小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

財務省・矢野事務次官の「国家財政破綻」論を論理的に検証した。

2021-11-02 08:23:47 | Weblog
【緊急追記】 岸田政府はアベノミクス離れを始めたのか? 日銀・黒田は?(10日)
米FRB(アメリカの中央銀行、日本の日銀に相当)が景気過熱を懸念して金融引き締めを模索しているなかで、依然としてマイナス金利政策と続ける日銀・黒田総裁。本来、アメリカが金融引き締め(政策金利の上昇)すれば日米の金利差が大きくなるため一段と円安が加速するはずなのだが、逆に先週から急速な円高に向かいつつある。なお10月下旬、円は1ドル=114円台後半と3年11か月ぶりの安値に下落している。
日本経済新聞のネット配信(9日)によれば、日銀・黒田東彦総裁と岸田新内閣の鈴木俊一財務相のあいだに為替相場についての認識のずれが生じ始めたようだ。果たして岸田総理の「新しい資本主義」(新自由主義からの脱皮?)が、円安誘導を政府と日銀が二人三脚で進めてきたアベノミクス金融政策からの転換を始めたのだろうか~。
ただ、二人の記者会見の日時に若干のずれがある。そのことを前提に二人の認識を日経即は維新から引用する。

黒田(10月28日)「現時点で、若干の円安だが、悪い円安ということはない。むしろ、輸出への影響や海外子会社の収益の増加などを通じてプラスの効果がある。総合的に見てプラスであることは確実だ。
鈴木(11月2日)「私の発言が至上への影響を与えてはいけないので、足元の為替水準などについてコメントは差し控えたい。為替が安定することが重要。為替市場の動向をしっかり注視していきたい」

なお日経配信では不明だが、アベノミクスによる円安誘導で自動車や電機など輸出産業の収益は大幅に良化したが、輸出の量的拡大はどうだったのか。その検証は本文で行ったが(数字的裏付けが不十分であることは認める)、任天堂やソニーなどゲーム機メーカーは輸出増大と円安によるダブル・プレゼントにありつけたと思うが、それらの一部輸出商品以外は輸出の量的拡大はほとんどなかったのではないか。
アメリカの前大統領・トランプ氏は鉄鋼・アルミ製品や自動車の輸入に高率関税をかけて国内産業の競争力回復を目指したが、GMは5工場(うちカナダが1工場)を閉鎖して生産量を縮小した。輸入部品が高騰したせいもあるが、アメリカの自動車マーケット自体が縮小しつつあるためと考えられる。
先進国や発展途上国は軒並み人口減少時代に突入しているうえ、自動車や家電製品のマーケットは飽和状態に達し、買い替え需要にマーケットは限定されつつある。
しかも、これらの製品は技術革新によって買い替えサイクルの寿命が延び、日本では若い人たちの自動車離れも生じている。需要が伸びないのに円安誘導で自動車や電気製品の国際競争力を回復させようとしても、メーカーはおいそれと設備投資をして生産拡大に走ろうとはせず、むしろ輸出価格を据え置いて生産量を維持し、為替差益だけちゃっかりため込むという戦略に出たのではないか。
その一方、円安は輸入製品の価格上昇によって消費者物価は高騰するはずなのだが、輸入品が為替相場を反映すると消費者の購買意欲を冷え込ませるだけということもあって、海外ブランド品などは輸出ダンピングに走り消費者物価はほとんど上昇しなかった。かつてプラザ合意で日独英仏がドル安協調介入を行い、わずか2年間で円は倍に上昇したが、海外ブランド品は日本への輸出価格をほとんど引き下げなかった。そのとき海外ブランドメーカーは「日本では価格が高いことがステータス・シンボルになり、価格を下げるとかえって売れなくなる」という奇妙な論理でがっぽり為替差益を稼いだ。
日本政府は一貫して大企業の育成を経済成長の基本政策にしてきたが、そういう時代は終焉しつつあるのではないか。岸田政府の「新しい資本主義」経済政策が「ものづくり」至上主義からの脱皮による新しい市場価値の創造に向かうのかどうかが今後問われていく。


矢野康治・財務事務次官が月刊誌『文藝春秋』(11月号)に寄稿した論文『財務次官、モノ申す「このままでは国家財政が破綻する」』が話題を呼んでいる。「よくぞ警鐘を鳴らしてくれた」と高く評価する人がいる一方、MMT(現代貨幣理論)論者とみられる人たちからは「自国通貨を発行できる国は財政破綻しない」という批判も多く寄せられている。
財務次官という立場にある人が自論を一般雑誌に寄稿することの是非は置いておいて、外野席からこの問題を論理的に考えてみた。日本人は「権威」とやらに弱く、経済学の権威でも何でもない私の問題提起など見向きもされないかもしれないが、それはそれで構わない。知識に頼るのではなく、論理思考を武器にすれば、これだけの論陣を張れる。

●「新自由主義」というおかしな用語
いきなりだが、ちょっと本題から外れる。
岸田氏が自民党総裁選に臨んだとき、「小泉政権以来の新自由主義からの脱皮」というスローガンを掲げた。確かに新自由主義(新保守主義とも)という言葉は定着して使われているが、私はずって用語法として間違っていると思っていた。この言葉から受けるイメージは思想的であって、経済政策の用語としては不適切だからだ。私は「新自由競争主義」とするべきと考えている。で、私の用語を使って以下、書く。
資本主義経済原理を初めて体系化したのはアダム・スミスである。スミスの思想は「自由放任主義」とも言われ、経済活動に対する政府の関与は可能な限り小さくして「(神の)見えざる手」に委ねるべきだというもの。需要が供給を上回ればインフレになるし、逆に供給が需要を上回ればデフレになる。市場原理に任せておけば、自然にバランスが取れるようになるという超楽観主義の経済思想だ。言うなら、この思想が「古典的自由競争主義」である。
が、実際の市場はそれほど冷静ではない。需給関係は政府がコントロールすべきと主張したのがマルクスの計画経済論。経済活動の自由度を完全否定した(ここでは政治思想としてのマルクス主義は問わない)。
このマルクスの経済思想を資本主義経済理論に取り込んだのが、実はケインズ理論である。スミスの「振り子の原理」的経済政策では競争が行き過ぎる欠陥がある(デフレ不況や悪性インフレ、スタグフレーションの要因の一つ)ため、とくに不況時には政府が公共工事など財政出動して雇用を確保し、需給バランスを調整するという考えだ。
実はケインズ理論は不況対策としての経済政策論だが、マクロ経済理論としてはたぶん誰も主張した人はいないようだが(私の不勉強のせいで私が知らないだけかもしれない)、巨大な資本投下が必要な大規模交通インフラ(鉄道や道路など)や通信インフラ、電力インフラ、上下水道などの生活インフラは一民間企業の手におえるものではなく、政府が主導するケースが資本主義国でも多い。言うなら「国家独占資本主義形態」と言えなくもない。そして高度に発展した先進国では、この「親方日の丸」体質の温存が経営の非効率化を生み、「新自由競争主義」の考えが生まれる。つまり民営化理論である。
その走りは英サッチャーと言われているが(サッチャリズム)、実は鄧小平の「改革開放」政策(1978~)の方が一歩早かった。「富める者から先に富み、そのお裾分けを広げる」という、計画経済から市場経済へと大きく舵を切った経済政策である。なんと岸田総理の「成長の果実を分配に」「成長と分配の好循環」とそっくりな経済政策ではないか。
サッチャーが国営企業だった水道、電気、ガス、通信、鉄道、航空などを数年かけて次々に民営化し、いわゆる「英国病」を脱し、民間活力を経済政策の軸足にしたのは1979年以降だ。日本では中曽根康弘(元総理)が1985~87にかけて日本専売公社、電電公社、国鉄を次々に民営化して経営の効率化を進めたのが「新自由競争主義」の幕開けである。そういう意味では岸田総理の「小泉政権以来の」という歴史認識は完全な間違い。
ついでに小泉「郵政民営化」は結果的に大失敗だった。

