小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

日本の消費者物価が欧米並みに高騰しない本当の理由を、NHK『日曜討論』の識者たちは分かっていない

2022-10-17 05:32:02 | Weblog

10月3日にアップした前回のブログ『ケインズ経済理論は賞味期限切れか~金融政策ではインフレもデフレも克服できない、これだけの理由』が、かなりの長文であったうえ、テーマもショッキングだったせいか、訪問者・閲覧者ともになかなか減らず、今回のブログ記事の投稿が遅くなった。

私は占い師でもなければ競馬の予想屋でもない。が、私が前回のブログで予測したとおり、政府・日銀の為替介入は「焼け石に水」で、かえって円安に拍車がかかっている。いまは専門家も150円台突入を疑う者はいない。

数日前、ヤフコメで為替介入の効果についてこうコメントした。

 

  • 投機筋の「円売り」攻勢の要因は何か~

アメリカでは「頭打ち」との声もないではないが、消費者物価は依然として高水準で高騰を続けている。 理論上は「円安/ドル高」はいくら金利差を反映したとしても、ちょっと異常ではある。 が、「過度の投機は認めない」(鈴木財務相)と言ったところで、投機ファンド(ヘッジファンド)の流れは止めようがない。主要国の協調介入が期待できない現状、政府・日銀単独の「円買い」介入は火に油を注ぐ結果にしかならないと思う。

 このコメントに対して知ったかぶりのzzz氏から「介入しなかったらもっと酷かったと理解すらできないで語るな」との批判が寄せられた。私は直ちにこう反論した。「なまじ『威力のない介入』をしたことで、投機筋の『円売り』マインドにかえって安心感を与えた。 中途半端な介入は火に油を注ぐだけ。 金融のことに全く無知なくせに、偉そうな批判をするな、ZZZくんよ」と。

 

 為替に限らず、行き過ぎた変動は必ず揺り戻しがある。ただ、いつ、なにをきっかけに揺り戻しが始まるのかは「神のみぞ知る」だ。投機筋も、いまの急激すぎる【円売りドル買い】にそろそろ警戒感を抱き始めていると思う。ただ、政府・日銀によるさらなる為替介入がそのきっかけになるとは到底考えられない。前回の介入でも一時的に流れが変わったかに見えたが、結局投機筋に金儲けの機会を与えただけに終わった。政府・日銀がさらなる為替介入をしても、投機筋は「また金儲けのチャンスだ」と受け取る可能性のほうが高い。

 なぜか。日本も物価高が問題になってはいるが、それでも欧米に比して物価水準は国民生活を死活の瀬戸際まで追いつめるところまでは行っていないと投機筋は見ている。実際日本の生産者物価は輸入原材料費の高騰もあって9月には9,7%も上昇しているのに、消費者物価の上昇率は2.8%(8月)と欧米に比べれば緩やかである。日本経済の底力について、生産者物価の上昇(コスト増)を消費者価格に反映しなくてもやっていける余裕がまだあるとみるか、反映したら路頭に迷う人が続出して反映したくてもできないとみるか。

 おそらく投機筋は、「過去の円は実力以上に買われすぎていた」とみていると思う。アベノミクスによる金融緩和で一時120円台まで円安になったが、円安の恩恵を受けたはずの輸出産業(自動車、電機など)の輸出が思ったほど伸びなかったこと、設備投資意欲も限定的で、企業は為替利益を内部留保して従業員に還元せず、その結果として消費も伸びず消費者物価指数も上昇しなかった。

 さらにウクライナ戦争をきっかけとした物価高で欧米諸国が苦しんでいる中で、日本の消費者物価の上昇率が鈍いことも、投機筋には「まだまだ円は耐えられる」とみる要因になっている可能性が高い。だから、投機筋の「円売り」マインドを一変させるほどの経済変動でも生じない限り、小手先の為替介入といったその場しのぎの手法では未曽有の「円安」攻勢をしのぐことは難しい。

 

  • 専門家たちの、あまりにもレベルが低すぎる「物価高」対策議論

NHKは9日の『日曜討論』で「値上げの秋 暮らしをどう守る」をテーマに、食料品を中心とした今月1日からの値上げラッシュ対策を取り上げた。識者たちが値上げラッシュに政治がどう向き合うべきかといった重厚なテーマについての活発な議論を行った。そのこと自体はタイムリーだし、『日曜討論』として取り上げたことはよかったと思っている。

が、出演者のレベルが低すぎたのか、司会者の議論の進め方に問題があったのか、当日私はNHKふれあいセンターのスーパーバイザーに、2度も「出演者のレベルが低すぎる」と抗議の電話をした。

なお出演者は西村康稔・経産大臣、栗田美和子・総菜会社経営者、清水秀幸・連合事務局長、武田洋子・三菱総研理事(マクロ経済担当)、中空麻奈・経済財政諮問会議メンバー(証券会社経営者)である。

なぜ出演者のレベルが低い、と断じたのか。実は日本の消費者物価上昇率は8月が前年同月比2.8%増と5か月連続で上昇している。それでも、日本の物価上昇率は欧米に比して4分の1程度でしかない。一方、生産者物価(コスト)は9%も上昇している(※9.4%に修正。9月は9.7%)。

