小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

終戦から75年。私たちはあの戦争から何を学んだのか?

2020-08-14 01:06:20 | Weblog
 今日8月14日は日本の「終戦の日」だ。前回「原爆の日」に原爆にかかわるブログを書いたので、今回は「終戦」にまつわるブログを書くことにした。
 あれっ、終戦日は15日ではなかったの? と思われる方が大半だと思う。また一部に10日だと主張される向きもいる。が、間違いなく終戦の日は8月14日なのである。国民が「玉音放送」によって日本の敗戦を知らされたのは翌15日だが、それは例えば事件のニュースを新聞が翌日の朝刊で報道するのと同じで、だからといって事件が生じた日が新聞が報道した日というわけではない。

 本題に入る前に書いておきたいことがある。「黒い雨」裁判の判決を不服として、厚労省・加藤大臣の強い要請で広島県と市が広島高裁に控訴したというのだ。控訴自体は被告の権利だから、ここでは問わないが、控訴理由である。広島地裁の判決が科学的見地から見て疑問があるということだ。
 だとしたら、最新の科学的手法で検証すべきは正確な降雨地域ではない。84人の原告一人ひとりについて、彼らが苦しんできた症状が原爆とは無関係であることを、最新の科学的手法で証明することではないか。そもそも、原告の訴えに「偽りがあるのでは…」という疑問があったのなら、なぜ広島地裁での裁判中に原告一人ひとりについて、原爆症の専門医数名に診察してもらい科学的手法に基づいた診断書を提出すべきだった。それを怠った以上、広島高裁は県と市の控訴を棄却すべきである。

●ヤルタ協定で、すべてが決まっていた
 日本が連合国によるポツダム宣言を受け入れて無条件降伏し、第2次世界大戦が終結したことはよく知られているが、そこに至るまでのプロセスをまず明らかにする必要がある。
1943年5月12日、無敵を誇っていたドイツ軍ロンメル将軍が北アフリカ戦線で敗北、その前年にはドイツ軍がスターリングラードの攻防でソ連軍に大敗しており、対独戦争での勝利を確信した連合国は11月23~27日、エジプト・カイロで米ルーズベルト大統領、英チャーチル首相、中・蒋介石主席が会談、対日戦争の基本方針を協議し、12月1日に「カイロ宣言」を発表した。宣言には、日本は満州・台湾・澎湖島を中国に返還すること、朝鮮は適当な時期に独立することなどが記され、その基本方針はポツダム宣言に引き継がれた。
 44年6月には連合国軍がノルマンディに上陸、ドイツの敗色が濃厚となるなか、45年2月には米・英・ソ(スターリン)がクリミア半島南端に位置するヤルタで戦後の国際体制構築について協議、国際連合の設立、ドイツの分割支配、ソ連の対日参戦条件などを協議し、「ヤルタ協定」を締結した。
このヤルタ会談で、ソ連の対日参戦を強く望んだ米ルーズベルトがソ連スターリンに大幅譲歩し、ドイツ降伏後3か月以内にソ連が日ソ中立条約を破棄して対日参戦することを条件に、南樺太および千島列島のソ連帰属を認めたという事実がある(ヤルタ協定第3項に明記されている)。北方領土問題に関するこの事実を日本国民のほとんどは知らない。中高の歴史教科でも教えていないし、日本政府もひた隠しに隠してきたからだ。が、ヤルタ協定は米・英・ソの3国が大戦終結後のドイツと日本に対する報復処分を勝手に決めたものにすぎず、国際法上、有効な協定とみなせるか否かは別問題である。

●ロシアが北方領土を「戦争による戦果」と主張する根拠
ロシア(旧ソ連時代から含めて)が「北方領土は第2次世界大戦の勝利」と主張する根拠は、実はこのヤルタ協定でアメリカが千島列島のソ連への帰属を認めたことにある。ただし、旧ソ連も今のロシアも、ヤルタ協定を根拠に主張することはさすがにはばかられ、戦争が終わった日は「日本が降伏文書に調印した9月2日であり、それまでにソ連が獲得した領土は戦争による戦果だ」と、公には主張している。確かに公式には降伏文書に調印した日が戦争終結の日とされてはいるが、その解釈に従えば8月15日の「玉音放送」は国際法上は無効となりかねず、連合国総司令場(GHQ)の設置(8月28日)も国際法違反になり、8月30日の連合国総司令官マッカーサーの平和的かつ歓迎を受けての厚木飛行場への来日もありえないことになる。なお朝日新聞東京本社版は8月31付朝刊でマッカーサーの来日第一声をこう伝えている。
「メルボルンから東京までは長い道のりだった。長い長いそして困難な道だった。しかしこれで万事終わったようだ。各地域における日本軍の降伏は予定通り進捗し、(中略)日本軍は非常に誠意を以てことに当たっているようで、報復や不必要な流血の惨を見ることなく(連合国による占領が)無事完了することを期待する」
ソ連による北方領土占領の国際法上の解釈はともかく、このヤルタ協定で米ルーズベルトは国連における大国の拒否権を強く要求、スターリンやチャーチルも同意、結果的に「ヤルタ協定」によって戦後の米ソ2大国による世界支配体制が構築されたとみることができる。
 そしてドイツ降伏(45年5月7日)後、日本政府はようやく講和への道を模索、まだ日ソ中立条約が有効だった7月10日、御前会議でソ連に講和の仲介を依頼することを決定、近衛文麿を全権大使としてソ連に派遣して仲介を申し入れたが、すでにヤルタ会談で対日参戦を決めていたソ連は当然のように拒否、日本は後戻りのきかない自滅への道を突き進むことになる。