●小泉「郵政民営化」はなぜ日本郵便の詐欺商法を生んだのか~
小泉郵政改革が実現したのは2007年。郵便事業がすべて民営化され、持ち株会社の日本郵政のもとに日本郵便、ゆうちょ銀行、かんぽ生命の子会社3社が発足した。もともと銀行業務や生保業務は民間と激しく競争していたから民営化による特段のメリットが生まれるわけではない。むしろ民営化したことで、利用者からすると安心感が失われた分、競争力が低下したはずだ。
問題は郵便事業である。小泉内閣は民間企業の参入についてユニバーサル・サービスを義務付けるなど、かなり厳しい参入条件を付けた。そのため民間からの参入はなかった。ゆいつヤマト運輸がコンビニを郵便局代わりに使うというアイデアで参入したが(メール便)、配達でトラブルが頻発した。ネット・オークションで一番扱いが多い商品券や株主優待券、割引券などの金券類の発送にメール便を利用する出品者が急増したのである。普通郵便の場合、発送記録がないため発送記録が残り配送追跡も可能なメール便は出品者にとって極めて便利な発送手段になったのだ。
が、金券類の発送に出品者が薄い茶封筒を使うなど、1円でも儲けようという心理が働くのか、郵便局の責任者に聞いたところでは封筒の手触りだけで中身がほぼわかるというのだ。そのうえ、ヤマトの配達人(ヤマト運輸の社員ではなく請負の個人事業者)は都市部にしか存在しない。過疎地への配達は郵便局に丸投げしているようだ。
そういうこともあって金券類の未着トラブルが頻発し、ヤマト運輸はメール便事業から手を引かざるを得なくなった。結局、はがきや手紙などの郵便物の独占状態に変化は生じず、民間活力を生かすという小泉構想は看板倒れというか、「絵に描いた餅」に終わってしまった。銀行業務や生保業務はもともと民間との激しい競争下にあったから。
それだけに止まっていれば、大きな問題にはならなかったが、日本郵便にとってとんでもない競争相手が異次元の世界から登場した。携帯電話(スマホ)である。日本ではすでに1999年にNTTドコモがiモードを発売、携帯電話によるインタネット接続が可能になっていたが、通話料金が高いなどの問題で広く普及するまでには至らなかった。
が、郵政民営化の翌年08年にアップルのiPhoneが日本上陸を果たし、グーグルがアンドロイド・スマホで参入、NTTドコモだけでなくKDDIのauやソフトバンクも携帯市場に参入、大手3社の通信帯を借りる格安スマホ会社が乱立、楽天も自前で基地局を持つ第4の携帯大手に名乗りを上げるなど、はがきや手紙に代わる手段としてメールが台頭するようになった。その結果、郵便物市場が縮小し、郵便局の多くが赤字経営に陥った。
郵便物の集配事業は典型的な労働集約型産業であり、事業収益は人件費のピンハネに依存するしかない。が、労働集約型産業の人件費は3K労働ということもあって高騰し続けた。一方、はがきや手紙の料金は監督官庁の総務省に抑え込まれ、扱い量もメールの普及によって減少の一途をたどる。人手不足を理由に宅配料金は数年前、大幅に値上げされたが、はがきや手紙の料金は値上げを総務省が認めなかった。バカか~
そういう状況下で、日本郵便が赤字の穴埋めとしてかんぽ商品を、特に高齢者向けに「オレオレ詐欺」まがいの商法に走ったのは、別に肯定するわけではないが、やむを得ない「正当防衛」手段だったと言えなくもない。
少なくとも郵便事業を民営化するのであれば、経営の自由度も高めてやらないと、手足を縛って「さあ、相撲を取れ」と言うに等しいと言わざるを得ない。固定電話料金みたいに距離制料金制度にするわけにもいかないのだから、はがき代や切手代の値上げや、大都市以外の集配制度の自由度を認めるとかしないと経営が成り立たなくなるのは当たり前だ。具体的方法としては人口密度に応じて地域ごとに集配を週に1~5回に区分けすることができれば、全国2万4395局もある郵便局(簡易郵便局4241局を含む)を統廃合によって半分以下に縮小できるだろう(郵便局数は17年度末)。
現に、中曽根・国鉄民営化ではJRにかなりの経営自由度を認めた。過疎地の赤字路線の撤廃や第3セクター化などで黒字経営体質への移行を容認した。それに比べれば小泉・郵政民営化は極端な言い方をすれば「角を矯めて牛を殺す」ような改革だった。

●「新自由主義競争主義」からの脱皮政策で真っ先に行うべきこと
岸田総理が「小泉内閣以来の~」と中曽根・民営化路線と切り離してスローガン化したのは、たぶん日本郵便の経営の自由度を容認するつもりではないかと思っているが、それ以外にどうしても実現してもらいたいことがある。
その一つはパソコンとスマホの共通化である。私は高齢で細かい字が読みづらくなって来たため、新聞などの活字媒体はほとんど読まない。デジタル新聞は購読しているが、スマホでも読めないことはないが、文字をかなり拡大する必要があり、そうなると読みづらくて仕方がない。しかも私のブログはかなり長文だし、書いているのはブログだけではないからスマホで長文の文章を入力するのは自殺行為になってしまう。そのため私はスマホをほぼ「かけ放題」の電話機としてしか使っていない。だからデータ容量は最低の0.5ギガにして基本料金を抑えてはいるが、それでもパソコンとスマホのプロバイダー料を別々に支払っている。なんとなくバカバカしい思いがしてならない。
私が考えているのは、イメージとして昔のワープロとスマホをUSBケーブルでつなぐような方法だ。つまり、インターネットへのアクセスはスマホで行い、その画面はパソコンのディスプレーで見る。つまりスマホで取り込んだ映像をパソコンの大画面で見る。その逆に入力作業はパソコンで行い(パソコン用キーボードを使う)、パソコン画面で推敲してからデータをスマホに移して発信する。パソコンにかかる電話回線使用料やプロバイダ料、Wi-Fiレンタル料などが一切不要になる。その程度のこと、大げさな技術革新など必要ないと思うが…。
次にスマホの6G時代に向けて民間携帯会社が別々に基地局を設置するといった無駄な投資をやめて、政府が一元的に基地局を全国に網羅してプラットホーム・ビジネス化する。つまり一つの基地局網を携帯各社が平等・公平に利用できるようにする。たとえば地デジテレビ放送用のスカイツリーのようなイメージで考えてほしい。テレビ電波の場合は放送各局に電波帯域を割り当てざるを得ないが、スマホ用の場合は携帯電話事業者に電波帯域を割り当てる必要はまったくない。基地局をプラットホーム化すれば、携帯料金は大幅に安くなる。携帯事業者もいろいろなプランを考えて公平な競争条件を活用できるようになる。例えば電気料金のように、夜料金と昼料金に分けることも出来るし、もっときめ細かく時間帯によって使用できるデータ容量を変動制にしたりする会社も現れそうだ。
とくにインフラ事業は民間に丸投げすることだけが効率化するとは限らない。インフラは官が設置し、その運用は民間に委ねることも考えていい。プラットホーム基地局についていえば、官が一元的に設置した後は、JR方式のように全国を6~8くらいの地域別に運営を民間企業に任せてサービス競争させることも考えられる。「新自由競争主義」からの脱皮という以上、官でなければ不可能な巨大インフラ投資は官が行った方が効率的なケースもあるということだ。

