東京オリンピックの開催決定に反対しているわけではない。だが、手放しで喜ぶ気にもなれない。理由は二つある。
一つは元々東京オリンピック構想は石原前都知事がぶち上げた構想である。石原氏は「東京にカジノを」構想もぶち上げていた。
石原氏のこの二つの構想は、「東京を世界有数の一大観光都市にする」ことが目的だった。はっきり言って無責任極まりない発想である。カジノを目的に東京を訪れる外国人と、オリンピックを見に東京に足を運ぶ外国人の目的は全く相容れない。石原氏は、どんな目的でもいい、とにかく外国人が東京に来て、金を落としてくれさえすればいいと考えていたのだろう。
石原氏の後を継いだ猪瀬都知事は、カジノ構想については無視した。見識ある都知事と評価していいだろう。だが、東京オリンピックについては石原氏の発想とは違う、という猪瀬構想が私たち国民の耳に届いていない。これから考えるというのであったら、あまりにも世界をバカにした話ではないか。
私ならこう考える。日本の体育指導界にはびこってきた「体罰指導」を根底から覆す絶好の機会として、合理的な科学的指導法を確立するためのオリンピックだと。
日本になぜ「体罰指導法」が定着してきたのか。
その根底には精神主義があったからだ、と私は考えている。「やる気があればできる。できないのはやる気がないからだ」――精神主義とは単純化すればこの一言に尽きる。「やる気」を出させるためには体罰が必要だ――こうした考え方が日本の伝統的な体育指導法の根底に根強く培われてきた。
だから柔道や剣道、空手、相撲をはじめ日本の伝統的な体育指導には「しごき」が常に付きまとってきた。野球は日本の伝統的スポーツではないが、明治時代に日本に紹介され、瞬く間に大衆的スポーツになった。だから野球の指導法にも精神主義的要素が持ち込まれた。戦前から日本に入ってきた海外のスポーツも野球以外にあったが(テニスやゴルフなど)、本格的に大衆化するようになったのは戦後の民主主義教育が導入されて以降である。サッカーやラクビー、水泳、陸上競技など戦後に大衆化したスポーツには、ごく少数の例外を除いて精神主義的指導法は行われていない。
桜宮高校のバスケットボール部での体罰指導は例外的である。どの学校でもバスケットボールで体罰が行われていると考えるのは勘違いである。というより桜宮高校という学校そのものが通常の高校と違う異質な学校だったことに、このケースの背景があったと考えるべきだろう。
私は桜宮高校でのバスケットボール部のキャプテンが、顧問教諭の体罰を苦に自殺した事件を契機に日本のスポーツ指導の在り方について批判してきた。が、マスコミがスポーツ指導の在り方という視点で体罰問題と正面から向き合うことが少なく(「少なく」と書いたのは多少は私の視点に近い批判を行っていたスポーツ評論家や過去・現役の有力スポーツ選手などもいたし、彼らの主張を紹介したマスコミもあったからである)、改めて体罰問題について考えてみたい。
まず私のスタンスを明確にしておく。
私は体罰の全否定論者ではない。必要な体罰もある、と考えている。もっと言えば、効果を発揮する可能性が高い体罰と、明らかに効果がないのに効果があると勝手に思い込んで行う体罰は、分けて考えるべきだと私は考えているからだ。
まず、効果がないのに、あると思い込んでいる人たちが多いのはスポーツの指導者たちだ。
スポーツには個人競技と団体競技がある。日本で盛んなスポーツについて考えてみたい。
団体競技に属するのは、野球やサッカー、ラクビー、バスケットボール、バレーボール、アイスホッケーなどがある。ほかにもあるかもしれないが、スポーツ分野にそれほど詳しくないのでいま思いついたスポーツ競技だけを取り上げたにすぎない。
一方個人競技に属するのは柔道、剣道、空手、相撲、レスリング、水泳、陸上、テニス、ゴルフなどがある。ほかにもたくさんあるだろう。
また個人競技ではあるが、団体戦が競技種目として行われているスポーツも少なくないし(柔道やゴルフなど)、団体競技でありながら一人一人のポジションが決まっていて、そのポジションに応じた練習方法が個別に存在するスポーツもある(その典型は野球やサッカー)。
スポーツの指導方法は、基本的には競技の形態に応じて行われるべきで、一律に体罰が全否定される風潮は、必ずしも健全とはいえない。団体競技で、全選手が足並みをそろえて頑張らないといけないスポーツでありながら、なげやり・無気力な練習態度で、他の選手の足を引っ張ってチームワークを乱すようなケースもあり、そうした選手に対する指導には限度のある体罰が必要な場合もありうる。
ただ問題は体罰の適正な限度に基準を作るのは不可能、という点にある。指導者の個人的判断にゆだねるしかないのが否定できないのが現実である。だから、いま問われるべきは「体罰は是か非か」ではなく、指導者が自分自身の感情をコントロールできる能力を、指導者を育成する過程で培っていくことが重要視されるべきではないかと思う。
今年の日本体育大学の入学式で、学長が「体罰による指導はいかなる場合も
行ってはいけない」と訓示したが、その訓示は私に言わせれば本当に指導能力のある指導者の育成が、日本体育大学にはできないという告白をしたようにしか聞こえなかった。
体罰「教育」は実は家庭でも日常的に行われている。まだ小さい子が親の言うことを聞かないとき、親が子供に体罰を行うことはどの家庭でもある。私の娘が息子に行う体罰を私も何度も見てきて、黙って見ているときもあるが、私が娘を叱るときもある。黙って見ているときは、娘が感情に走っての体罰ではなく、限度をわきまえた範囲で、かつ必要性を認めたケースである。だが、時には、明らかに娘が感情に走って体罰を行うときもあり、そういう場合は「おい、そんなことで手を出すな」と叱る。娘はしばしば「言うことを聞かないから頭に来たんだ」と弁解する。
実は私は子供に一度も体罰を加えたことがない。粗相をしても言葉で言って叱ることはあっても、体罰は絶対に加えたことがない。妻は、子供が粗相をしたとき体罰を行うこともあったが、私は「子供が粗相をするのは当たり前だ。言って聞かせろ。言葉で教えられないのはお前の教育の至らなさだと思え」と言ってきた。そうした育て方をしてきたからか、私たちの子供は反抗期を迎えることがなかった。だから私は娘にこう諭す。「お前たちが反抗期を迎えなかったのはなぜか。そのことを考えなさい。そうすれば、お前が感情に走って子供に体罰を加えることが逆効果になることがわかるはずだ」と。
体罰について考えるとき、常に指導者が念頭に置くべきことは、本当に指導方法として有効かどうかを自らの指導経験や、他の指導者の指導経験に照らし合わせて追体験する習性を身に付けることの重要性を認識することだ。日本体育大学が、そうした指導者育成を放棄するなら、もう大学そのものを閉鎖したほうがいい。読者の皆さん、どう思われますか。
スポーツ指導に関して言えば、個々の生徒や部員に対する指導目的はふたつある。専門家でもないのに、と言われるかもしれないが。私はどの分野も専門にしてきたことはない。専門分野がないため、専門知識にとらわれず、専門分野の常識も無視できる。そのことが、実はジャーナリストとしての私にとっては最大の武器になったのである。
たとえば、私の処女作『徳洲会の挑戦』が、なぜベストセラー狙いの出版しか手掛けないことを社是としている祥伝社の編集長が「異例中の異例」とまで言って出版してくれたかというと、「医は仁術である」という伝統的な考え方を真っ向から論理的に否定したことを高く評価してくれた結果だった。「医は仁術である」という考え方の矛盾に私が気付いたのは、徳洲会病院の規律の厳しさに着目した結果であった。徳洲会病院には6つの規律があったが、その一つに「ミカン1個でも貰った医者・看護婦(当時の呼び方)は即解雇する」という、アメリカの公務員の倫理規定「1ドル規制」(仕事の関係者だけでなく友人であっても1ドルを超える接待や物品を貰ったら即解雇するという厳しい規律)以上の厳しい規律を設けていることの意味を私は深く考えた。著書で私はこう書いた。
「この贈り物謝絶の方針について宇治久世医師会は、島田宇治市市長の呼びかけで行われた昭和53年12月10日の3者会談(市、徳洲会、医師会)の席上、『徳洲会はミカン1個でも患者からはもらわないということだが、患者との人間関係まで破壊しようというのか。生活が苦しくても感謝の気持ちを込めて、たとえばシュークリーム10個を持ってきても、もらうとクビにするのか』と徳洲会に詰め寄ったが、このことの意味を深く掘り下げて考えることは、とりもなおさず、徳田が日本の医療をどういう方向に変えていこうとしているかを考えていくうえで、きわめて重要なポイントになるので、最終章で再び取り上げたい」