●昭和天皇が、近衛の上奏を受け入れていれば…
 実は、「歴史に『たら、れば』は禁句」を承知で歴史的事実として書いておくが、45年2月14日に近衛文麿が昭和天皇に上奏し、敗戦が必至なこと、このまま戦争を続けた場合、ソ連が日本に侵攻して共産主義革命が起きる可能性があるゆえ直ちに和平すべきと上申したが、昭和天皇は「和平するにしても、敵に一泡吹かせてからだ」と、戦争継続の意思を明らかにしている。
昨年夏、NHKのスクープによって明らかになった昭和天皇の田島宮内庁長官に語った回想メモ(拝謁記)には何度も「下剋上」という言葉が出てきて、戦争についてはあたかも自らは「裸の大様」であったかのような回想が記されているが、近衛の上奏を蹴飛ばしたことについてはまったく触れていないようだ(全文は未公開のため、必ずしも断定はできないが)。もし2月の時点で昭和天皇が「天の声」を発して戦争に終止符を打っていたら、沖縄戦も広島・長崎への原爆投下も、さらにソ連は対日参戦の機会を失い、南樺太はともかく北方領土まで失うことはなかった。
戦後、昭和天皇は「戦争責任を問われるのが一番つらい」と周囲に愚痴をこぼされていたようだが、ご自分自身が自らの「戦争責任」についてどうお考えだったのか、NHKが公開した「拝謁記」による限り、あまりご自身は責任を痛感されていなかったようだ。「天皇陛下万歳」と叫んで「死の突撃」をした日本軍兵士たちのことをどう思っておられたのだろうか。
なお、拝謁記を部分公開したNHKは「未公開部分も含めすべて出版物で公開する」と視聴者に約束したが、いまだ公開されていない。NHKのしかるべき地位にある責任者に「政府筋あたりから圧力でもあったのか」と尋ねたが、「私はお答えできる立場にはありません」と言う。やっぱりね、さもありなんということか。
ただ、私は皇室否定論者ではない。戦後、日本がそれなりに国際社会から温かい目で迎えられるようになっていく過程において、皇室外交が果たした役割の大きさは計り知れないものがある、と考えている。とりわけ現上皇・皇后のお二人が平和外交の礎を築いてくださったこと、慰霊の旅をお続けされてきたこと、そのお気持ちには私も含め大多数の国民が感謝していると思う。ただ、お二人の心残りとしては、中国や東南アジアの、日本の侵略戦争による犠牲者への慰霊を必ずしも十分には行えなかったことに対する痛切な思いを、今でもお持ちなのではないかと私は推察している。

●靖国参拝問題についての考察
 ついでに、靖国問題に触れておきたい。靖国神社は国のために戦死した人たちを祀った神社ということになっている。先の大戦で、学徒出陣する学生たちが靖国神社で別れの盃を交わし、「今度会うときは、この桜の木の下で」と誓い合ったという。
我が国総理大臣の靖国神社参拝が国際社会からも問題視されるようになったのは1978年、靖国神社がA級戦犯を「昭和殉難者」(国家の犠牲になった人)という屁理屈を付けて合祀して以降である。
それまでは昭和天皇も参拝されていたようだが、A級戦犯合祀に不快感をお示しになったようで、それ以来、天皇はじめ皇族の方々も靖国神社参拝をおやめになった。が、歴代総理や閣僚は、「日本のために犠牲になられた方たちをお祀りした神社だ。今日の日本の繁栄はこの方たちの犠牲のたまものだ」と主張して参拝してきた。
 こうした総理や閣僚の参拝に対して近隣諸国、とりわけ中国や韓国からの批判が強い。「靖国神社にはA級戦犯が合祀されており、総理や閣僚の参拝は先の侵略戦争を美化する行為だ」という主張だ。一方、国内では政教分離の建前から、公式参拝は違憲だという議論が繰り返され、また違憲とした判例もある。私は、そうした議論の前に、A級戦犯を殉難者として合祀するなら、なぜ沖縄や、東京大空襲をはじめとする大都市への度重なる空襲、さらには広島・長崎の原爆被害者たちを合祀しないのか、と靖国神社に問いたい。「昭和殉難者」と呼ぶなら、A級戦犯より、戦争責任がないのに政府の戦争遂行政策の犠牲になった、沖縄で集団自決させられた民間人、空襲や原爆の被害者たちを優先すべきだろうと思う。彼らは「戦死者ではない」というなら、A級戦犯も戦死者ではない。私は、軍人、民間人を問わず、国の政策で犠牲になった人たちを追悼するための国立施設をつくるべきだと思っている。

●8月10日、日本は「国体維持」を条件に降伏しようとしたが…
 終戦に至る経緯を続ける。ドイツが無条件降伏したのち、連合国の首脳、米トルーマン、英チャーチル、ソ・スターリンらは7月17日からベルリン近郊のポツダムに集まり、カイロ宣言およびヤルタ協定に基づく対日降伏勧告書を作成、26日、米英中三国首脳の連名で日本に突き付けた。それが「ポツダム宣言」である。この時点ではソ連はまだ日ソ中立条約を破棄しておらず、宣言にはスターリンの代わりに中国の蒋介石が名を連ねた。
 この時期すでに日本では沖縄守備隊は全滅しており、民間人を含めた多大の犠牲を出し、もはや反撃能力は皆無、藁をもすがる思いで戦争終結の仲介を頼んだソ連からも袖にされ、もはや、ほかに選択肢はなかったにもかかわらず、何をトチ狂ったのか日本政府はポツダム宣言受諾を拒否した。
実際には大本営も一枚岩ではなく、「降伏派」もいたようだが、強硬派から「意気地なし」「卑怯者」とののしられ、「降伏派」は沈黙を余儀なくされた。こうして最後のチャンスも日本は自ら放棄、破滅への道をひたすら進むことになる。
 そして、そのときがやってくる。前回のブログで書いたように、ソ連による日本侵攻と日本の共産化を恐れたアメリカが、最後の手段として8月6日、広島に原爆を投下。慌てたソ連が急遽、8日に日ソ中立条約破棄と対日宣戦を布告。アメリカはさらに9日に長崎にも原爆を投下し、日本は窮地を通り越してにっちもさっちもいかない状況に追いつめられた。
 ここまで追い詰められて、ようやく大本営の強硬派も降伏やむなしと決断、御前会議を開いて「国体維持」を条件にポツダム宣言受け入れを連合国に申し入れた(10日午前2時半)。「8月10日終戦日」説を主張する向きは、このことを根拠にしているようだが、連合国はこの申し入れを拒否、戦争は終結していない。「8月10日終戦」説を主張する人たちは、そう主張することで、どう歴史認識を修正したいのかが、私にはさっぱりわからない。