●PB(プライマリー・バランス)は緊縮財政の代名詞ではない
そろそろ本論に戻る。矢野次官は論文でこう主張している。
「今の日本の状況を喩えれば、タイタニック号が氷山に向かって突進しているようなものです。氷山(債務)はすでに巨大なのに、この山をさらに大きくしながら航海を続けているのです。タイタニック号は衝突直前まで氷山の存在に気づきませんでしたが、日本は債務の山の存在にはずいぶん前から気づいています。ただ、霧に包まれているせいで、いつ目の前に現れるかがわからない。そのため衝突を回避しようとする緊張感が緩んでいるのです」
 日本政府が抱える債務の巨大さを氷山にたとえるのは多少違和感がある。私の感覚では東日本大震災の前夜の状況と言いたい。08年、国の研究機関は調査・研究の結果として、東電に対し「福島第1原発には15メートル超の巨大津波が押し寄せるリスク」を警告していた。もちろん、そのリスクがいつ現実化するかは誰にもわからない。東電はリスクを承知していながら対策を先延ばしにしてきて、そして09年3月11日を迎えた。
矢野論文は3.11リスクの警告を発したもの、と私は理解している。矢野次官は論文の冒頭で、「やむに已まれぬ気持ち」をこう吐露している。
「最近のバラマキ合戦のような政策論を聞いていて、やむにやまれぬ大和魂か、もうじっと黙っているわけにはいかない、ここで言うべきことを言わねば卑怯でさえあると思います。数十兆円もの大規模な経済対策が謳われ、一方では、財政収支黒字化の凍結が訴えられ、さらには消費税率の引き下げまでが提案されている。まるで国庫には、無尽蔵にお金があるかのような話ばかりが聞こえてきます」(中略)「私は、国家公務員は『心あるモノ言う犬』であらねばと思っています。昨年、脱炭素技術の研究・開発基金を1兆円から2兆円にせよという菅前首相に対して、私が『2兆円にするにしても、赤字国債によってではなく、地球温暖化対策税を充てるべき』と食い下がろうとしたところ、厳しくお叱りを受け一蹴されたと新聞に書かれたことがありました。あれは実際に起きた事実ですが、どんなに小さなことでも、違うとか、よりよい方途があると思う話は相手が政治家の先生でも、役所の上司であっても、はっきり言うようにしてきました。『不偏不党』――これは、全ての国家公務員が就職する際に、宣誓書に書かせられる言葉です。財務省も霞が関全体も、そうした有意な忠犬の集まりでなければなりません」(中略)「財務省は、公文書改ざん問題を起こした役所でもあります。世にも恥ずべき不祥事まで巻き起こして、『どの口が言う』とお叱りを受けるかもしれません。私自身、調査に当たった責任者であり、あの恥辱を忘れたことはありません。猛省の上にも猛省を重ね、常に謙虚に、自己検証しつつ、その上で『勇気をもって意見具申』せねばならない。それを怠り、ためらうのは保身であり、己が傷つくのが嫌だからであり、私心が公を思う心に優ってしまっているからだと思います。私たち公僕は一切の偏りを排して、日本のために真にどうあるべきかを考えて任に当たらねばなりません」
私は涙もろいせいもあるが、涙失くして読めなかった。現在、国の長期債務は973兆円、地方の債務を合わせると1166兆円に達している。コロナ対策費がどんどん出ていく今年度末の債務残高は確実に1200兆円を超えるとみられている。これは国の借金である。国債には償還期限があり、期限が来ると返さなければならない。
「いや、国債の償還分を新たな国債の発行で賄えばいい。日本は自国通貨をいくらでも発行できるから、いくら国債を発行してもデフォルト(財政破綻)に陥る心配はない」という反論も実際に生じている。本当にそうか。
が、こうした考え方が徐々に日本のマクロ経済学者の間でも広まりつつある。MMT(現代貨幣理論)という新マクロ経済論だが、簡単に言ってしまえば「自転車操業財政論」である。そんな自転車操業が永遠に続くとは、MMT論者も主張しておらず、「インフレが悪化し始めたら国債発行を止めればいい」と言うが、ではそのとき未償還の国債はどうする。まさか「徳政令」や「棄捐令」を発令して借金をチャラにしろなどと無茶は言うまい。
PB(プライマリー・バランス)主義は別に緊縮財政の代名詞ではなく、財政の健全化つまり「入るを図りて出を制す」という健全財政論である。

●MMT(現代貨幣理論)の欺瞞性を暴く
MMTの主な主張は次の3点からなる。
1. 自国通貨を発行できる政府は財政赤字を拡大しても債務不履行にはならない。
2. ただし、政府は過度のインフレが生じない範囲に財政赤字をとどめよ。
3. 税は財源ではなく、通貨を流通させる仕組みである。
いずれも従来の経済学の常識を根底から覆すようなショッキングな説である。この説に正当性があるならば、私たちは年金問題に苦しむ必要はないことになる。いま日本だけでなく世界の先進国や途上国の一部は人類がかつて経験したことがない「少子高齢化」と「人口減少問題」に直面している。
実は「少子化」と「高齢化」はまったく別の現象で、たまたま同時期に生じた「二つ玉低気圧」のような現象である。少子化とは合計特殊出生率(一人の女性が生涯に産む子供の数)が人口維持の基準とされている2.1を下回る現象。日本の場合、1.36(19年)と、基準をはるかに下回っている。一方、高齢化は高齢者の健康志向や生活様式(食生活も含む)、医療技術の進歩などによって平均寿命が延び、少子化と重なって人口構成に占める高齢者比率が高まっている現象。一般に全人口に占める65歳以上の高齢者比率が7%を超えると「高齢化社会」、14%を超えると「高齢社会」、21%を超えると「超高齢社会」と区分けされているようだが、日本の場合、すでに高齢化率は28.4%(19年)に達しており、25年には30%、60年には40%に達するとみられている。
で、当然ながら年金問題が浮上した。従来、年金制度は現役世代の平均賃金や物価の変動に応じて支給額を調整することを原則としていたが、少子化による現役世代(生産人口=労働人口)が減少し、高齢者の年金制度を支えきれなくなってきた。で、年金制度を維持することを目的に導入されたのが「マクロ経済スライド」方式。計算方式はややこしいので説明を省くが、要するに年金制度を維持するために現役世代が負担できる範囲に支給額をとどめようという仕組み。言うなら年金制度のPB版というわけだ。
もしPBを無視していくらでも赤字国債を発行できるのなら、別に現役世代の年金負担を増やさなくても従来の年金支給制度を維持できるはず。なぜMMT論者は年金制度のマクロ経済スライド方式に噛み付かないのか~
そもそもMMTの根本的間違いは、「自国通貨の発行権」は政府ではなく中央銀行が持っていることを無視して、中央銀行を政府機関と思い込んでいることにある。日本の場合、確かに貨幣の製造は財務省造幣局が行っているが、財務省(政府機関)が勝手に貨幣を発行できるわけではない。たまたま日本の場合、日銀の黒田総裁が安倍氏と二人三脚で消費者物価2%上昇を目指し、そのために大胆な金融緩和策(「黒田バズーカ砲」の異名が付けられた)を発動してきたため、いつまでも無制限に日銀が赤字国債を買い入れることができると錯覚した経済学者たちが多かっただけのこと。
次に「悪性インフレになったら赤字国債の発行をストップすればいい」という手前勝手な主張だが、すでに述べたように既発行の国債は期限が来たら償還しなければならない。現に今でも歳出の22%強は既発赤字国債の償還に充てられている。
もちろんその償還が税収から行われているのであれば、いつかは国の債務は解消する。が、実際には赤字国債の償還のための原資は、新たな赤字国債の発行によって賄われているのが現実であり、しかも償還分だけでなく更なる積極財政の名のもとに発行額がどんどん増えていっている。
矢野次官はそういう状態を「ワニの口」にたとえる。ワニの口は「<字型」に開いている。「ワニの口は塞がなければならない」という小見出しを付けてこう説明する。
「歳出と歳入(税収)の推移を示した2つの折れ線グラフは、私が平成10年ころに“ワニの口”と省内で俗称したのが始まりですが、その後、四半世紀ほど経ってもなお、『開いた口がふさがらない』状態が延々と続いています」。つまり歳入と歳出の差が<字型にどんどん開く一方になっていっている(国の借金が増え続けていること)と言うのだ。「ですから『経済成長だけで財政健全化』できれば、それに越したことはありませんが、それは夢物語であり幻想です」「これまでリーマン・ショック、東日本大震災、コロナ禍と十数年に2度も3度も大きな国難に見舞われたのですから、『平時は黒字にして、有事に備える』という良識と危機意識を国民全体が共有する必要があり、歳出・歳入両面の構造的な改革が不可欠です」
矢野次官の「財政健全化」論は言うなら「財政安保」論と言い換えてもいいと思う。我が国自衛隊は、平時は自然災害などへの対応で済むが、万が一の有事への備えが本来の目的である。日本政府は「経済成長」を旗印に赤字国債を乱発しているが、いつまでも「自転車操業」ができるわけではなく、既発国債を償還できなくなれば、たちまち国家財政はデフォルト(債務不履行=財政破綻)に陥る。MMT論者は赤字国債の発行をストップしたとたん既発国債の償還が不可能になるという冷酷な現実が分かっているのか~。
最後に「税収は財源ではなく、通貨を流通させる仕組み」というおかしな定義について。まったく意味不明である。税収は歳入の基本であり、社会福祉や公共サービスなどに費消される。しかし個人や企業は収入のすべてを税金として国や地方自治体に収めているわけではない。そういう考え方がないではないが、その場合は国が国民生活や企業の生産活動に必要な金を税収から分配しなければならない。マルクス思想に近いが、MMTは先進資本主義国を前提にしている。であれば、「通貨を流通させる仕組み」は個人や企業が税金を納めた残りの可処分所得を決済手段として使うためのものだ。結果的に税収は社会福祉や公共サービスに費消されるから、税金としての通貨による歳入は、その費消手段でもあるが、それは結果解釈の一部に過ぎない。
それに、サウジアラビア、クウェート、カタール、ドバイ、バーレーン、オマーンなど中東の産油国には個人所得税がない国もある。そういう国では、MMTによれば通貨は流通しないことになる。奇をてらっての新定義かは知らぬが、MMTは説明すべきだ。
まだある。貨幣(通貨)には国内では売買の決済手段としての機能を持つが、自国通貨の交換価値は為替相場で決められるという事実をMMTはまったく無視している。つまり変動相場制のもとでは通貨は「商品」として売買の対象になっており、「円」の商品価値が為替市場で暴落したら、そのとき日本財政は東日本大震災に直撃されることになる(矢野氏に言わせれば氷山への激突)。前もってその兆候が分かれば手の打ちようもあるかもしれないが、1929年の世界大恐慌にしても、最近のケースではギリシャのデフォルトにしても予兆なんか何もなかった。ある朝、突然生じるのである。バブルの崩壊は一瞬ではなかったが、デフォルトは一瞬にして生じる。円に対する信用が為替市場で失われた瞬間、投資ファンドが一斉に円を売り浴びせ収拾がつかなくなる。為替市場では「通貨は決済手段ではなく取引対象の商品(ただし使用価値のない商品)」であり、現実社会における通貨の交換価値を決定的に左右しているという事実にMMTは完全に目を背けている。