生産コストはかなり上昇しているのに、店頭価格(消費者物価)の上昇率はコスト増の3分の1でしかない。コスト増を販売価格に転嫁できない構造的原因がある、というのは出演者全員の共通認識だったが、出演者たちの主張は総じて「コスト増を販売価格に転嫁し、そのことによって生じた利益の増加分を賃上げに回して消費を回復させるべき」という単純なもの。そうすれば「いいインフレが進む」と考えているようだったが、インフレもデフレも需給バランスが崩れたときに生じる経済現象。

前回のブログで詳述したが、世界的規模で需要が減少している今、金融対策ではインフレもデフレも克服はできないのだ。そのことに気づいている人は出演者の中には皆無。その重要認識にかけた経済議論は当然レベルが低くなる。

 

  • 消費停滞の最大の「戦犯」は金融庁だ

前回のブログ記事と重複する部分があるが、今回のブログでは日本固有の事情について書く。

需要が増えなければインフレになりようがない――というのは近経に限らず経済の基本原則。日米のインフレ要因について多少理解されているのは武田氏だが(アメリカのインフレ要因はコロナ克服による急激な需要の回復とウクライナ危機による生産者物価上昇の複合作用、日本は生産者物価の上昇が販売価格に反映されていない中での限定的インフレという見立て)、なぜ日本ではコスト増を販売価格に転嫁できないか、あるいは転嫁せずにやっていけるのかというマクロ経済学的分析はゼロ。

で、今回はその構造的原因を明らかにしてみたい。

この稿を読み進める前に、皆さん、なぜ日本人はお金を使わなくなったのか、ちょっと考えてみてください。

数年前のことだが、当時立憲の代表だった枝野氏が我が家の近くの公会堂で講演を行った。アジテーターとしては有能な政治家だが、ひとしきりしゃべった後、「給料は増えているのに、なぜ消費が伸びないのか」と聴衆に質問を投げかけた。会場はシーンと静まり返ったままだったが、枝野氏は「老後生活が不安なため、将来のためにお金を貯蓄に回してしまうからではないでしょうか」と声を張り上げた。

実はその少し前、金融庁が「老後生活を支えるためには厚生年金だけでは2000万円不足する」という老後生活設計の試算を発表していた(2019年)。

その日以降、テレビでもネットでも証券会社などの金融機関が一斉に「老後生活のための資産形成」を呼びかけ始めた。実は、金融庁の「老後生活設計の試算」は、まったくのでたらめだったにもかかわらずにだ。

私は「老後2000万円問題」が浮上したとき、金融庁の、この試算を行った部署の担当者に電話で「試算の根拠とした計算方式」を尋ねた。そして、あきれ返った。私があきれた理由は既にブログで当時書いたが、繰り返す。

金融庁官僚が試算の根拠としたのは、夫が65歳で定年退職し、専業主婦の妻は60歳、収入は厚生年金のみという前提で、定年後30年間生きるとして厚生年金だけでは月5.5万円不足するという前提で計算したという。ちなみに月額5.5万円不足の根拠は17年の家計調査によって年金収入と実際の支出額の差を採用したという。確かに、そういう前提をたてると、30年間の不足額は

 【5.5×12×30=1980】

で、ほぼ2000万円になる。が、ちょっと待ってほしい。定年直後の生活を30年間続けることなど、そもそも可能だろうか。

私は今年82歳になったが、国民年金収入は年金基金分も含めて月額8万円余(健康保険料や介護保険料は引かれた実質手取り額)。そこからマンションの管理費・修繕積立金の計1万6千円が引き落とされて、実質可処分所得は6万5千円ほど。コロナ禍のせいで外食や趣味のカラオケ通いや週1のゴルフも自粛しているから、かかるのは食費、光熱費、医療費など。エンゲル係数はかなり高いと思うが、肉類などあまり食べなくなったから、むしろ余るくらい。コロナ禍以前はカラオケやゴルフ三昧だったら、わずかな貯金を取り崩さなければならなかったが、いまはぜいたくもしようがないから年金収入でお釣りが出る。

私の場合、会社勤めは若いころの5~6年間だったが、サラリーマンの定年退職時と同じ65歳ころは同年配の友人との付き合いもあったし、持ち出しはかなりあった。が、コロナの問題を除いても、友人たちと飲む機会も70代前半には激減するようになったし、妻との外食や旅行も60代後半に比べると「面倒くさい」と激減した。

私自身の生活体験や同年配の友人たちにも聞いたが、やはり「60代後半までは貯金を取り崩す生活が続いたが、70年代前半には黒字に転換する」ことが明らかになった。60代後半の赤字幅も年々縮小し、70年代後半からの余裕金は逆に年々増えることも明らかになった。仮に定年退職時に月額5.5万円の不足があったとしても、退職後30年間生きたとすると預貯金は逆にかなり増えるという老後生活の実態も明らかになった。

このことを金融庁に指摘すると、担当者は「自分にも両親がいて、両親の生活ぶりを見ていると、ご指摘の通りだと思います」と言っていたが、その後、社会にいたずらに騒動を起こした「老後生活2000万円」問題を訂正したことはない。役所という官僚機構は、謝りを自ら訂正しようとは絶対にしない。

こうした老後生活の実態認識が、『日曜討論』の出席者には皆無であった。

 