●私が「8月14日終戦」説を主張する、これだけの理由
 それはともかく、この「国体維持」を条件としたポツダム宣言受け入れの申し入れについて、これは私の推測というより憶測に近いが、背後に米ソの思惑の対立があったのではないかという感じがする。
アメリカは1日も早く戦争を終結させたかったはずで、たぶん日本の「国体維持」という条件付きポツダム宣言受諾の申し入れに前向きだったのではないか。現に、日本が最終的に無条件降伏した後、連合国の中には昭和天皇の戦争責任を問うべきとの声がかなり大きかった中で、アメリカは天皇制維持を強力に主張(その方が占領下での日本国民統治がやりやすくなるとの計算があったことは間違いないと思う)、戦後の東京裁判でも昭和天皇の戦争責任は問わなかったことからも、アメリカとしては日本側の「国体維持」条件を呑んでもいいと考えたのではないかと私は思っている。
が、ソ連としては、この時点で日本側の条件を受け入れてしまうと、そこで戦争は終結し、対日宣戦を布告したものの、何の戦果もあげられず手を引かざるを得なくなる。そのため「無条件降伏でなければだめだ」との強硬姿勢を崩さなかったのではないか。いずれ、このときの米ソのやり取りが明らかになるだろうが、たぶん、私の推測(憶測?)が当たっていると思う。
 いずれにせよ、万事休した日本政府は14日に御前会議を開いて、ようやく「無条件降伏」を要求したポツダム宣言受諾を決定、直ちに在スイス加瀬公使、在スウェーデン岡本公使を通じて米・英・ソ・中にポツダム宣言受諾を通告した。日本国民には翌15日正午に「玉音放送」で戦争終結が知らされたが、それは新聞が前日の出来事を記事にするのと同様、15日に戦争が終結したわけではない。私が「終戦の日」は8月14日とする理由は、この点にある。
ただし、ロシアは米戦艦ミズーリで日本が降伏文書に調印した9月2日を「戦勝記念日」としている。そうしないと、北方領土を「戦争の戦果」と主張できないからだろう。
 ただ、国際社会では9月2日を戦勝記念日としている国の方が多い。アメリカ、イギリス、フランス、カナダなどだ。中国は9月3日を戦勝記念日に決定した(2014年の全人代で)。「戦勝記念日」はそれぞれの国が自国の都合で勝手に決めればいいことだが、あまり合理的ではないように感じる。時差の関係があるので、ネットでいろいろ調べたが、ミズーリ号での降伏文書調印が9月2日の何時ころなのかがどうしてもわからない。が、写真で見ると空が明るいことから日中であることは間違いない。となると、少なくとも中国は2日、イギリス・フランスは不明だが、アメリカやカナダはまだ9月1日である。なおポツダム宣言で独立を回復した韓国は、8月15日を「光復節」として祝賀している。いずれにせよ、戦勝記念日は各国がそれぞれ自国の都合で勝手に決めているだけで、日本が戦争終結の日をそれに合わせる必要はない。

●ソ連の北方領土占領は国際法違反なのか
 今年7月1日、ロシアは大統領任期の延長や領土の割譲を禁止する項目を盛り込んだ憲法改正案の賛否を問う全国投票(「全国投票」の意味不明。なぜ国民投票ではないのか、外務省欧州局ロシア課に聞いたが、実質的には日本でいう「国民投票」と同じらしい)を実施、8割近い賛成で成立し、4日に発効した。これにより北方領土の返還交渉はかなり難しくなったと言われている。
が、ソ連が対日参戦したのは、連合国の1員としてであり、したがって8月14日以降に日本から略奪した旧日本領土(北方領土)は国際法上、日本の領土であるというのが私の歴史認識だ。実際、8月14日、日本政府はソ連を「連合国」として扱い、ポツダム宣言受諾をソ連にも通告している。
日本政府は、日ソ中立条約を一方的に破棄したのは国際法違反だから北方領土占領は無効だと主張しているが、日本の同盟国だったドイツも独ソ不可侵条約を一方的に破棄してソ連領に攻め込んでおり、「日ソ中立条約に違反して北方領土を占領したのは国際法違反」という主張はあまり説得力がないと思う。実際、同盟国のドイツがソ連との不可侵条約を一方的に破棄してソ連に侵攻したとき、日本も実は機が熟すれば日ソ中立条約を破棄してソ連に侵攻する作戦を立てていた。
そういう意味では、国際間の条約(約束)はいわば気休めみたいなもので、本当に条約に縛られるなどと考える国は少なかった時代だったとも言える。現に、日ソ中立条約があっても、満州とシベリアの国境地帯は常に緊張状態にあり、日本も関東軍の精鋭をソ連との国境地帯に貼り付けていたし、ソ連も精鋭部隊をシベリアに配備していた。「機が熟すれば」と書いたのは、実際、ドイツとの間に密約があったかどうかは不明だが、ドイツ軍がスターリングラードの攻防で勝利していたら、日本軍は一気にソ連に侵攻して西と東からソ連軍を挟み撃ちしていたのは間違いない。
そのことはさておき、日本は8月14日、御前会議でポツダム宣言受諾を決定し、即日、在スイスの加瀬公使、在スウェーデンの岡本公使を通じて米・英・ソ・中に通告している。が、ソ連軍は日本侵攻を停止せず、8月18日。カムチャッカ半島方面から千島列島に侵入し、9月3日までに北方四島を含む千島列島すべてを占領した。ソ連軍が歯舞群島を占領したのは9月3日である。
なお、日本政府が米戦艦ミズーリで降伏文書に調印したのは9月2日で、ロシア(旧ソ連時代から)は戦争終結は9月2日であり、それまでに占領した領土は「第2次世界大戦における戦果だ」と主張している。国際的解釈としては降伏にせよ和平にせよ、両者が文書に調印した日ということになっているが、事実上戦闘行為は終結しており、日本としてはロシアの主張を「はい、そうですか」と認めるわけにはいかない。いずれにせよ、北方領土問題の解決は、今後かなり困難にならざるを得ないだろう。
またソ連の千島列島占領について、米トルーマンは、ヤルタ協定でルーズベルトがソ連に千島列島帰属を承認している経緯から事実上黙認しており、そういういきさつもあるためアメリカは今でも北方領土問題については「我、関与せず」である。日本政府は北方領土や竹島は日本領土だと主張するなら、米大統領に「北方領土や竹島も、尖閣諸島と同様、安保条約第5条の適用範囲だと宣言してくれ」と、頼んでみたらどうか。
いっそのこと、アメリカが正式に「北方領土はロシアに帰属する」と表明してくれた方が、日米間の真実の関係が明らかになって、日本は今後、アメリカの顔色をうかがうことなく対米、対ロ、対中、対韓、対北、対イランなどとの外交戦略を自立して構築することができるようになる。
日本はいま、国際社会からはアメリカの属国とみなされており、日本は尖閣諸島についてのみ米大統領から安保条約5条の範疇だという言質を取り付けて大喜びしているが、竹島や北方領土についても、「日本の領土と認めるのかどうか」と強く迫るべきではないか。それができないくらいなら、アメリカに自国と自国民の運命を託するような愚はやめた方がいい。
おかしなことに、日本の安全保障上、日米安保条約の役割を最重要視して、アメリカの言いなりになってきた自民党の政治家が、実はいざというときアメリカが自国の兵士を犠牲にしてまで日本を守ってくれるかという、アメリカに対する不信感をいま募らせている。だから自衛隊の役割を「専守防衛」に限定せず、敵基地攻撃も可能にすべきだという議論を盛んに行いだしたのだ。