●もはや経済成長の時代は終焉した。
失われた30年のきっかけとなったバブル崩壊は、不動産バブルを一気に弾けさせるため大蔵省(当時)が「総量規制」によって銀行の無謀とも言える不動産関連融資に歯止めをかけ、日銀はバブル経済を支えた澄田総裁のもとでの金融緩和を一気に引き締めに転じるという、「軟着陸」ではなく「強制胴体着陸」を行ったことでバブルを一気に弾かせた。自称「経済評論家」の佐高信氏は金融政策を転換した日銀・三重野総裁を「平成の鬼平」と持ち上げたが、その評価についての説明責任はいまだ果たしていない。
以降、一時的なミニ・バブルがIT関連で生じたこともあったが、ほぼ日本経済は停滞状態が続いている。安倍元総理はアベノミクスの成果の一つとして株価上昇を挙げたが、官製相場による効果といった方が正確だ。日銀が景気浮揚策の一環として株式や投信を大量購入し、年金機構も日銀・官製相場に便乗して株式市場で資金運用を強めた結果の株価上昇だからだ。だから日銀も年金機構も帳簿上では含み益が巨大化しているが、現実に利益として確定するには所有している株式や投信を売却しなければならない。
あまりにも大量に保有しすぎているため日銀や年金機構が直接株式市場で保有株や投信を一部でも売却すると雪崩現象のような暴落が生じかねない。それを防ぐためには場外で第3者に少しずつ保有株や投信を譲渡し、第3者が株式市場で売却するという手法を取るしかないだろう。
それはともかく、政府が赤字国債を大量に発行し、日銀が「いくらでも買う」と言っていながら金利が上昇しない。中央銀行が民間の金融機関に資金を貸し出す際の政策金利(日本では公定歩合と呼ぶ)とは別に、市場で売買される長期国債の価格変動による長短市中金利がある。すでに欧米先進国ではコロナ禍後の経済復興を見越して市中金利は少しずつ上昇しており、アメリカの中央銀行FRBのパウエル議長も政策金利の上昇を視野に入れつつある。が、日本の黒田・日銀総裁は金利引き上げなど眼中にないかのようだ。10月28日も定例の記者会見で黒田総裁は金融緩和を続けると発表した。アホか~
が、日銀がいくら金融緩和策を継続しても資金需要は生じない。すでに民間にはお金がだぶついている。コロナ禍で職を失った非正規社員や営業不振に陥った飲食業や旅行関連産業には資金需要があるが、日本の金融機関はよく言われるように「晴れの日に傘を貸したがり、雨が降り出すと傘を取り上げる」という「ユダヤの商人」根性をしっかり持っているから、資金需要がある先への融資基準はかなり厳しい。
結果として内部留保で資金がだぶついている大企業や富裕層には資金需要がないから、日銀が政策金利を引き上げたら金融機関への預貯金が殺到し、中小金融機関の経営が行き詰まってしまう。
そもそも安倍政権時代、何とかデフレ不況から脱却して経済を再び成長路線に戻そうと、日銀・黒田総裁と二人三脚で金融緩和をしたが、一向に消費者物価は上昇しない。安倍政権下で消費税を5%上昇させたにもかかわらず、消費者物価は増税分すら上昇していない。少なくともアベノミクスではデフレ脱却は不可能だったことがもはや歴然としている。
日本ではGDP(国内総生産)の55~60%は個人消費が占めるとされている。が、少子高齢化で消費活動の中核となるべき現役世代の消費志向がいま完全に萎えているのだ。
前回のブログで書いたが、金融庁が19年6月、夫65歳、妻60歳で年金生活に入った場合、年金収入だけでは生活資金が不足するという試算を公表した。不足額は月5.5万円として余命20年の場合は1320万円、余命30年の場合は1980万円の貯えが必要というのが試算結果だった。いわゆる「老後生活2000万円」問題だ。
実はこの試算方法そのものがめちゃくちゃなのだが、確かに定年退職後の数年間は現役時代の同僚や友人との交際も続くだろうし、夫婦「水入らず旅行」などで家計の出費は年金収入ではそのくらい不足するかもしれない。が、そんな生活をいつまでも続けられるわけがない。年を重ねるごとに行動範囲も狭くなり、カネを使う機会も減少する。増え続ける医療費を考慮に入れても年々出費は減り続け、個人差はあるにせよ夫75歳、妻70歳前後で家計は黒字化するはずだ。麻生財務相は、金融庁のこの報告の受け取りを拒否したが、現役世代が老後生活のためにますますカネを使わなくなることを恐れてのことだけだ。
ただし金融庁の調査報告は19年6月であり、国民の貯蓄性向はそれより早くから進んでいた。その理由は少子化傾向が明らかになりだしたころから、若い人たちの実感として「将来年金生活に入ったとき、年金だけでは食べていけなくなる」という認識が広まっていったことにある。私も含めて今の高齢者は子供たちに生活の世話になろうとは思っていないし、また子供たちも「遺産なんか残してくれなくてもいいから、私たちを当てにしないでね」とはっきり言う。核家族化の進行とともに親子のきずなもだんだん細くなっていくのはやむを得ないことだ。「老々介護」の悲劇は増すばかりだ。
そのうえ、もっと厳しい問題に日本経済は直面している。岸田氏が自民党総裁選で「宏池会」の生みの親である池田元総理の「所得倍増計画」をもじって「令和版所得倍増計画」をぶち上げたが、自民党内部から「時代環境が違いすぎる」と猛反発を食い、総選挙ではこのアドバルーンを引っ込めてしまった。
日本で貯蓄性向が高まったのは将来への不安だけでなく、消費マインドを刺激するような商品が高度経済成長期以降の約半世紀ほとんど出現していないことにもよる。実際戦後日本の奇跡的な経済回復は、吉田茂氏による「傾斜生産方式」で近代産業力の回復を最優先したことで朝鮮戦争特需にありつけ、「3種の神器」(白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫)が庶民の消費マインドを刺激、経済成長の原動力になった。さらに「3C」(カー、クーラー、カラーテレビ)が庶民の手が届くようになって消費マインドを刺激し、日本は高度経済成長時代を謳歌した。
さらに重要だったことは当時の所得税制が超累進課税のシャウプ税制により世界で最も所得格差の少ない国になったこともあって、「1億総中流意識」が醸成されて、それが巨大な需要を生み出したことも忘れてはならない。
その高度経済成長時代と比較すると、なぜ日本経済の停滞が生じたのか、目に見えるようだ。従業員の年収は過去30年間ほとんど横ばい状態で、可処分所得が増えない状態が長く続いている。また若い人の大都市集中で、まず自動車が若い人たちの消費マインドを刺激しなくなった。
若者の自動車離れの傾向が明らかになったのは2000年代初頭だが、自動車所有がもはやステータス・シンボルではなくなったこと、自動車は所有するものではなく利用するものという認識が浸透してレンタルやカー・シェア市場が急速に伸びたことが理由の一つと言えるだろう。また大都市部は電車・地下鉄・バスといった公共交通機関インフラが充実し、移動に要する時間が読めない車より公共交通機関の方が移動手段としての利便性の高さに対する認識が広まったことなどがある。
他の電気製品も技術の進歩で耐久年数が伸び、買い替え需要のサイクルも長くなり、それも経済活動の足を引っ張っている。
そう考えていくと、この半世紀の間、新しい市場が生まれたのはテレビ・ゲームと携帯電話くらいしかないのではないか。まさかドローンが家庭に普及するなどと考えるバカはいまい。アベノミクスで円安誘導して自動車や家電製品の国際競争力を回復しても、少子化現象で国内市場の伸びが期待できないため、メーカーはリスクの大きい設備投資にはなかなか踏み切れない。設備投資意欲を刺激しようと政府は躍起になっているが、為替の動向をもろに受ける輸出に大きな期待をかけるのはリスクが大きすぎると、メーカーは二の足を踏まざるを得ない。
さらにメーカーを消極的にさせているのは日本独特の「年功序列・終身雇用」という雇用形態の壁だ。コロナ禍前は派遣社員や定年退職後の再雇用などの非正規社員の占める割合が40%と高くなったが、残りの60%を占める正規社員は日本では簡単に会社都合でのレイオフが難しい。そこがドライな雇用関係の欧米との大きなハンデになっており、政府が与えてくれた程度の飴玉では容易に踊り出すわけにいかないのだ。
具体例で明らかにする。トランプ前大統領がTPPから離脱して保護主義に転じ、自動車や鉄鋼・アルミ製品などに25%という高率関税を課して自国産業保護政策を打ち出したのに、GMは国内4工場を閉鎖、従業員をレイオフした。トランプは「お前たちのために保護政策に転じてやったのに、工場を閉鎖して従業員をレイオフするとは何事か」と怒り狂ったが、GMの1現場作業員からスタートして初代女性CEOに昇り詰めたメアリー・パーラは涼しい顔でこう反論した。
「輸入自動車との競争は有利になりましたが、原材料や部品の輸入価格高騰で生産コストも大幅にアップしました。その分を販売価格に上乗せすると、一般のアメリカ人購買力の限界を超えてしまうため、工場を閉鎖したということです」
実は安倍氏も国内市場の回復の難しさはわかっていたようだ。デフレとかインフレは需要と供給の関係で決まる。民主党政権時代、円高なのになぜデフレ不況になったのか。円高であれば輸入製品価格は下落する。原材料や部品を輸入に頼っているメーカーは生産コストが軽減し、小売価格も安くなってデフレ現象を生じる。消費者にとっては消費マインドが刺激されて需要が喚起されれば、スミスの「(神の)見えざる手」が機能して需給バランスが回復し、デフレ不況からの脱却ができたはず。
ところが、先に述べた理由で国内需要は増えない。そこで安倍氏は円安誘導して自動車や電気製品の国際競争力の回復を図り、それなりに自動車メーカーや電機メーカーは増収増益の決算になった。が、海外市場にも少子化の波が押し寄せており、マーケットの拡大は望めない。だからメーカーは輸出価格をほとんど下げず(輸出価格を下げると需要が急増してリスクの大きい生産増強策を取らざるを得なくなるため)、為替差益をがっぽり貯め込むという戦略に打って出たというわけだ。
その反面、当然ながら円安誘導すれば輸入品の価格は高騰する。当然、庶民の消費マインドは冷え込む。安倍氏は毎年のように経済団体と「官製春闘」を行い、企業もベースアップを復活するなど、正規社員の給与は増やしたが、そのため非正規社員との所得格差はさらに広がった。庶民の消費マインドはますます冷え込み、目標としてきた消費者物価2%上昇は遠のくばかりだ。
そもそも「成長神話」なるものは、浦島太郎の「玉手箱」のようなもの。経済成長できる要素は何ひとつとして、いまはない。そういう時代こそ、絶対手にすることが出ない「成長の果実」を求める「バラマキ」政策をストップして債務残高を減らすべきなのだ。いずれ、市場未開拓のアフリカや中南米の諸国に成長市場が形成されるかもしれない。20年かかるか、30年かかるか、あるいはもっとかかるかもしれないが、それまでは苦難の道を歩み続ける覚悟が政府には必要だ。