  • 第2の「戦犯」は年金のマクロ経済スライドを政府に導入させた公明党だ

2004年、公明党の強い主張によって「100年もつ年金制度」が導入された。「マクロ経済スライド」という新年金制度で、この制度を続ける限り、100年どころか千年でも万年でも持つ制度である。従来の年金制度は「物価・賃金スライド」制で。支給される年金額は物価や現役世代の賃金上昇を反映させて年金生活者の生活水準を維持しようという考え方に基づいていた。

が、医療技術の進歩、食生活の改善、核家族化によって老後生活は自己責任という現役世代の責任回避による高齢者の健康志向の高まり、などを背景に高齢化社会が急速に進んで高齢者人口が全人口に占める割合も急増。一方出生率低下によって現役世代が納める年金支払総額は減少する一方。

こうして年金制度継続が危ぶまれてきた中で、公明党が打ち出したのが「マクロ経済スライド」制であった。一言で言えば、「収入の範囲内で支出を決める」(入るを計りて出ずるを制す)というのがこの制度の特徴。つまり年金機構に入ってくる年金(企業と従業員が半分ずつ負担)の総額プラス運用益で、年金支給の総額を賄おうというもの。このマクロ経済スライドで年金支給の総額に枠をはめてしまえば、年金基金が破綻に追い込まれることは理論上あり得ず、制度としては100年どころか千年でも万年でも持つことになる。

が、この制度の致命的欠陥は、年金を支払う現役世代が年々減少しているために年金基金の収入も減少しており、一方高齢化で年金受給者は年々増加、したがってみんなで「貧乏を分かち合おう」という制度になることが必至という点にある。

そうなると、年金世代だけでなく、定年を間近に控えた中高年の現役世代も、老後生活を支えるために預貯金を少しでも増やしたいと考えるのはごく自然な流れ。彼らが生活費以外の余剰資金を消費に回そうとしないのも当然だ。

かくして消費活動の停滞を招いたB級「戦犯」はマクロ経済スライド制度をごり押しした公明党ということになる。

 

  • 「シャウプ税制」が日本人の消費需要をけん引した

さらに致命的なのは、いまの若い人たちにとって「あこがれ」となる、需要喚起の起爆剤が見当たらないということだ。

「世界の奇跡」と言われた戦後の日本経済の驚異的回復の要因はいくつもある。

戦後の吉田内閣の経済政策「傾斜生産方式」(2大基幹産業の鉄鋼・石炭産業に、あらゆる経営資源を重点配分する)によって産業基盤の立て直しを図ったことで、朝鮮特需を契機に工業生産力が急速に回復したこと、戦後の世界的好景気の波に日本の低賃金(当時)がうまくマッチして「世界の工場」の地位を占めることができたこと、さらに世界を襲った2度の石油ショックを日本は「神風」に変えることに成功したこと(「省エネ省力」「軽薄短小」を合言葉に強力に技術革新を進め、IT革命を先導した)~~など。

そういったいくつかの「外的プラス要因」も日本経済の発展に大きく寄与したが、なんといっても日本経済をけん引した最大の要因は所得格差の小ささと、中間所得層の購買意欲を刺激した「3種の神器」や「3C」だった。

そうした要因のうち、まず「所得格差」が消費活動に与えた影響の大きさを検証する。

戦後の日本はGHQの占領下におかれ、あらゆる分野で「民主化」が進んだ。日本における「民主化」の基本は前回ブログで明らかにしたように「弱者救済横並び」に置かれた。所得格差を縮小するための超累進課税制度の「シャウプ税制」もその一つ。

多くの無知な経済学者は、日本産業界の復興の最大の要因を工業製品の輸出増に求めているが、国内の消費マーケットの拡大が果たした役割のほうがはるかに大きかった。

日本の輸出産業にとって1ドル=360円の固定相場制が、日本経済復興に大きく寄与したと一般には思われているが、実は戦後の為替は商品ごと、また同じ商品でも輸出入の量によって交渉で決まるという不安定な状態だった。1ドル=360円の固定相場制が定められたのは1949年4月に入ってからであり、産業界からは不満が続出したほどだったのである。当時の日本産業界の実力からすれば、1ドル=360円でも相当の円高水準だったようだ。

日本産業界にとって僥倖だったのは、翌50年6月に勃発した朝鮮戦争である。この時期、日本防衛が使命だったはずの在日米軍は根こそぎ朝鮮半島に動員され、GHQによって軍事力をすべて解体されていた日本は、丸裸状態になった。たまたま旧ソ連・スターリンに日本侵略の余裕がなかったからよかったが、戦後の日本にとって唯一と言える安全保障上の危機だった。

ついでに、もう一つ、摩訶不思議なことを、この際指摘しておく。

おそらく、この疑問を抱いている日本人(海外も)は私一人かもしれない。「戦争」とはどういう性質の軍事衝突を意味する言葉か、ということである。『広辞林』によれば「国家間における武力による争闘」と定義されている。この定義に当てはまらない2つ(たぶん)の「戦争」がある。お分かりかな~

朝鮮戦争とベトナム戦争だ。いずれも国内における権力争奪の争い、つまり「戦争」ではなく内乱もしくは内紛と位置付けるべき共産勢力と非共産勢力の支配権をめぐる軍事衝突だ。それが、なぜ「戦争」と冠されているのか。私には納得がいかない。なのに、戦後の中国での同様の軍事衝突については「中国戦争」とは呼ばれないのはなぜか。