いまでは、ほとんどの総合病院が「患者や家族の皆様へ――当院では医師や看護士などへの金品の謝礼は一切お断りしております。お気遣いなきようお願いします」といった貼り紙を目につく場所に貼っているが、当時の医師たちは患者からお礼をもらうことを当たり前と考えていた。
「みかん1個」問題は、私の目からうろこを落としてくれた。何気なく見過ごしてきたアメリカ映画でのシーンが脳裏に浮かんだのである。アメリカ映画には学校の授業が終わった時、教師が生徒に「サンキュー」と言って教壇を降りるシーンがしばしば登場する。また医師や弁護士が患者の診療を終えた後や法律相談に応じた後、やはり「サンキュー」と言う。『徳洲会の挑戦』の最終章で、私はこう書いた。少し長い転記になるので、行間を開けて転記する。
真に患者中心の医療を実現するためには、患者自身が、積極的に医師との間に新しいモラルを確立すべく努力しなければならない。そして、そのための一里塚として位置付けられるのが「ミカン1個でも貰ったらクビ」という徳洲会の厳しい方針であろう。
実際、この「贈り物謝絶」の方針は、医療側と患者側に大きなショックを与えた。それまで平然と貰い物を貰い続けていた医師たちの内部から、贈り物を貰うのはよそうという声が出てきた。少なくとも、贈り物をする側、貰う側の双方に後ろめたい感情が生まれつつあることだけでも、大きな収穫と言えるだろう。
私の知り合いのある公立病院の勤務医は、「今まで何の抵抗もなく、当然のように贈り物を貰っていたことが恥ずかしい」と語っている。
今日まで医師が患者に君臨できたのは、需給関係が医師側に圧倒的に有利で
あったことにもよるが、患者が何の疑問も抱かずに「病気を治してもらうのだから」と医師の前に這いつくばってしまったことにも、大きな原因がある。だから、”お医者様天国”を支えてきたのが、ほかならぬ患者自身であったことへの痛切な反省が、医療革命に患者が主体的にかかわっていくための重要な前提条件となる。(中略)
実は私は、一見、枝葉末節とも見える「贈り物謝絶」の方針にこそ、徳田が目指す医療革命の思想的原点がある、と考えている。すでに書いたように“革命”と呼ぶ以上、それは力関係の逆転を意味しなければならず、医療界における力関係の逆転は、医師と患者の間の関係そのものの力関係の革命的変化として現れるのでなければならない。そして贈答の慣習は、医師と患者の力関係を象徴するものなのである。
従って、患者から医師への贈答の慣習を廃止しようということは、医者が患者に君臨する世界そのものの崩壊を意味する。徳田と徳洲会が推進している「社会運動」を、私が“医療革命”と規定し、その思想的原点を「ミカン1個でも貰ったらクビ」という贈答関係の廃止に求めたゆえんでもある。
であるからこそ、徳洲会の贈り物謝絶の方針に対し、先にも触れたように、医師会側は「患者との人間関係まで破壊しようというのか。生活が苦しくても感謝の気持ちを込めてシュークリーム10個を持ってきても、貰うとクビにするのか」と悲鳴に近い抗議の声を上げたのである。まさに患者から医者への一方的な贈答の関係こそが、医者にとって“甘えの許される世界”の象徴だったのである。したがって、その関係が否定されることは、医師会の先生方にとっては耐え難いことに違いない。(中略)
さらに、患者からの贈り物の大半は、感謝の気持ちの表れではない。はっきり言えば、医療の専門家に媚(こび)を売っているだけなのだ。命は一つしかなく、だからこそ自分にだけはいい医療を行ってほしいと願う心から出る媚なのだ。旅館に泊まる際、快いサービスを期待して仲居さんに包むチップと、本質的には変わらないのである。患者のほうは、贈り物をしておけば、いい医療を行ってくれるのではないか、と期待するからこそチップをはずむのである。だから医者に差し出すチップは、治療が終わって退院する時ではなく、治療(とくに手術)を始める前に差し出すのが習慣化されているのだ。
繰り返す。患者から医者への一方的な贈答慣習の廃止は、従来の医者と患者
との「人間関係」を破壊した。その廃墟の跡に、どんな新しいモラルが形成されるかは、今のところ予断を許さない。
おそらく徳田自身は、「贈り物謝絶」の方針を打ち出した昭和49年の時点では、それがこのようなすさまじい結果を生むとは、予想だにしていなかったのではなかろうか。
というのは、贈り物をやめた動機について、「なぜかわからないけど、ちょっと心に引っ掛かるものがあったから」と徳田自身率直に語っているように、それほど深く考えてのことではなかったからだ。実際、もしうまくいかなかったら、その時は元へ戻せばいい、と彼は考えていた。
ところが、貰い物をやめてみると予想外の結果が出た。「貰い物の分捕り合いがなくなったおかげで、医者や看護婦の間に平等意識が高まった」のである。
※「スクープというのは、ひた隠しにされていた権力者の不正を暴くことだけではない。私は「ミカン1個でも貰った医者・看護婦はクビ」という厳しい徳洲会の規律に着目し、その規律を設けた動機や目的、結果を、徳田氏が辟易するほど質問攻めにした。その理由は後で書くが、この時期徳洲会が茅ヶ崎市の医師会と市議会まで巻き込む“戦争”をしていたことは、マスコミ界でも大きな話題を呼び、『週刊現代』が数週間にわたって特集記事を組んだり、NHKが『NHK特集』で取り上げたり、全国紙がこぞって社説で取り上げたりしていた中で、「ミカン1個」問題が持つ意味の重要性に着目したのは私一人だった。マスコミの視点はほぼ「医師会の驕りに対する批判」の立場に立っていた。誰もが単なる“美談”の一つとしてしか見ていなかった些細なことから重要な意味を発見することも、私は「大きなスクープ」と考えている。
日本では贈答の慣習は、両者の力関係を反映している。たとえば通常のビジネスにおける贈答の慣例は、売る側が買う側に贈り物をする、というのが通常である。商取引においては買う側のほうが一般的には力関係で上位に位置するからだ。ただし、時には通常の商取引においても売り手側が上位に立つケースもある。それは需給バランスが大きく崩れ、供給側が優位に立ってしまうケースだ。
が、需給バランスとは無関係に贈答の慣例が逆転している世界がある。その一つが医療の分野だ。多少大げさに言えば、患者は医者に一つしかない自分の命を無担保で預けざるを得ない。患者がいい治療を行ってもらうために、担当医に贈り物をしてまで自分の治療に一生懸命になってほしいと願うのはやむを得ない。そういう世界であぐらをかき患者に君臨しているのが医者という職業なのだ。そういう逆転した世界でぬくぬくと優雅な生活をしている人たちの職業についている人は、一般的に「先生」と呼ばれる。たとえば、私のかつての世界もそうだ。売れるようになると、「先生」と呼ばれたり、また業界内では姓ではなく名前を音読みで呼ばれるようになる。名前を音読みで呼ばれるようになれば、業界で一流と認められたことを意味する。私のケースで言えば、呼ばれ方が「小林さん」から「先生」とか「きこうさん」(本当の読み方は「のりおき」なのだが)と呼ばれるようになる。また本が出版されたときは、いわゆる「打ち上げ」と称する接待がつきものだ。盆暮れには出版社から贈答品が届く。もちろん、そういう関係は、私の本が売れている間だけだったが。
ほかにも、そういう世界はいっぱいある。政治家という職業もそうだし、学校の教師・教諭、弁護士、作曲家や作詞家、画家(画家の部類に入るのかどうかは知らないが漫画家までもだ)などがそうだ。芸能人ですらある程度の地位に上り詰めると「先生」と呼ばれる。
こういう通常のビジネス関係が逆転しているのは、儒教精神が社会的規範になっている日本や韓国、中国などの国だけだ。そして、そういう世界に共通した職業的地位は「聖職」と一般的に考えられている(すべてではないが)。今、日本ではそういう世界は静かに崩れつつあるが……。
平等の意識は言うまでもなく特権意識の否定の上に形成される。ということは、貰い物をやめることによって、患者に対し「診てやるんだ」といった態度もなくなっていくことを意味する。医者と患者との間の新しいモラル形成の萌芽がこうして生まれた。徳洲会の医療革命は、ミカン1個から起こったと言っ
ても過言ではないほどである。(中略)
日本の医療は、いま大きな曲がり角に差し掛かっている。医者が患者に君臨する世界が、音を立てて崩れ去ろうとしている。明治維新前夜にも比肩すべき胎動が、医療界内部から澎湃(ほうはい)として生じたからである。(中略)
東洋医学は伝統的に「医は仁術」を精神的支柱として形成されてきた。儒教の根本理念でもある「仁」は、思いやりやあわれみの心を意味し、日本人の精神構造の中に深く棲みついてきたといえる。それが、いいことであったかどうかは別として、徳川三百年を支えたこの精神的支柱は、封建の絆から日本人が解放されて一世紀以上たっているにもかかわらず、いまだ日本人大多数の絶対