小林紀興(のりおき)
TEL 045-902-8372
メール norioki1029@yahoo.co.jp
ブログURL  blog.goo.ne.jp > sawako1029














●小泉「郵政民営化」はなぜ日本郵便の詐欺商法を生んだのか~
小泉郵政改革が実現したのは2007年。郵便事業がすべて民営化され、持ち株会社の日本郵政のもとに日本郵便、ゆうちょ銀行、かんぽ生命の子会社3社が発足した。もともと銀行業務や生保業務は民間と激しく競争していたから民営化による特段のメリットが生まれるわけではない。むしろ民営化したことで、利用者からすると安心感が失われた分、競争力が低下したはずだ。
問題は郵便事業である。小泉内閣は民間企業の参入についてユニバーサル・サービスを義務付けるなど、かなり厳しい参入条件を付けた。そのため民間からの参入はなかった。ゆいつヤマト運輸がコンビニを郵便局代わりに使うというアイデアで参入したが(メール便)、配達でトラブルが頻発した。ネット・オークションで一番扱いが多い商品券や株主優待券、割引券などの金券類の発送にメール便を利用する出品者が急増したのである。普通郵便の場合、発送記録がないため発送記録が残り配送追跡も可能なメール便は出品者にとって極めて便利な発送手段になったのだ。
が、金券類の発送に出品者が薄い茶封筒を使うなど、1円でも儲けようという心理が働くのか、郵便局の責任者に聞いたところでは封筒の手触りだけで中身がほぼわかるというのだ。そのうえ、ヤマトの配達人(ヤマト運輸の社員ではなく請負の個人事業者)は都市部にしか存在しない。過疎地への配達は郵便局に丸投げしているようだ。
そういうこともあって金券類の未着トラブルが頻発し、ヤマト運輸はメール便事業から手を引かざるを得なくなった。結局、はがきや手紙などの郵便物の独占状態に変化は生じず、民間活力を生かすという小泉構想は看板倒れというか、「絵に描いた餅」に終わってしまった。銀行業務や生保業務はもともと民間との激しい競争下にあったから。
それだけに止まっていれば、大きな問題にはならなかったが、日本郵便にとってとんでもない競争相手が異次元の世界から登場した。携帯電話(スマホ)である。日本ではすでに1999年にNTTドコモがiモードを発売、携帯電話によるインタネット接続が可能になっていたが、通話料金が高いなどの問題で広く普及するまでには至らなかった。
が、郵政民営化の翌年08年にアップルのiPhoneが日本上陸を果たし、グーグルがアンドロイド・スマホで参入、NTTドコモだけでなくKDDIのauやソフトバンクも携帯市場に参入、大手3社の通信帯を借りる格安スマホ会社が乱立、楽天も自前で基地局を持つ第4の携帯大手に名乗りを上げるなど、はがきや手紙に代わる手段としてメールが台頭するようになった。その結果、郵便物市場が縮小し、郵便局の多くが赤字経営に陥った。
郵便物の集配事業は典型的な労働集約型産業であり、事業収益は人件費のピンハネに依存するしかない。が、労働集約型産業の人件費は3K労働ということもあって高騰し続けた。一方、はがきや手紙の料金は監督官庁の総務省に抑え込まれ、扱い量もメールの普及によって減少の一途をたどる。人手不足を理由に宅配料金は数年前、大幅に値上げされたが、はがきや手紙の料金は値上げを総務省が認めなかった。バカか~
そういう状況下で、日本郵便が赤字の穴埋めとしてかんぽ商品を、特に高齢者向けに「オレオレ詐欺」まがいの商法に走ったのは、別に肯定するわけではないが、やむを得ない「正当防衛」手段だったと言えなくもない。
少なくとも郵便事業を民営化するのであれば、経営の自由度も高めてやらないと、手足を縛って「さあ、相撲を取れ」と言うに等しいと言わざるを得ない。固定電話料金みたいに距離制料金制度にするわけにもいかないのだから、はがき代や切手代の値上げや、大都市以外の集配制度の自由度を認めるとかしないと経営が成り立たなくなるのは当たり前だ。具体的方法としては人口密度に応じて地域ごとに集配を週に1~5回に区分けすることができれば、全国2万4395局もある郵便局(簡易郵便局4241局を含む)を統廃合によって半分以下に縮小できるだろう(郵便局数は17年度末)。
現に、中曽根・国鉄民営化ではJRにかなりの経営自由度を認めた。過疎地の赤字路線の撤廃や第3セクター化などで黒字経営体質への移行を容認した。それに比べれば小泉・郵政民営化は極端な言い方をすれば「角を矯めて牛を殺す」ような改革だった。