アメリカが関与したから、という人がいるかもしれない。が、いずれも「戦争」も、アメリカがその国の政権と軍事衝突したわけではない。むしろベトナム戦争の場合などは、アメリカは時の政権(ゴ・ディン・ジェム)を支援するために軍事行動に出ている。また共産圏でも旧ソ連が反共産勢力を戦車で踏み潰したハンガリー動乱や「プラハの春」(チェコスロヴァキア)などもある。

朝鮮もベトナムも、共産勢力が「新国家」宣言をしていたが、だから「国家間の争闘」とするならば、そういう事例も山ほどある。アフガンスタンのタリバンにせよ、イラクのISにせよ、彼らの「国家権力」との争闘を誰も「戦争」とは位置付けていない。

私には解けない、この疑問をどなたかが解いていただくことを期待したい。

 

余談はともかく、朝鮮戦争特需で息を吹き返した日本産業界では、復興の成果が広く労働者に分配された。シャウプ税制のおかげである。

敗戦ですべてを失い、文化的生活に飢えていた日本の一般家庭に大きな需要の波が押し寄せた。50年代半ばから国内需要が激増した「3種の神器」と言われた【冷蔵庫・洗濯機・白黒テレビ】がそれだ。

56年の『経済白書』が「もはや戦後ではない」と高らかに宣言し、58年には国民の祝福を受けて当時の皇太子が美智子さんと結婚、そのパレードを見るために我が家にも初めて白黒テレビが茶の間に鎮座した。

決して豊かではなかった私の少年時代、テレビの人気番組だった大相撲や巨人・阪神戦、力道山のプロレスなどは、お金持ちの友達の家にお邪魔したり、当時のヒット商品のソフトクリームを蕎麦屋で食べながら視聴した。いまの若い人には想像もつかないだろうが、ソフトクリームをはやらせたのは日本蕎麦屋だったのだ。

こうして経済成長の波になった日本が、「3C」(カー・クーラー・カラーテレビ)時代を迎え、国民生活は一気に豊かさを享受するようになる。そして70年代に入り、国民の生活意識調査でほぼ9割の国民が自分たちの生活水準について「中流」意識を持っていることが明らかになり、日本経済は高度経済成長時代に突入していく。

が、その先に「落とし穴」が待っていた。

 

  • 「失われた30年」は「失われた40年、50年」へと続く

その後のバブル景気と、バブル崩壊、そして「失われた10年」が「20年」「30年」へと続き、さらに「40年」「50年」へと続くであろうことは、前回のブログで詳述したので、あまり深入りはしない。

が、9日の『日曜討論』に出席した識者たちの問題意識のレベルの低さは、「対策」にも反映されている。

彼らが一様に問題視したのは、生産者物価の上昇と、そのコスト増分が販売価格に反映(転嫁)されていない現状への「憂い」である。

もちろん、生産者(メーカーだけでなく最終販売業者に至るまでを含めて)がコスト増分を販売価格に転嫁できない事情は、識者も多少はご存じではある。

なぜ私が「多少はご存じ」と書いたのかというと、そのことへの対策がなっていないからである。彼らが主張した「対策」はほぼ同じで「コスト増分は販売価格に転嫁すべき」「消費者がそれを受け入れられるように賃金をアップすべき」という短絡的解決法に尽きる。何事も「べき」で解決できるのなら、こんな楽な世の中はない。

この短絡的主張の根拠は「給料を上げれば購買力も増大するから、生産者側もコスト増を販売価格に転嫁しても売れる」という「1+1=2」という小学1年生並みの数字のもて遊びでしかないことが最大の問題。

この主張は、言い換えれば「価格が安ければ売れる」という短絡思考に基づいている。が、消費が増えないのは、そんな単純な理由ではない。例えば11日からスタートした「全国旅行支援」。人気が殺到しているらしいが、高いプランから枠が埋まっている。このことは何を意味するか。「安いから売れる」からではないことを意味している。

討論で西村経産大臣は需要を喚起するための重要な課題として「イノベーション」の必要性をしきりに訴えていた。「さすが西村大臣」と高く評価したいのだが、中身に具体性が何もない。

すでに述べたが、戦後日本経済をけん引してきたのは「3種の神器」であり「3C」だった。これらの工業製品のうち、カーを除く生活必需品はすべての家庭に行き渡っており、いまは「買い替え需要」しか期待できない。若い人たちを中心に「クルマ離れ」が進行し始めたのは、20年近く前からであり、その理由は「クルマが買えないほど若い人たちの手が届かない高額商品」になったからではない。都市部の住民は、公共交通機関の発達によって生活利便性が車を不必要にしたこと、レンタカーにとって代わって地域の「カーシェア」システムが整備され、「クルマを必要とする時だけ利用すればいい」という合理性志向が強まったせいである。

実際、私が若かったころは、クルマを持つことがステータスであり、憧れでもあった。いまでも数千万する高級外車は、マニアにとっては垂涎の的のようだが、少なくとも都市部の住民にとってはクルマは生活必需品ではなくなった。一方、公共交通機関が十分ではない地方の住民にとってはクルマは「足」であり生活必需品だから、需要が減少することはない。

クルマに限ったことではなく、耐久消費財を取り巻く環境も激変した。例えばカラーテレビ。すでに書いたが、我が家に白黒テレビが鎮座したのは1958年。それから30年後にはカラーテレビが「1家に1台」から「1人1台」になり、2003年の地デジ放送開始と同時に私はブラウン管テレビから液晶テレビに買い替えた(そういう家庭が多かったようだ)。ブラウン管テレビの平均寿命は7年と言われているが、我が家の液晶テレビは20年になる今も健在である。