●「専守防衛」という名の空理空論は世界の非常識
 これまで政府は、自衛隊が憲法第9条に違反していないという根拠として「憲法9条2項が保持を禁止している戦力とは侵略戦争を行うための戦力を意味しており、自衛つまり専守防衛のための実力の保持と行使は否定していない」(昭和29年見解)という立場を堅持してきた。
 また最近は積極的な合憲論として、憲法13条の条文「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り立法府その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」を援用して、「国民の生命を脅かす外国からの攻撃が発生した場合、国は最優先で国民の生命を守る必要がある。そのための自衛手段としての自衛隊は合憲である」という主張が加えられるようになった。いずれにせよ、自衛隊の「実力」(おかしな表現だが)行使は「専守防衛」の自衛範囲にとどまるという立場を崩してはいない(現時点では)。
 また、その立場は日米安保条約で定められている日米の役割分担、つまり自衛隊は「盾」(敵の攻撃を防ぐ)の役割に専念し、「矛」(敵を攻撃する)の役割は米軍が担うというのが、これまでの日米軍事協力の在り方として定着してきた考え方だった。
が、陸上配備型迎撃ミサイルシステムのイージス・アショアの配備計画を断念することになった結果、イージス・アショアに代わる防衛力の構築を検討していく中で、「果たして専守防衛という枠組みでの『実力』だけで防衛力として十分機能しうるのか」という「本音」が顔を出し始めたのだ。
 これは、よく考えてみれば当たり前の話なのだ。自衛隊が専守防衛としての「盾」の役割しか果たせないということは、例えばボクシングのスパーリング練習で、顔面や頭部を守るためにヘッドギアを付け、両手には相手のパンチを受け止めるパンチンググローブをはめて、相手のパンチによるダメージを受けないようにすることしかできないのが「専守防衛」の意味だろう。
 実際の戦闘場面でいえば、敵の攻撃機や艦船が撃ってきても撃ち返してはいけない(正当防衛の範囲なら可)、撃ってきた弾やミサイルを撃ち落とすことしか許されないというのが、日本用語の「専守防衛」だ。言うなら警察官が犯罪者に対して拳銃を使用する場合は、威嚇のためか正当防衛のためしか認められていないのと同様の範囲でしか「実力」を行使できないというのが、自衛隊の専守防衛範囲ということになる。
 自衛隊の役割としての「専守防衛力の行使」は実際の戦闘行為の中で、具体的にどこまで許容されるのかという議論は、おそらく一度も国会で行われてこなかったのではないか。もし行われていたとしたら、「専守防衛力の行使」だけでは防衛することすら不可能だということに、いくらアホな国会議員たちも気づいていたはずだ。
実際、人類の歴史上で、専守防衛の「実力行使」などありえたか、考えなくても分かる話だ。与党も野党も空想の世界で、なんとなく「専守防衛の範囲なら憲法9条に抵触しないだろう」と不問に付し、自衛隊が日本の国土と国民を防衛するために、どこまで実力行使ができるかの真摯な議論を避けてきたとしか考えられない。
 世界中どこを探しても、「専守防衛」のためだけの軍隊など、笑い話にもならない。永世中立国のスイスですら、もし攻撃されたらただでは済まないぞ、というだけの国民皆武装体制で国を守っている。それが本来の専守防衛体制で、実際に敵から攻撃を受けたら、倍にしてやり返すくらいでなければ防衛力にはならないことくらい、赤ん坊でもわかる理屈だ。
 これは日本語のあいまいさに起因しているのかもしれないが、専守防衛という言葉をいったん「専守」と「防衛」に切り離して考えてみればよく分かる。どちらに重点を置くかと言えば、「防衛」に決まっている。ただし、現行憲法制定の国会答弁で、当時の吉田茂総理は共産党の野坂参三議員の「戦争には侵略戦争と自衛のための戦争があり、自衛のための戦争まで否定するのはいかがなものか」という質問に対して、「近年の戦争は国家防衛権の名において行われたることは顕著な事実」として自衛権も否定している。そうした経緯があって自衛隊創設に際し、その「実力」行使の範囲を「専守」と限定したのではないだろうか。
そのことは、核保有国の「核抑止力」についての苦しい言い訳を見れば、核兵器の保有が「専守防衛」にとどまるかどうかがよくわかる。
実際、アメリカなどの核保有国やアメリカの「核の傘」で守られることになっている日本や韓国、ドイツ、カナダなどは、核兵器禁止条約に反対する理由として「核抑止力」を主張している。つまり、アメリカをはじめとする核保有国は「もし自国や同盟国が核攻撃を受けた場合、核報復する力があることを誇示することによる抑止力」という、核使用条件を「専守防衛」に限定しているかに装っている。しかし「反撃力を行使できない防衛力」などありえないことは明らかで、どの国からも「核の傘」で守ってもらっていない北朝鮮が、アメリカの核の威嚇の前に核・ミサイル開発に血道をあげる理由がそこにある。
「専守防衛」という言葉の欺瞞性はともかく、自衛隊の役割変化に大きな影響を与えたのは湾岸戦争であった。