的価値観として観念の世界で生き続けてきたのである。
そのことが、実は日本において「医者が患者に君臨する世界」の構築に預かって、最大の力となった。「医は仁術だから金儲けを目的にしていない。だから医療は公共的事業なのである。そして医療が公共的なものである以上、企業や商店と同列にみなすのは間違いで、医師の特権的地位を保障すべきなのだ。それなのに、医師優遇税制をやめるというのなら、我々も保険医や学校医を総辞退して断固戦うぞ」というのが日本医師会の論理であり(※当時、厚生省=現厚労省=は医師優遇税制を抜本改革しようとしていた。当時は厚生省の抜本改革案に「まだ甘い」とマスコミは批判的だったが、いま開業医の廃業が続々と生じている)、一言で言ってしまえば「医は仁術」なる幻想を国民にばらまきながら、
実はパワーポリティクス(力の論理)で患者に君臨してきたのである。
すでに書いたように、私は好んでジャーナリストになったのではない。この世界でのキャリアが皆無の私に、結果的に私の本名で処女作を出してくれた祥伝社の編集長の肩入れと、『徳洲会の挑戦』がベストセラーになっていなかったら、私の人生は全く異なったものになっていたはずだ。
が、ベストセラーになっただけでなく、多くの評者が私の処女作を高く評価してくれたおかげで(当時、いわゆる『徳洲会もの』はかなり出版されており、すでに高名なノンフィクション作家も上梓されていたが、私の『徳洲会の挑戦』はそれらの中で格別の評価をいただいた)、雑誌や週刊誌、夕刊紙などから執筆依頼が相次ぎ、あれよあれよという間にこの世界での寵児になっていた(自分で言うのもおかしいが)。
で、この世界に飛び込んでからジャーナリズムとは何か、どうあるべきか、ということを既成の権威書は一切読まず、自分自身で自らのスタンスを確立してきた。その姿勢が、このブログの背景にある。
私自身のジャーナリストとしてのスタンスを改めて明らかにしておきたい。巨大マスコミに対する批判的スタンスをとってきた雑誌に『噂の真相』というのがあったが(2004年廃刊)、これはマスコミ界のスキャンダルを中心に編集されており、私は一切スキャンダルものには手を出したことがない。理由は簡単。いったん、スキャンダルものに手を出すと、必ず裏で金が動く。そういう世界には入り込みたくなかったからだ。
その代わり、このブログの姿勢でも明らかなように、私は大マスコミ(とくに読売新聞や朝日新聞といった大新聞社)を今標的にしているが、批判のスタンスは、「私と価値観が違う」を基準には一切していない。私が批判する基準は、大マスコミの主張の論理的まやかしである。
たとえば、読売新聞はしばしば政党や政府に対して「ポピュリズム(大衆迎
合主義)に走るな」と主張するが、私には、そうした主張自体がポピュリズム
ではないかと見える。読売新聞の論説委員たちは「ポピュリズムに走るな」と主張して政党や政府の政策を批判するが、それは自らの主張と異なるが故の「批判のための批判」の域を超えない。
これまでもブログで何度も書いてきたが、衆議院議員制度改革について、読売新聞は一貫して民主党を批判してきた。民主党は、消費税増税に当たって「国民に犠牲を強いる以上、我々も血を流す必要がある」と主張して公務員の給与水準の引き下げと国会議員定数の大幅削減を主張してきた。その民主党の主張に対し、公務員の給与引き下げは歓迎し(私もそれは当然だと思っている)、国会議員の定数削減は「ポピュリズムだ」と批判する。ご丁寧に、他の先進国の国民総数に占める国会議員数の比率を調査し、「日本の国会議員数は先進国の中で少ない方だ。民主党の定数削減主張はポピュリズムだ」と批判する。だが、日本の国会議員が、先進国の国会議員に比べ、いかに優遇されているかの調査はしていない。おそらく実際には調査して分かっているはずだが(議員数の比率だけ調査して、税金で賄っている議員の歳費やもろもろの議員特権を調査していなかったとすれば、読売新聞はもはやジャーナリズムではない。巨人軍と自民党のための有料広報紙だ)、日本の国会議員がいかに優遇されているかの先進国との比較は一切発表していない。読売新聞の主張は明らかにポピュリズム手法を用いている。選挙制度改革と定数削減問題は別の問題として論ずべきで、選挙制度改革は議員自身には絶対できないから第三者機関で行うべきだと私は主張してきて、読売新聞は私の主張の一部を最近剽窃した主張を始めたが、まさに「恥」という日本文化の伝統を継承しないことが読売新聞社の社是のように思える。誤解を招くといけないので注釈を加えるが、「恥」という文化は日本の儒教精神に根付いたものであり、私は儒教を全否定しているわけではない。宗教と呼ぶべき範疇に入るかどうかの疑問はあるが、儒教には他の宗教には見られないモラルの高さや家族の絆を大切にする精神が宿っており、そういう部分すら今の日本から失われつつある現状を私は憂いている一人である。
今回のブログのテーマから外れすぎた。日本に東京オリンピックを招致する資格があるのかという疑問を解明することが今回のブログの目的だった。日本の体育指導法としてなぜ体罰が根付いてきたのかの解明を放棄して、ただ体罰はやめようといった道義的反省だけで済まそうとしている状況で、オリンピックを開催する資格があるのかを私は問いたかった。
私は目が悪いことと、高齢者になって人並みに運動反射能力の低下が避けられなくなってきたこと、70歳以上の高齢者は格安の定額料金でバスや公営地下鉄が乗り放題になるため(ただし乗降についての要件はある)、運転免許の更新をやめた。で、電車やバスに乗る機会が増えたことで気づいたことがある。学生や中年くらいまでの社会人が、優先席でのマナー違反を平気で行う無神経さや思いやりのなさである。
まず、優先席では携帯電話の電源を切ることが義務付けられている。義務付けたのは運輸省(当時)で、学者たちによって構成された第三者機関の諮問を受けて、携帯電話が受発信する電波が心臓ペースメーカーへの影響を無視できないということを理由に禁止する通達を電車・バスなどの運営会社に出したためである。だが、世界中で、交通機関内での携帯電話の規制を行っているのは日本だけである(※携帯電話が受発信する電波は極めて微弱で、だから中継基地を広く張り巡らす必要がある。最近地下鉄の車内でも使えるようになったが、かつては電波が受発信できないくらい携帯電話の電波は微弱なのである。もし携帯電話が受発信する電波が心臓ペースメーカーに悪影響を与えるのなら、障害物がなければ日本海まで届くスカイツリーから出しているテレビ電波の心臓ペースメーカーに与える影響の方がはるかに大きいはずだ)。
心臓ペースメーカーが、携帯電話の電波でダメージを受けるほど脆いものだったら、心臓ペースメーカーを体内に入れている人はコンクリートで囲まれた部屋から一歩も出ることができなくなるはずである。だから、私は交通機関内での携帯電話やスマートフォンの必要以上の規制は全く意味がないと、何度も国土交通省や民営鉄道協会に電話で申し入れ、電話に出た方は私の主張に分があることは認めたものの、「検討させていただきます」という返事が返ってくるだけで、実際に検討に入った様子はうかがえない。
しかし、「悪法といえど法は法」と同じで、「無意味なルールといえどルールはルール」である。悪法は「悪法だ」と訴える自由はあるし、また国民の義務として訴えるべきだ。同様に携帯電話の規制は実際、無意味なのだが規制が解かれていない間はルールを守るのがマナーである。そのマナーを平気で無視し、私が注意しても知らんぷりをする若者を見ると、やはり体罰は必要だと思わざるを得ない。
なかにはこういうケースさえあった。座席がいっぱいで、私も立っていたバスに杖をついたお年寄りが乗ってきた。で、優先席に平気な顔をして座っていた30台と思しきサラリーマン風の男性に「席を代わってあげていただけませんか」とお願いしたら「ここは専用席ではないでしょう」と反論が返ってきた。子供や妻にさえ暴力をふるったことがない私だったが、このときは本気でぶん殴ってやりたくなった。バスの優先席は運転手席のすぐそばにあるので、運転手に「このバカ者に優先席と専用席、一般席の区別を教えてやってください」と申し入れ、運転手も「その席は高齢者や障害者などのために用意されている席です。そういう方がいらっしゃらない場合はお座りになっても構いませんが、高齢者などが乗ってこられたら代わってあげてください」と声をかけ、周囲の乗客たちも「そうだ、そうだ、代われ、代われ」と声を上げたので、その若者はしぶしぶ席を立ったが、こんな連中を甘やかしてきた責任は家庭にあるのか学校教育の在り方にあるのか、それを私は問いたい。
