小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

新年所感  私の「異論」がなぜ説得力を持つのかーー「知識」で主張しようとしないからだ。

2018-01-05 02:02:17 | Weblog
 遅ればせながら、明けまして新年おめでとうございます。読者の皆さんは正月3日間、どうお過ごしでしたでしょうか。私のように「毎日が日曜日」という方もおられるでしょうし、あるいはお勤めの方の中には「例年は5日が仕事始めだが、今年は金曜日に当たるので1日だけ出社してもあまり意味がないから仕事始めは週明けの9日から」と、年末の12月29日から合わせて11連休という優雅な方もいらっしゃるのではないかと思う。
 かくいう私自身は現役中から正月を挟んで約1か月近くは仕事もなく、ひたすら家族サービスと図書館通い、ゴルフ、フィットネスに集中していた。いまは図書館通いをしなくても、図書館で必要と思われる書籍を探さなくても、インターネットという史上最強のリアルタイム百科事典があるので、何かを調べようとするときの効率が著しく向上した。
 それは私の性格でもあるのだが、あまり人が気に留めないようないことに疑問を持つというか、引っかかるのである。あるいは突然、ほとんど人が疑問に思っていないことに、ふと「なぜ?」と幼児のように疑問を抱く習性が身についている。今日のブログは正月らしく、余り肩肘を張らずにすむことから書くが、私の思考法の一端でもあるので参考にしていただければと思う。
 あらかじめお断りしておくが、私はウィキペディアを「お気に入り」には入れていない。私のインターネットのトップページはヤフーにしているが、私にとってはグーグルよりヤフーのほうが使い勝手がいいだけのことである。検索方法は皆さんと同じように一つか二つ、あるいは三つになることもあるが、調べたいことについてキーワードを入力して検索する。たまたま多くの場合、ウィキペディアの解説が検索トップに出てくるので参考にすることが多いが、メディア関係者の多くは「ウィキペディアはだれでも自由に書き込めるので、あまり信用できない」と勝手に決めつけているようだ。はっきり言って、そう思っている人は自分の能力に自信がないからだろう。たぶん実際に能力がないのだろう。自信があればウィキペディアの解説をうのみにせず、疑問に思ったことを論理的に検証すれば済む。つまり「疑問に思う」能力に欠けているから、ウィキペディアの解説を読むと自分自身が汚染されてしまうという恐怖心を抱いているからとしか考えられない。
しかしウィキペディアにも問題がないわけではない。編集方針が権威主義に凝り固まっているからだ。だから投稿者が新鮮な解釈をした場合、必ず「出典が不明確」とか「独自研究の可能性がある」といった否定的な注釈がつく。ヤフーやグーグルで「集団的自衛権 誤解釈」とか「国連憲章51条 誤解釈」などのキーワードで検索をかけると検索トップに私のブログ記事が出るが、もし私がこの記事をウィキペディアに掲載しようとすれば、記事の根拠である出典として何十回も「国連憲章51条」を出すしかない。誰かの著作物を「出典」として明記したところで、その著作物も自分の主観で書いたもので、出典を明記したからといって記事の信頼性が増すわけではない。私はそうしたウィキペディアの欠陥を踏まえたうえで、ウィキペディアが提供してくれる「知識」に頼らず、自分の論理を構築するための手掛かりとして利用させていただいている。
 そうしたことを前提に、私が最近ゴルフをしながら感じた幼児的な「素朴な疑問」をどう解決したかのプロセスを書く。この冬は今のところ暖冬で「小春日和」の日が冬になっても多い。とくにゴルフをしていると、10時ころから14時ころまではゴルフ用の薄手のブルゾンを着ていると汗をかくほどの暖かさの日が多かった。が、私のメンバーコースは丘陵地帯にあるので、日が落ちるのが早く、15時ころになると太陽が隠れてしまうためヘアウェイでも急速に体感温度が低くなる。「秋の日はつるべ落とし」といわれるが、その意味は秋は日没後の薄明かりの時間帯が短いことであるが、丘陵地帯のゴルフコースでは周囲を山で囲まれているため日没が平地よりかなり早い。当然空はまだ薄明るく、しかしコースはヘアウェイでも日陰に入ってしまうため体感温度が急速に低下するというわけだが、私が幼児的発想で疑問を感じたのは「太陽は東からのぼり、西に沈む」という「常識」の根拠についてだった。そこでとりあえず、私が疑問を解くキーワードとして選んだのが「地球の自転」である。検索をかけると、やはりウィキペディアの解説がトップに出た。その冒頭部分を転記する。