●湾岸戦争が自衛隊の役割を変えた
 湾岸戦争は、1990年8月2日、フセイン・イラク軍が隣国クウェートに突如侵攻し、その日のうちに全土を制圧、8日にはクウェート併合を一方的に宣言したことで勃発した。またこのとき、クウェート国内に在留していた外国人をイラクに強制連行、軍事施設などに収容して「人間の盾」にした。その人質の中に、民間人を含む日本人141人も含まれていた。
産油国でありながら、当時の原油安で巨額の債務返済に困窮していたイラクが、地下で国境をまたいでつながっていた油田からクウェートが不正に原油をくみ上げていたと非難、交渉が暗礁に乗り上げていたことから軍事力で一気に片を付けようとしたとみられている。
また、もともとクウェートはイラクと同一部族の支配下にあったのを、ヨーロッパ列強がアラブ諸国を分割支配するために分断したという、クウェート併合を正当化する説もある。
この事態にいち早く動いたのがアメリカ。NATO諸国など友好国に呼び掛け「多国籍軍」を結成した。サウジアラビアやエジプトなどのアラブ諸国も加わり、34か国が多国籍軍に参加したが、日本は憲法の制約もあって多国籍軍には参加せず、物資の輸送や資金協力にとどまった。
このとき、海部内閣は直接戦闘行為にかかわらないまでも、紛争地帯周辺の安全確保のため自衛隊を派遣しようとしたが、野党の反対や自民党内でも「憲法に抵触する可能性がある」といった慎重論が多く、自衛隊の派遣を断念したと言われている。
多国籍軍は91年1月17日に軍事行動を開始、2月28日にはイラク軍を打倒、クウェートを解放した。その直後、クウェート政府は米ワシントン・ポストに全面広告を掲載、クウェート開放に尽力してくれた国に対する感謝の意を表したが、その中に日本は含まれていなかった。また、同盟国アメリカからも「日本は人的貢献がなかった」と非難された。
実は日本はこの戦争に130億ドル余の資金協力をしている。が、その大半はアメリカに吸い上げられ、クウェートの復興資金として渡ったのはたったの6億3000万円だった。クウェートが日本に感謝する気持ちになれなかったのは当然かもしれない。
湾岸戦争後のこうした国際社会の反応が、自衛隊の役割を大きく変えることになる。自民党内部は当然としても、外務省、保守系言論人たちからも「人的貢献がなければ評価されない」という声が高まり、湾岸戦争終結からわずか1年3か月後の92年6月にはPKO協力法が成立、自衛隊の国連平和維持活動(PKO活動)参加への道が開かれた。

●日報隠ぺい問題で露呈した自衛隊のPKO活動の限界
日本はPKO活動に参加することで、自衛隊の国際貢献をPRしたかったのだろうが、国際社会からの評価は芳しいものではなかった。PKO活動に参加する自衛隊の軍事装備は、ゲリラなどの襲撃を受けた場合に一時的に自己防衛するための小武器類(拳銃・小銃、のちに機関銃も)の保持しか認められなかったため、大規模ゲリラ部隊に襲撃されたときは他国のPKO派遣部隊に救助されるというみっともないこともあった。
また派遣目的も後方支援や復興支援が主で、紛争地帯の難民救援活動には消極的で、とくに派遣先は非戦闘地域に限定されているため、他国から見れば自衛隊の国際貢献度がそれほど高くは評価されていないと思う。少なくともPKO活動に参加して、日本の国際社会における地位にふさわしい国際貢献をするというなら、もちろん自分たちの安全確保は最優先だが、多少のリスクは不可避な活動を展開するのでなければ、あまり意味がないと私は思う。あくまでリスク回避を前提にするなら、そもそも南スーダンのような紛争が絶えまない地域のPKO活動に参加すべきではなかった。
スーダンから独立して間もない南スーダンの道路などインフラ整備のために自衛隊がPKO活動に参加することになったのは2011年、民主党・野田政権のときで、翌12年から自衛隊が南スーダンに派遣されたが、直後から南北スーダン国境紛争が生じた。自衛隊が宿営していたのは首都ジェバの近くで当初は比較的治安も安定していたが、反政府武装勢力の攻勢が強まり、16年7月には270人以上の死者を出すかなりの規模の紛争も生じ、自衛隊宿営地に隣接するビルでも銃撃戦が生じた。そうした状況は逐一現地から日報で防衛省にも届いていたが、自衛隊のPKO活動が非戦闘地域に限られているため、その事実を隠すために起こしたのが、いわゆる「日報隠ぺい事件」である。しかも、政府(稲田防衛相および安倍総理)は、この紛争を「戦闘ではなく衝突」と言い張り、野党と激しく対立することになった。
結局、稲田防衛相が引責辞任し事態はそれでとりあえず収拾したが、問題の本質はそういうことではない。自衛隊のPKO活動参加は国連の平和維持活動である。自衛隊員は戦争をするために行くのでもなければ、派遣先で武力侵略を行うことが目的でもない。しかし、派遣先で予期せぬ事態が生じたとき、自分たちの身の安全を守ることが最優先され、派遣された目的である任務が後回しにされるのであれば、日本が有事に直面したときでも、自衛隊員は自国防衛の任務より自らの安全を最優先していいということになりかねない。そんなスタンスでPKO活動に参加しても、国際社会から評価されるわけがない。
やはり国の名誉と威信をかけてPKO活動に参加するのであれば、自分の身の安全より任務を優先するのでなければ、国際社会からの評価も感謝も得られない。
政府も政府で、「戦闘ではなく衝突だった」と逃げれば、「近くで戦闘が生じたら、身の振りかまわず逃げろ」というのが日本のPKO活動参加の基本方針だということを、国際社会に向かって表明したことを意味する。
もちろん、戦闘なり武力衝突なりが生じた場合、そのどちらかに自衛隊が加わって武力行使することは憲法9条に抵触する・しない以前の問題である。だが、難民が自分たちの目の前で武装ゲリラやテロ集団から武力による迫害を受けた場合、身をもって難民たちを守るのでなければ、日本有事の際も私たち国民は自衛隊を頼りにはできないということになる。