もちろん、スポーツ能力や学力が体罰で向上したりするわけがなく、とくにスポーツで体罰による指導が従来一般的に行われてきたのは、日本の伝統的な精神主義にあることを私はブログで何度も書いてきた。たとえば「心頭を滅却すれば火も自ずから涼し」などという非論理的な精神論が、日本の伝統的な武術稽古の流れを左右してきた。その流れが、日本の伝統的なスポーツである柔道や剣道、相撲などに継承され、さらに海外から入ってきたスポーツ指導にも
波及していったのである。そうした経緯を理解しないと、ただ倫理観だけで「体罰はけしからん」と言っても、スポーツ指導者が混乱するだけである。混乱状態はどういう形で現れるかというと、選手や部員を甘やかすという、振り子の原理がもろに出ることが目に見えている。ではどうしたらいいか。
まずこれまでの指導方法を根底から見直す必要がある。と言っても、現在の指導者たちに自分たちの指導方法のどこが間違っていたのかという原因を究明させることは、はっきり言って不可能である。
日本のスポーツ指導の在り方を根本から変革するには、アメリカやフランスなどに指導者を派遣してスポーツ指導の方法を学ばせることが大きな意味を持つと思う。私はスポーツ界の事情はほとんど知らないので、私が知っている情報の範囲でしか書けないのだが、まず柔道については、今や日本のお家芸ではなくフランスのお家芸になってしまった。柔道はもちろん嘉納治五郎が世界中に広めたのだが、フランスはどういう指導方法で世界に君臨する柔道王国を築いたのか、彼らの指導方法を徹底的に学ばせることだ。またアメリカでは団体スポーツの野球の指導方法を学ばせる。元巨人軍の桑田投手もPL学園時代、相当しごかれたようだが、「体罰は私の技術向上に何の役にも立たなかった」と証言している。プロの世界で一流を極めた人のこの言葉は重い。アメリカでは科学的指導法を行っていると聞くが、指導者が自らアメリカで、その科学的指導法を学ぶことによって、効果を検証する必要がある。そしてフランスやアメリカで学んできた指導法を自分が属する世界だけでなく、他のスポーツ界にも波及させる必要がある。また日本にいても学べる方法がある。サッカー界だ。スポーツそのものも国境の壁を超えているが、指導者も世界を股に渡り歩いている。日本のチーム(日本代表も含め)にも海外から指導者を招いているケースが少なくない。サッカーで、選手や部員に体罰的指導を行っているという話は聞いたことがない。
結論的に言うと、人間性を育てるための、ある程度の体罰は必要である。だが、人間性を育てるためと言いながら、実は自分の感情を抑制できず体罰を行うことは厳に慎むべきだ。
スポーツ技能向上のための指導においては、体罰は何の意味も持たない。選手や部員に恐怖心を植え付けるだけだ。もちろん一般の学問の分野での能力向上も同じである。
もとろん精神力がある程度、能力の発揮(向上ではない)に影響することは確かである。スポーツではなくても、一般的な学問の分野においても、普段ならすらすらとけるような問題が、たとえば入学試験などでは上がってしまって頭の中が混乱してしまい、本来持っているはずの能力を発揮できなくなってしまうケースもある。
野球でも、通常の打率とは別に「得点圏打率」という指数がある。走者が2塁や3塁の得点圏にいるときの打率は、一般的には通常の打率より高くなるのだが、逆に低くなったり、ほとんど差がなかったりする選手もいる。得点圏に走者がいる場合は、はっきり言って投手のほうが不利になる。「打たれたら点を与えてしまう」というプレッシャーもかかるし、走者の動きにも気を使わなくてはならない。とくに走者が3塁にいる場合は、投手はワンバウンドしてワイルドピッチになる確率が高いフォークボールは投げづらい。精神的には投手のほうがはるかに打者より不利だ。が、そういう打者にとっては絶対有利な場面で、かえって萎縮してしまい、チャンスをものにできないバッターもいる。そういう選手はしばしば「チャンスに弱い」と言われるが、「何が何でも走者を返さないと」と、投手以上に精神的に追い詰められてしまうタイプの選手である。そういう選手には、どんなに素質があっても、チャンスが回ってくる確率が高いクリーンナップは任せることができないと監督は判断せざるを得ない。
投手についても同じことが言える。たとえば中盤までほとんど走者を出さず、絶妙なピッチングをしていた投手が、たった1球のきわどい球をボールと判定されフォアボールで歩かしてしまった途端、それまでの好投はなんだったのかと思えるようにガタガタっと調子を崩してしまうケースがある。これもピンチに弱いケースで、やはり精神力の弱さによると考えていいだろう。
では、そういう選手の精神力を鍛えるために体罰を加えたら効果があるか。ありっこない。その「ありっこない」ことをやってきたのが、これまでのスポーツ指導の方法だったのである。精神力の強弱は、ある程度持って生まれた要素であり、精神力を高める方法は、少なくとも今はない。スポーツ選手によっては、オフシーズンに禅寺にこもって精神修行に励む人もいるが、効果が明らかであれば、精神修行は爆発的にはやるはずだ。また精神力を強化する、と称するノウハウ本もこれまで何冊も出版されており、爆発的に売れた本もあるが、一時的な現象で終わっている。まして体罰で心の問題を解決できようわけがなく、また体罰でスポーツ能力にせよ、一般的な学力向上にせよ、成功するわけがないことくらい子供でも分かる話だ。それなのに、スポーツ指導者が体罰に走るのは、精神力を鍛えるという口実のもとに、実際には自分の指導力の未熟さを選手や部員に責任転嫁しているだけである。「体罰はいけない」という道徳的な反省だけで終止符を打ったら、日本のスポーツはただの遊びになってしまう。もちろんただの遊びだけでスポーツを楽しむ人も少なくなく(むしろ大多数がそうだろう)、遊びは遊びの世界でのルールやマナーが重視されなければならない。たとえば私はフィットネスクラブでいろいろなレッスンに参加しているが、それぞれ参加するレッスンには目的を持って参加している。たとえば水泳ではクロール、平泳ぎ、背泳ぎのレッスンに参加している。レッスンに参加するようになった理由は、私が子供のころに教わった泳法と、今の泳法は天地がひっくり返るほど違っており、最初のころは子供時代におぼえた泳法で勝手に泳いでいたが、ふと隣のコースで行っていたレッスンを見て興味を感じたのがきっかけだった。たとえば、平泳ぎでいえば、昔は泳いでいるときは顔を水面上に出して常時呼吸をしながら「カエル泳ぎ」のようなスタイルで泳いでいた。ところが今の泳法は、呼吸をするときしか顔を水面上に出さないし、手のかき方、キックの仕方、ターンの仕方に至るまで全く違うのである。私に言わせれば、天地がひっくり返るほどの差異を感じた。水泳のレッスンに参加するようになったのは、それからである。
スポーツをする目的は、当然人によってそれぞれ異なる。それを同一の目的にしようというのが許されるのはプロの世界だけである(アマチュア競技であっても、オリンピックや世界選手権出場を目指す競技に関してはプロと同一視してかまわない)。だが、そのためには体罰を使っても許されるというのは理屈が通らない。まして、桜宮高校のように、キャプテンだからと、他の部員に対する戒めを目的として体罰を行うのは、もはやスポーツ指導の域を超えて刑事事件の対象となる「暴力行為」である。
私はこのブログの冒頭で、体罰の全否定論者ではない、とお断りした。ということは、体罰を行う以外教育指導の目的を達成できないケースもある、と私は考えている。バスの中での出来事については、このブログで書いたが、少子高齢化に歯止めがかからない中で、子供に対する厳しいしつけを家庭が放棄しているからさまざまな問題が生じている。学校の教諭・教師には重たい荷物を背負わされることになるが、学校は学問を教えるためだけの存在ではない。子供といえど、家や学校から一歩出れば社会の中で生活することになる。だとしたら、社会の中で生活して行くためのルールや、弱者に対する思いやりの気持ちの尊さ、自由・権利・義務・責任の相互関係を認識させることなども、これからの学校教育の重要な課題となる。そういう目的を達成するための、たとえば「いじめっ子」に対する体罰は、口で言っても効果がない場合はあえて行う必要がある、と私は考えている。つまり、自分自身が痛い思いをすることによって、自分がいじめてきた子の気持ちをわからせることは教育方針の一環として必要だと、私は思う。もちろん、そうした目的の体罰であっても、許容される体罰の限界はあるが。
読者の皆さん、もう一度「体罰の是非」について、いったん頭の中を空っぽにして考えてみませんか。日本の将来を担う子供たちを、担える人間に育てるために、どういう教育方法が必要かを……。そして東京オリンピック開催決定を単純に喜び祝い合うだけでなく、オリンピックを契機に日本の体育指導法を根底から覆す機会にすべきではないかということを……。