地球の自転(ちきゅうのじてん、Earth's rotation)とは、地球が自身の地軸の周りを回転すること(自転)である。回転方向は東向きであり、地軸の北方向を正とすると右手回りである。北極星からは反時計回りに見える。

 この解説で、私は「地軸」とは何かということを調べる必要性を感じた。調べたら「北極点と南極点を結ぶ運動しない直線を指す」とある。実際ウィキペディアの解説記事には地球が右回りの回転をしている動画も載っている。そこで私はこどもが中学生時代に使っていた世界地図・日本地図の教科書を引っ張り出した。日本列島が北海道から九州まで、体の柔らかいゴルファーのフィニッシュ状態のような弓なりの形状をしていることを改めて確認した。ここで急きょ「日本の標準時」を検索することにした。日本の標準時地点が兵庫県明石市にあることは知っていたが、日本に時差がないのはどうしてかという疑問が生じたためである。そこで今度は「日本の標準時」で検索した。やはりウィキペディアの解説が検索結果のトップに出ており、「標準子午線は東経135度の経線」とある。だとしたらその経線上には多くの都市があるはずだ、と私は考えた。実際ウィキペディアによれば東経135度上にある都市は京丹波市・福知山市(京都府)、豊中市・丹波市・西脇市・加東市・小野市・三木市・神戸市(西区)・明石市・淡路市(兵庫県)、和歌山市(和歌山県)と12もあり、明石市はその一つに過ぎないことがわかった。私や皆さんが勝手に決めつけていた「常識」が、いかに非論理的な思い込みでしかなかったことにお気付きだろうか。
 そこで私の頭脳は飛躍を始める。経線を基準にする限り、日本列島の東端は北海道・根室岬になる(北方領土は除く)。「太陽は東から昇って西に沈む」のなら、根室岬の夜明けが一番早いはずだ――果たしてそうなのか。そこで「日本の夜明け」で検索してみた。ところが検索結果は坂本龍馬の名言とされている「日本の夜明けは近いぜよ」に関することばかり。そこでこのキーワードに「日本で一番早い場所」を加えて再度検索をかけてみた。国立天文台が「初日の出」という条件付きでこう解説していた。
初日の出がいちばん早い場所は、どういう条件で考えているかによって大きく違います。ですから、まず、考えている条件をはっきりさせる必要があります。
まず、日本の国土全体で初日の出がいちばん早い場所は南鳥島(みなみとりしま)で、初日の出の時刻は午前5時27分です。南鳥島は、東経約154度、北緯約24度という、本土のはるか南東の海上にある島です。
しかし、南鳥島に定住している人はいません。人が定住している場所でいちばん早く初日の出を見られる場所は、小笠原の母島だと思われます。日の出時刻は午前6時20分です。ただ、周辺のどの島に人が定住しているかによって、若干答えが違ってくるかもしれません。
それでは、島を除くとどうなるでしょう。北海道・本州・四国・九州でいちばん早く初日の出を見られるのは富士山の山頂で、日の出時刻は午前6時42分です。標高が高い場所では平地(標高0mの場所)より日の出が早くなりますので、もっと東にある標高の低い場所よりも、初日の出を先に見ることができるのです。
山も除いて考えるとどうなるでしょう。北海道・本州・四国・九州の平地でいちばん早く初日の出を見ることができるのは、千葉県の犬吠埼(いぬぼうさき)で、日の出時刻は午前6時46分です。