●「新自由主義競争主義」からの脱皮政策で真っ先に行うべきこと
岸田総理が「小泉内閣以来の~」と中曽根・民営化路線と切り離してスローガン化したのは、たぶん日本郵便の経営の自由度を容認するつもりではないかと思っているが、それ以外にどうしても実現してもらいたいことがある。
その一つはパソコンとスマホの共通化である。私は高齢で細かい字が読みづらくなって来たため、新聞などの活字媒体はほとんど読まない。デジタル新聞は購読しているが、スマホでも読めないことはないが、文字をかなり拡大する必要があり、そうなると読みづらくて仕方がない。しかも私のブログはかなり長文だし、書いているのはブログだけではないからスマホで長文の文章を入力するのは自殺行為になってしまう。そのため私はスマホをほぼ「かけ放題」の電話機としてしか使っていない。だからデータ容量は最低の0.5ギガにして基本料金を抑えてはいるが、それでもパソコンとスマホのプロバイダー料を別々に支払っている。なんとなくバカバカしい思いがしてならない。
私が考えているのは、イメージとして昔のワープロとスマホをUSBケーブルでつなぐような方法だ。つまり、インターネットへのアクセスはスマホで行い、その画面はパソコンのディスプレーで見る。つまりスマホで取り込んだ映像をパソコンの大画面で見る。その逆に入力作業はパソコンで行い(パソコン用キーボードを使う)、パソコン画面で推敲してからデータをスマホに移して発信する。パソコンにかかる電話回線使用料やプロバイダ料、Wi-Fiレンタル料などが一切不要になる。その程度のこと、大げさな技術革新など必要ないと思うが…。
次にスマホの6G時代に向けて民間携帯会社が別々に基地局を設置するといった無駄な投資をやめて、政府が一元的に基地局を全国に網羅してプラットホーム・ビジネス化する。つまり一つの基地局網を携帯各社が平等・公平に利用できるようにする。たとえば地デジテレビ放送用のスカイツリーのようなイメージで考えてほしい。テレビ電波の場合は放送各局に電波帯域を割り当てざるを得ないが、スマホ用の場合は携帯電話事業者に電波帯域を割り当てる必要はまったくない。基地局をプラットホーム化すれば、携帯料金は大幅に安くなる。携帯事業者もいろいろなプランを考えて公平な競争条件を活用できるようになる。例えば電気料金のように、夜料金と昼料金に分けることも出来るし、もっときめ細かく時間帯によって使用できるデータ容量を変動制にしたりする会社も現れそうだ。
とくにインフラ事業は民間に丸投げすることだけが効率化するとは限らない。インフラは官が設置し、その運用は民間に委ねることも考えていい。プラットホーム基地局についていえば、官が一元的に設置した後は、JR方式のように全国を6~8くらいの地域別に運営を民間企業に任せてサービス競争させることも考えられる。「新自由競争主義」からの脱皮という以上、官でなければ不可能な巨大インフラ投資は官が行った方が効率的なケースもあるということだ。

●PB(プライマリー・バランス)は緊縮財政の代名詞ではない
そろそろ本論に戻る。矢野次官は論文でこう主張している。
「今の日本の状況を喩えれば、タイタニック号が氷山に向かって突進しているようなものです。氷山(債務)はすでに巨大なのに、この山をさらに大きくしながら航海を続けているのです。タイタニック号は衝突直前まで氷山の存在に気づきませんでしたが、日本は債務の山の存在にはずいぶん前から気づいています。ただ、霧に包まれているせいで、いつ目の前に現れるかがわからない。そのため衝突を回避しようとする緊張感が緩んでいるのです」
 日本政府が抱える債務の巨大さを氷山にたとえるのは多少違和感がある。私の感覚では東日本大震災の前夜の状況と言いたい。08年、国の研究機関は調査・研究の結果として、東電に対し「福島第1原発には15メートル超の巨大津波が押し寄せるリスク」を警告していた。もちろん、そのリスクがいつ現実化するかは誰にもわからない。東電はリスクを承知していながら対策を先延ばしにしてきて、そして09年3月11日を迎えた。
矢野論文は3.11リスクの警告を発したもの、と私は理解している。矢野次官は論文の冒頭で、「やむに已まれぬ気持ち」をこう吐露している。
「最近のバラマキ合戦のような政策論を聞いていて、やむにやまれぬ大和魂か、もうじっと黙っているわけにはいかない、ここで言うべきことを言わねば卑怯でさえあると思います。数十兆円もの大規模な経済対策が謳われ、一方では、財政収支黒字化の凍結が訴えられ、さらには消費税率の引き下げまでが提案されている。まるで国庫には、無尽蔵にお金があるかのような話ばかりが聞こえてきます」(中略)「私は、国家公務員は『心あるモノ言う犬』であらねばと思っています。昨年、脱炭素技術の研究・開発基金を1兆円から2兆円にせよという菅前首相に対して、私が『2兆円にするにしても、赤字国債によってではなく、地球温暖化対策税を充てるべき』と食い下がろうとしたところ、厳しくお叱りを受け一蹴されたと新聞に書かれたことがありました。あれは実際に起きた事実ですが、どんなに小さなことでも、違うとか、よりよい方途があると思う話は相手が政治家の先生でも、役所の上司であっても、はっきり言うようにしてきました。『不偏不党』――これは、全ての国家公務員が就職する際に、宣誓書に書かせられる言葉です。財務省も霞が関全体も、そうした有意な忠犬の集まりでなければなりません」(中略)「財務省は、公文書改ざん問題を起こした役所でもあります。世にも恥ずべき不祥事まで巻き起こして、『どの口が言う』とお叱りを受けるかもしれません。私自身、調査に当たった責任者であり、あの恥辱を忘れたことはありません。猛省の上にも猛省を重ね、常に謙虚に、自己検証しつつ、その上で『勇気をもって意見具申』せねばならない。それを怠り、ためらうのは保身であり、己が傷つくのが嫌だからであり、私心が公を思う心に優ってしまっているからだと思います。私たち公僕は一切の偏りを排して、日本のために真にどうあるべきかを考えて任に当たらねばなりません」
私は涙もろいせいもあるが、涙失くして読めなかった。現在、国の長期債務は973兆円、地方の債務を合わせると1166兆円に達している。コロナ対策費がどんどん出ていく今年度末の債務残高は確実に1200兆円を超えるとみられている。これは国の借金である。国債には償還期限があり、期限が来ると返さなければならない。
「いや、国債の償還分を新たな国債の発行で賄えばいい。日本は自国通貨をいくらでも発行できるから、いくら国債を発行してもデフォルト(財政破綻)に陥る心配はない」という反論も実際に生じている。本当にそうか。
が、こうした考え方が徐々に日本のマクロ経済学者の間でも広まりつつある。MMT(現代貨幣理論)という新マクロ経済論だが、簡単に言ってしまえば「自転車操業財政論」である。そんな自転車操業が永遠に続くとは、MMT論者も主張しておらず、「インフレが悪化し始めたら国債発行を止めればいい」と言うが、ではそのとき未償還の国債はどうする。まさか「徳政令」や「棄捐令」を発令して借金をチャラにしろなどと無茶は言うまい。
PB(プライマリー・バランス)主義は別に緊縮財政の代名詞ではなく、財政の健全化つまり「入るを図りて出を制す」という健全財政論である。