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一つは元々東京オリンピック構想は石原前都知事がぶち上げた構想である。石原氏は「東京にカジノを」構想もぶち上げていた。
石原氏のこの二つの構想は、「東京を世界有数の一大観光都市にする」ことが目的だった。はっきり言って無責任極まりない発想である。カジノを目的に東京を訪れる外国人と、オリンピックを見に東京に足を運ぶ外国人の目的は全く相容れない。石原氏は、どんな目的でもいい、とにかく外国人が東京に来て、金を落としてくれさえすればいいと考えていたのだろう。
石原氏の後を継いだ猪瀬都知事は、カジノ構想については無視した。見識ある都知事と評価していいだろう。だが、東京オリンピックについては石原氏の発想とは違う、という猪瀬構想が私たち国民の耳に届いていない。これから考えるというのであったら、あまりにも世界をバカにした話ではないか。
私ならこう考える。日本の体育指導界にはびこってきた「体罰指導」を根底から覆す絶好の機会として、合理的な科学的指導法を確立するためのオリンピックだと。
日本になぜ「体罰指導法」が定着してきたのか。
その根底には精神主義があったからだ、と私は考えている。「やる気があればできる。できないのはやる気がないからだ」――精神主義とは単純化すればこの一言に尽きる。「やる気」を出させるためには体罰が必要だ――こうした考え方が日本の伝統的な体育指導法の根底に根強く培われてきた。
だから柔道や剣道、空手、相撲をはじめ日本の伝統的な体育指導には「しごき」が常に付きまとってきた。野球は日本の伝統的スポーツではないが、明治時代に日本に紹介され、瞬く間に大衆的スポーツになった。だから野球の指導法にも精神主義的要素が持ち込まれた。戦前から日本に入ってきた海外のスポーツも野球以外にあったが(テニスやゴルフなど)、本格的に大衆化するようになったのは戦後の民主主義教育が導入されて以降である。サッカーやラクビー、水泳、陸上競技など戦後に大衆化したスポーツには、ごく少数の例外を除いて精神主義的指導法は行われていない。
桜宮高校のバスケットボール部での体罰指導は例外的である。どの学校でもバスケットボールで体罰が行われていると考えるのは勘違いである。というより桜宮高校という学校そのものが通常の高校と違う異質な学校だったことに、このケースの背景があったと考えるべきだろう。
私は桜宮高校でのバスケットボール部のキャプテンが、顧問教諭の体罰を苦に自殺した事件を契機に日本のスポーツ指導の在り方について批判してきた。が、マスコミがスポーツ指導の在り方という視点で体罰問題と正面から向き合うことが少なく(「少なく」と書いたのは多少は私の視点に近い批判を行っていたスポーツ評論家や過去・現役の有力スポーツ選手などもいたし、彼らの主張を紹介したマスコミもあったからである)、改めて体罰問題について考えてみたい。
まず私のスタンスを明確にしておく。
私は体罰の全否定論者ではない。必要な体罰もある、と考えている。もっと言えば、効果を発揮する可能性が高い体罰と、明らかに効果がないのに効果があると勝手に思い込んで行う体罰は、分けて考えるべきだと私は考えているからだ。
まず、効果がないのに、あると思い込んでいる人たちが多いのはスポーツの指導者たちだ。
スポーツには個人競技と団体競技がある。日本で盛んなスポーツについて考えてみたい。
団体競技に属するのは、野球やサッカー、ラクビー、バスケットボール、バレーボール、アイスホッケーなどがある。ほかにもあるかもしれないが、スポーツ分野にそれほど詳しくないのでいま思いついたスポーツ競技だけを取り上げたにすぎない。
一方個人競技に属するのは柔道、剣道、空手、相撲、レスリング、水泳、陸上、テニス、ゴルフなどがある。ほかにもたくさんあるだろう。
また個人競技ではあるが、団体戦が競技種目として行われているスポーツも少なくないし(柔道やゴルフなど)、団体競技でありながら一人一人のポジションが決まっていて、そのポジションに応じた練習方法が個別に存在するスポーツもある(その典型は野球やサッカー)。
スポーツの指導方法は、基本的には競技の形態に応じて行われるべきで、一律に体罰が全否定される風潮は、必ずしも健全とはいえない。団体競技で、全選手が足並みをそろえて頑張らないといけないスポーツでありながら、なげやり・無気力な練習態度で、他の選手の足を引っ張ってチームワークを乱すようなケースもあり、そうした選手に対する指導には限度のある体罰が必要な場合もありうる。
ただ問題は体罰の適正な限度に基準を作るのは不可能、という点にある。指導者の個人的判断にゆだねるしかないのが否定できないのが現実である。だから、いま問われるべきは「体罰は是か非か」ではなく、指導者が自分自身の感情をコントロールできる能力を、指導者を育成する過程で培っていくことが重要視されるべきではないかと思う。
今年の日本体育大学の入学式で、学長が「体罰による指導はいかなる場合も
行ってはいけない」と訓示したが、その訓示は私に言わせれば本当に指導能力のある指導者の育成が、日本体育大学にはできないという告白をしたようにしか聞こえなかった。
体罰「教育」は実は家庭でも日常的に行われている。まだ小さい子が親の言うことを聞かないとき、親が子供に体罰を行うことはどの家庭でもある。私の娘が息子に行う体罰を私も何度も見てきて、黙って見ているときもあるが、私が娘を叱るときもある。黙って見ているときは、娘が感情に走っての体罰ではなく、限度をわきまえた範囲で、かつ必要性を認めたケースである。だが、時には、明らかに娘が感情に走って体罰を行うときもあり、そういう場合は「おい、そんなことで手を出すな」と叱る。娘はしばしば「言うことを聞かないから頭に来たんだ」と弁解する。
実は私は子供に一度も体罰を加えたことがない。粗相をしても言葉で言って叱ることはあっても、体罰は絶対に加えたことがない。妻は、子供が粗相をしたとき体罰を行うこともあったが、私は「子供が粗相をするのは当たり前だ。言って聞かせろ。言葉で教えられないのはお前の教育の至らなさだと思え」と言ってきた。そうした育て方をしてきたからか、私たちの子供は反抗期を迎えることがなかった。だから私は娘にこう諭す。「お前たちが反抗期を迎えなかったのはなぜか。そのことを考えなさい。そうすれば、お前が感情に走って子供に体罰を加えることが逆効果になることがわかるはずだ」と。
体罰について考えるとき、常に指導者が念頭に置くべきことは、本当に指導方法として有効かどうかを自らの指導経験や、他の指導者の指導経験に照らし合わせて追体験する習性を身に付けることの重要性を認識することだ。日本体育大学が、そうした指導者育成を放棄するなら、もう大学そのものを閉鎖したほうがいい。読者の皆さん、どう思われますか。
スポーツ指導に関して言えば、個々の生徒や部員に対する指導目的はふたつある。専門家でもないのに、と言われるかもしれないが。私はどの分野も専門にしてきたことはない。専門分野がないため、専門知識にとらわれず、専門分野の常識も無視できる。そのことが、実はジャーナリストとしての私にとっては最大の武器になったのである。
たとえば、私の処女作『徳洲会の挑戦』が、なぜベストセラー狙いの出版しか手掛けないことを社是としている祥伝社の編集長が「異例中の異例」とまで言って出版してくれたかというと、「医は仁術である」という伝統的な考え方を真っ向から論理的に否定したことを高く評価してくれた結果だった。「医は仁術である」という考え方の矛盾に私が気付いたのは、徳洲会病院の規律の厳しさに着目した結果であった。徳洲会病院には6つの規律があったが、その一つに「ミカン1個でも貰った医者・看護婦(当時の呼び方)は即解雇する」という、アメリカの公務員の倫理規定「1ドル規制」(仕事の関係者だけでなく友人であっても1ドルを超える接待や物品を貰ったら即解雇するという厳しい規律)以上の厳しい規律を設けていることの意味を私は深く考えた。著書で私はこう書いた。
「この贈り物謝絶の方針について宇治久世医師会は、島田宇治市市長の呼びかけで行われた昭和53年12月10日の3者会談(市、徳洲会、医師会)の席上、『徳洲会はミカン1個でも患者からはもらわないということだが、患者との人間関係まで破壊しようというのか。生活が苦しくても感謝の気持ちを込めて、たとえばシュークリーム10個を持ってきても、もらうとクビにするのか』と徳洲会に詰め寄ったが、このことの意味を深く掘り下げて考えることは、とりもなおさず、徳田が日本の医療をどういう方向に変えていこうとしているかを考えていくうえで、きわめて重要なポイントになるので、最終章で再び取り上げたい」