それには理由がある。ブラウン管テレビの場合、525本の走査線が画像を映し出しているのだが、ブラウン管の場合、寿命が尽きるとたちまち画面が真っ暗になって何も映らなくなる。が、液晶の場合は顕微鏡で見ないとわからないくらいの小さな画素の集積のため、それらの画素が少しずつ失われても、テレビを見ているほうは気がつかない。一度に半分もの画素が機能を停止でもしたら、画面の鮮明さが一気に失われるからすぐにわかるが、顕微鏡で見なければ見分けがつかないほど微細な画素が少しずつ機能を停止しても、ほとんどの人は気が付かない。

ほかの家電製品にしてもそうだ。冷蔵庫や洗濯機、エアコン、掃除機、炊飯器なども、品質や性能の向上によって寿命が延びている。メーカーは買い替え需要を喚起するため、品質向上より性能向上や使い勝手に「イノベーション」の力を入れているが、それに成功しているのはせいぜい掃除機くらいではないだろうか。後は日当たりが決して良くない家や共稼ぎで日中留守にする家庭での必需品になってきた洗濯乾燥機が売れているくらいだ。

いずれにせよ、「3C」以後に生活必需品になった新ジャンルの商品は携帯電話くらいしかない。携帯電話(スマホ)はクルマに似た「買い替え」需要が生じている商品で、一定の年数がたつと、まだ使えるのに新製品に買い替える人が多いようだ。こういう商品の市場には必然的に「中古市場」が生まれ、中古専門の販売店もできる。車の買い替え需要は高額製品だけに経済への影響もそれなりに大きいが、スマホの場合は高くても10万円そこそこだから、買い替え需要が景気をけん引するほどにはならない。

スマホを話題にしたついでに、この際私憤をぶつける。ドコモショップの、この上ないえげつない商売のやり方について告発しておきたい。

 

  • ドコモの「出張営業」の悪質さを告発する

電電公社が分割民営化されたとき、子会社としてドコモやNTTコミュニケーションズが生まれた。NTTコミュニケーションズは主に法人向けに長距離・国際通信事業を提供している会社で、フリーダイヤルの0120局番や、悪評さんざんのナビダイヤル0570局番の事業を行っているが、最近、個人向けの携帯電話事業に進出した。

同社の商品は「OCNモバイルONE」という格安スマホである。「売り」の定額プランは500メガで月額500円(税込み550円)。500メガの容量だと、ほぼ事実上スマホというよりガラ携としての利用が前提になるが、電話代は通常(従量制)が30秒10円(税込み11円)、オプションとして月額850円(税込み935円)コースと1300円(税込み1430円)の2コースが用意されている。通話時間無制限の「完全かけ放題」は1300円のコースで「オススメ」と推奨している。しかもこのコースだけとくに目立つように「すべての国内通話 無制限かけ放題」と、あたかも他社の「かけ放題」とは異なり、ナビダイヤルもタダと錯覚しそうな表記さえ強調している。明らかな景品表示法違反だ。

が、これまでNTTコミュニケーションズは個人向けビジネスをしていなかったこともあり、また大手携帯会社のドコモ、au、ソフトバンク(Yモバイルを含む)、楽天のようなショップ網をこれから自前で構築するのは困難と考えたのか、販売をドコモショップに全面委託したことで、大きな問題が生じた。

ドコモショップは実はすべて「代理店」方式である(「直営店もある」と主張する営業マンもいるが、「では、直営店を教えてほしい」と聞くと「私は知りません」と答える)。さらにドコモショップの営業エリアは、そのショップが存在する都道府県内の全域。例えば、東京・銀座のドコモショップが奥多摩まで出張営業してもいいのだ。もちろん出張営業した先でのアフターフォローも責任持つのなら、どこに出張営業しようと、利用者の利便性に問題は生じないのだが、それはしない。売りっぱなしで、「後は野となれ山となれ」商法なのだ。

売るときは「アフターは地元のショップで対応します」と言うのだが、それぞれのショップが独立した代理店だから事実上、できない仕組みになっている(ただし大企業が複数のショップを経営しているケースもあり、その場合は系列ショップでフォローすることも皆無ではないようだが、一般の消費者にはどのショップがフォローしてくれるのかはわからない)。

実際、私は自宅近くのスーパーにかなり遠方(3系統のバス、電車を乗り継がないと行けない)のショップから出張営業に来ていた営業マンから商品説明を聞いて「これは私のような者にはすごく有利だ」と思って契約した。

私はこのような長文のブログを書くし、またネットでの調べ物も多いし、高齢のせいで小さな字を目で追うのも困難(新聞もペーパーではなくデジタル版を購読している)という事情から、ネットや文章作成はデスクトップのパソコンでするから「ガラ携」としての利用しかしない、と営業マンに伝えたにもかかわらず、私に無断でアプリの「dテレ」を入れられた。500メガの容量で、どうやってdテレの映画やドラマなどを見ることができるのか。