北海道の納沙布(のさっぷ)岬のほうが犬吠埼よりももっと東にありますので、初日の出も早くなるように思えます。しかし、おおよそ南東の方向に行くほど、初日の出の時刻は早くなりますので、より南にある犬吠埼のほうが、北の納沙布岬より日の出時刻は早くなるのです。
しかし、1年中いつでも、南東ほど日の出時刻が早くなるわけではありません。夏至の前後には、日の出はおおよそ北東の方向に行くほど早くなりますし、春分・秋分の頃には、東に行くほど日の出は早くなります。そのために、日の出をいちばん早く見られる場所の順番も、季節によって違ってくるというわけです。
(文中の日の出時刻は2012年の値ですが、年による違いはほとんどありません。)

 常識を疑ってみると、思いもよらぬことが見えてくる。もう一度皆さん、いろいろな常識を疑ってみませんか。「自分はとんでもない思い込みをしていた」ことに気付けば、あなたの思考力は格段に向上する。例えば今年は憲法改正問題が大きくクローズアップされるが、憲法問題を考える時、私は次のような数々の疑問を思い浮かべる。ここから先は、正月気分を忘れてもらいたい。
① 憲法上、日本は「戦力の不保持」と「交戦権の否認」が義務付けられている。政府はこれまで自衛隊は憲法が定める「戦力」には当たらないとして「実力」という意味不明な定義をしてきた。つまり「実力組織」である自衛隊が保持する兵器類は戦闘能力を有しない「張子の虎」あるいは「竹光」ということになる。徳川時代末期、日本来航の外国船を威嚇するために釣鐘を逆さにして並べて大砲に見せかけたという笑えない実話があるが、本当にそういう解釈でいいのか。
② ま、そういうエピソードは別として、自衛隊の「実力=国際法上は紛れもなく戦力」は専守防衛のためにしか行使できないということだが、「防衛」という言葉には広義の意味で「自分を守るために、やむを得ず行使する攻撃力」も含まれるが、「専守防衛」ということになると「自分を守るためだけの行為」しか許されず、反撃も許されないことを意味する。だとしたら有事の際、我が自衛隊は「戦わずして逃げる」しか方法はない。そりゃ、保持している兵器が「釣鐘」のようなものだったら、逃げるしかないわな。私が言いたいのは「専守防衛」などという「防衛」は絶対にありえないということだ。安倍政権が攻撃力を有する自衛隊を憲法に明記するというなら、憲法をいじる前に、「専守防衛」の欺瞞性を国民に明らかにしてからの話ではないか。
③ 共産党を含む「護憲派」が主張する「憲法9条が日本の安全を守ってきた」という主張は本当に正しいのか。自明のことだが、憲法は自国の権力は規制できても、他国の権力を規制することはできない。「憲法9条が日本の安全を守ってきた」と言うなら、日本の憲法だけが特別で、他国の権力も規制できることを証明してもらいたい。ちなみに、第1次大戦においても、第2次大戦においても「永世中立」を表明して戦火から免れようとした国はヨーロッパにいくつもあったが、国民皆武装で自衛体制を整えていたスイス以外の「永世中立国」はすべてドイツ軍に蹂躙された。「歴史は繰り返す」と言うが、日本だけは例外だというなら、例外であることを証明すべきだ。証明できずに「ただ信ぜよ」と言うなら、それはもはや宗教の世界と同じだ。
④ 前項とは逆も真なり。「日本が安全だったのは、アメリカの核の傘で守られてきたから」という論理も同様だ。実際、アメリカの「核の傘」が日本の安全保障にとって大きな役割を果たしているのなら、北朝鮮の核・ミサイル開発におびえる必要などないではないか。トランプ大統領が来日したとき、米製兵器(防衛装備品?)を日本に押し売りしたのは「有事の際、アメリカの核の傘が日本を守ると思っているのなら、とんでもない楽天家だ。自分の国は自分たちで守れ。そのための兵器を買いなさい」という要求だ。だから政府筋(石破氏など)も「いざというとき、アメリカが自分たちの血を流してまで日本を守ってくれるという保証はない」と、最近になって言いだしている。アメリカに守ってもらえるという確信がないのなら、なぜ沖縄県民の気持ちを踏みにじってまで沖縄の米軍基地を維持する必要があるのか。しかも、アメリカが日本に押し付けた「基地協定」は、同じ敗戦国だったドイツやイタリアと比べても著しく屈辱的な内容であることが明らかになっている。日本政府にとって沖縄は「植民地」に過ぎないのと同様、アメリカにとって日本は「属国」なのだろう。有事の際、日本はアメリカを頼りに出来るのか出来ないのか、そのことを安倍政権が明確にしない限り、憲法論議にもうかつには乗れない。また、そのことをあいまいにしたままで憲法改正を数の力で押し切ろうという姿勢を、黙って許すほど日本国民はおろかではない。