●日本の安全保障上の最大のリスクは在日米軍というパラドックス
第2次世界大戦以降、世界から消えたもの(と言っても物質ではない)がある。「帝国主義戦争」だ。戦後75年、様々な地域紛争は絶えることはないが、列強が植民地の争奪・支配をめぐって血を流しあった帝国主義戦争の時代は完全に終わりを告げた。なぜか。
戦争には大きく分けて2種類ある。一つは宗教や民族間の対立から生じる戦争で、宗教や民族間の主導権をめぐっての争いだから損得の計算ずくではない。「兄弟は他人の始まり」というが、血の濃さは兄弟が一番だ。が、なぜか憎み合うことになるケースが多い。「宗教戦争」も「民族紛争」も、距離が遠いと生じない。近いから生じる。人間のサガと言ってしまえばそれまでだが、「近親憎悪」という言葉もあるくらいで、永遠に解決不可能な問題かもしれない。
もう一つは、経済的利益の対立をめぐっての戦争だ。多くの戦争はこの類に分類されると思うが、とくに近代における経済的利害の衝突は領土の拡大(軍事的政治的支配による植民地化)をめぐる争いによって生じる「帝国主義戦争」がその典型だ。
だが、植民地化による他国(もっぱら「後進国」)の軍事的政治的支配には巨額な資金がかかり、ROI(費用対効果)の観点から決して有利ではないことを、第2次世界大戦の結果として大国が学んだためではないか。
実際、日本もかつては朝鮮や台湾を植民地支配した時期があるが、投下資本と収益の損得を計算すれば、おそらく大赤字になっていたと思う。そのうえ、支配される国では必ず独立運動が生じ、その鎮圧にも相当な苦労と費用が伴う。そのため、いまは政治的に支配するのではなく、経済的にWin Winの関係を構築することでROIを高めたほうが得策だという考え方が主流になった。かつてのような領土拡張を目指す「帝国主義戦争」が消えたのはそのためである。
そういう視点から、日本が他国から攻撃される可能性を考えてみよう。少なくとも日本を植民地化して政治的・軍事的に支配しようという国はありえない。日本は国内では巨額の財政赤字を背負っているが、海外の途上国から見れば巨額な資本と優れた技術力を有する、「できれば手を組みたい国」である。とくに、産業近代化に後れを取っているロシアや北朝鮮は日本と仲良くしたいはずだ。
中国は極めて戦略的に発展を遂げてきた国であり、先端技術でも分野によってはすでに日本を凌駕しているくらいだが、ロシアや北朝鮮にとっては、日本の資金力と技術力はよだれが出るほど魅力的だ。
だが、日本と友好関係を構築して、日本とWin Winの関係を結ぶには高いハードルがある。北朝鮮やロシアにとっては敵対的な関係にあるアメリカの存在だ。とくに在日米軍基地は、彼らにとって極めて大きな脅威である。
安倍総理は「北朝鮮の核・ミサイルは日本にとって最大の脅威だ」と主張するが、北朝鮮は核・ミサイルを日本を標的にして開発してきたわけではない。前回のブログで書いたように、アメリカの核・ミサイルの脅威に対抗するためだ。実際問題としては、金正恩が逆立ちしても北朝鮮の核・ミサイルはアメリカに対抗出来っこないが…。
が、万一何らかの偶発的衝突が米・北の間で生じた場合、北朝鮮が「江戸の敵を長崎で討つ」手に出たら、そのとき北朝鮮にとって標的は韓国と日本になる可能性が高い。現在の日本にとっての最大の安全保障上のリスクは、そこにある。もっとわかりやすく言えば、在日米軍基地の存在が、日本にとって最大の安全保障上のリスク要因なのだ。日本を外国の攻撃から防衛するためにあるはずの米軍基地が、実は日本の安全保障にとって今や最大のリスク要因になっている。なんというパラドックスだろうか。

●現行憲法下で、自衛隊に敵基地攻撃ができるか
「専守防衛」論は空理空論だ、と先に書いた。敵にとっては、こんな楽な相手との戦争はないということになる。絶対に反撃されないのだから。
イエス・キリストは弟子に「汝の敵を愛せよ」(ルカ伝)と説いた。「右の頬を殴られたら左の頬を差し出せ」(マタイ伝)とも。「専守防衛」はそれほどお人好しであれという意味ではないが、自衛隊があくまで「盾」の役割しか果たせないとしたら、「矛」の役割を果たす米軍と一体にならなければ敵の攻撃に対抗できない。仮に自衛隊が憲法の制約を受けなかったとしても、自衛隊の構成が「防衛部隊」と「攻撃部隊」に分かれ、指揮系統も別々などという状態がありうるか、と考えたら、赤ん坊でも「そんな非常識な軍隊は世界中にないよ」と一蹴するだろう。
 だから現実問題として考えたら、日本が戦争を仕掛けることはありえないにしても、実際に戦争になったら自衛隊は防衛だけでなく攻撃力も行使しなかったら戦争にならないし、敵の攻撃を防ぐこともできない。そういう状態になったら、指揮官は憲法がどうのこうのと議論している暇なんかない。それでも憲法の制約によって自衛隊が軍事装備の範囲として攻撃力を持ちえないとしたら、攻撃の役割を担う米軍と一体化するしかない。もっとはっきり言えば、米軍を傭兵として扱い、自衛隊の指揮系統に入ってもらうか、あるいはその逆しかない。米軍が自衛隊の指揮系統に入ってくれるなどということは絶対にありえない。ありうるくらいなら、とっくに「地位協定」の破棄に応じている。だとしたら、日本は独立国としての尊厳を捨てて、自衛隊を米軍の指揮系統に入れるしかない。林家三平のように頭を掻きながら「すいません。自衛隊は、あの~、相手を攻撃しちゃいけないことになってるんで、専守防衛に徹するということで…。あの~、すいません」と、頭を下げるしかない。
 かといって、いま自民党議員の一部で議論されている、自衛隊に敵基地攻撃力を認めることは、いくら憲法を拡大解釈しても無理だ。実際には軍事専門家によれば、自衛隊はすでに相当の攻撃力を擁しているそうだ。ただ、「専守防衛」しか認めないという現在の憲法解釈の上で。敵基地に対する先制攻撃まで認めるとなると、いくらなんでも、ということになる。現在でも「自衛隊違憲論」の憲法学者は6割を超えているのに、「専守防衛」の枠組みまで外すということになると、「自衛隊合憲論」を主張する憲法学者は、おそらくゼロになる。御用学者と言えど、そこまでは学者としての良心を売り渡しはしないだろう。