なお現場で交付された書類にもNTTコミュニケーションズから送られてきた書類にも「dテレ」契約に関する記載は一切ない(書類はすべて取ってある)。

私は「dテレ」の利用料が口座から引き落とされているのに気が付いて、直ちに担当営業マンに電話で「dテレ」の解約を申し入れた。「解約するから店まで来い」というあきれた対応。やむを得ず最寄り駅の別のショップに持ち込んだが、「契約した店に行ってください」というつれない対応。再度、「せめて最寄りショップで対応してくれるよう、手配してもらいたい」と頼んだが、「他店に頼むことはできない。こっちに来てくれ」の一点張り。

こうまでされたら、私も意地になり対抗手段として、まだ引き落としされていない請求分について「引き落とし停止」の措置をとった。すると敵もさるもの、私を個人信用情報機構に載せた。おかげでクレジットカードの「ジャックスカード」が使用停止になり(ほかの大手カードは使える)、ジャックスカードにためたポイントも消滅。ジャックスには何の迷惑もかけておらず、ジャックスカードで支払った先に迷惑をかけるのは本意ではないのでジャックスカードの引き落としは止めなかったが、いくらポイント・サービスがよくてもジャックスのような自己責任能力のないカードは使用しないほうが身のためという貴重な経験をした。

なお、なぜドコモショップがわざわざ遠隔地で出張営業するのか。ショップ側の言い分としては、「待ちの営業ではお客様がなかなか足を運んでくれないから」ということだが(私が被害にあった当該ショップだけでなく、出張営業先のスーパーではほぼ毎週末に各地のドコモショップが出張営業に来ており、どのショップも同じ回答をする)、そのようなことはあり得ない。

もし、そういう理由に正当性があるとしたら、なぜ肝心の本業であるドコモのスマホを出張営業しないのか、ということになる。地元のドコモショップでOCNモバイルONEを販売したら、ドコモのスマホと完全にバッティング(競合)するため、他店の営業エリアに泥足で踏み込んで営業していると考えるのが最も合理的である。自分たちの利益のためなら、お客様にどんな迷惑をかけても、知ったこっちゃないという姿勢が見え見えではないか。

確かに「OCNモバイルONE」はガラ携やLINEがほとんどの利用目的という高齢者には有利な商品だが、テレビCMは全くしていない。なぜか。テレビでCMを流し、扱い店はドコモショップであることを明らかにしたら、消費者はどっと最寄りのドコモショップに押し寄せる。そうなると、ドコモの商品と完全にバッティングしてしまう。そこで苦肉の策として考えたのが、遠方への出張営業という手法なのだろう。ソフトバンクが系列格安スマホの販売店として「Yモバイル店」を設置しているのと比べると、明らかに卑劣と言わざるを得ない。

 

ことのついでに、なぜ各携帯大手がそれぞれ別個に基地局を設置するのか。まったく理に合わないことをしている、と私は考えている。

菅元総理は携帯料金の引き下げに尽力されたが、単に「もっと安くできるはずだ」と権力をかさに着て携帯各社に圧力をかけただけだ。

フェアな競争状況を官が整備し、そのもとで各社が平等公平な競争を繰り広げ、「知恵」を絞った結果として料金が下がり、サービスもよくなるための工夫をするのが行政の仕事ではないか。

実は数年前から、私はそういう提案を総務省にしてきたし、総務省の携帯電話担当の職員も「非常にいいご意見だと思います。参考にさせていただきます」というのだが、実現の見込みは全くない。実際、携帯電話会社の社員に私のアイデアについて意見を聞いたら、全員が「そうなったら劇的に携帯料金は下がりますね。お客さんの囲い込みもできなくなるし、サービス競争も激化して、間違いなくお客さんにとってはプラスになります」と言う。

言ってみれば、どうというほどのアイデアではなく、基地局を1本化すればいいだけの話。現に、テレビ局はスカイツリーや放送衛星を共同で利用しているではないか。テレビの場合はあらかじめ、放送各局に電波を割り当てる必要があるが、携帯の基地局の場合、電波の割り当てなどする必要もない。基地局の空き電波帯を早い者勝ちでだれでも、どの会社の携帯を使っていようが、まったく平等・公平に利用できることになる。

東日本大震災の時、ソフトバンクが「つながりやすさNO.1」とCMを打ったことがあるが、私はすぐ同社広報に電話をして「いまはソフトバンクの携帯のシェアが低いため一番つながりやすいかもしれないが、それを当てにして加入者がどっと増えたときでもNO.1を維持できるのか。電波帯を加入者が増えたとき広げられるのでなければ、詐欺的CMになるよ」とクレームをつけ、ソフトバンクもこのCMを中止した。

要は、携帯各社が平等に利用できる基地局を官が指導して日本全国に設置すれば、それで済む話なのだ。知床沖で観光船が遭難したときでも、観光船の船長の携帯がauで遭難地域が「電波の届かない場所」だったということだが、基地局を一本化していれば、どの会社の携帯を使っていてもSOSを発信できたはず。単に携帯料金を安くできるだけでなく、人の命にもかかわることだ。頭は生きているうちに使ってほしい。

 

  • 日本型雇用関係(終身雇用・年功序列)は大きな曲がり角を迎えた

話が横道にそれすぎた。なお、ドコモショップに関する記事は13日、総務省電気通信課にメール送信した。総務省が、この問題をどう処理するかは私の知ったことではない。この記事では悪質なドコモショップについての具体的情報は記載しなかったが、総務省あてのメールではショップ名・営業担当者名も含めて明らかにした。でっち上げではないことの証明である。