いまでは、ほとんどの総合病院が「患者や家族の皆様へ――当院では医師や看護士などへの金品の謝礼は一切お断りしております。お気遣いなきようお願いします」といった貼り紙を目につく場所に貼っているが、当時の医師たちは患者からお礼をもらうことを当たり前と考えていた。
「みかん1個」問題は、私の目からうろこを落としてくれた。何気なく見過ごしてきたアメリカ映画でのシーンが脳裏に浮かんだのである。アメリカ映画には学校の授業が終わった時、教師が生徒に「サンキュー」と言って教壇を降りるシーンがしばしば登場する。また医師や弁護士が患者の診療を終えた後や法律相談に応じた後、やはり「サンキュー」と言う。『徳洲会の挑戦』の最終章で、私はこう書いた。少し長い転記になるので、行間を開けて転記する。
真に患者中心の医療を実現するためには、患者自身が、積極的に医師との間に新しいモラルを確立すべく努力しなければならない。そして、そのための一里塚として位置付けられるのが「ミカン1個でも貰ったらクビ」という徳洲会の厳しい方針であろう。
実際、この「贈り物謝絶」の方針は、医療側と患者側に大きなショックを与えた。それまで平然と貰い物を貰い続けていた医師たちの内部から、贈り物を貰うのはよそうという声が出てきた。少なくとも、贈り物をする側、貰う側の双方に後ろめたい感情が生まれつつあることだけでも、大きな収穫と言えるだろう。
私の知り合いのある公立病院の勤務医は、「今まで何の抵抗もなく、当然のように贈り物を貰っていたことが恥ずかしい」と語っている。
今日まで医師が患者に君臨できたのは、需給関係が医師側に圧倒的に有利で
あったことにもよるが、患者が何の疑問も抱かずに「病気を治してもらうのだから」と医師の前に這いつくばってしまったことにも、大きな原因がある。だから、”お医者様天国”を支えてきたのが、ほかならぬ患者自身であったことへの痛切な反省が、医療革命に患者が主体的にかかわっていくための重要な前提条件となる。(中略)
実は私は、一見、枝葉末節とも見える「贈り物謝絶」の方針にこそ、徳田が目指す医療革命の思想的原点がある、と考えている。すでに書いたように“革命”と呼ぶ以上、それは力関係の逆転を意味しなければならず、医療界における力関係の逆転は、医師と患者の間の関係そのものの力関係の革命的変化として現れるのでなければならない。そして贈答の慣習は、医師と患者の力関係を象徴するものなのである。
従って、患者から医師への贈答の慣習を廃止しようということは、医者が患者に君臨する世界そのものの崩壊を意味する。徳田と徳洲会が推進している「社会運動」を、私が“医療革命”と規定し、その思想的原点を「ミカン1個でも貰ったらクビ」という贈答関係の廃止に求めたゆえんでもある。
であるからこそ、徳洲会の贈り物謝絶の方針に対し、先にも触れたように、医師会側は「患者との人間関係まで破壊しようというのか。生活が苦しくても感謝の気持ちを込めてシュークリーム10個を持ってきても、貰うとクビにするのか」と悲鳴に近い抗議の声を上げたのである。まさに患者から医者への一方的な贈答の関係こそが、医者にとって“甘えの許される世界”の象徴だったのである。したがって、その関係が否定されることは、医師会の先生方にとっては耐え難いことに違いない。(中略)
さらに、患者からの贈り物の大半は、感謝の気持ちの表れではない。はっきり言えば、医療の専門家に媚(こび)を売っているだけなのだ。命は一つしかなく、だからこそ自分にだけはいい医療を行ってほしいと願う心から出る媚なのだ。旅館に泊まる際、快いサービスを期待して仲居さんに包むチップと、本質的には変わらないのである。患者のほうは、贈り物をしておけば、いい医療を行ってくれるのではないか、と期待するからこそチップをはずむのである。だから医者に差し出すチップは、治療が終わって退院する時ではなく、治療(とくに手術)を始める前に差し出すのが習慣化されているのだ。
繰り返す。患者から医者への一方的な贈答慣習の廃止は、従来の医者と患者
との「人間関係」を破壊した。その廃墟の跡に、どんな新しいモラルが形成されるかは、今のところ予断を許さない。
おそらく徳田自身は、「贈り物謝絶」の方針を打ち出した昭和49年の時点では、それがこのようなすさまじい結果を生むとは、予想だにしていなかったのではなかろうか。
というのは、贈り物をやめた動機について、「なぜかわからないけど、ちょっと心に引っ掛かるものがあったから」と徳田自身率直に語っているように、それほど深く考えてのことではなかったからだ。実際、もしうまくいかなかったら、その時は元へ戻せばいい、と彼は考えていた。
ところが、貰い物をやめてみると予想外の結果が出た。「貰い物の分捕り合いがなくなったおかげで、医者や看護婦の間に平等意識が高まった」のである。
※「スクープというのは、ひた隠しにされていた権力者の不正を暴くことだけではない。私は「ミカン1個でも貰った医者・看護婦はクビ」という厳しい徳洲会の規律に着目し、その規律を設けた動機や目的、結果を、徳田氏が辟易するほど質問攻めにした。その理由は後で書くが、この時期徳洲会が茅ヶ崎市の医師会と市議会まで巻き込む“戦争”をしていたことは、マスコミ界でも大きな話題を呼び、『週刊現代』が数週間にわたって特集記事を組んだり、NHKが『NHK特集』で取り上げたり、全国紙がこぞって社説で取り上げたりしていた中で、「ミカン1個」問題が持つ意味の重要性に着目したのは私一人だった。マスコミの視点はほぼ「医師会の驕りに対する批判」の立場に立っていた。誰もが単なる“美談”の一つとしてしか見ていなかった些細なことから重要な意味を発見することも、私は「大きなスクープ」と考えている。
日本では贈答の慣習は、両者の力関係を反映している。たとえば通常のビジネスにおける贈答の慣例は、売る側が買う側に贈り物をする、というのが通常である。商取引においては買う側のほうが一般的には力関係で上位に位置するからだ。ただし、時には通常の商取引においても売り手側が上位に立つケースもある。それは需給バランスが大きく崩れ、供給側が優位に立ってしまうケースだ。
が、需給バランスとは無関係に贈答の慣例が逆転している世界がある。その一つが医療の分野だ。多少大げさに言えば、患者は医者に一つしかない自分の命を無担保で預けざるを得ない。患者がいい治療を行ってもらうために、担当医に贈り物をしてまで自分の治療に一生懸命になってほしいと願うのはやむを得ない。そういう世界であぐらをかき患者に君臨しているのが医者という職業なのだ。そういう逆転した世界でぬくぬくと優雅な生活をしている人たちの職業についている人は、一般的に「先生」と呼ばれる。たとえば、私のかつての世界もそうだ。売れるようになると、「先生」と呼ばれたり、また業界内では姓ではなく名前を音読みで呼ばれるようになる。名前を音読みで呼ばれるようになれば、業界で一流と認められたことを意味する。私のケースで言えば、呼ばれ方が「小林さん」から「先生」とか「きこうさん」(本当の読み方は「のりおき」なのだが)と呼ばれるようになる。また本が出版されたときは、いわゆる「打ち上げ」と称する接待がつきものだ。盆暮れには出版社から贈答品が届く。もちろん、そういう関係は、私の本が売れている間だけだったが。
ほかにも、そういう世界はいっぱいある。政治家という職業もそうだし、学校の教師・教諭、弁護士、作曲家や作詞家、画家(画家の部類に入るのかどうかは知らないが漫画家までもだ)などがそうだ。芸能人ですらある程度の地位に上り詰めると「先生」と呼ばれる。
こういう通常のビジネス関係が逆転しているのは、儒教精神が社会的規範になっている日本や韓国、中国などの国だけだ。そして、そういう世界に共通した職業的地位は「聖職」と一般的に考えられている(すべてではないが)。今、日本ではそういう世界は静かに崩れつつあるが……。
平等の意識は言うまでもなく特権意識の否定の上に形成される。ということは、貰い物をやめることによって、患者に対し「診てやるんだ」といった態度もなくなっていくことを意味する。医者と患者との間の新しいモラル形成の萌芽がこうして生まれた。徳洲会の医療革命は、ミカン1個から起こったと言っ
ても過言ではないほどである。(中略)
日本の医療は、いま大きな曲がり角に差し掛かっている。医者が患者に君臨する世界が、音を立てて崩れ去ろうとしている。明治維新前夜にも比肩すべき胎動が、医療界内部から澎湃(ほうはい)として生じたからである。(中略)
東洋医学は伝統的に「医は仁術」を精神的支柱として形成されてきた。儒教の根本理念でもある「仁」は、思いやりやあわれみの心を意味し、日本人の精神構造の中に深く棲みついてきたといえる。それが、いいことであったかどうかは別として、徳川三百年を支えたこの精神的支柱は、封建の絆から日本人が解放されて一世紀以上たっているにもかかわらず、いまだ日本人大多数の絶対
的価値観として観念の世界で生き続けてきたのである。