●アメリカに自衛隊基地を――究極の安全保障策はこれだ
 ただでさえトランプ米大統領は「アメリカ人は日本を守るために血を流さなければならないが、アメリカが攻撃されても日本人はソニーのテレビを見ているだけだ。こんな不公平な話はあるか」と、日米安保条約の片務性に怒っている。別にトランプだけが怒っているのなら「馬の耳に念仏」で聞き流しておけばいいが、実はアメリカ人の大半が同じような対日感情を持っている。だから1980年代後半に日米貿易摩擦が頂点に達したとき、アメリカ自動車産業のメッカだったデトロイトで日本車がハンマーで叩き壊され、ひっくり返され、最後は火まで付けられるような状態になったとき、アメリカ中を席巻したジャパン・バッシングの合言葉は「リメンバー・パールハーバー」であり「安保タダ乗り論」だった。「のど元」民族の日本の政治家は、そのことをすっかり忘れているようだが…。
 そういう対日感情をいまだに根強く抱いている米軍兵士が、日本有事の際、自分の感情を押し殺して日本を守るために喜んで血を流してくれるだろうか。そんなことはありえない。日本が逆の立場になったら、そんなお人好しになれるかどうかを考えてみれば、赤ん坊でもわかる理屈だ。
 そこで発想を180度、転換してみる。せっかくトランプが言質を与えてくれているのだ。それを利用しない手はない。
「確かに現行の日米安保条約はあまりにも片務的だ(※ここで「在日米軍基地は日本防衛のためだけでなく、アメリカの覇権主義の軍事拠点にもなっているではないか」などと正論で反論してはダメ。せっかくの言質が日本にとって絶好の口実にならなくなってしまう)。日本もアメリカを守るために血を流すことにした。アメリカに自衛隊基地を設置して、米軍と一緒にアメリカを守る。もちろん、在日米軍基地と同様に、自衛隊基地をアメリカのどこに設置するかは日本が決めるし、自衛隊基地とは地位協定も結ばせてもらう」
 9.11のようなテロ攻撃は今後もあるかもしれないが、本格的にアメリカと戦争しようなどと考えるバカは旧日本軍くらいしかいない。旧日本軍も、本格的な戦争になるとは当初考えていなかったようだ。真珠湾に集結しているはずの米空母艦隊に壊滅的な打撃を与えれば、アメリカは当分反撃できなくなる。そのうちに…と勝手に考えていたようだ。
 が、肝心の標的だった空母艦隊は真珠湾にはいなかった。真珠湾は水深が浅く、吃水線が高い空母は入港できないのだ。そんなことも調査せず真珠湾に奇襲攻撃をかけ、うろちょろ空母を探したものの見つけることができず、戦艦や巡洋艦などくその役にも立たない軍船を何隻か沈めて「大戦果」を挙げたかのように喜んだのが大本営と当時の新聞。だいいち、日本海軍がハワイを攻撃するのに戦艦や巡洋艦を主力戦力にしたか。主力戦力は攻撃機を搭載した空母だったではないか。戦艦や巡洋艦は空母の護衛のためについていっただけだ。真珠湾攻撃は大成功どころか大失敗だったのだ。いまさら「失敗しました」とは言えない空気が、当時の日本には充満していたのだろう。
 そんな戯言はともかく、アメリカに自衛隊基地を設置することが日本にとって最高の安全保障策になる。そのうえ、沖縄の米軍基地問題も一気に解決できる。「自衛隊基地をアメリカのどこに作るかは日本が決める。基地協定も結ばせてもらう」という要求を日本が突き付ければ、そんな要求を誇り高いアメリカが認めるわけがないから、在日米軍基地のありようについてもアメリカの方から譲歩してくる。

●日米安保条約の再改定によって、日本は最も平和な国になる理由
 安保条約を再改定して双務的な関係にしようとすれば、左翼系からは「日本がアメリカの戦争に巻き込まれるリスクが高まる」という反対論が出てくるだろう。が、現行安保でも、アメリカは日本の戦争に無条件に協力するなどという条文はどこにもない。安保条約でアメリカが行使しなければならない軍事的義務は第5条に明記されているが、「日本国の施政の下にある領域」での武力攻撃について、日本とアメリカが「共通の危機に対処するように行動することを宣言する」とあるだけで、日本の戦争にアメリカが巻き込まれることはない。この第5条を双務的な内容に変えればいいだけのことで、自衛隊がアメリカのために軍事的協力の義務が生じるのは、あくまで「米国の施政の下にある領域」での武力攻撃に限定されるからだ。イラク戦争や9.11に端を発したアメリカのタリバンやアルカイダに対する報復攻撃などに自衛隊が米軍に軍事協力する義務は生じない。
 実際、日本は竹島や北方領土は日本の固有の領土だと主張しているし、私も日本人だからそう思っているが、では日本が軍事力を行使して領土を奪還しようとした場合、米軍が協力する義務があるかどうかは難しいと思う。というのは、竹島を実効支配しているのは現実には韓国であり、北方領土はロシアだ。一時アメリカでも竹島や北方領土についても日本の領有権を認めるような発言をした大統領がいたが、米政府がその一時的見解を継続して維持してくれているわけではなく、日本の「施政下」にあると言えるかどうかの判断は微妙だ。現に、オバマやトランプが「安保条約5条」が適用されると明言してくれた尖閣諸島にしても、日本が何らかの施設をつくって実効支配に乗り出そうとすると、アメリカから「待った」がかかることは間違いない。また大統領が代わるたびに尖閣諸島が安保条約5条の適用対象だという「お墨付き」をもらわなければならず、その都度、日本側はお返しとしてアメリカから軍事装備品を買わされる。そういうことを日本政府はずっと続けてきたのだ。
 だから日米安保条約を双務的なものに改定することは、日本の平和と安全にとっても、また沖縄の米軍基地問題や地位協定問題の解決にとっても、ベストとまではいかなくても、現状に比べればベター・ベター・モア・ベターな方法であることをご理解いただけただろうか。いつまでも空理空論の「平和主義」にしがみついてきた結果が、沖縄基地問題や地位協定問題を今日まで引きずってきたことを、国民はそろそろ気付いてもいいころだと思う。