⑤ 最後に「抑止力」についても考えてほしい。④で述べたことと関連するが、日本にとってアメリカの核や日米同盟が本当に抑止力になっているのだろうか。もしそうなら、日本は「専守防衛のための実力組織」である自衛隊を整備する必要性は、限りなく少なくて済むはずだ。ところが、実際には自衛隊の「実力」は韓国や中国も警戒心を持つほどに強力になりつつある。日米安全保障条約に基づいて、日本有事の際にはアメリカが約束している日本防衛の義務を果たしてくれることが確実なら、自衛隊の「実力」は10年以上前の状態でも十分なはずだ。なぜ政府は自衛隊の「実力」を「専守防衛」能力をはるかに超えるまで整備するのか。「いざというとき、本当にアメリカが日本防衛のために自国兵の血を流してくれるか確信が持てない」と言うなら、沖縄県民に犠牲をなぜ強いるのか。沖縄県民に犠牲を強いる時だけ「日本の安全保障のため」「沖縄の米軍基地は日本にとって最大の抑止力」などという言い訳をするな。言うこととやることが、真逆ではないか。

 このほかにも皆さんに考えてもらいたいことはいっぱいある。たとえば集団的自衛権。国連憲章51条には集団的自衛権行使の許容条件として二つが明記されている。一つは、当たり前といえば当たり前だが、「個別的」も「集団的」も、自国が他国から攻撃を受けた時に行使できる権利(だから「自衛権」)で、「密接な関係にある他国」の防衛などはまったく許容していない。もう一つは自衛権の行使も、国連安保理が紛争を解決するまでの間という期限付きだ。
 この国連憲章51条の規定を全く無視したのが安倍政権による安保法制である。安保法制が憲法に違反しているか否かをうんぬんする前に、安保法制が国連憲章51条違反であることを明確にすべきなのだが、今回はここまでで止めておく。
 ただ、最後に一言。メディア関係者や政治家とくに野党の国会議員諸君は閣僚の失言の揚げ足取りや不祥事ばかり追求するのではなく(してもいいが、ほどほどにという意味)、もっと本質的な問題を追及してほしい。
 たとえば昨年末に日銀・黒田総裁が突然「物価上昇率が2%に達しなくても」と、利上げの可能性を示唆する発言をした。これほど野党議員をなめてバカにした発言を、私はこれまで見たことも聞いたこともない。黒田氏が金融政策の転換を示唆したのは、マイナス金利政策によって日本の金融機関が窮地に陥っていることにやっと気づいたからに他ならないが、目的を達成していないのに金融政策を転換するということは、一連の金融緩和策が失敗だったことを認めたことを意味する。本来なら、こうした金融政策の転換は、まず日銀総裁が責任を取って辞任した後、次期総裁が行うことだ。金融政策を180度転換しても総裁を続投できると黒田氏が読んだのは、野党がなめられている証拠だ。
もともと黒田氏が金融緩和策を金融政策の中心軸に据えたのは、第2次安倍政権が誕生したときの経済政策である「脱デフレ不況」のための2本柱であった(金融緩和による円安誘導と大胆な財政出動による需要喚起)の一つを忠実に実行してきたことによる。金融緩和によって金融機関は窮地に陥ったが、市場にあふれ出た金が富裕層を介して株や不動産に向かい、日経平均はバブル崩壊後の最高値を更新、都心部の商業地や大都市近郊の住宅地の地価上昇を招き、バブル期を超える高値で取引される不動産も出てきた。政府はそれを持ってアベノミクスの効果が出ていると称するが(有効求人倍率がバブル期を超えていることもアベノミクスの成果と自己都合解釈を重ねているが)、肝心の消費者の消費マインドは一向に回復の兆しが見えない。安倍総理は今年の春闘で経済界に3%以上の賃上げを要請し、経団連も会員企業に対して安倍総理の要請にこたえるよう異例の通達を出したが、たとえ3%以上の賃上げが実現したとしても消費は回復しない。なぜか。このブログでは答えは書かない。理由を読者の皆さんが考えてほしい。今年78歳になる老人にバカにされたくないだろう。