そのことが、実は日本において「医者が患者に君臨する世界」の構築に預かって、最大の力となった。「医は仁術だから金儲けを目的にしていない。だから医療は公共的事業なのである。そして医療が公共的なものである以上、企業や商店と同列にみなすのは間違いで、医師の特権的地位を保障すべきなのだ。それなのに、医師優遇税制をやめるというのなら、我々も保険医や学校医を総辞退して断固戦うぞ」というのが日本医師会の論理であり(※当時、厚生省=現厚労省=は医師優遇税制を抜本改革しようとしていた。当時は厚生省の抜本改革案に「まだ甘い」とマスコミは批判的だったが、いま開業医の廃業が続々と生じている)、一言で言ってしまえば「医は仁術」なる幻想を国民にばらまきながら、
実はパワーポリティクス(力の論理)で患者に君臨してきたのである。
すでに書いたように、私は好んでジャーナリストになったのではない。この世界でのキャリアが皆無の私に、結果的に私の本名で処女作を出してくれた祥伝社の編集長の肩入れと、『徳洲会の挑戦』がベストセラーになっていなかったら、私の人生は全く異なったものになっていたはずだ。
が、ベストセラーになっただけでなく、多くの評者が私の処女作を高く評価してくれたおかげで(当時、いわゆる『徳洲会もの』はかなり出版されており、すでに高名なノンフィクション作家も上梓されていたが、私の『徳洲会の挑戦』はそれらの中で格別の評価をいただいた)、雑誌や週刊誌、夕刊紙などから執筆依頼が相次ぎ、あれよあれよという間にこの世界での寵児になっていた(自分で言うのもおかしいが)。
で、この世界に飛び込んでからジャーナリズムとは何か、どうあるべきか、ということを既成の権威書は一切読まず、自分自身で自らのスタンスを確立してきた。その姿勢が、このブログの背景にある。
私自身のジャーナリストとしてのスタンスを改めて明らかにしておきたい。巨大マスコミに対する批判的スタンスをとってきた雑誌に『噂の真相』というのがあったが(2004年廃刊)、これはマスコミ界のスキャンダルを中心に編集されており、私は一切スキャンダルものには手を出したことがない。理由は簡単。いったん、スキャンダルものに手を出すと、必ず裏で金が動く。そういう世界には入り込みたくなかったからだ。
その代わり、このブログの姿勢でも明らかなように、私は大マスコミ(とくに読売新聞や朝日新聞といった大新聞社)を今標的にしているが、批判のスタンスは、「私と価値観が違う」を基準には一切していない。私が批判する基準は、大マスコミの主張の論理的まやかしである。
たとえば、読売新聞はしばしば政党や政府に対して「ポピュリズム(大衆迎
合主義)に走るな」と主張するが、私には、そうした主張自体がポピュリズム
ではないかと見える。読売新聞の論説委員たちは「ポピュリズムに走るな」と主張して政党や政府の政策を批判するが、それは自らの主張と異なるが故の「批判のための批判」の域を超えない。
これまでもブログで何度も書いてきたが、衆議院議員制度改革について、読売新聞は一貫して民主党を批判してきた。民主党は、消費税増税に当たって「国民に犠牲を強いる以上、我々も血を流す必要がある」と主張して公務員の給与水準の引き下げと国会議員定数の大幅削減を主張してきた。その民主党の主張に対し、公務員の給与引き下げは歓迎し(私もそれは当然だと思っている)、国会議員の定数削減は「ポピュリズムだ」と批判する。ご丁寧に、他の先進国の国民総数に占める国会議員数の比率を調査し、「日本の国会議員数は先進国の中で少ない方だ。民主党の定数削減主張はポピュリズムだ」と批判する。だが、日本の国会議員が、先進国の国会議員に比べ、いかに優遇されているかの調査はしていない。おそらく実際には調査して分かっているはずだが(議員数の比率だけ調査して、税金で賄っている議員の歳費やもろもろの議員特権を調査していなかったとすれば、読売新聞はもはやジャーナリズムではない。巨人軍と自民党のための有料広報紙だ)、日本の国会議員がいかに優遇されているかの先進国との比較は一切発表していない。読売新聞の主張は明らかにポピュリズム手法を用いている。選挙制度改革と定数削減問題は別の問題として論ずべきで、選挙制度改革は議員自身には絶対できないから第三者機関で行うべきだと私は主張してきて、読売新聞は私の主張の一部を最近剽窃した主張を始めたが、まさに「恥」という日本文化の伝統を継承しないことが読売新聞社の社是のように思える。誤解を招くといけないので注釈を加えるが、「恥」という文化は日本の儒教精神に根付いたものであり、私は儒教を全否定しているわけではない。宗教と呼ぶべき範疇に入るかどうかの疑問はあるが、儒教には他の宗教には見られないモラルの高さや家族の絆を大切にする精神が宿っており、そういう部分すら今の日本から失われつつある現状を私は憂いている一人である。
今回のブログのテーマから外れすぎた。日本に東京オリンピックを招致する資格があるのかという疑問を解明することが今回のブログの目的だった。日本の体育指導法としてなぜ体罰が根付いてきたのかの解明を放棄して、ただ体罰はやめようといった道義的反省だけで済まそうとしている状況で、オリンピックを開催する資格があるのかを私は問いたかった。
私は目が悪いことと、高齢者になって人並みに運動反射能力の低下が避けられなくなってきたこと、70歳以上の高齢者は格安の定額料金でバスや公営地下鉄が乗り放題になるため(ただし乗降についての要件はある)、運転免許の更新をやめた。で、電車やバスに乗る機会が増えたことで気づいたことがある。学生や中年くらいまでの社会人が、優先席でのマナー違反を平気で行う無神経さや思いやりのなさである。
まず、優先席では携帯電話の電源を切ることが義務付けられている。義務付けたのは運輸省(当時)で、学者たちによって構成された第三者機関の諮問を受けて、携帯電話が受発信する電波が心臓ペースメーカーへの影響を無視できないということを理由に禁止する通達を電車・バスなどの運営会社に出したためである。だが、世界中で、交通機関内での携帯電話の規制を行っているのは日本だけである(※携帯電話が受発信する電波は極めて微弱で、だから中継基地を広く張り巡らす必要がある。最近地下鉄の車内でも使えるようになったが、かつては電波が受発信できないくらい携帯電話の電波は微弱なのである。もし携帯電話が受発信する電波が心臓ペースメーカーに悪影響を与えるのなら、障害物がなければ日本海まで届くスカイツリーから出しているテレビ電波の心臓ペースメーカーに与える影響の方がはるかに大きいはずだ)。
心臓ペースメーカーが、携帯電話の電波でダメージを受けるほど脆いものだったら、心臓ペースメーカーを体内に入れている人はコンクリートで囲まれた部屋から一歩も出ることができなくなるはずである。だから、私は交通機関内での携帯電話やスマートフォンの必要以上の規制は全く意味がないと、何度も国土交通省や民営鉄道協会に電話で申し入れ、電話に出た方は私の主張に分があることは認めたものの、「検討させていただきます」という返事が返ってくるだけで、実際に検討に入った様子はうかがえない。
しかし、「悪法といえど法は法」と同じで、「無意味なルールといえどルールはルール」である。悪法は「悪法だ」と訴える自由はあるし、また国民の義務として訴えるべきだ。同様に携帯電話の規制は実際、無意味なのだが規制が解かれていない間はルールを守るのがマナーである。そのマナーを平気で無視し、私が注意しても知らんぷりをする若者を見ると、やはり体罰は必要だと思わざるを得ない。
なかにはこういうケースさえあった。座席がいっぱいで、私も立っていたバスに杖をついたお年寄りが乗ってきた。で、優先席に平気な顔をして座っていた30台と思しきサラリーマン風の男性に「席を代わってあげていただけませんか」とお願いしたら「ここは専用席ではないでしょう」と反論が返ってきた。子供や妻にさえ暴力をふるったことがない私だったが、このときは本気でぶん殴ってやりたくなった。バスの優先席は運転手席のすぐそばにあるので、運転手に「このバカ者に優先席と専用席、一般席の区別を教えてやってください」と申し入れ、運転手も「その席は高齢者や障害者などのために用意されている席です。そういう方がいらっしゃらない場合はお座りになっても構いませんが、高齢者などが乗ってこられたら代わってあげてください」と声をかけ、周囲の乗客たちも「そうだ、そうだ、代われ、代われ」と声を上げたので、その若者はしぶしぶ席を立ったが、こんな連中を甘やかしてきた責任は家庭にあるのか学校教育の在り方にあるのか、それを私は問いたい。
もちろん、スポーツ能力や学力が体罰で向上したりするわけがなく、とくにスポーツで体罰による指導が従来一般的に行われてきたのは、日本の伝統的な精神主義にあることを私はブログで何度も書いてきた。たとえば「心頭を滅却すれば火も自ずから涼し」などという非論理的な精神論が、日本の伝統的な武術稽古の流れを左右してきた。その流れが、日本の伝統的なスポーツである柔道や剣道、相撲などに継承され、さらに海外から入ってきたスポーツ指導にも