●MMT(現代貨幣理論)の欺瞞性を暴く
MMTの主な主張は次の3点からなる。
4. 自国通貨を発行できる政府は財政赤字を拡大しても債務不履行にはならない。
5. ただし、政府は過度のインフレが生じない範囲に財政赤字をとどめよ。
6. 税は財源ではなく、通貨を流通させる仕組みである。
いずれも従来の経済学の常識を根底から覆すようなショッキングな説である。この説に正当性があるならば、私たちは年金問題に苦しむ必要はないことになる。いま日本だけでなく世界の先進国や途上国の一部は人類がかつて経験したことがない「少子高齢化」と「人口減少問題」に直面している。
実は「少子化」と「高齢化」はまったく別の現象で、たまたま同時期に生じた「二つ玉低気圧」のような現象である。少子化とは合計特殊出生率(一人の女性が生涯に産む子供の数)が人口維持の基準とされている2.1を下回る現象。日本の場合、1.36(19年)と、基準をはるかに下回っている。一方、高齢化は高齢者の健康志向や生活様式(食生活も含む)、医療技術の進歩などによって平均寿命が延び、少子化と重なって人口構成に占める高齢者比率が高まっている現象。一般に全人口に占める65歳以上の高齢者比率が7%を超えると「高齢化社会」、14%を超えると「高齢社会」、21%を超えると「超高齢社会」と区分けされているようだが、日本の場合、すでに高齢化率は28.4%(19年)に達しており、25年には30%、60年には40%に達するとみられている。
で、当然ながら年金問題が浮上した。従来、年金制度は現役世代の平均賃金や物価の変動に応じて支給額を調整することを原則としていたが、少子化による現役世代(生産人口=労働人口)が減少し、高齢者の年金制度を支えきれなくなってきた。で、年金制度を維持することを目的に導入されたのが「マクロ経済スライド」方式。計算方式はややこしいので説明を省くが、要するに年金制度を維持するために現役世代が負担できる範囲に支給額をとどめようという仕組み。言うなら年金制度のPB版というわけだ。
もしPBを無視していくらでも赤字国債を発行できるのなら、別に現役世代の年金負担を増やさなくても従来の年金支給制度を維持できるはず。なぜMMT論者は年金制度のマクロ経済スライド方式に噛み付かないのか~
そもそもMMTの根本的間違いは、「自国通貨の発行権」は政府ではなく中央銀行が持っていることを無視して、中央銀行を政府機関と思い込んでいることにある。日本の場合、確かに貨幣の製造は財務省造幣局が行っているが、財務省(政府機関)が勝手に貨幣を発行できるわけではない。たまたま日本の場合、日銀の黒田総裁が安倍氏と二人三脚で消費者物価2%上昇を目指し、そのために大胆な金融緩和策(「黒田バズーカ砲」の異名が付けられた)を発動してきたため、いつまでも無制限に日銀が赤字国債を買い入れることができると錯覚した経済学者たちが多かっただけのこと。
次に「悪性インフレになったら赤字国債の発行をストップすればいい」という手前勝手な主張だが、すでに述べたように既発行の国債は期限が来たら償還しなければならない。現に今でも歳出の22%強は既発赤字国債の償還に充てられている。
もちろんその償還が税収から行われているのであれば、いつかは国の債務は解消する。が、実際には赤字国債の償還のための原資は、新たな赤字国債の発行によって賄われているのが現実であり、しかも償還分だけでなく更なる積極財政の名のもとに発行額がどんどん増えていっている。
矢野次官はそういう状態を「ワニの口」にたとえる。ワニの口は「<字型」に開いている。「ワニの口は塞がなければならない」という小見出しを付けてこう説明する。
「歳出と歳入(税収)の推移を示した2つの折れ線グラフは、私が平成10年ころに“ワニの口”と省内で俗称したのが始まりですが、その後、四半世紀ほど経ってもなお、『開いた口がふさがらない』状態が延々と続いています」。つまり歳入と歳出の差が<字型にどんどん開く一方になっていっている(国の借金が増え続けていること)と言うのだ。「ですから『経済成長だけで財政健全化』できれば、それに越したことはありませんが、それは夢物語であり幻想です」「これまでリーマン・ショック、東日本大震災、コロナ禍と十数年に2度も3度も大きな国難に見舞われたのですから、『平時は黒字にして、有事に備える』という良識と危機意識を国民全体が共有する必要があり、歳出・歳入両面の構造的な改革が不可欠です」
矢野次官の「財政健全化」論は言うなら「財政安保」論と言い換えてもいいと思う。我が国自衛隊は、平時は自然災害などへの対応で済むが、万が一の有事への備えが本来の目的である。日本政府は「経済成長」を旗印に赤字国債を乱発しているが、いつまでも「自転車操業」ができるわけではなく、既発国債を償還できなくなれば、たちまち国家財政はデフォルト(債務不履行=財政破綻)に陥る。MMT論者は赤字国債の発行をストップしたとたん既発国債の償還が不可能になるという冷酷な現実が分かっているのか~。
最後に「税収は財源ではなく、通貨を流通させる仕組み」というおかしな定義について。まったく意味不明である。税収は歳入の基本であり、社会福祉や公共サービスなどに費消される。しかし個人や企業は収入のすべてを税金として国や地方自治体に収めているわけではない。そういう考え方がないではないが、その場合は国が国民生活や企業の生産活動に必要な金を税収から分配しなければならない。マルクス思想に近いが、MMTは先進資本主義国を前提にしている。であれば、「通貨を流通させる仕組み」は個人や企業が税金を納めた残りの可処分所得を決済手段として使うためのものだ。結果的に税収は社会福祉や公共サービスに費消されるから、税金としての通貨による歳入は、その費消手段でもあるが、それは結果解釈の一部に過ぎない。
それに、サウジアラビア、クウェート、カタール、ドバイ、バーレーン、オマーンなど中東の産油国には個人所得税がない国もある。そういう国では、MMTによれば通貨は流通しないことになる。奇をてらっての新定義かは知らぬが、MMTは説明すべきだ。
まだある。貨幣(通貨)には国内では売買の決済手段としての機能を持つが、自国通貨の交換価値は為替相場で決められるという事実をMMTはまったく無視している。つまり変動相場制のもとでは通貨は「商品」として売買の対象になっており、「円」の商品価値が為替市場で暴落したら、そのとき日本財政は東日本大震災に直撃されることになる(矢野氏に言わせれば氷山への激突)。前もってその兆候が分かれば手の打ちようもあるかもしれないが、1929年の世界大恐慌にしても、最近のケースではギリシャのデフォルトにしても予兆なんか何もなかった。ある朝、突然生じるのである。バブルの崩壊は一瞬ではなかったが、デフォルトは一瞬にして生じる。円に対する信用が為替市場で失われた瞬間、投資ファンドが一斉に円を売り浴びせ収拾がつかなくなる。為替市場では「通貨は決済手段ではなく取引対象の商品(ただし使用価値のない商品)」であり、現実社会における通貨の交換価値を決定的に左右しているという事実にMMTは完全に目を背けている。