本論に戻る。

生産者物価は9.7%も上昇し(9月)、消費者物価も2.8%上昇したにもかかわらず賃金は上がらない。『日曜討論』で識者たちは、なぜ賃金が上がらないのかという問題意識すら持っていなかった。私の前回のブログを読んでいれば、多少はそういう問題意識を持てたはずだが、私が強制するわけにはいかない。もう一度簡単に振り返っておこう。

1985年のプラザ合意を受けて【ドル/円】相場は2年間で240円台から120円台へと2倍に高騰した。もし為替相場を輸出価格に転嫁していれば日本製品のアメリカでの販売価格は2倍になり、日本企業は国際競争力を完全に失っていた。というよりそこまで円が高騰するまでに、バランスが取れた水準で円高はストップしていたはずだ。この時の日本企業のビヘイビアが急激な円高を招いたと言えなくない。

日本企業は為替水準を輸出価格に反映せず、輸出価格の上昇率をせいぜい10~20%に抑えた。海外とくにアメリカからは「ダンピング輸出だ」という厳しい非難が殺到したが、日本企業は「必死の合理化努力によってコストダウンを実現した結果だ」とうそぶいた。

もし合理化努力によってコストダウンに成功したのであれば、日本の消費者もその恩恵を受けるべきだった。が、日本では「高性能化・高品質化」を口実にかえって価格を上げたのだ。その結果、日本では並行輸入業者が乱立し、海外の安い輸出品を日本に逆輸入するビジネスが爆発的にはやった。私自身もアメリカ旅行するたびにゴルフ用品を買って帰ったものだ。

日本企業は、なぜそういったビヘイビアに出たのか。工場の生産量を維持することが日本企業にとって最大の経営課題になったからだ。最近でこそ日本型雇用の柱でもある「年功序列」による昇進昇給制度は徐々に崩壊しつつあるが、当時はまだ昇進も昇給も年功が大きな要素を占めていた。

そのうえ、終身雇用制度が日本の経営者の足を縛っていた。ヤフコメでそういうことをコメントすると、たちまち「終身雇用を義務付けた法律はない」という批判が殺到したが、確かに終身雇用を義務づけた法律は直接的にはないが、労働者に対する過保護な労働基準法(労基法)という法律があり、これが経営者の手足を縛っている。

アメリカで前大統領のトランプがアメリカの自動車産業を保護することを目的に、自動車(部品も)や鉄鋼・アルミ製品などに高率関税を課したが、一工場作業員からGMのCEOに上り詰めた初の女性CEOのメアリー・バークは全米で5工場を閉鎖してトランプを激怒させた。「せっかくアメリカの自動車産業のために競争力を回復させてやったのに~」という理由だったが、メアリーは平然と反論した。

「確かに米自動車産業の競争力は回復したが、材料や部品の輸入価格がアップしコストが相当上がった。そのコストアップ分を自動車の販売価格に転嫁したらアメリカ人の平均購買力を上回ってしまう。だからやむを得ず工場を閉鎖した。工場を閉鎖し従業員をリストラに追い込んだのはトランプ、あんただ」と。

こういう経営が、日本では事実上できない。不採算工場を閉鎖したり、従業員をリストラするには、日産のようにプロの経営者を海外から招へいしたり、シャープのように会社ごと海外の企業に身売りして彼らの手で大胆な合理化を進めさせるしかないのだ。そうした経営決断ができずに、いまだにっちもさっちもいかない状態に陥っているのが東芝。

経団連が日本企業の経営の自由度を増すために「終身雇用制の廃止」を求めているが、そのためには労働者過保護の労基法を改正しなければ不可能。おそらく経団連もそのことに気づいてはいるのだろうけど、さすがに「労基法改正」を打ち出せない。労働者にとっての憲法のような存在だからだ。

高度経済成長時代、「日本型資本主義は人本主義だ」と喝破した経営学者がいたが、日本企業は利益より従業員の雇用を維持すること、そのためには工場の生産量を維持することを最重要視せざるを得ない。プラザ合意以降の円高局面では生産量を維持するために海外にはダンピング輸出をして、そこで生じる赤字分は国内販売で賄った。アベノミクスによる円安で国際競争力が回復しても、輸出価格を下げて輸出量を増やすという選択肢をとらなかったのは、生産量の拡大によるリスクの増大を避けるためであり、だから輸出価格を据え置いて輸出量を維持し、生産量も増やそうとしなかったのである。その結果、輸出企業の内部留保だけが膨大に膨れ上がったというわけ。

 

  • まとめ~~需給関係だけで価格が決まるわけではない

そろそろまとめに入ろう。これまでるる述べてきた日本企業のビヘイビア・ルールを理解しないと、『日曜討論』の識者たちのレベルの低さがわからない。

はっきり言えば、金融庁の「老後2000万円」問題や、年金の「マクロ経済スライド」移行問題、「少子化」及び「高齢化」問題などが、消費意欲を冷え込ませているうえ、「3種の神器」や「3C」のような景気をけん引するような魅力的な商品が存在しないといった現状が、「消費より貯蓄」の流れを作っている。

そうした状況下で、コスト増を価格に反映させたら、ますます売れなくなることを、経営者は肌で感じている。ただし、コストアップ分を価格に反映できている商品もあれば、ずうずうしいことに「値上げのチャンス」とばかりに便乗値上げしている商品もあるのだ。

