の候補者の範囲に限定して行使できる。日本学術会議法は、日本学術会議が推薦した人物に対する内閣総理大臣の否認権は認めていない。(5日)


【追記2】5日夕方、ついに菅総理が内閣記者会で説明らしきことを述べた。総理の説明によれば、日本学術会議が推薦した新会員105名のうち6名を任命しなかったことについて、学術会議には年間約10億円の予算を充てており、会員の身分は公務員であるから「総合的、俯瞰(ふかん)的な活動を確保する観点から判断した」らしい。
 そのうえで総理の「任命権」行使については「法に基づいて、内閣法制局にも確認の上で、学術会議の推薦者の中から総理大臣として任命しているものであり、個別の人事に関することについて湖面は控えたい」と述べた。
 実は朝日新聞には【追記】の箇所はメールしておいたのだが、朝日はこの総理発言をいち早くネットで紹介したものの、「推薦者の中から」の「の中」を意図的に削除した。つまり朝日がネット配信した記事は「学術会議の推薦者から総理大臣として任命した」としたのである。なぜ朝日は、この菅総理の発言の中で最も重要な個所をわざわざ削除したのか。新聞の定期購読者の新聞代の消費税を据え置いてくれたことへの恩返しだったのか(駅売店やコンビニで販売している新聞にかかる消費税は10%)。半沢直樹ではないが、借りは倍返し、いや10倍返し、100倍返しすることにしたのか。
「日本学術会議法」第7条2項にはこうある。
「会員は、第17条(※学術会議が会員を選考する基準を定めた条文)の規定による推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命する」
 日本学術会議の定員は210名で任期は6年、3年ごとに半数が入れ替わることになっている。今回日本学術会議が推薦したのは入れ替わる105名ジャストである。つまり総理が「推薦者の中から」選考する余地はまったくないのだ。確かに定員105名に対して日本学術会議が候補者として150名を推薦し、その中から任命者が105名に絞るのであれば、間違いなく総理には会員の任命権があることになる。が、総理には任命権がないから、日本学術会議は定員ジャストの105名を推薦した。「日本学術会議法」17条にはこうある。
「日本学術会議は、規則で定めるところにより、優れた研究又は業績がある科学者のうちから会員の候補者を選考し、内閣総理大臣に推薦するものとする」
 つまり会員の選考に関して総理大臣(実質的には内閣府の官僚)が口ばしを入れる余地はまったくないのだ。どうしても日本学術会議会員の選考権を総理が握りたければ、安倍前総理お得意の「法改正」をする必要があった。
が、菅総理は現行法に反して「推薦者の中から」選考したかのような説明を内閣記者会で行った。で、朝日は総理の発言通りに記事化したら「恩を仇で返すことになる」と判断したのだろう、「の中」という極めて重要な総理の法認識を示す発言個所を削除してしまった。「借り」を倍、10倍、100倍にして返した朝日は見上げたものと言いたいが、ジャーナリズムとしては自殺行為に等しい。朝日が主筆を復活して船橋洋一氏が就任したとき、1面囲み記事で「朝日のジャーナリスト魂は権力にあくまで食らいつくことだ」と述べた。朝日は権力に食らいつくより、恩返しの方を重視するようになったというわけか。
 それはともかく、「法解釈の整合性」は絶対に曲げてはならない、法治国家の大原則である。
 したがって、日本学術会議の会員は「内閣総理大臣が任命する」のだから総理大臣に任命権があるというなら、天皇は国民統合の象徴ではなく、立法府および行政府に君臨する最高権力者ということになる。憲法6条には「天皇が内閣総理大臣を任命する」と明記されているのだから。「法解釈の整合性」を保つためには、そうするしかない。朝日は天皇の位置づけを変えよ。(6日)
※この追記は5日の深夜に書いた。当然6日の朝刊は読んでいない。6日の朝日朝刊はかなり政府に手厳しい記事を書いたが、総理の任命権については理解を示しているようにも読める。
 ただ、私がブログで記載した日本学術会議法の条文記載は、2日の朝日朝刊29面に記載されたことをそのまま使った。まさか朝日が法律の条文を断りなく「作文」するとは、さすがに私にも思いもよらないことだった。
 6日朝刊に記載された法律条文が正しければ、日本学術会議法の第1条2項に「日本学術会議は、内閣総理大臣の所轄とする」とある。この条文の意味するところと、会議の独立性との関係の検証が必要となる。菅総理が任命権を主張した法的根拠は第7条2項ではなく、この条文にある可能性が高いと思われるからだ。
 また2日の記事では17条の記載について、意図的に(としか考えられない)、学術会議が「会員の候補者を選考し、内閣総理大臣に推薦する」としているが、6日の朝刊によれば正確には「選考し」の後に「内閣府令で定めるところにより」という文言が入っている。なお2日の記事中の条文は「要旨」あるいは「要約」ではなく「抜粋」とある。29面記事は社会面であり、総合面でも政治面でもない。なぜこのようなねつ造を行ったのか、朝日は説明すべきだ。(6日)