●もはや経済成長の時代は終焉した。
失われた30年のきっかけとなったバブル崩壊は、不動産バブルを一気に弾けさせるため大蔵省(当時)が「総量規制」によって銀行の無謀とも言える不動産関連融資に歯止めをかけ、日銀はバブル経済を支えた澄田総裁のもとでの金融緩和を一気に引き締めに転じるという、「軟着陸」ではなく「強制胴体着陸」を行ったことでバブルを一気に弾かせた。自称「経済評論家」の佐高信氏は金融政策を転換した日銀・三重野総裁を「平成の鬼平」と持ち上げたが、その評価についての説明責任はいまだ果たしていない。
以降、一時的なミニ・バブルがIT関連で生じたこともあったが、ほぼ日本経済は停滞状態が続いている。安倍元総理はアベノミクスの成果の一つとして株価上昇を挙げたが、官製相場による効果といった方が正確だ。日銀が景気浮揚策の一環として株式や投信を大量購入し、年金機構も日銀・官製相場に便乗して株式市場で資金運用を強めた結果の株価上昇だからだ。だから日銀も年金機構も帳簿上では含み益が巨大化しているが、現実に利益として確定するには所有している株式や投信を売却しなければならない。
あまりにも大量に保有しすぎているため日銀や年金機構が直接株式市場で保有株や投信を一部でも売却すると雪崩現象のような暴落が生じかねない。それを防ぐためには場外で第3者に少しずつ保有株や投信を譲渡し、第3者が株式市場で売却するという手法を取るしかないだろう。
それはともかく、政府が赤字国債を大量に発行し、日銀が「いくらでも買う」と言っていながら金利が上昇しない。中央銀行が民間の金融機関に資金を貸し出す際の政策金利(日本では公定歩合と呼ぶ)とは別に、市場で売買される長期国債の価格変動による長短市中金利がある。すでに欧米先進国ではコロナ禍後の経済復興を見越して市中金利は少しずつ上昇しており、アメリカの中央銀行FRBのパウエル議長も政策金利の上昇を視野に入れつつある。が、日本の黒田・日銀総裁は金利引き上げなど眼中にないかのようだ。10月28日も定例の記者会見で黒田総裁は金融緩和を続けると発表した。アホか~
が、日銀がいくら金融緩和策を継続しても資金需要は生じない。すでに民間にはお金がだぶついている。コロナ禍で職を失った非正規社員や営業不振に陥った飲食業や旅行関連産業には資金需要があるが、日本の金融機関はよく言われるように「晴れの日に傘を貸したがり、雨が降り出すと傘を取り上げる」という「ユダヤの商人」根性をしっかり持っているから、資金需要がある先への融資基準はかなり厳しい。
結果として内部留保で資金がだぶついている大企業や富裕層には資金需要がないから、日銀が政策金利を引き上げたら金融機関への預貯金が殺到し、中小金融機関の経営が行き詰まってしまう。
そもそも安倍政権時代、何とかデフレ不況から脱却して経済を再び成長路線に戻そうと、日銀・黒田総裁と二人三脚で金融緩和をしたが、一向に消費者物価は上昇しない。安倍政権下で消費税を5%上昇させたにもかかわらず、消費者物価は増税分すら上昇していない。少なくともアベノミクスではデフレ脱却は不可能だったことがもはや歴然としている。
日本ではGDP(国内総生産)の55~60%は個人消費が占めるとされている。が、少子高齢化で消費活動の中核となるべき現役世代の消費志向がいま完全に萎えているのだ。
前回のブログで書いたが、金融庁が19年6月、夫65歳、妻60歳で年金生活に入った場合、年金収入だけでは生活資金が不足するという試算を公表した。不足額は月5.5万円として余命20年の場合は1320万円、余命30年の場合は1980万円の貯えが必要というのが試算結果だった。いわゆる「老後生活2000万円」問題だ。
実はこの試算方法そのものがめちゃくちゃなのだが、確かに定年退職後の数年間は現役時代の同僚や友人との交際も続くだろうし、夫婦「水入らず旅行」などで家計の出費は年金収入ではそのくらい不足するかもしれない。が、そんな生活をいつまでも続けられるわけがない。年を重ねるごとに行動範囲も狭くなり、カネを使う機会も減少する。増え続ける医療費を考慮に入れても年々出費は減り続け、個人差はあるにせよ夫75歳、妻70歳前後で家計は黒字化するはずだ。麻生財務相は、金融庁のこの報告の受け取りを拒否したが、現役世代が老後生活のためにますますカネを使わなくなることを恐れてのことだけだ。
ただし金融庁の調査報告は19年6月であり、国民の貯蓄性向はそれより早くから進んでいた。その理由は少子化傾向が明らかになりだしたころから、若い人たちの実感として「将来年金生活に入ったとき、年金だけでは食べていけなくなる」という認識が広まっていったことにある。私も含めて今の高齢者は子供たちに生活の世話になろうとは思っていないし、また子供たちも「遺産なんか残してくれなくてもいいから、私たちを当てにしないでね」とはっきり言う。核家族化の進行とともに親子のきずなもだんだん細くなっていくのはやむを得ないことだ。「老々介護」の悲劇は増すばかりだ。
そのうえ、もっと厳しい問題に日本経済は直面している。岸田氏が自民党総裁選で「宏池会」の生みの親である池田元総理の「所得倍増計画」をもじって「令和版所得倍増計画」をぶち上げたが、自民党内部から「時代環境が違いすぎる」と猛反発を食い、総選挙ではこのアドバルーンを引っ込めてしまった。
日本で貯蓄性向が高まったのは将来への不安だけでなく、消費マインドを刺激するような商品が高度経済成長期以降の約半世紀ほとんど出現していないことにもよる。実際戦後日本の奇跡的な経済回復は、吉田茂氏による「傾斜生産方式」で近代産業力の回復を最優先したことで朝鮮戦争特需にありつけ、「3種の神器」(白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫)が庶民の消費マインドを刺激、経済成長の原動力になった。さらに「3C」(カー、クーラー、カラーテレビ)が庶民の手が届くようになって消費マインドを刺激し、日本は高度経済成長時代を謳歌した。
さらに重要だったことは当時の所得税制が超累進課税のシャウプ税制により世界で最も所得格差の少ない国になったこともあって、「1億総中流意識」が醸成されて、それが巨大な需要を生み出したことも忘れてはならない。
その高度経済成長時代と比較すると、なぜ日本経済の停滞が生じたのか、目に見えるようだ。従業員の年収は過去30年間ほとんど横ばい状態で、可処分所得が増えない状態が長く続いている。また若い人の大都市集中で、まず自動車が若い人たちの消費マインドを刺激しなくなった。
若者の自動車離れの傾向が明らかになったのは2000年代初頭だが、自動車所有がもはやステータス・シンボルではなくなったこと、自動車は所有するものではなく利用するものという認識が浸透してレンタルやカー・シェア市場が急速に伸びたことが理由の一つと言えるだろう。また大都市部は電車・地下鉄・バスといった公共交通機関インフラが充実し、移動に要する時間が読めない車より公共交通機関の方が移動手段としての利便性の高さに対する認識が広まったことなどがある。
他の電気製品も技術の進歩で耐久年数が伸び、買い替え需要のサイクルも長くなり、それも経済活動の足を引っ張っている。
そう考えていくと、この半世紀の間、新しい市場が生まれたのはテレビ・ゲームと携帯電話くらいしかないのではないか。まさかドローンが家庭に普及するなどと考えるバカはいまい。アベノミクスで円安誘導して自動車や家電製品の国際競争力を回復しても、少子化現象で国内市場の伸びが期待できないため、メーカーはリスクの大きい設備投資にはなかなか踏み切れない。設備投資意欲を刺激しようと政府は躍起になっているが、為替の動向をもろに受ける輸出に大きな期待をかけるのはリスクが大きすぎると、メーカーは二の足を踏まざるを得ない。
さらにメーカーを消極的にさせているのは日本独特の「年功序列・終身雇用」という雇用形態の壁だ。コロナ禍前は派遣社員や定年退職後の再雇用などの非正規社員の占める割合が40%と高くなったが、残りの60%を占める正規社員は日本では簡単に会社都合でのレイオフが難しい。そこがドライな雇用関係の欧米との大きなハンデになっており、政府が与えてくれた程度の飴玉では容易に踊り出すわけにいかないのだ。
具体例で明らかにする。トランプ前大統領がTPPから離脱して保護主義に転じ、自動車や鉄鋼・アルミ製品などに25%という高率関税を課して自国産業保護政策を打ち出したのに、GMは国内4工場を閉鎖、従業員をレイオフした。トランプは「お前たちのために保護政策に転じてやったのに、工場を閉鎖して従業員をレイオフするとは何事か」と怒り狂ったが、GMの1現場作業員からスタートして初代女性CEOに昇り詰めたメアリー・パーラは涼しい顔でこう反論した。
「輸入自動車との競争は有利になりましたが、原材料や部品の輸入価格高騰で生産コストも大幅にアップしました。その分を販売価格に上乗せすると、一般のアメリカ人購買力の限界を超えてしまうため、工場を閉鎖したということです」
実は安倍氏も国内市場の回復の難しさはわかっていたようだ。デフレとかインフレは需要と供給の関係で決まる。民主党政権時代、円高なのになぜデフレ不況になったのか。円高であれば輸入製品価格は下落する。原材料や部品を輸入に頼っているメーカーは生産コストが軽減し、小売価格も安くなってデフレ現象を生じる。消費者にとっては消費マインドが刺激されて需要が喚起されれば、スミスの「(神の)見えざる手」が機能して需給バランスが回復し、デフレ不況からの脱却ができたはず。
ところが、先に述べた理由で国内需要は増えない。そこで安倍氏は円安誘導して自動車や電気製品の国際競争力の回復を図り、それなりに自動車メーカーや電機メーカーは増収増益の決算になった。が、海外市場にも少子化の波が押し寄せており、マーケットの拡大は望めない。だからメーカーは輸出価格をほとんど下げず(輸出価格を下げると需要が急増してリスクの大きい生産増強策を取らざるを得なくなるため)、為替差益をがっぽり貯め込むという戦略に打って出たというわけだ。
その反面、当然ながら円安誘導すれば輸入品の価格は高騰する。当然、庶民の消費マインドは冷え込む。安倍氏は毎年のように経済団体と「官製春闘」を行い、企業もベースアップを復活するなど、正規社員の給与は増やしたが、そのため非正規社員との所得格差はさらに広がった。庶民の消費マインドはますます冷え込み、目標としてきた消費者物価2%上昇は遠のくばかりだ。
そもそも「成長神話」なるものは、浦島太郎の「玉手箱」のようなもの。経済成長できる要素は何ひとつとして、いまはない。そういう時代こそ、絶対手にすることが出ない「成長の果実」を求める「バラマキ」政策をストップして債務残高を減らすべきなのだ。いずれ、市場未開拓のアフリカや中南米の諸国に成長市場が形成されるかもしれない。20年かかるか、30年かかるか、あるいはもっとかかるかもしれないが、それまでは苦難の道を歩み続ける覚悟が政府には必要だ。

















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