 一つだけ、この問題を論理的に説くためのヒントを差し上げておく。
 安倍さんが主張しているように、有効求人倍率はバブル期を超えた。人手不足が続き、パートやアルバイトの時給も上昇している。ファミレスなどは、従業員対策のために稼ぎ時の元日を休店にしたところもある。そうなったのは、別にアベノミクスの効果ではない。大胆な財政出動による公共工事の推進によって求人は増えた。そんなことは、別に安倍さんでなくても当たり前の現象で、その当たり前の現象を超える現象が生じている。それがアベノミクスとは関係ない、と私は言っているのだ。これが重要なヒントなのだが、ここまで述べたことで有効求人倍率がなぜバブル期を超えたか、の本当の理由がお分かりになっただろうか。ま、無理だろうね。
 バブル期の現役世代人口と、現在の現役世代人口を比較してみてごらん。少子化の波はとっくに押し寄せており、現役世代人口が激減しているのだ。有効求人倍率が上昇するのは当たり前だろう。有効求人倍率がアップしたのはアベノミクスのせいではないのだ。
 このように、答えは極めて単純で、難しく考える必要などまったくない。集団的自衛権問題についても、私は専門知識に一切頼らず、ひたすら物事を単純化して結論を出しただけだ。そうして出した結論に、専門家の憲法学者たちが脱帽してくれている。「知識に頼らない」ことがいかに重要か。だが、そのためには「知識に頼ろうとしない習性」を日ごろから身につけることが政治家やジャーナリストには大切な心構えになる。これが、実は結構難しい。学生時代に、知識に頼ることを日本人は習慣づけられているからだ。
 知識に頼らない人づくり。これが教育改革の基本柱にしなければならない。そのためには教育者の改造から始める必要がある。「知識は忘れるためにある」--誰かがそんなことを言ったかどうかは知らないが、どうせ忘れられるようなことは覚えさせる必要はない。たとえば、関ヶ原の戦いが西暦何年だったか、などという知識は入学試験には必要かもしれないが、試験が終われば必要がなくなる知識だ。それより、関ヶ原の戦いがどういう意味を持っていたのか、なぜ不利だったはずの東軍が大逆転の勝利を収めることができたのかを自分の頭で考える訓練を重ねたほうが、その後の人生ではるかに役に立つ。ただし、そう書くと大半の読者の頭にすぐ浮かぶのは、司馬遼太郎氏の解釈だろう。司馬氏の解釈を記憶していること自体が、実は論理的思考力を働かせるうえで邪魔になるのだ。そのことを、骨の髄から身に沁み込ませてほしい。読者の皆さん、いまからでも遅くない。今日から見ること聞くこと、あらゆることに疑問を持つ習慣を身につけてほしい。これまでは、読者の大半は競馬馬と同じだった。自分で視野を狭くしていた。
 今日から、自分の視野を狭くしている知識は捨てよう。といっても無理な話だよね。私も分かっていて言っている。パソコンのメモリは新しいのと取り換えれば消えるが、人間の頭脳に蓄積された知識は自分の意志では消せない。認知症になればいやでも頭の中のメモリは劣化していくが、意図的に認知症になることも不可能だし、認知症は記憶力だけでなく思考力も失われるようだから、やはり認知症にはなりたくないよね。だとすれば、努力で「知識に頼らない思考力」を身につけるしかないということになる。今年は、そのための第一歩を踏み出す年にしてみないか。

 私は立憲民主党本部や無所属の会の有力議員にも私のブログを発信しているのだが、肝心の議員たちからはなしのつぶてだ。バカな事務局員や秘書がブロックしてしまっているためだ。心あるメディアの記者が、それなりの議員に「こういうブログを書いている人がいる」と伝えてくれれば、私は選挙にはかかわらないが、ボランティアとして政策面のアドバイスは惜しまないつもりだが…。