波及していったのである。そうした経緯を理解しないと、ただ倫理観だけで「体罰はけしからん」と言っても、スポーツ指導者が混乱するだけである。混乱状態はどういう形で現れるかというと、選手や部員を甘やかすという、振り子の原理がもろに出ることが目に見えている。ではどうしたらいいか。
まずこれまでの指導方法を根底から見直す必要がある。と言っても、現在の指導者たちに自分たちの指導方法のどこが間違っていたのかという原因を究明させることは、はっきり言って不可能である。
日本のスポーツ指導の在り方を根本から変革するには、アメリカやフランスなどに指導者を派遣してスポーツ指導の方法を学ばせることが大きな意味を持つと思う。私はスポーツ界の事情はほとんど知らないので、私が知っている情報の範囲でしか書けないのだが、まず柔道については、今や日本のお家芸ではなくフランスのお家芸になってしまった。柔道はもちろん嘉納治五郎が世界中に広めたのだが、フランスはどういう指導方法で世界に君臨する柔道王国を築いたのか、彼らの指導方法を徹底的に学ばせることだ。またアメリカでは団体スポーツの野球の指導方法を学ばせる。元巨人軍の桑田投手もPL学園時代、相当しごかれたようだが、「体罰は私の技術向上に何の役にも立たなかった」と証言している。プロの世界で一流を極めた人のこの言葉は重い。アメリカでは科学的指導法を行っていると聞くが、指導者が自らアメリカで、その科学的指導法を学ぶことによって、効果を検証する必要がある。そしてフランスやアメリカで学んできた指導法を自分が属する世界だけでなく、他のスポーツ界にも波及させる必要がある。また日本にいても学べる方法がある。サッカー界だ。スポーツそのものも国境の壁を超えているが、指導者も世界を股に渡り歩いている。日本のチーム(日本代表も含め)にも海外から指導者を招いているケースが少なくない。サッカーで、選手や部員に体罰的指導を行っているという話は聞いたことがない。
結論的に言うと、人間性を育てるための、ある程度の体罰は必要である。だが、人間性を育てるためと言いながら、実は自分の感情を抑制できず体罰を行うことは厳に慎むべきだ。
スポーツ技能向上のための指導においては、体罰は何の意味も持たない。選手や部員に恐怖心を植え付けるだけだ。もちろん一般の学問の分野での能力向上も同じである。
もとろん精神力がある程度、能力の発揮(向上ではない)に影響することは確かである。スポーツではなくても、一般的な学問の分野においても、普段ならすらすらとけるような問題が、たとえば入学試験などでは上がってしまって頭の中が混乱してしまい、本来持っているはずの能力を発揮できなくなってしまうケースもある。
野球でも、通常の打率とは別に「得点圏打率」という指数がある。走者が2塁や3塁の得点圏にいるときの打率は、一般的には通常の打率より高くなるのだが、逆に低くなったり、ほとんど差がなかったりする選手もいる。得点圏に走者がいる場合は、はっきり言って投手のほうが不利になる。「打たれたら点を与えてしまう」というプレッシャーもかかるし、走者の動きにも気を使わなくてはならない。とくに走者が3塁にいる場合は、投手はワンバウンドしてワイルドピッチになる確率が高いフォークボールは投げづらい。精神的には投手のほうがはるかに打者より不利だ。が、そういう打者にとっては絶対有利な場面で、かえって萎縮してしまい、チャンスをものにできないバッターもいる。そういう選手はしばしば「チャンスに弱い」と言われるが、「何が何でも走者を返さないと」と、投手以上に精神的に追い詰められてしまうタイプの選手である。そういう選手には、どんなに素質があっても、チャンスが回ってくる確率が高いクリーンナップは任せることができないと監督は判断せざるを得ない。
投手についても同じことが言える。たとえば中盤までほとんど走者を出さず、絶妙なピッチングをしていた投手が、たった1球のきわどい球をボールと判定されフォアボールで歩かしてしまった途端、それまでの好投はなんだったのかと思えるようにガタガタっと調子を崩してしまうケースがある。これもピンチに弱いケースで、やはり精神力の弱さによると考えていいだろう。
では、そういう選手の精神力を鍛えるために体罰を加えたら効果があるか。ありっこない。その「ありっこない」ことをやってきたのが、これまでのスポーツ指導の方法だったのである。精神力の強弱は、ある程度持って生まれた要素であり、精神力を高める方法は、少なくとも今はない。スポーツ選手によっては、オフシーズンに禅寺にこもって精神修行に励む人もいるが、効果が明らかであれば、精神修行は爆発的にはやるはずだ。また精神力を強化する、と称するノウハウ本もこれまで何冊も出版されており、爆発的に売れた本もあるが、一時的な現象で終わっている。まして体罰で心の問題を解決できようわけがなく、また体罰でスポーツ能力にせよ、一般的な学力向上にせよ、成功するわけがないことくらい子供でも分かる話だ。それなのに、スポーツ指導者が体罰に走るのは、精神力を鍛えるという口実のもとに、実際には自分の指導力の未熟さを選手や部員に責任転嫁しているだけである。「体罰はいけない」という道徳的な反省だけで終止符を打ったら、日本のスポーツはただの遊びになってしまう。もちろんただの遊びだけでスポーツを楽しむ人も少なくなく(むしろ大多数がそうだろう)、遊びは遊びの世界でのルールやマナーが重視されなければならない。たとえば私はフィットネスクラブでいろいろなレッスンに参加しているが、それぞれ参加するレッスンには目的を持って参加している。たとえば水泳ではクロール、平泳ぎ、背泳ぎのレッスンに参加している。レッスンに参加するようになった理由は、私が子供のころに教わった泳法と、今の泳法は天地がひっくり返るほど違っており、最初のころは子供時代におぼえた泳法で勝手に泳いでいたが、ふと隣のコースで行っていたレッスンを見て興味を感じたのがきっかけだった。たとえば、平泳ぎでいえば、昔は泳いでいるときは顔を水面上に出して常時呼吸をしながら「カエル泳ぎ」のようなスタイルで泳いでいた。ところが今の泳法は、呼吸をするときしか顔を水面上に出さないし、手のかき方、キックの仕方、ターンの仕方に至るまで全く違うのである。私に言わせれば、天地がひっくり返るほどの差異を感じた。水泳のレッスンに参加するようになったのは、それからである。
スポーツをする目的は、当然人によってそれぞれ異なる。それを同一の目的にしようというのが許されるのはプロの世界だけである(アマチュア競技であっても、オリンピックや世界選手権出場を目指す競技に関してはプロと同一視してかまわない)。だが、そのためには体罰を使っても許されるというのは理屈が通らない。まして、桜宮高校のように、キャプテンだからと、他の部員に対する戒めを目的として体罰を行うのは、もはやスポーツ指導の域を超えて刑事事件の対象となる「暴力行為」である。
私はこのブログの冒頭で、体罰の全否定論者ではない、とお断りした。ということは、体罰を行う以外教育指導の目的を達成できないケースもある、と私は考えている。バスの中での出来事については、このブログで書いたが、少子高齢化に歯止めがかからない中で、子供に対する厳しいしつけを家庭が放棄しているからさまざまな問題が生じている。学校の教諭・教師には重たい荷物を背負わされることになるが、学校は学問を教えるためだけの存在ではない。子供といえど、家や学校から一歩出れば社会の中で生活することになる。だとしたら、社会の中で生活して行くためのルールや、弱者に対する思いやりの気持ちの尊さ、自由・権利・義務・責任の相互関係を認識させることなども、これからの学校教育の重要な課題となる。そういう目的を達成するための、たとえば「いじめっ子」に対する体罰は、口で言っても効果がない場合はあえて行う必要がある、と私は考えている。つまり、自分自身が痛い思いをすることによって、自分がいじめてきた子の気持ちをわからせることは教育方針の一環として必要だと、私は思う。もちろん、そうした目的の体罰であっても、許容される体罰の限界はあるが。
読者の皆さん、もう一度「体罰の是非」について、いったん頭の中を空っぽにして考えてみませんか。日本の将来を担う子供たちを、担える人間に育てるために、どういう教育方法が必要かを……。そして東京オリンピック開催決定を単純に喜び祝い合うだけでなく、オリンピックを契機に日本の体育指導法を根底から覆す機会にすべきではないかということを……。
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