今年の秋はサンマが不漁で、価格が高騰したかというと、消費者の選択は「サンマが高いのならイワシで十分」。その結果、サンマは出血販売を余儀なくされ、代替品のイワシが高騰した。

実際、代替が効かない生活必需品はかなり便乗値上げされている。トイレットペーパーや洗剤などだ。生産者だけでなくスーパーなど小売業者も仕入れ価格の上昇分を販売価格に転嫁できない商品は薄利で販売し、価格を上げても買い控えができない商品を便乗値上げするなど工夫しているようだ。

前にもブログで書いたことがあるが、「豊作貧乏」は昔から言われてきた市場原理だが、ほどほどの不作なら利益が上がるが、極端な不作になるとかえって買い控えを生み大儲けどころか出血販売を余儀なくされ、コストすら回収できないケースもある。

市場価格が「需要と供給」の関係で決まるというのは確かに経済学の原則だが、供給量によって需要が大きく変動するため、それほど単純に需給関係だけで価格が変動するわけではない。

つまりコストを販売価格に反映したら需要が激減するから、生産者はコストを販売価格に転嫁できないのであって、『日曜討論』の識者たちが口をそろえたように、企業が従業員の給与をアップすればコスト増を反映した商品に消費者が手を出すようになるかというと、そういうものでもない。増えた収入の使い道の優先度は、やはり「将来への不安」が消えない限り、そして魅力的な新しい商品が誕生しない限り、消費者の「貯蓄」志向に変化は生じない。

 

【追記】16日の『日曜討論』は「防衛費・反撃能力 安全保障政策を問う」と題して主要政党の代表者7人(全員衆院議員)による討論だった。彼らのほとんどは北朝鮮のミサイルを脅威とみなし、日本への挑発という前提で抑止力強化を目指すべきという点では共通した認識を持っていた。

実際政府の「北の脅威」に対するプロパガンダの効果は抜群で、日本人の多くは抑止力強化が必要と考えているようだ。

が、安全保障問題では何度も機会あるたびに書いてきたが、私は最善の安全保障策は「抑止力強化」ではなく「敵国を作らないこと」に尽きると考えている。そういう意味ではインドのような「八方美人」的外交がいいのだが、日本はアメリカとの同盟関係を構築しており、この関係は維持したうえで日本はどういう外交を展開すべきか。

私自身はアメリカとの同盟関係を維持しながら「敵国を作らない」ための外交の要諦として、アメリカの外交方針とは一線を画すべきと考えている。

例えば、北朝鮮のミサイルが日本領海(津軽海峡など)上空を飛翔したとしても、あえて「脅威」ととらえる必要は全くない。北が日本を標的としたミサイル発射を頻発しているのなら別だが、北のミサイルの標的はあくまでアメリカである。北もいたずらに日本を刺激しないように、日本の陸地上空の通過は避けている。まして北のミサイルの脅威をことさらにおあり立てて「抑止力」強化を「対北」政策として押し進めた場合、北にとっては「日本の抑止力」が脅威になりかねない。

もちろん北の「火遊び」に対しては日本は厳重に抗議すべきだが、いまの日本の安全保障政策を考えると、北の「脅威」を口実にして軍事力強化を図ろうとしているかに見える。それこそ、危険な「火遊び」である。

米中の覇権争いにしてもそうだ。万一、米中が軍事的に衝突した場合、日本はその衝突に関与すべきではないし、ましてアメリカの覇権争奪戦の片棒を担ぐべきではない。むしろ、日本が置かれている地政学的有利性を背景に、米中に対して「覇権争いでどちらが勝ったにせよ、失うものは共に大きい。両大国が協力してアジア・インド洋の平和とこの地域の経済的発展、国民生活の向上に貢献すべきだ」と米中和平への説得を行うべきだと思う。

日本は過去の十字架をいまだに背負っているだけに、いたずらに「抑止」の名において軍事力の強化を図れば、北や中国だけでなくアジアの周辺国に対して警戒心をあおるだけの結果になる。

しばしば言われることだが、「敵の敵は味方」だが、同時に「敵の味方は敵」でもある。米中がアジア・インド洋の覇権をめぐって衝突した場合、あまりアメリカに肩入れしすぎると、中国にとって日本は「敵の味方だから敵」という位置づけをされかねない。

もちろん、アメリカが一方的に他国から不当な攻撃を受けた場合は、同盟国として日本もアメリカ防衛に可能な限りの実力行使を行うべきだと私は考えているが(その場合でも憲法を改正しないと無理)、少なくとも同盟国としてアメリカを防衛する義務は、日米安保条約に基づいてアメリカが日本に対して負っている防衛義務の範疇を超えるものであってはならない。日米安保条約においてアメリカが負っている日本防衛の義務は、第5条に明記されているように日本の領土が不法に侵犯された場合のみである。日本が他国と軍事衝突を生じた場合、またその結果として日本が領土を攻撃されたとしてもアメリカは日本防衛の義務は負っていない。

米軍は日本の「傭兵」ではないし、日本がアメリカ防衛のために実力行使に出る場合でも、自衛隊はアメリカの「傭兵」としてではない。

16日の『日曜討論』でも、参加者全員が政治家というせいもあるだろうが、安全保障の要諦を「軍事的抑止力」に置きすぎているきらいがあり、日本が再びおかしな方向に歩みだしかねない危惧を感じた。