※なお、老婆心で最後に書いておきたいことがある。政府は北朝鮮の核・ミサイルの脅威を口実に「抑止力」として軍事力の強化や「自衛権」の範疇に敵基地攻撃も含めようとしているが、前回のブログで明らかにした「核抑止力」の欺瞞性と同様、自国の「抑止力強化」は他国にとっては「脅威」になる。とくに日本の場合、過去にアジアの諸国と人たちに多くの苦しみを与えてきただけに、私たちが原爆による被害の記憶をいつまでもとどめているように、アジアの人たちも過去に日本がしてきたことを忘れていない。いま日本は平和主義を大切にしているが、依然として過去の十字架を背中に背負っていることを忘れてはならない。日本が「抑止」のためと称しても、抑止力としての軍事力を強化すれば、それは直ちにアジアの諸国民にとっては脅威の対象となる。過去の軍拡の歴史は、抑止力を口実に作られてきたことを、先の大戦の最大の加害者であり、かつ最大の被害者であった日本は、決して忘れてはならない。


【緊急追記】 今日(15日)、NHKが午後7時30分から大作ドラマを放映する。戦時中、日本でも原爆の研究が行われていたことは周知の事実であり、ドイツでも研究が行われていた。またナチスの迫害から逃れてアメリカに亡命した科学者・アインシュタインが米政府に原爆のアイデアを提供し、のちにアインシュタインは自分の行動が間違っていたと後悔したというエピソードはあまりにも有名である。NHKが制作したドラマは京都大学で原爆開発に携わった若い科学者の使命感と苦悩のはざまを描いたらしい。それはそれでいいのだが、私が強い違和感を抱いたのはドラマのタイトルである。
ドラマのタイトルは『太陽の子』だそうだ。山崎豊子の『大地の子』にヒントを得たのかどうかは知らないが、少なくとも『大地の子』という題名からは明るさは感じられない。とくに暗さを感じるわけでもない。山崎豊子らしい「重み」を、なんとなく感じさせる題名だ、と私は思う。
が、NHKのドラマのタイトル『太陽の子』から抱くイメージは、石原慎太郎の『太陽の季節』であり、美空ひばりの『真っ赤な太陽』のような明るさだ。テーマの重さとか若い科学者の悩み、苦しみなんか、これっぽっちも伝わってこない。まさか、NHKが、あの戦争でもう少し日本軍が頑張っていたら、日本が原爆をニューヨークに投下して大逆転できたかも、などという「浦島太郎」のようなドラマを作るとも思えないが、それにしても唯一の被爆国日本の公共放送が作るドラマの主人公である、日本で原爆開発に取り組んだ若い科学者が「太陽の子」か。
私は昨日、NHKの「ふれあいセンター」の上席責任者に、「私はこのドラマは見るけど、少なくとも広島と長崎では放映するな」と電話した。こういうタイトルを付ける無神経さを、私は信じられない。
NHKは8月4日、「3か年経営計画」の案を発表した。案に対する意見募集を8月5日から9月3日までに実施し、寄せられた意見なども踏まえて来年1月までに計画と取りまとめるという。私は6日にNHKのホームページに設けられた「意見募集」フォームで提案した。その内容をこのブログで公にするつもりはなかったが、朝日新聞が何をトチ狂ったか、14日になってどうでもいいようなケチ付けを、それも社説でしたので、朝日にはメールで私がNHKに対して行った提案の全文を送った。この際、この「緊急通知」で公にしてしまうことにした。同感していただける方はSNSで拡散していただきたい。(15日)

① 経営委員会についてー―経営委員会はNHKの最高意思決定機関であり、公正で公平な意思決定ができるように、公選制にすべきである。現在のように政府によって経営委員が任命される制度では公共放送としての、権力との適正な距離を保つことができなくなる。現に、かんぽ生保の不正販売についての番組に経営委員会が不当に関与し、公共放送としての信頼性を著しく損なったこともある。
② 番組編成について――NHKは公共放送であり、民間放送局には放送できないような公共性の高いコンテンツに絞るべきである。かなり前(数十年前)は娯楽が少なく、民間放送局も自前でドラマなどを制作できなかった時代には、NHKが自前でドラマ制作して放送することも合理性があったが、今はそんな必要はない。「民間ができることは民間に」が公共放送の原則であるべきだ。NHK3人娘(馬渕晴子・富士真奈美・小林千登勢)をNHK職員として育成しなければならなかった時代ではない。どうしてもエンターテイメント・コンテンツを外せないというならNHKを半官半民にして、娯楽番組は民間放送局と同様CMで制作費を賄うか、あるいは課金制のコンテンツにすべき。
③ 受信料制度について――かつてはテレビは一家に1台だった時代があり、いまの受信料制度はその時代に適正だった制度をいまだに続けている。いまはNHKの放送を受信できる設備も多様化しており、またテレビ自体も一家に1台から一人1台の時代に移っている。放送法64条はNHKの放送を受信できる「受信設備を設置したものは、協会とその放送の受信についての契約をしなければならない」となっており、この規定によれば「世帯単位の契約」は無効である。現代では一人数台の受信設備を持っている人もいる時代であり、世帯単位の受信契約でなく個人単位の視聴契約にすべきである。また現在の受信料制度は憲法14条の定めによる「法の下での平等」に抵触する可能性も高い。「法の下での平等」が「世帯単位」で行使されているのは事実上NHKの受信料制度だけであり、受信料未払で裁判になった場合、「一人暮らしの単身世帯と5人家族でテレビも5台ある世帯の受信料が同一なのは憲法違反である」と、憲法14条の解釈が争点になったら、おそらくNHKは敗訴する。
そこで放送法64条の一部を「協会の放送を受信することのできる受信設備を設置した世帯に属し、協会の放送を視聴できるものは、協会とその放送の視聴についての契約をしなければならない。ただし、満1歳未満の幼児および著しく聴覚障害がある者で協会が定めた基準に該当する者は、その限りではない。また未成年者については世帯主が代理で契約することを妨げるものではない。協会と視聴契約をしたものは協会に視聴料を支払わなければならない。ただし、未成年者については世帯主が代わって支払うことができる」と改定することを求める。なお、この改訂によって事業所向けの受信料制度は廃止する。視聴の二重契約になるからである。
また、生活保護世帯に属するものや障碍者に対する受信料(新しくは視聴料)免除制度は廃止することも求める。この制度は本来社会福祉に属する性質のもので、国なり各自治体が行うべきことである。彼らが負担すべき視聴料を一般の視聴者に自動的に負担させることは違憲の可能性がある。





 

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